大済国の皇帝は灰姫と同じ年頃の明晶の父というには、ずいぶんと年老いて見える男だった。
灰姫の父は五十を過ぎていたが、灰姫には大勢の兄と姉がいた。
明晶の父はそれより年上に見えた。
そして、ずいぶんと痩せ細っていて、寝台にもたれたまま、明晶たちを迎え入れた。
この人はあまり長くはない。それが見て取れた。
「ただ今戻りました、陛下」
うやうやしく明晶は拱手をした。
「……ああ」
苦しげに皇帝は続けた。
「……此度の戦働きについてはもう聞き及んでいる。ご苦労だった」
「ありがとうございます」
明晶はそう言うと灰姫を示した。
「こちら、黒猛国の七番目の姫、灰姫殿です。私の妃に迎えたく思います。よろしいでしょうか」
「お前が望むなら、望むようにしろ」
皇帝は灰姫に目もくれずにそう言った。
「ありがとうございます。灰姫殿には新都、明陽にて暮らしてもらいます」
「……良皇后といっしょに、か……では、一筆とろう」
皇帝は少し顔をしかめた。
その表情はどこか懐かしさに浸っているように見えた。
「あの気性だ、王太子妃をいびったりなどせぬように、と朕が書かねばな……」
皇后のことを語るその口ぶりには親しみがこもっていた。
何も知らぬ灰姫にも、よい関係なのだろうと思わせるものがあった。
「……灰姫、と言ったか」
「はい、灰姫でございます」
灰姫は震える声で応対した。
「雪のように美しい髪だな……朕は次の冬まで保たぬだろうから、お前に会えて嬉しく思うよ」
「……光栄でございます」
灰姫は泣きそうになりながら、そう言った。
灰のようだと罵られてきた髪をそう褒められるのは初めてのことだった。
皇帝が震える手で手紙を書き終え、玉璽を押し、明晶に手渡した。
明晶はそれを懐にしまった。
「それでは、しばしまた留守にします、陛下」
「うむ」
皇帝の私室を彼らは辞した。
「ふー……」
灰姫と李燈は揃ってため息をついた。
明晶はくすりと笑った。
「父は老けていただろう?」
「い、いえ……ええと」
「いいのだ。俺は父の五番目の息子だが、四人の兄は全員戦や病気で亡くなった」
「そう、でしたか」
「だから……うん、俺はなるべくあなたのきょうだいを殺したくはなかった。あなたにとっては、あまりよいきょうだいではなかったようだが」
「…………」
灰姫には返す言葉がなかった。
「さて、屋敷に戻ろうか」
明晶は快活に笑ってそう言った。
屋敷では歓待を受けた。
明晶の祖父は皇帝と同じくらいの年頃であった。
明晶の祖母は灰姫のことを大層歓迎してくれた。
家族というものに縁遠かった灰姫にとってそれは初めてのことだらけの宴だった。
宴が終わると、明晶は灰姫に囁いた。
「灰姫殿、申し訳ないが、寝所をともにしてもらえるか」
「は、はい……」
灰姫は顔を赤らめて、うなずいた。
妃にと請われたのだ。そういう日がくることはわかっていたが、どうしたって緊張が勝る。
「さすがに部屋が足りなくてな。あなたと俺は一番警護の数も多いし、それなら同じ部屋の方が都合が良い。ああ、李燈、剣を返すよ」
「はっ」
明晶から剣を返され、李燈は腰に提げた。
「李燈も警護の数に入っているから、よろしく頼む」
「仰せのままに」
あばら家での生活と長旅の間で、李燈はすっかり明晶の兵のようになっていた。
それでも時折、灰姫と目を合わせたときに見せる微笑みは、かつての李燈のものだった。
用意された寝所にはふたつの布団が敷かれていた。
母国から連れてきた女官達が飾り立てた服を一気に剥ぎ取り、寝衣に着替えさせてくれた。
「それでは、おやすみ、灰姫殿」
「は、はい、おやすみなさいませ……」
明晶は床につくと、さっさと寝息を立ててしまった。
灰姫はなんだか拍子抜けした気分で布団に潜り込んだ。
翌朝にはもう新都明陽に向けて出立だった。
灰姫はまたしても服で着飾らされた。
項成はすっかり明晶の祖父母に懐いたようで、明晶の祖父の膝の上で別れを惜しんだ。
明晶の祖母は灰姫に豪華な簪を贈ってくれた。
「いつか、王太子殿下の妃になる方にお贈りしたく思っていたのです。生きている間に叶ってよかった」
恐縮して礼を言う灰姫に明晶の祖母はニコニコと笑いながら、そう言った。
新都明陽には半日でついた。
それでもずいぶんと時間がかかったはずだが、祖国から大済国首都の距離を思えば、そう遠くもなかった。
新都明陽は人がまばらであった。
しかし中央に立派な塀がめぐらされていた。
「これが王宮と後宮の塀だ。中身はまだまだ空っぽだが、皇后陛下と従妹が住んでいる」
「従妹……」
項成と同じくらいの年だったか。
「皇后陛下の妹の子だ。生まれると同時に母を亡くしたので、皇后陛下が引き取られた。私にとっては妹のようなものだな。あなたにも姉のように振る舞ってもらえたら嬉しい」
「努力します」
塀の向こうはまだ建物がほとんどできていなかった。
ただ中央に一つの宮殿があった。
「これが明央殿、後宮の中心になる予定だ」
「これが……」
「あなたの宮殿だ、灰姫殿、いや王太子妃」
「…………」
灰姫は重圧に身を震わせた。
明央殿では良皇后が彼らを待っていた。
椅子に腰掛けた皇后は皇帝と比べると若く見えた。四十くらいだろうか。
「お帰りなさいませ、明晶殿下」
「ただ今戻りました、皇后陛下」
明晶は皇帝からの手紙を皇后に手渡した。
皇后は手紙を読むと鼻を鳴らした。
「陛下は相変わらず明晶殿下に甘くていらっしゃる……」
「遅くに出来た子は可愛いと言いますからねえ」
明晶はにこにこと笑った。
「……黒猛国の姫君」
「は、はい」
「……以後よろしく」
「よろしくお願いいたします……」
灰姫は礼をした。
良皇后はそれ以上、特に何も言わなかった。
灰姫はすでに整えられた部屋に案内された。
「その内あなた好みに家具など入れ直してもらって構わない。今はこの部屋で我慢してくれ」
「……我慢、だなんて」
隙間風が入ってこない。屋根が破れていない。扉がガタつかない。窓が引っかからない。
「十分すぎます……」
「……好みの家具を、見つけるといい、灰姫殿」
明晶は少し寂しそうに笑った。
「あなたはそうしていいのだ。あなたには好きなものを増やしていってほしい。今まで与えられなかったものを、私は与えたいと思う」
「……ありがとうございます」
灰姫は身をすくめてお礼を言った。
「礼など要らないよ、灰姫殿」
明晶はそういうと、灰姫に背を向けた。
「では、俺は留守の間のことを官吏から聞いてくる。……ああ、そうだ」
明晶は顔をしかめた。
「あちらの後宮で育ったあなたは不安に思うかもしれないが、この後宮は男の官吏や兵が出入りしている。もちろん選りすぐりの信頼の置ける者達だが……何があってもいいように、李燈を常にそばにおつけください」
「は、はい」
身内以外の男とは縁遠い。灰姫は宦官と男は違う生き物だと教わって育った。
もちろん明晶も男なのだが、彼はするりと灰姫の内側に入ってきた。
まるで明晶がそこにいるのが当たり前のようになっていることに灰姫はようやく気付いた。
「大済国では宦官が廃止されて久しい。いささか不便を感じられるでしょうが……」
「慣れてゆきます」
「そうか。では、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさいませ」
明晶が去り、李燈と幾人の女官と部屋に残された。
「就寝の準備をいたしましょうか」
女官に声をかけられて、灰姫はうなずいた。
寝衣に着替えると、一気に旅の疲れが出たようで、力が抜けた。
灰姫は深い眠りに落ちた。
灰姫の父は五十を過ぎていたが、灰姫には大勢の兄と姉がいた。
明晶の父はそれより年上に見えた。
そして、ずいぶんと痩せ細っていて、寝台にもたれたまま、明晶たちを迎え入れた。
この人はあまり長くはない。それが見て取れた。
「ただ今戻りました、陛下」
うやうやしく明晶は拱手をした。
「……ああ」
苦しげに皇帝は続けた。
「……此度の戦働きについてはもう聞き及んでいる。ご苦労だった」
「ありがとうございます」
明晶はそう言うと灰姫を示した。
「こちら、黒猛国の七番目の姫、灰姫殿です。私の妃に迎えたく思います。よろしいでしょうか」
「お前が望むなら、望むようにしろ」
皇帝は灰姫に目もくれずにそう言った。
「ありがとうございます。灰姫殿には新都、明陽にて暮らしてもらいます」
「……良皇后といっしょに、か……では、一筆とろう」
皇帝は少し顔をしかめた。
その表情はどこか懐かしさに浸っているように見えた。
「あの気性だ、王太子妃をいびったりなどせぬように、と朕が書かねばな……」
皇后のことを語るその口ぶりには親しみがこもっていた。
何も知らぬ灰姫にも、よい関係なのだろうと思わせるものがあった。
「……灰姫、と言ったか」
「はい、灰姫でございます」
灰姫は震える声で応対した。
「雪のように美しい髪だな……朕は次の冬まで保たぬだろうから、お前に会えて嬉しく思うよ」
「……光栄でございます」
灰姫は泣きそうになりながら、そう言った。
灰のようだと罵られてきた髪をそう褒められるのは初めてのことだった。
皇帝が震える手で手紙を書き終え、玉璽を押し、明晶に手渡した。
明晶はそれを懐にしまった。
「それでは、しばしまた留守にします、陛下」
「うむ」
皇帝の私室を彼らは辞した。
「ふー……」
灰姫と李燈は揃ってため息をついた。
明晶はくすりと笑った。
「父は老けていただろう?」
「い、いえ……ええと」
「いいのだ。俺は父の五番目の息子だが、四人の兄は全員戦や病気で亡くなった」
「そう、でしたか」
「だから……うん、俺はなるべくあなたのきょうだいを殺したくはなかった。あなたにとっては、あまりよいきょうだいではなかったようだが」
「…………」
灰姫には返す言葉がなかった。
「さて、屋敷に戻ろうか」
明晶は快活に笑ってそう言った。
屋敷では歓待を受けた。
明晶の祖父は皇帝と同じくらいの年頃であった。
明晶の祖母は灰姫のことを大層歓迎してくれた。
家族というものに縁遠かった灰姫にとってそれは初めてのことだらけの宴だった。
宴が終わると、明晶は灰姫に囁いた。
「灰姫殿、申し訳ないが、寝所をともにしてもらえるか」
「は、はい……」
灰姫は顔を赤らめて、うなずいた。
妃にと請われたのだ。そういう日がくることはわかっていたが、どうしたって緊張が勝る。
「さすがに部屋が足りなくてな。あなたと俺は一番警護の数も多いし、それなら同じ部屋の方が都合が良い。ああ、李燈、剣を返すよ」
「はっ」
明晶から剣を返され、李燈は腰に提げた。
「李燈も警護の数に入っているから、よろしく頼む」
「仰せのままに」
あばら家での生活と長旅の間で、李燈はすっかり明晶の兵のようになっていた。
それでも時折、灰姫と目を合わせたときに見せる微笑みは、かつての李燈のものだった。
用意された寝所にはふたつの布団が敷かれていた。
母国から連れてきた女官達が飾り立てた服を一気に剥ぎ取り、寝衣に着替えさせてくれた。
「それでは、おやすみ、灰姫殿」
「は、はい、おやすみなさいませ……」
明晶は床につくと、さっさと寝息を立ててしまった。
灰姫はなんだか拍子抜けした気分で布団に潜り込んだ。
翌朝にはもう新都明陽に向けて出立だった。
灰姫はまたしても服で着飾らされた。
項成はすっかり明晶の祖父母に懐いたようで、明晶の祖父の膝の上で別れを惜しんだ。
明晶の祖母は灰姫に豪華な簪を贈ってくれた。
「いつか、王太子殿下の妃になる方にお贈りしたく思っていたのです。生きている間に叶ってよかった」
恐縮して礼を言う灰姫に明晶の祖母はニコニコと笑いながら、そう言った。
新都明陽には半日でついた。
それでもずいぶんと時間がかかったはずだが、祖国から大済国首都の距離を思えば、そう遠くもなかった。
新都明陽は人がまばらであった。
しかし中央に立派な塀がめぐらされていた。
「これが王宮と後宮の塀だ。中身はまだまだ空っぽだが、皇后陛下と従妹が住んでいる」
「従妹……」
項成と同じくらいの年だったか。
「皇后陛下の妹の子だ。生まれると同時に母を亡くしたので、皇后陛下が引き取られた。私にとっては妹のようなものだな。あなたにも姉のように振る舞ってもらえたら嬉しい」
「努力します」
塀の向こうはまだ建物がほとんどできていなかった。
ただ中央に一つの宮殿があった。
「これが明央殿、後宮の中心になる予定だ」
「これが……」
「あなたの宮殿だ、灰姫殿、いや王太子妃」
「…………」
灰姫は重圧に身を震わせた。
明央殿では良皇后が彼らを待っていた。
椅子に腰掛けた皇后は皇帝と比べると若く見えた。四十くらいだろうか。
「お帰りなさいませ、明晶殿下」
「ただ今戻りました、皇后陛下」
明晶は皇帝からの手紙を皇后に手渡した。
皇后は手紙を読むと鼻を鳴らした。
「陛下は相変わらず明晶殿下に甘くていらっしゃる……」
「遅くに出来た子は可愛いと言いますからねえ」
明晶はにこにこと笑った。
「……黒猛国の姫君」
「は、はい」
「……以後よろしく」
「よろしくお願いいたします……」
灰姫は礼をした。
良皇后はそれ以上、特に何も言わなかった。
灰姫はすでに整えられた部屋に案内された。
「その内あなた好みに家具など入れ直してもらって構わない。今はこの部屋で我慢してくれ」
「……我慢、だなんて」
隙間風が入ってこない。屋根が破れていない。扉がガタつかない。窓が引っかからない。
「十分すぎます……」
「……好みの家具を、見つけるといい、灰姫殿」
明晶は少し寂しそうに笑った。
「あなたはそうしていいのだ。あなたには好きなものを増やしていってほしい。今まで与えられなかったものを、私は与えたいと思う」
「……ありがとうございます」
灰姫は身をすくめてお礼を言った。
「礼など要らないよ、灰姫殿」
明晶はそういうと、灰姫に背を向けた。
「では、俺は留守の間のことを官吏から聞いてくる。……ああ、そうだ」
明晶は顔をしかめた。
「あちらの後宮で育ったあなたは不安に思うかもしれないが、この後宮は男の官吏や兵が出入りしている。もちろん選りすぐりの信頼の置ける者達だが……何があってもいいように、李燈を常にそばにおつけください」
「は、はい」
身内以外の男とは縁遠い。灰姫は宦官と男は違う生き物だと教わって育った。
もちろん明晶も男なのだが、彼はするりと灰姫の内側に入ってきた。
まるで明晶がそこにいるのが当たり前のようになっていることに灰姫はようやく気付いた。
「大済国では宦官が廃止されて久しい。いささか不便を感じられるでしょうが……」
「慣れてゆきます」
「そうか。では、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさいませ」
明晶が去り、李燈と幾人の女官と部屋に残された。
「就寝の準備をいたしましょうか」
女官に声をかけられて、灰姫はうなずいた。
寝衣に着替えると、一気に旅の疲れが出たようで、力が抜けた。
灰姫は深い眠りに落ちた。