「参りましたねえ」

 ちっとも参っていない口調で如閑が言う。芙蓉は肩をすぼめて俯いた。
 二人は蘭舟宮を追い出された後、四阿で休んでいた。周囲には鮮やかな黄色の菜の花が生い茂り、風にそよいでいる。こんな気分でなければ楽しむ余裕もあっただろう。

「……やはり、私はいない方がいいのではありませんか?」

 芙蓉は足元に視線を落としたまま呟いた。言葉にすると、それがいっそう正しいように思えてくる。そもそも、貴妃を守るには如閑一人で十分なのだ。先ほどの妖狐を相手にしたときからも分かる。あのとき芙蓉はただ立ち尽くすだけで何もできなかった。
 如閑が首を傾ける。さらり、と白い髪が流れた。日の光を受け、透けるように輝いている。

「しかし陛下は拙と芙蓉姫に命じたのですから。それに、拙一人でも劉貴妃に受け入れていただけるかは分かりませんよ」
「え?」
 思わず顔を上げる。如閑は正体不明の笑みを浮かべて、わざとらしくため息をついた。

「後宮の中では、拙の評判は芳しくないのです。得体の知れない方術士と思われているのでしょうね。芙蓉姫も良からぬ噂を聞いたことがあるのでは?」

 頭の中に、園遊会での一幕が思い浮かぶ。そうだ、初めて如閑を見たとき、侍女たちはずいぶん彼を不気味がっていた。妖力がどうとか、見た目が怪しいとかなんとか言って。
 けれど、と芙蓉は思う。彼は妖怪に襲われる芙蓉を助けてくれた。それは事実だ。恐らく何がしかの下心があるのだろうが、今のところは面倒に巻き込まれるばかりで命の危険には晒されていない。たぶん、根っからの悪人、というわけではないのだろう。少なくとも芙蓉に対しては。
 如閑が菜の花を眺めながら、のんびり言った。

「まあ、一度で諦めるのも芸がない。それに、調査が長引けば芙蓉姫が宝林でいられる時間も長くなります。給金も増えるのでは?」
「給金……ですか」
「はい。無位無冠の下女と宝林では、支給される額も大きく異なるでしょう。何か欲しいものは? 人生にはそれくらいの楽しみがなければ」
「楽しみ……」

 芙蓉はそっと顔を背けた。青空の下、遠くを鳥が横切っていく。風を切って飛んでいくあれは燕だろうか。

「私には、給金が支払われたことはございません。全て玉環が管理しているので」

 もし芙蓉に自由にできる金子があったら、もっとまともな衣や栄養のある食料を買うだろう。それが許せないから、玉環は現物支給という形態を取り、芙蓉に襤褸の袍を投げつけ、わずかな食事しか与えなかった。おかげで芙蓉は痩せ細り、みすぼらしさに拍車がかかっている。

「……そうですか」

 如閑は低い声で呟いた。彼が怒っているように思えて慌てて向き直ると、すでに怒りの気配は消え失せ、そこには正確無比な笑顔があるだけだった。

「では、これからは芙蓉姫に直接給金が支払われるようにいたしましょう。何を買うか、考えておいてくださいね」
「そんなことができるのですか?」

 目を瞬かせる芙蓉に、如閑は感情を抑えた声で、

「本来それが当然なのです。瓏玉環には改めさせます」
「あ、ありがとうございます……」

 芙蓉は頭を下げる。自分は何もできていないのに、如閑には与えられてばかりで申し訳ない。

(もう少し、お役に立たなければ)

 ならば働きは、貴妃を守ることで返すしかないだろう。胸の内でひっそりと決意し、芙蓉はぎゅっと拳を握りしめた。