「お前はまるで灰の中から生まれてきたようだな」
 昔、疎ましげに父である黒猛(こくもう)国皇帝からそう言われたことを、灰姫(かいき)はよく覚えている。
 それが最初で最後の父との会話だった。
 いや、こちらから言葉を発することの許されなかった場を、会話と呼んでいいものだろうか。
 あのように灰姫の白髪をいまいましげに睨みつける父を父と呼んでもよいものだったのだろうか。
 とにかく、灰姫はその時に思ったのであった。
 ――それほど疎ましいのなら、産ませなければよかったものを。
 それはまだ灰姫が十になるかという頃のことだった。

 長い冬が終わった。灰姫は今年の春で十八になった。
 灰姫は後宮に暮らしている。
 父を皇帝に持つからには当然のことであるが、到底皇帝の実子にして、王太子の異母妹とは思えぬようなあばら家に住んでいた。
 後宮の一番隅っこにあるそのあばら家は、たまに警護の宦官が雨宿りをし、叱られた宮女がこっそり泣きに来るほどに、居住地とは思えぬ有様であった。
 しかし灰姫は気にせずにそんな宦官や宮女、そして女官たちに茶を出したりしていた。

「灰姫様は本当に姫君とは思えませんなあ」
 宦官のひとりで、よく灰姫のあばら家に入り浸っている李燈(りとう)は、厨係の宮女清月(せいげつ)が置いていった餅を食べながら、そう笑った。
 本を読んでいた宦官の高台(こうだい)が失礼を言うなと李燈の頭を軽くはたく。
「でも、俺は王族の中じゃ灰姫様がいちばん好きだ」
 李燈の言葉は屈託がなかった。宦官である以上、その好きは男女としての好きではない。人間として好き、そう言ってくれているのだと、灰姫はよくわかっていたし、それが嬉しかった。
「こんなお婆ちゃんみたいな白髪でも?」
 灰姫は自分の髪を指に巻き付けながら尋ねた。
「どこにいたって灰姫様だってわかるじゃありませんか」
 李燈はそう言ってお茶を飲み干し、立ち上がった。
「もしこの後宮に何かあっても、真っ先に駆けつけられますからね」
 そういうと李燈は剣を提げ、見回りに戻って行った。
「……ありがとう」
 灰姫は小さくそうつぶやいて、李燈の湯飲みを片付けた。

 灰姫の母はそれはそれは美しい人だった。
 しかし母の身分は宮女に過ぎず、皇帝に気まぐれで手を出されたものの、頭を飛び越えられた主人の妃嬪(ひひん)には疎まれた。
 ろくに産婆もつけられず、灰姫を生んだ。灰姫がこの世に生を受けたのは奇跡のようであったという。
 そんな母も灰姫が十の時に死に、妃嬪はこれ幸いと灰姫を自分の宮殿から追い出した。
 身一つで灰姫は、後宮の隅にうち捨てられていたあばら家に転がり込み、以来八年間、どうにか李燈や清月、高台のような変わり者の女官や宮女、宦官たちの助けを借りて、生きてきた。
 灰姫の生死など、皇帝である父も、王太子である異母兄も、気にしたこともないだろう。

 灰姫が唯一接触のある血縁は、あばら家に出入りしている女官の一人が仕えている景美人(けいびじん)の息子、項成(こうせい)だけだった。
 項成は皇帝の一番下の息子であり、まだ五つ、権力からはもっとも遠い。
 母である景美人はなんともおおらかな人で、冷遇されている灰姫と一人息子が交流することを、まったく気にしていない。
 それどころかたまに綺麗な着物やら(かんざし)やらを贈ってくれる。
 灰姫は景美人を勝手に第二の母と胸中で呼んでいた。

 その日、灰姫は遊びに来ていた女官の手で飾り立てられていた。
 景美人から贈られた長裾(ちょうくん)を履き、歩揺簪(ほようしん)で髪を飾り、女官の私物の化粧品で顔を整えれば、まるで自分がちゃんとした姫君のようにも見えた。
「お似合いですわ。灰姫様。これ、李燈にも見せてやりたい」
 女官がきゃあきゃあと黄色い声を上げる。
「景美人さまも喜びますわ。見せに参りましょうよ」
「……そう、そうねえ」
 鏡の中の自分に戸惑いながら、灰姫は迷う。
 こういう飾り立てるのは慣れない。
 しかしそんな灰姫にわざわざ贈り物をしてくれる景美人だ。この姿を見せればあの穏やかな微笑みで喜んでくれるのは間違いないだろう。
「……み、見せに行こうかなあ」
 そう灰姫がつぶやいた次の瞬間、怒号がどこからか聞こえてきた。
「あら、何かしら」
 女官が顔をしかめた。
 灰姫と女官が外を見やると、遠方に煙が立っているのが見えた。
「あらやだ、火事?」
 女官は口に手を当てて、続けた。
「……しかもあれ、王宮の方……?」
 灰姫はあばら家から極力出ないようにしていたから、あまり自分の住んでいるところの地理には明るくなかった。
「……お父様」
 大して愛おしくもない父が今日ばかりはさすがに心配であった。
 それでもすぐに鎮火するだろうと楽観視していたが、煙は徐々に増えていった。
 それもあちらこちらに。
 こうなってくるとこれはただの火事ではないと、灰姫も女官も気付き始めていた。
「……か、灰姫様はここにいらしてください。わたくし、様子を見て参りますから……」
 女官が震える声でそう言った。
「ダメよ、行ったらダメ。ダメな気がする」
 灰姫の予感はよく当たった。
 雨が降るから宦官が来るな、と湯を沸かせば必ず雨が降ったし、母の死の直前もそれを察知することができた。
「で、ですが……」
「あなたは景美人さまのところに戻って」
 灰姫は硬い表情でそう言った。まだ景美人の宮殿の方角には煙が立っていなかった。
「で、でしたら灰姫様もごいっしょに……」
「そう、そうね……でも、ご迷惑じゃ……」
「灰姫様を置いてきたなんて景美人さまに知られたら、そちらの方が怒られますわ」
「……わかった」
 女官の言葉にうなずいて、身一つであばら家を出たところで、駆けてきた李燈と行き会った。
「李燈!」
 少しホッとして灰姫はその名を呼ぶ。
「灰姫様……? ああ、お似合いです。そのお姿……」
 李燈はしばし灰姫の変わり身に驚いたが、すぐに表情を硬くした。
「灰姫様、王宮が攻め込まれています。隣国・大済国(たいせいこく)の者どもの奇襲です。逃げましょう」
「そ、そんな……」
 女官がへなへなと腰を抜かしてその場にしゃがみ込んだ。
 大済国といえば音に聞こえし大国だ。そんな国に攻め込まれれば、この国はひとたまりもないだろう。
「灰姫様、逃げましょう」
 そう言って李燈は灰姫の手を引いた。
「俺がお守りします。だからここから逃げましょう。今なら後宮から出ても誰も気にしません。バレません。一緒に逃げて逃げましょう……!」
「わ、私は……」
 灰姫は後宮に愛着などないはずだった。しかし今どうしても離れがたい自分がいるのに気づかずにはいられなかった。
 これはなんだろう。ただの怯えであろうか。
「……逃げましょう」
 李燈は辛抱強く続けた。
「俺に逃げる理由をください」
 灰姫はその言葉に弾かれたように足を進めた。逃げる理由。逃げても許される理由。姫君を連れて燃える後宮から避難した。
 その理由がなければ、李燈は持ち場を離れることは許されないのだ。
 李燈が炎にまかれて死ぬのは嫌だった。
 灰姫はもう一歩を踏み出す。女官もあとに続く。

 そこに、一人の女がさらに駆け込んできた。
「景美人さま!?」
 母のように思っている人は、灰姫に目を止めると抱きしめるように泣きついてきた。
「項成が連れて行かれてしまった!」
 悲鳴のような声を景美人は上げた。いつも穏やかな彼女とは到底同じ人に思えなかった。
「灰姫様は急いでお逃げください。隣国の者たちは皇帝の血筋を探しています。今はまだ追手はかかってないようだけど、誰がいつあなたのことを思い出すか……!」
 それを伝えにわざわざ来てくれたのだ。
 そう思うと灰姫の胸はいっぱいになった。
 そして五つの異母弟のことを思い出す。
 幼い項成。まだ五つの項成。王宮や後宮に火を放つような連中のすることだ。彼がどんな目に遭うか、そう思うと胸が痛んだ。
「……李燈、ごめんなさい。逃げられないわ」
「灰姫様!?」
 景美人が驚愕に目を見開く。
「項成様を助けに行きます。お願い李燈、付き合って」
「……はい」
 李燈は笑った。どこか引きつるような笑みで、強がっているのが一目でわかる。それでも李燈はうなずいてくれた。
「……こちらです。王族方は広場に集められていました」
 李燈が歩き出す。灰姫は景美人の顔を見上げた。
「景美人さまは隠れていらして。いつ相手の兵に無体を働かれるかわかりませんから」
「……灰姫様、いけないわ。いけません」
 景美人は灰姫を抱き締めた手を離そうとしなかった。
 灰姫はその手を振りほどき、李燈に続いた。

 緊張で、喉が渇いた。