灰姫はしばらく休むと春英を呼び出し、昨日の続きを始めた。
「明晶殿下は景美人さまを妃嬪に迎える気はないそうなの。高位の女官ということにしたらどうかと言われたわ」
「わかりました。でしたら、皇后陛下と同じ、明叔殿に配置するのが良いかもしれませんね。皇后陛下付の女官ということにしてしまいましょう。梅羽様も項成様に懐かれているようだし」
「そうね。その明叔殿だけど、いつ頃完成予定なの?」
「秋までには住める状態になるかと」
「秋……か」
 冬を迎えられないだろうと皇帝は自分で言っていた。
 きっとそれに間に合うように、様々なことが予定されているのだろう。
「では、景美人さまの配置も決まりましたし、続きをしましょうか」
 春英が役職図を広げた。
「ええ」
 春英の助言も受けて、役職を埋めていく。
 黒猛国から連れてきた者たちの配置は順調であった。
 李燈をはじめとする彼らの性格や適性を、灰姫はよく知っている。
「高台は宦官の中でも文官の最上位の人間だったから……なんなら官吏としてでも登用できると思うの」
「わかりました。明晶殿下が帰っていらしたら相談しましょう」
「それと景美人さまのところの人員は、さすがに多すぎるわよね」
「そうですね。あの数ですと、明叔殿に収容こそできるでしょうが、手狭にはなるかと」
「でしたら何人かこちらに回してもらいましょう。景美人さまに……あなたからその旨、手紙を書いてくださる?」
「仰せのままに。署名だけお願いします。お名前は書けますか?」
「それくらいは、なんとか」
「ようございました」
 春英は淡々と物事を進めてくれた。灰姫が迷えば、即座に二つ三つ案を出してくれる。それもわかりやすく、噛み砕いて。
「今日はこれくらいにいたしましょうか」
 外が赤色に染まり始めた頃、春英がそう言った。
「ええ、そうね。春英、明日は朝からお願い」
「はい。それでは失礼します」
 春英が下がっていく。灰姫は思いきり背伸びをした。
 黒猛国から連れてきた宮女のひとり、清月が茶を注いでくれた。

 次の日の朝、朝食をとり身支度を調え、李燈と春英が来るのを待っていると、高台が部屋を訪ねてきた。
「お邪魔いたします、灰姫様」
「高台、どうしたの?」
「こちらの書庫をお借りしていたところ、いささかよくない噂を小耳に挟みまして、お耳に入れた方がよろしいかと」
「……勉強熱心ね、高台は」
 灰姫は高台を褒めてから、話の続きに耳を傾けた。
「……黒猛国から来た姫が、好き勝手に差配を振るい、大済国の高官達を冷遇しようとしている、と」
「そのような事実はございません」
 灰姫が何かを答えるより先に、ちょうど到着した春英が李燈に戸を開いてもらいながら、きっぱりとそう言い切った。
「灰姫様はきちんと均衡の取れた差配をしてらっしゃいます。身のまわりはいささか黒猛国の方々で固めているきらいはありますが、他国からいらしたのですから、それくらいは当然のことです。どのような者ですか、そのようなことを申していたのは」
 春英は目に見えて怒りを覗かせていた。
 自分はこの才媛からこれほどの信頼を勝ち得ていたのだと、灰姫は少し嬉しく思った。
「春英殿、いいの、いいのです」
「よくはありません。そのような不穏分子は放置していてはいけません。いつどのように足を掬われるかわかったものではないのですから」
「あのね、春英殿、私、そう言われるのも無理ないことだと思うの。だって私はこの国の人のことを知らないし、この国の人は私のことを知らないのだもの」
 知られていないのなら、存在しないのと同じだ。かつて母国の後宮でそうであったように。
「だから、そこから改めようと思う。そしてそれにはあなたの助けが不可欠なの」
「……なんなりと」
 春英は怒りの表情のままにうなずいた。

 その男は後宮の敷地、まだ建物が建設されていない空き地に部下たちと陣を張っていた。
「司将軍!」
 春英からの呼び掛けに振り返った司将軍は、ひげ面に広い肩幅、太い腕、灰姫の見慣れない『男』そのものであった。少しの緊張を感じながら、灰姫はそちらに寄る。
「おう、春英。そちらは……」
 司将軍は灰姫を穿つように見つめた。
「こちら王太子妃になられる灰姫様でございます」
「これはこれは」
 司将軍は拱手の形を取った。
「この後宮の守護を命じられている司と申します。以後お見知りおきのほどを」
「はじめまして、司将軍。さっそくですが、あなたにお願いがあります」
「なんでございましょう」
「こちら、わたくしの武官たちです。宦官ですが、筋力は衰えていません。この者達とあなた様の部下、皆を集めて序列をつけていただきたい」
「ほう……」
 李燈をはじめとする武官の宦官を灰姫は連れてきていた。司将軍は値踏みするように彼らを見た。
「わたくしが、やってよろしいのですか? ……もしかしたら自分の部下をえこひいきするやもしれませんぞ?」
 司将軍は少し笑いながらそう言った。
「それをしたなら、この者の剣に背いたと言うことです」
 灰姫は李燈が提げる剣を示した。
 それは明晶が李燈に下賜した剣であった。
「おお、これは明晶殿下の……ふむ、となれば、この剣にかけて、謀るわけにもいきますまい」
 司将軍は自らの剣を示した。
 そちらにも李燈と同じ紋様が刻まれていた。
 あの紋様は明晶のものなのだろう。灰姫は目に刻み込む。
「わかりました。ここにいるものと手合わせでもさせましょう。ご覧になられますか?」
「いえ、急ぎの用があるので、用事を申しつけておいて失礼ですが、ここはお任せします。李燈、みんな、がんばって」
「……あの、本当によろしいのですか、護衛である俺が灰姫様のお側を離れるのは……」
 李燈は不安げだった。
「……そう、ね。では、司将軍、何人か護衛をお借りしても?」
「もちろんです。王行(おうぎょう)! 玉文(ぎょくぶん)!」
 司将軍は自分の部下に声をかけた。
「この二人をつけましょう。必ずやお役に立ちましょう」
「ありがとう」
 灰姫は、ふたりの護衛と春英、それに数名の宦官と宮女を引き連れて、次の場所へと向かった。
 司将軍はそれを見送った。
「ふむ……李燈と言ったか、未来の王太子妃様は何をお考えだ?」
「……灰姫様は『この後宮の人々に私を紹介してくれ』と春英殿に命じられた」
「なるほど」
 司将軍は楽しそうに笑った。

「……ご自分の目で、見極めたい、ということですか?」
 道中、春英は灰姫に尋ねた。
「まあ、そうね」
「でしたら、手合わせもご覧になるべきでは?」
「私には武芸の巧拙はわかりません。ですから司将軍、それに李燈を信じます。司将軍のことは明晶殿下が選んだから信じられます。李燈のことは長い付き合いだから信じられます。あのふたりがいる場で行われた手合わせの結果なら、私が信頼するに足るものです」
「さようですか」
「さあ、次は(くりや)です」
「はい」