夜明けとともに、玖蓮国の王宮には朝告鶏の鳴き声が響く。時番が一刻たりとも遅れぬように目を光らせて、朝の訪れを知らしめる。
その王宮の、奥。皇帝以外の男は足を踏み入れることさえ許されない花園。貴き血筋の継承機関。すなわち後宮では、今朝も皇帝が数多の美しい女に見送られて、宮の一つを後にするところだった。
宮の名前は碧楼宮。妃嬪の一人、瓏玉環──位は淑妃、正一品──が、珠玉のかんばせに蕩けるような笑みを浮かべて、皇帝の腕にしなだれかかっていた。
碧楼宮から外朝へと続く回廊には、玉環の侍女たちがずらりと並び、跪いて頭を垂れている。その中に、ひときわ質素な袍を纏った侍女がいた。名を瓏芙蓉。玉環の実の姉であり、今は位もない下女として妹に仕えている。
「陛下、また今宵もいらしてくださいませ。この玉環との約束ですよ」
叩頭する芙蓉の前を、透き通るような翠色の靴が通り過ぎていった。銀糸の刺繍が鮮やかなそれは、玉環のものだ。その隣には高貴な身分にしか許されない紫色の靴。皇帝のゆったりとした足運びに合わせて、踵についた金糸の房が揺れる。
芙蓉は少し目を見開いて、皇帝の足元を凝視した。床から立ちのぼった黒い靄が皇帝の足首に絡みつこうとし、誰かの指で弾かれたように空中に霧散する。黒い靄は壁からも滲み出て、皇帝の体に纏わりつこうとしては泡のように弾けて散る。
それは、<呪い>だった。靄の向こうから何者かが覗き込んでいるような気がして、慌てて芙蓉は目を伏せる。
彼女には、幼い頃からこの世ならざる理がよく見えた。呪いは黒い靄という形で、それだけでなく、妖怪、鬼など、とにかく常世の箍から外れたものがよぅく見えた。
何も無い空間を見つめては怯えて泣き出す彼女を、家族は嘘つき扱いし、疎んだ。特に玉環が生まれてからは、芙蓉はれっきとした瓏家の長姫であるにもかかわらず、いないものとして扱われ下働きと同様にこき使われた。
それは玉環が妃嬪として後宮入りする際にも変わらず、玉環付きの下女として、芙蓉は日々働くことになったのである。
「ちょっと、邪魔よ」
「あっ……」
皇帝と玉環の姿が見えなくなり、立ち上がろうとしたときだった。隣にいた侍女に蹴飛ばされ、床に転がった。
「あらあら、可哀想じゃない。この子は妹の下女なんかやらされてるんだから。かたや淑妃、かたや年増の婢女。似たような顔をしてるのに、大した差がついたもんよね」
「でもしょうがないわよ。芙蓉はいるんだかいないんだか分からないし」
侍女たちが嘲笑いながら芙蓉を見下ろす。芙蓉は顔立ちだけで言えば、玉環と血の繋がりを感じさせた。けれどろくに手入れもされていない髪はボサボサで、明るい玉環に比べて芙蓉の表情はいつも暗い。そんな彼女に手を伸ばす者は一人もいない。
芙蓉はきゅっと唇を噛みしめ、床に手をついて立ち上がった。目を伏せたまま侍女たちに頭を下げる。
「申し訳、ありません。仕事に向かいます」
侍女たちの笑い声が大きくなる。
「いいのよ。せいぜい仕事に励んでちょうだいね。今日は何をやるのかしら。厠掃除? 肌着の洗濯?」
「玉環様のそばに侍る私たちの手は汚せないもの。あなたがやるのがちょうどいいわ」
と、後ろから足音が聞こえた。さらりとした衣ずれ、簪の触れ合う涼やかな音。それだけで、誰が来たのか分かった。侍女たちが笑いを引っ込め、拱手の礼を取る。
「──こんなところで何をやっているのかしら、お姉様」
「……玉環、様」
芙蓉は思わず頭を上げ、現れた少女の前で立ち尽くした。
艶やかな射干玉の髪を、色とりどりの宝玉があしらわれた簪で結いあげている。身に纏うのは正一品の淑妃にしか許されない碧色の衣。華奢な体に豊満な胸は男の本能を刺激し、愛されるために象られたよう。小さな顔は人形と見紛うばかりに整っていて、勝気な表情も愛らしい。
実の姉から見ても、美しい姫だった。
「お姉様は下女としてここにいるはずなのだけれど。仕事をしないのなら生きている価値なんてないんじゃないかしら」
「申し訳ありません。すぐに仕事に」
「当たり前でしょう? お姉様はすぐに怠けるのだから。いいわ、追加の仕事を命じます。園遊会のための衣の手入れ、お願いね。全員分よ」
「全員分……?」
「そうよ、一人でね。文句あるかしら」
碧楼宮に仕える侍女はゆうに五十を超える。その全員の手入れを一人で行うためには、睡眠時間を削るしかなかった。
侍女たちが華やいだ声をあげる。
「さすが玉環様。怠惰な奴婢の使い方が巧みでいらっしゃる」
「それがいいわ。臭い仕事より、綺麗な衣を扱える方が嬉しいでしょう? 玉環様に感謝しなさいよ」
甲高い声に、芙蓉は黙って頭を下げる。自分が何を言っても状況は変わらない。十九年間、芙蓉の人生はずっとそうだった。
「承知、しました……」
芙蓉が従順に返事をすれば、玉環が短く笑ったのが分かった。
「園遊会までに間に合わなかったら、容赦しないわよ」
侍女たちが追従して嘲笑をあげる。そのまま彼女たちは満足して去っていき、辺りは静まり返った。
芙蓉は頭を上げ、ゆっくり息を吐いた。
「園遊会、か……」
小さく呟く。それは後宮の有力な后妃たちが、皇帝を囲んで花を愛でる宴である。いつもよりも豪華な食事が供され、雅楽の演奏もある。だが、宮女たちが園遊会に熱を上げるのはそれが理由ではない。
普段、外部の人間は立ち入り禁止の後宮が、その日だけは門を開け、王宮の官吏や禁軍の武官を招き入れるのだ。
名目上、後宮の女は全て皇帝のものだが、全員が全員皇后になりたいわけではない。園遊会で官吏や武官に目をかけられれば、皇帝からの下賜という形で輿入れし、後宮を出ることも可能である。多くの宮女がそれを目論み、園遊会の日は后妃そっちのけで目ぼしい男たちに秋波を送る宮女もいる。皇帝や后妃も事情を把握しているため、ある程度は見逃すのだ。
(けれど、私には関係のない話ね)
芙蓉は薄く笑みを浮かべる。玉環は芙蓉が幸せになることを望まないし、そもそも芙蓉を見染める人間がいるとは思えない。
それよりも衣の手入れを済ませなければ。
芙蓉はとぼとぼと回廊を歩き、仕事場へ向かった。
その王宮の、奥。皇帝以外の男は足を踏み入れることさえ許されない花園。貴き血筋の継承機関。すなわち後宮では、今朝も皇帝が数多の美しい女に見送られて、宮の一つを後にするところだった。
宮の名前は碧楼宮。妃嬪の一人、瓏玉環──位は淑妃、正一品──が、珠玉のかんばせに蕩けるような笑みを浮かべて、皇帝の腕にしなだれかかっていた。
碧楼宮から外朝へと続く回廊には、玉環の侍女たちがずらりと並び、跪いて頭を垂れている。その中に、ひときわ質素な袍を纏った侍女がいた。名を瓏芙蓉。玉環の実の姉であり、今は位もない下女として妹に仕えている。
「陛下、また今宵もいらしてくださいませ。この玉環との約束ですよ」
叩頭する芙蓉の前を、透き通るような翠色の靴が通り過ぎていった。銀糸の刺繍が鮮やかなそれは、玉環のものだ。その隣には高貴な身分にしか許されない紫色の靴。皇帝のゆったりとした足運びに合わせて、踵についた金糸の房が揺れる。
芙蓉は少し目を見開いて、皇帝の足元を凝視した。床から立ちのぼった黒い靄が皇帝の足首に絡みつこうとし、誰かの指で弾かれたように空中に霧散する。黒い靄は壁からも滲み出て、皇帝の体に纏わりつこうとしては泡のように弾けて散る。
それは、<呪い>だった。靄の向こうから何者かが覗き込んでいるような気がして、慌てて芙蓉は目を伏せる。
彼女には、幼い頃からこの世ならざる理がよく見えた。呪いは黒い靄という形で、それだけでなく、妖怪、鬼など、とにかく常世の箍から外れたものがよぅく見えた。
何も無い空間を見つめては怯えて泣き出す彼女を、家族は嘘つき扱いし、疎んだ。特に玉環が生まれてからは、芙蓉はれっきとした瓏家の長姫であるにもかかわらず、いないものとして扱われ下働きと同様にこき使われた。
それは玉環が妃嬪として後宮入りする際にも変わらず、玉環付きの下女として、芙蓉は日々働くことになったのである。
「ちょっと、邪魔よ」
「あっ……」
皇帝と玉環の姿が見えなくなり、立ち上がろうとしたときだった。隣にいた侍女に蹴飛ばされ、床に転がった。
「あらあら、可哀想じゃない。この子は妹の下女なんかやらされてるんだから。かたや淑妃、かたや年増の婢女。似たような顔をしてるのに、大した差がついたもんよね」
「でもしょうがないわよ。芙蓉はいるんだかいないんだか分からないし」
侍女たちが嘲笑いながら芙蓉を見下ろす。芙蓉は顔立ちだけで言えば、玉環と血の繋がりを感じさせた。けれどろくに手入れもされていない髪はボサボサで、明るい玉環に比べて芙蓉の表情はいつも暗い。そんな彼女に手を伸ばす者は一人もいない。
芙蓉はきゅっと唇を噛みしめ、床に手をついて立ち上がった。目を伏せたまま侍女たちに頭を下げる。
「申し訳、ありません。仕事に向かいます」
侍女たちの笑い声が大きくなる。
「いいのよ。せいぜい仕事に励んでちょうだいね。今日は何をやるのかしら。厠掃除? 肌着の洗濯?」
「玉環様のそばに侍る私たちの手は汚せないもの。あなたがやるのがちょうどいいわ」
と、後ろから足音が聞こえた。さらりとした衣ずれ、簪の触れ合う涼やかな音。それだけで、誰が来たのか分かった。侍女たちが笑いを引っ込め、拱手の礼を取る。
「──こんなところで何をやっているのかしら、お姉様」
「……玉環、様」
芙蓉は思わず頭を上げ、現れた少女の前で立ち尽くした。
艶やかな射干玉の髪を、色とりどりの宝玉があしらわれた簪で結いあげている。身に纏うのは正一品の淑妃にしか許されない碧色の衣。華奢な体に豊満な胸は男の本能を刺激し、愛されるために象られたよう。小さな顔は人形と見紛うばかりに整っていて、勝気な表情も愛らしい。
実の姉から見ても、美しい姫だった。
「お姉様は下女としてここにいるはずなのだけれど。仕事をしないのなら生きている価値なんてないんじゃないかしら」
「申し訳ありません。すぐに仕事に」
「当たり前でしょう? お姉様はすぐに怠けるのだから。いいわ、追加の仕事を命じます。園遊会のための衣の手入れ、お願いね。全員分よ」
「全員分……?」
「そうよ、一人でね。文句あるかしら」
碧楼宮に仕える侍女はゆうに五十を超える。その全員の手入れを一人で行うためには、睡眠時間を削るしかなかった。
侍女たちが華やいだ声をあげる。
「さすが玉環様。怠惰な奴婢の使い方が巧みでいらっしゃる」
「それがいいわ。臭い仕事より、綺麗な衣を扱える方が嬉しいでしょう? 玉環様に感謝しなさいよ」
甲高い声に、芙蓉は黙って頭を下げる。自分が何を言っても状況は変わらない。十九年間、芙蓉の人生はずっとそうだった。
「承知、しました……」
芙蓉が従順に返事をすれば、玉環が短く笑ったのが分かった。
「園遊会までに間に合わなかったら、容赦しないわよ」
侍女たちが追従して嘲笑をあげる。そのまま彼女たちは満足して去っていき、辺りは静まり返った。
芙蓉は頭を上げ、ゆっくり息を吐いた。
「園遊会、か……」
小さく呟く。それは後宮の有力な后妃たちが、皇帝を囲んで花を愛でる宴である。いつもよりも豪華な食事が供され、雅楽の演奏もある。だが、宮女たちが園遊会に熱を上げるのはそれが理由ではない。
普段、外部の人間は立ち入り禁止の後宮が、その日だけは門を開け、王宮の官吏や禁軍の武官を招き入れるのだ。
名目上、後宮の女は全て皇帝のものだが、全員が全員皇后になりたいわけではない。園遊会で官吏や武官に目をかけられれば、皇帝からの下賜という形で輿入れし、後宮を出ることも可能である。多くの宮女がそれを目論み、園遊会の日は后妃そっちのけで目ぼしい男たちに秋波を送る宮女もいる。皇帝や后妃も事情を把握しているため、ある程度は見逃すのだ。
(けれど、私には関係のない話ね)
芙蓉は薄く笑みを浮かべる。玉環は芙蓉が幸せになることを望まないし、そもそも芙蓉を見染める人間がいるとは思えない。
それよりも衣の手入れを済ませなければ。
芙蓉はとぼとぼと回廊を歩き、仕事場へ向かった。