「……これで全部、のはずなんですけれど」

 蘭舟宮を駆けずり回り、一室に集めた呪具、呪符の山を前にして、芙蓉は額に浮かんだ汗を拭った。黒い靄のある場所全てを巡り、天井裏まで這いつくばって探したのだ。おかげで麗鈴に施してもらった化粧は流れ落ち、襦裙も被帛も埃まみれで薄青がくすんでいるが、大したことではなかった。
 呪いが見えるのは如閑と芙蓉だけなので、二手に分かれて蘭舟宮を探し回った。侍女たちと協力し、地面に埋められているものは一緒になって掘り出した。ボロボロの有様なのは皆同じ。それでも誰も文句一つ言わなかった。今は大方捜索が終わり、大体の侍女が沐浴に行っている。室にいるのは芙蓉と如閑、貴妃と浪浪だけだった。

「……私への悪意をこう形にされると堪えるわね」

 貴妃は口元に手を当て、長椅子に座り込んだ。浪浪が慌てて背をさする。その様子を見ながら、如閑が芙蓉に声をかけた。

「お疲れ様でした。呪具は拙が預かりましょう。下手人の特定に繋がるでしょうし、浄化もしないといけませんから」
「いえ……」

 芙蓉も貴妃に目を向ける。恐らく、如閑も同じものを見ている。
 ──依然として黒い靄に包まれている貴妃の姿を。
 芙蓉は両手を握りしめ唇を噛む。どこかで見落としがあった? いや、それはないはずだ。庭院を掘り返し、池の中に入り、調度の一つ一つを確かめた。蘭舟宮の中にはもう、呪具も呪符もない。現に、宮には靄が見えないのだ。
 ならば。
 芙蓉は意を決した。

「……劉貴妃。大変恐れ入りますが、衣を脱いでいただけないでしょうか」

 貴妃の目が見開かれる。憤然と立ち上がり、芙蓉に向かって怒鳴った。

「この無礼者! この私に向かってなんということを!」
「違うんです。まだ貴妃に何かが取り憑いております。蘭舟宮の呪具は全て取り除きました。だから、残るは貴妃自身しかないのです」

 芙蓉に掴みかかろうとした貴妃を制したのは、浪浪だった。

「芙蓉の捜索によって実際に呪具は見つかっているんだ。信じてみるのも一興じゃないかい」
「けれど……」
「もし何も見つからなかったら、それはそのとき考えればいいだろう。違うかい」
「それは……そうね」

 浪浪の説得に、貴妃は落ち着きを取り戻す。低い声で芙蓉に告げた。

「陛下の他に、私の衣を暴くことを許す。この意味が分かるわね」
「……御意」

 見誤れば制裁が下るということだろう。芙蓉は唾を飲み込んだ。ここまで来た以上、やるしかなかった。

「芙蓉姫」

 如閑がそっと囁きかけてきた。芙蓉の右腕を取り、筆で手の甲に何かを書く。

「退魔の陣です。呪いを見つけたらこの手で触れなさい。そうすれば祓えます。……拙がそばにいるわけにはいきませんから」
「あ、ありがとうございます」

 浪浪が如閑を追い出す。如閑は閉められる扉の隙間から、励ますようにひとつ頷きかけてきた。芙蓉も退魔の陣が書かれた手を握りしめ、頷き返す。

「……ほら、これで満足かしら」

 背後から衣ずれの音がした。はっと振り向くと、一矢纏わぬ姿になった貴妃が、挑むように芙蓉を見据えている。
 その首元に、何かがぶら下がっているのを確認して芙蓉は目を見開いた。

「貴妃、それは?」
「え? ああ……安産祈願のお守りよ。肌身離さず身につけているの」

 それは確かに、絹紐で首からかけられるようになったお守りのようだった。小さな巾着の中に護符が入っているようである。
 芙蓉の背中に冷たい汗が流れた。芙蓉の目には、呪具越しにも悪意が伝わってくるほどのどす黒い塊に映った。

「それです。お貸し下さい」

 その瞬間、落ち着いていた貴妃が激昂した。

「嫌よ! これは大切な人に貰ったものなの! 外したら私と陛下の子供が流れてしまうわ!!」
「そんなことはありません。それは呪具です。しかも相当な悪意がこもっています」

 芙蓉が貴妃に近づくと、お守りを握りしめ、腹を守るように背を向けた。さらに一歩近寄ると、手をむちゃくちゃに振り回す。あ、と思った時にはもう、爪が芙蓉の頬を引っ掻いていた。熱さを感じて頬に手を当てると、血が滲んでいた。
 けれど貴妃は呼吸を荒げて芙蓉を睨みつけている。瞳孔が開いて、瞳が異様に黒くなっていた。

「貴妃、本当に申し訳ありません!」

 貴妃が怪我をしないように気を使いつつ、首元に手を伸ばす。身重の貴妃との力勝負なら芙蓉に分があった。揉み合いの中、何とかお守りを引きちぎる。

「ああ!」

 悲痛な声をあげてお守りを取り戻そうとする貴妃を押し除けながら、お守りを開ける。その瞬間、巾着の中から何かが飛び出してきた。
 貴妃が悲鳴をあげる。それは禍々しい赤色をした毒虫だった。あの小さな巾着の中にどうやって入っていたのか、手のひらほどもある。
 毒虫が頭をもたげる。不気味な鳴き声をあげて、触角を擦り合わせる。すると、毒虫の姿がどんどん大きくなり、外殻の模様まで確認できるほどになった。
 芙蓉の隣で貴妃がへなへなと座り込む。今にも気を失いそうに、顔から血の気が引いている。
 芙蓉は萎えそうになる足を叱咤して、右手をかざした。

(私がやらなきゃいけないんだ)

 何の力もない、術だって知らない。けれど、この事態を引き起こしたのは芙蓉で、信じて力を託してくれた人たちがいる。ならば、それに応えなくては。
 毒虫が芙蓉に向かって足を振るった。

「──退きなさい!」

 芙蓉は精一杯叫んで、右手を突き出し毒虫に突っ込んだ。指先が硬い何かに触れた、と思った瞬間、苦悶の声がして毒虫の姿が弾けて消え、芙蓉は床に倒れ込む。

「瓏宝林……芙蓉!」

 貴妃の悲鳴じみた声に、何とか手をあげて無事を知らせる。扉の向こうから、焦ったような如閑の声が聞こえてきた。

「芙蓉姫! ご無事ですか!? 急に気配が消えたと思ったら、退魔の陣が発動したようですが……」

 貴妃と顔を見合わせる。さっと両腕で体を隠した貴妃に襦裙を着せ掛け、芙蓉は叫んだ。

「私は無事です! だから絶対に入ってこないでください」