碧楼宮に戻り、寝支度を整えていると、麗鈴の頼みが胸の内に蘇った。切実な願いを無下にできなくてあの場では頷いてしまったが、どうしたら良いのかは皆目検討もつかない。
それにしても、と息を吐く。
蘭舟宮は暖かな場所だ。皆が貴妃を慕っていて、思いやっていて、家族のようだ。
碧楼宮は違う。芙蓉は唇を噛む。日に日に温度が冷えていく。というのも、陛下の御通りがぱたりと途絶えて、玉環の機嫌が常に最悪なのだ。今日も出された茶が不味いと怒鳴り散らし、侍女を折檻していた。
もう眠ろう、と藁を集めて作った寝床に横になったとき、コンと外から物音がした。石を投げるような音だ。息をひそめて様子を窺っているともう一度音が響いた。今度は強めに。
……気のせいじゃない。
芙蓉は用心深く漏窓を開け、少しだけ顔を覗かせた。
「あっ、芙蓉!」
「本当にこんな宮の隅に室があてがわれているわけかい」
暗闇に手燭の明かりを二つ見留めて、芙蓉は瞬いた。
「……麗鈴、浪浪?」
二人が窓辺に近寄ってくる。その顔が青ざめているのが分かって、芙蓉は身を固くした。
「何かあったの?」
「実はね……」
二人が話すところによると、蘭舟宮に異形の影があるらしい。回廊を彷徨うばかりで何をするでもないが、恐ろしくて眠れない。そこで、芙蓉に来てもらえないかということだった。
「こんな遅くに悪いと思ったんだけどさ」
「でも本当に怖いのよ。ここまで来るのだって足が震えてしょうがなかったわ」
「私の棒術だって、ああいう化け物に効くのか分からないしねえ」
浪浪の右手にはしっかり棒が握られている。しかし、軽口を叩く表情が強張っていた。麗鈴の体は寒くもないのに震えている。それを見てとり、芙蓉は二つ返事で頷いた。
「分かった。私で良ければ一緒に行くわ」
「本当? 助かる!」
とはいえ、芙蓉がどこまで異形に対して立ち向かえるかは分からない。蘭舟宮に辿り着いて、侍女たちの期待のこもった眼差しを一身に浴びたときには居心地が悪かった。
「あれよ、あれ」
麗鈴が回廊の影に身をひそめて、奥を指差す。そこには、天井に届こうかという大きさの、首無しの人影が、吊燈籠に照らされて揺らめいていた。
「ああ……実家で見たことあるわ」
「瓏家は化け物の集まりなのかい」
浪浪が身を引く。芙蓉は口元に手をやって考え込んだ。
「大丈夫、朝になれば消えるわ。決まった範囲を動くだけの幻みたいなものよ。影から一番遠い部屋に集まって夜を過ごしましょう。みんなで集まれば平気よ」
芙蓉の指示で、影から離れた大きな一室に侍女たちが集まった。掛布を持ち寄り、身を寄せ合う。みな怯えた表情で、顔を突き合わせていた。
「ここなら影から遠いし、襲われることはないわ。どうしても不安だったら、隣の人の手を握って。誰かが居ると実感できれば、乗り越えられるわ。一人ぼっちよりずっと良いわよ」
途端、麗鈴が芙蓉の左手を握りしめた。痛いほどの強さに苦笑する。
「大丈夫よ、麗鈴。目をつむって開けたらもう朝よ」
「でも、怖いものは怖いのよ」
「そうね……」
右手を浪浪に掴まれる。彼女は油断なく、棒を持ち込んでいた。他の侍女たちも近くの者と手に手を取り合っていた。
「来てくれてありがとうな、芙蓉」
浪浪が囁く。芙蓉は微笑んだ。
「良いのよ。私もね、この世ならざるモノは怖いの。だから、同じように怯えている人を見たらどうしても放っておけなくて。……それだけよ」
左側に、麗鈴の重みがかかる。目をつむったまま、むにゃむにゃ言った。
「芙蓉、温かいね……」
麗鈴の手を握り返す。芙蓉も目を閉じた。
「うん、そうだね……」
実家ではいつも、一人きりで恐怖に耐えていた。けれど今は違う。こんな夜が訪れるなんて、想像したこともなかった。
──そして、朝が来る。
無事に影は消え、みな思い思いに身支度を整え始めた。芙蓉も顔を洗い、適当に髪を括って宝林の襦裙に身を包む。その様子を見ていた麗鈴が唇を尖らせた。
「……前から思っていたけど、芙蓉、そっけなさ過ぎない?」
「え?」
「ちょっとこっち来て」
麗鈴は芙蓉の腕を掴み、鏡台の前に座らせた。それから自分の化粧道具を取り出し、芙蓉の顔に塗り始める。
「芙蓉はせっかく元が良いんだから、もっといじりがいがあると思うのよね」
「化粧道具を持ってなくて……」
「ええっ!? ……じゃあ、私のを少し分けてあげるから、やってみなさいよ。髪ももっとこう、色々できるわよ」
「簪が、頭に簪が刺さってるわ」
麗鈴が奮闘すること数刻。目を開けると、鏡の中には玉環によく似た、けれど明らかに呆然とした表情の美しい少女が映っていた。
「あ……え……?」
「どうよ、私の腕前は」
黒髪は銀の簪で結い上げられ、歩瑶がしゃらりと音を鳴らす。小さな唇は紅く、頬は愛らしい桜色。潤んだ瞳は黒曜石のように輝いていた。
「おや、綺麗じゃないかい」
浪浪が近寄ってきて、薄絹の被帛を着せかける。そうすると、ますますどこか貴人のように見えた。
「あ、ありがとう……」
芙蓉は俯いて、ぽそぽそと礼を言う。麗鈴がにんまり笑った。
「これを如閑どのに見せつけてやりなさいよ。どうせ他に男もいないのだし」
「えっ、ええっ!?」
うろたえる芙蓉に、からからと浪浪が笑い声を上げる。
「そうしてやんな。あの胡散臭い方術士も、少しは顔色を変えるだろうさ」
「そんなことは……ないと思いますけど」
でも、如閑がどんな反応をするのかは気になった。それで、蘭舟宮に現れた如閑を、芙蓉はそのままの恰好で出迎えたのである。
「……えっと、おはようございます」
「…………」
如閑は黙り込み、眉一つ動かさない。思えば、自分は貴妃を守るためにここにいるのに、化粧をして浮かれている場合ではなかったかもしれない。わくわくと見守っている麗鈴、浪浪、その他侍女たちの視線を感じながら、芙蓉は泣きそうになっていた。
「あの」
「……もう少し、近くで拝見しても?」
「え? は、はい」
芙蓉が頷くと、如閑は一歩距離を詰めてきた。間近で熱っぽく見つめられ、芙蓉は思わず顔をそらしてしまう。けれど如閑はそれを許さず、そっと芙蓉の顎をとらえて上向かせる。遮るものなく強い視線にさらされ、芙蓉は耐えきれなくなって目をつむった。如閑の指先が硬直する。
「……瞳を見せていただけますか」
「? はい……」
うっすらと瞼を上げると、甘く微笑む如閑と視線がぶつかった。蜜のような声音で囁かれる。
「──綺麗です。とても」
なんてことない言葉なのに、彼に言われると胸がぽわんと温かくなった。それから、麗鈴や浪浪に褒められたときとは違う、猛烈な照れ臭さが襲ってきて頬が赤くなる。芙蓉は両手で顔を押さえ、素早い足捌きで距離を取った。
「あの! 今朝、麗鈴にやってもらってですね!」
「先ほど碧楼宮に寄ったら、芙蓉姫がいなかったので焦りましたよ。蘭舟宮で夜明かししたのですか?」
「ああ、それなのですが……」
昨夜の出来事がよぎり、一気に頭が冷えた。異形の影の話をする。如閑は眉をひそめた。
「……だんだんと大胆になっていますね。大勢の侍女たちに見られても問題ないという余裕の表れか、騒ぎになっても劉貴妃が告発するほどの猶予はないということか」
「そんな」
芙蓉は強く拳を握りしめる。そのとき、近くの回廊を貴妃が通り過ぎた。芙蓉と如閑を囲むように集まる侍女たちに顔をしかめる。
「何をしているの? 早く持ち場につきなさい」
「劉貴妃……」
芙蓉が口を開いたところで、貴妃の前に人影が躍り出た。
「羽馨様!」
麗鈴だった。彼女は貴妃の前に跪き、必死の形相で訴えかける。
「どうか、芙蓉と如閑どのの言をお受け入れください! 芙蓉はずっと、蘭舟宮のために働いてくれました。昨夜も異形の影に怯える私どもをなだめてくれたのです。淑妃の姉といえど、信頼できます」
頭を垂れる麗鈴を、貴妃は冷たく見下ろした。貴妃が何か言いかけたのを遮るように、次々に侍女たちが麗鈴の周りに集まり叩頭する。きらびやかな襦裙がいっぱいに広がり、貴妃を囲んでいた。
最後に浪浪が麗鈴の隣に並び、ひれ伏す。
「私からもお願いです。……羽馨、あんたは頭ごなしに他人を否定する人間じゃなかった。だから蘭舟宮はこういう宮になった。そうだろう?」
貴妃は痛みを堪えるように額を押さえる。それから振り絞った声で応えを返した。
「……そこまでされたら、否やは言えないわね。いいでしょう、瓏宝林と如閑どのの調査を許します」
それにしても、と息を吐く。
蘭舟宮は暖かな場所だ。皆が貴妃を慕っていて、思いやっていて、家族のようだ。
碧楼宮は違う。芙蓉は唇を噛む。日に日に温度が冷えていく。というのも、陛下の御通りがぱたりと途絶えて、玉環の機嫌が常に最悪なのだ。今日も出された茶が不味いと怒鳴り散らし、侍女を折檻していた。
もう眠ろう、と藁を集めて作った寝床に横になったとき、コンと外から物音がした。石を投げるような音だ。息をひそめて様子を窺っているともう一度音が響いた。今度は強めに。
……気のせいじゃない。
芙蓉は用心深く漏窓を開け、少しだけ顔を覗かせた。
「あっ、芙蓉!」
「本当にこんな宮の隅に室があてがわれているわけかい」
暗闇に手燭の明かりを二つ見留めて、芙蓉は瞬いた。
「……麗鈴、浪浪?」
二人が窓辺に近寄ってくる。その顔が青ざめているのが分かって、芙蓉は身を固くした。
「何かあったの?」
「実はね……」
二人が話すところによると、蘭舟宮に異形の影があるらしい。回廊を彷徨うばかりで何をするでもないが、恐ろしくて眠れない。そこで、芙蓉に来てもらえないかということだった。
「こんな遅くに悪いと思ったんだけどさ」
「でも本当に怖いのよ。ここまで来るのだって足が震えてしょうがなかったわ」
「私の棒術だって、ああいう化け物に効くのか分からないしねえ」
浪浪の右手にはしっかり棒が握られている。しかし、軽口を叩く表情が強張っていた。麗鈴の体は寒くもないのに震えている。それを見てとり、芙蓉は二つ返事で頷いた。
「分かった。私で良ければ一緒に行くわ」
「本当? 助かる!」
とはいえ、芙蓉がどこまで異形に対して立ち向かえるかは分からない。蘭舟宮に辿り着いて、侍女たちの期待のこもった眼差しを一身に浴びたときには居心地が悪かった。
「あれよ、あれ」
麗鈴が回廊の影に身をひそめて、奥を指差す。そこには、天井に届こうかという大きさの、首無しの人影が、吊燈籠に照らされて揺らめいていた。
「ああ……実家で見たことあるわ」
「瓏家は化け物の集まりなのかい」
浪浪が身を引く。芙蓉は口元に手をやって考え込んだ。
「大丈夫、朝になれば消えるわ。決まった範囲を動くだけの幻みたいなものよ。影から一番遠い部屋に集まって夜を過ごしましょう。みんなで集まれば平気よ」
芙蓉の指示で、影から離れた大きな一室に侍女たちが集まった。掛布を持ち寄り、身を寄せ合う。みな怯えた表情で、顔を突き合わせていた。
「ここなら影から遠いし、襲われることはないわ。どうしても不安だったら、隣の人の手を握って。誰かが居ると実感できれば、乗り越えられるわ。一人ぼっちよりずっと良いわよ」
途端、麗鈴が芙蓉の左手を握りしめた。痛いほどの強さに苦笑する。
「大丈夫よ、麗鈴。目をつむって開けたらもう朝よ」
「でも、怖いものは怖いのよ」
「そうね……」
右手を浪浪に掴まれる。彼女は油断なく、棒を持ち込んでいた。他の侍女たちも近くの者と手に手を取り合っていた。
「来てくれてありがとうな、芙蓉」
浪浪が囁く。芙蓉は微笑んだ。
「良いのよ。私もね、この世ならざるモノは怖いの。だから、同じように怯えている人を見たらどうしても放っておけなくて。……それだけよ」
左側に、麗鈴の重みがかかる。目をつむったまま、むにゃむにゃ言った。
「芙蓉、温かいね……」
麗鈴の手を握り返す。芙蓉も目を閉じた。
「うん、そうだね……」
実家ではいつも、一人きりで恐怖に耐えていた。けれど今は違う。こんな夜が訪れるなんて、想像したこともなかった。
──そして、朝が来る。
無事に影は消え、みな思い思いに身支度を整え始めた。芙蓉も顔を洗い、適当に髪を括って宝林の襦裙に身を包む。その様子を見ていた麗鈴が唇を尖らせた。
「……前から思っていたけど、芙蓉、そっけなさ過ぎない?」
「え?」
「ちょっとこっち来て」
麗鈴は芙蓉の腕を掴み、鏡台の前に座らせた。それから自分の化粧道具を取り出し、芙蓉の顔に塗り始める。
「芙蓉はせっかく元が良いんだから、もっといじりがいがあると思うのよね」
「化粧道具を持ってなくて……」
「ええっ!? ……じゃあ、私のを少し分けてあげるから、やってみなさいよ。髪ももっとこう、色々できるわよ」
「簪が、頭に簪が刺さってるわ」
麗鈴が奮闘すること数刻。目を開けると、鏡の中には玉環によく似た、けれど明らかに呆然とした表情の美しい少女が映っていた。
「あ……え……?」
「どうよ、私の腕前は」
黒髪は銀の簪で結い上げられ、歩瑶がしゃらりと音を鳴らす。小さな唇は紅く、頬は愛らしい桜色。潤んだ瞳は黒曜石のように輝いていた。
「おや、綺麗じゃないかい」
浪浪が近寄ってきて、薄絹の被帛を着せかける。そうすると、ますますどこか貴人のように見えた。
「あ、ありがとう……」
芙蓉は俯いて、ぽそぽそと礼を言う。麗鈴がにんまり笑った。
「これを如閑どのに見せつけてやりなさいよ。どうせ他に男もいないのだし」
「えっ、ええっ!?」
うろたえる芙蓉に、からからと浪浪が笑い声を上げる。
「そうしてやんな。あの胡散臭い方術士も、少しは顔色を変えるだろうさ」
「そんなことは……ないと思いますけど」
でも、如閑がどんな反応をするのかは気になった。それで、蘭舟宮に現れた如閑を、芙蓉はそのままの恰好で出迎えたのである。
「……えっと、おはようございます」
「…………」
如閑は黙り込み、眉一つ動かさない。思えば、自分は貴妃を守るためにここにいるのに、化粧をして浮かれている場合ではなかったかもしれない。わくわくと見守っている麗鈴、浪浪、その他侍女たちの視線を感じながら、芙蓉は泣きそうになっていた。
「あの」
「……もう少し、近くで拝見しても?」
「え? は、はい」
芙蓉が頷くと、如閑は一歩距離を詰めてきた。間近で熱っぽく見つめられ、芙蓉は思わず顔をそらしてしまう。けれど如閑はそれを許さず、そっと芙蓉の顎をとらえて上向かせる。遮るものなく強い視線にさらされ、芙蓉は耐えきれなくなって目をつむった。如閑の指先が硬直する。
「……瞳を見せていただけますか」
「? はい……」
うっすらと瞼を上げると、甘く微笑む如閑と視線がぶつかった。蜜のような声音で囁かれる。
「──綺麗です。とても」
なんてことない言葉なのに、彼に言われると胸がぽわんと温かくなった。それから、麗鈴や浪浪に褒められたときとは違う、猛烈な照れ臭さが襲ってきて頬が赤くなる。芙蓉は両手で顔を押さえ、素早い足捌きで距離を取った。
「あの! 今朝、麗鈴にやってもらってですね!」
「先ほど碧楼宮に寄ったら、芙蓉姫がいなかったので焦りましたよ。蘭舟宮で夜明かししたのですか?」
「ああ、それなのですが……」
昨夜の出来事がよぎり、一気に頭が冷えた。異形の影の話をする。如閑は眉をひそめた。
「……だんだんと大胆になっていますね。大勢の侍女たちに見られても問題ないという余裕の表れか、騒ぎになっても劉貴妃が告発するほどの猶予はないということか」
「そんな」
芙蓉は強く拳を握りしめる。そのとき、近くの回廊を貴妃が通り過ぎた。芙蓉と如閑を囲むように集まる侍女たちに顔をしかめる。
「何をしているの? 早く持ち場につきなさい」
「劉貴妃……」
芙蓉が口を開いたところで、貴妃の前に人影が躍り出た。
「羽馨様!」
麗鈴だった。彼女は貴妃の前に跪き、必死の形相で訴えかける。
「どうか、芙蓉と如閑どのの言をお受け入れください! 芙蓉はずっと、蘭舟宮のために働いてくれました。昨夜も異形の影に怯える私どもをなだめてくれたのです。淑妃の姉といえど、信頼できます」
頭を垂れる麗鈴を、貴妃は冷たく見下ろした。貴妃が何か言いかけたのを遮るように、次々に侍女たちが麗鈴の周りに集まり叩頭する。きらびやかな襦裙がいっぱいに広がり、貴妃を囲んでいた。
最後に浪浪が麗鈴の隣に並び、ひれ伏す。
「私からもお願いです。……羽馨、あんたは頭ごなしに他人を否定する人間じゃなかった。だから蘭舟宮はこういう宮になった。そうだろう?」
貴妃は痛みを堪えるように額を押さえる。それから振り絞った声で応えを返した。
「……そこまでされたら、否やは言えないわね。いいでしょう、瓏宝林と如閑どのの調査を許します」