「これで満足か? 如閑」

 芙蓉が執務室を立ち去ったあと、皇帝──楚珀儀は、隣を振り仰いだ。如閑はにこやかに愛想を振り撒き、拱手の礼を取る。

「ええ。ありがとうございます、陛下」

 珀儀はひらひらと手を振った。

「頭を下げるのはよせ。お前が何かを望むのは珍しいから叶えてやったまでだ。それにしてもずいぶん影の薄い娘だったな。俺には正直、よく見えなかった」

 昨日、園遊会が終わった後に、後宮の調査に助手が欲しいと瓏芙蓉を如閑から望まれた。名前からして瓏玉環の親戚だろうとは思ったが、まさか実の姉で、位も持たぬまま下女として後宮入りしていたのには驚いた。珀儀は碧楼宮で芙蓉を見かけた記憶がない。玉環と芙蓉の関係は推して知るべしだろう。
 如閑が室の扉に目をやった。指を顎に当て、

「恐らく、魂が半分ほど常世から離れていますね。常世と幽世の狭間を歩いている状態でしょう。強い妖力を持つものが消えたいと願えばそうなる」
「消えたい、か」

 珀儀には特別な感傷はない。それで消えるならそれまでだろう。所詮、瓏芙蓉は数多いる後宮の女の一人に過ぎないのだ。
 しかし、隣に立つこの男にとっては違うらしい。
 珀儀が芙蓉と話している間中、身動ぎもせずに彼女を見つめていた。芙蓉が途中で視線に気づき、皇帝よりも気を取られたくらいだ。おかげで珀儀は咳払いをして二人の集中を取り戻さなくてはならなかった。皇帝であるにもかかわらず。

「……俺は時々恐ろしくなるよ。なぜお前のような男が兄上たちではなく俺を選び、まだ俺に従っているのか」

 先の皇位争奪戦を思い出す。皇帝の座につくために、継承者たちは何でもやった。それが呪いであれ、暗殺であれ、相手の命を奪えるならばそれで良かった。
 珀儀は末っ子だった。母は下級貴族。普通ならば、玉座に座ることは考えられなかった。
 しかし彼は玉座を望んだ。ただ皇帝になって、少しはましな治世を敷きたかった。
 そこで最初に味方になったのが、如閑だった。彼は頭の回転が速く、度胸があり、強さに貪欲で、そして何よりこの世ならざるものに通じていた。珀儀の元に送られる呪いをやすやすと祓い、幽世から伸ばされる悪意の手から彼を守った。
 そのことを、珀儀は一生忘れない。
 如閑は片方しかない目を細めて、珀儀に笑いかけた。

「それはもちろん、陛下の御世を平らかにするためですよ」
「……詐欺師め」

 くっと喉を鳴らし、珀儀は苦笑した。この男の真意は分からない。だが、とにかく珀儀を裏切ることは絶対にない。それがこの王宮でどれほど救いになるか、如閑は自覚しているのだろうか?

「まあ良い。くれぐれも後宮のことは頼んだぞ。あそこは皇帝の血を受け継ぐために必要だ。悪意を跋扈させるわけにはいかない」
「御意」

 如閑は一礼し、執務室を後にした。