霄妖宮の鬼火事件があって、宮女らの態度は変わった。鬼火が出ても守ってもらえるという信頼を得たのだろう。余所余所しかった寧明も星蔡と距離を近づけていった。

「他の妃に会えないかな?」

 寧明が茶を運んできたのを見計らって、星蔡が問う。二人の妃がいることは知っていたが名前も、どこの宮にいるのかもわからない。ならば寧明に聞いた方が早いと考えたのだ。

「後宮に残ってらっしゃるのは、関妃(かんひ)呉妃(ごひ)ですね。お会いになりたい旨、文をお出しすることもできますが……」

 そこで寧明は言葉を濁した。途切れた言葉の想像がついたので星蔡は苦笑する。
 霄妖宮では信を得たが、他の妃らはいまだに妖妃を恐れている。文を出したところで断られるのが容易に想像できた。
 できることならば一度顔を合わせたかった。思案に暮れていると、寧明がおずおずと口を開く。

「気分転換に北御苑(ほくごえん)へ出てみてはいかがでしょう」
「北御苑?」
「内廷にある風雅な苑でございます。いまは季がよく、花がたくさん咲いていると聞きました。妖妃様はここに籠もってばかりですので外に出てみてはいかがでしょう」

 確かに星蔡は宮に籠もってばかりだ。外に出るのもよいかもしれない。
 そして負屓(ふき)も北御苑が気になったようだ。風雅な場と聞いて興味を持ったのか、水盤からひょこりと頭を出している。


「みて! 花がたくさん!」

 北御苑に着くなり、負屓は首を長く伸してあちこちを眺めている。霄に花はなかったので、負屓はこういったものを見るのが初めてだろう。高揚しているのか宮女らがいるというのに声をあげるほどだ。

「この花はなに? あの花は?」
「これは海棠(かいどう)ね。あっちに見えるのは芍薬(しゃくやく)
「じゃあ、あれは?」
「あれは――」

 八仙花(はっせんか)だ、と答えようとしたが、それ以上の声はでなかった。
 八仙花の影から出てきた者は見覚えがある。嫌な記憶が掘り起こされ、体が固まった。喉の奥が締められたように苦しく、ひゅ、と嫌な音が鳴る。

 柿子色の襦裙を纏う宮女たち。その先頭に立つのは、煌びやかに着飾った()梨喬(りきょう)だった。
 寧明が耳打ちをする。

「妖妃様。あの方が呉妃です」
「梨喬が、呉妃……」

 柿子色は彼女に与えられた宮の色だろう。霄妖宮は紫羅藍の色と決まっている。このように宮女たちはそれぞれの宮色の襦裙を着る。
 梨喬はひときわ華やかだった。八年ぶりに会うが、簪や耳飾りに負けぬほどその美貌はより磨かれている。
 その梨喬がこちらを向いた。目を見開いていることから、星蔡がここにいることに驚いているのだろう。梨喬は宮女らを連れて、こちらにやってきた。

「妖妃があんただとは。死んだものだと思っていたのに、どうしてここにいるのかしら」

 汚いものを見るかのように、梨喬は星蔡を睨みつけている。星蔡はというと何も言い返せなくなっていた。手をぐっと握りしめて耐える。

「どうして生き延び、誰に取り入って妖妃になったのかわからないけれど、後宮はあんたに相応しくない場所よ。とっとと出て行きなさい」

 早口にまくし立てても梨喬の気は晴れないようで、そばにいた宮女に何かを命じた。宮女は駆け足でその場を離れていく。

「それとも妖妃になって陛下の寵を得て、呉家に復讐するつもり? やめておきなさいよ、あんたなんて愛されるわけがない。選ばれるとしたらわたしよ」
「わ、わたし、復讐するつもりは……」
「陛下だって醜い者を選ぶわけない。初めての夜を供にするのは、わたし以外にありえないの!」

 その言葉が引っかかった。

(初めて、ということは……陛下はいままでどの妃の元にもお渡りをしていない?)

 後世に血を残すことは皇帝にとって重要な仕事と言える。そのために陛下の元に美女が集められ、陛下はたくさんの妃を持つ。だが梨喬の口ぶりから察するに、陛下は妃を五人揃えておきながら、誰とも夜を供にしていないのだ。
 若き皇帝である奉遜は、いまだ子がいない。ここで子を授かれば、妃の地位は確立される。それが男児であればなおのこと。
 名門呉家を背負って入宮した梨喬としては奉遜の寵を得たいところだろう。その苛立ちが、星蔡にぶつけられているようだった。

 梨喬の宮女が戻ってきた。水をたっぷりと汲んだ桶と(しゃく)を持ってきている。おそらく北御苑の庭師が使っていたものだろう。
 梨喬はそれを受け取るなり、星蔡めがけて水を放った。

「あんたには、これがお似合いよ」

 ばしゃり、と水音が響く。避ける間はなく、星蔡の顔や裙は水をかぶるしかなかった。
 昔と同じである。呉家で虐げられていた日々がまざまざと蘇る。髪から滴りおちる水まで、あの日と変わらなかった。

「行くわよ。この奴婢と同じ空気を吸いたくないの」

 梨喬は桶と杓を放り捨てて、その場を去って行く。
 残された星蔡の元に、霄妖宮の宮女らが集う。呉妃からこのような仕打ちを受けると思っていなかったようで慌てている。

「妖妃様、大丈夫ですか」
「うん。これぐらい平気だよ」

 寧明と話していると、誰かがこちらにやってきた。奉遜だ。彼も花見に来ていたらしい。

「ひどくいじめられたものだな」
「こういうのは、慣れてますから」
「……昔と変わらないな」

 奉遜は苦笑していた。呉妃が、他の妃に対してひどい仕打ちをしたというのに彼はなぜか動じていない。それどころか()と語っている。星蔡は首を傾げた。

「わたし、陛下とどこかで会ったことがあります?」

 問うも奉遜は教えてはくれなかった。彼は手巾を取り出すと星蔡に渡し、遠くに止めた輿へ戻っていく。

「これより関妃の元に行く。私から話を通せば、関妃はお前を拒絶しないだろう」

 妖妃が恐れられていることを奉遜も知っていたのだ。皇帝自ら妖妃は害がないと話せば、関妃も会ってくれるだろう。
 配慮に感謝しつつ、奉遜を乗せた輿を見送る。彼が向かったのは関妃の宮、黄鷺(おうろ)(きゅう)だ。



 あたりが暗くなってきた頃だった。星蔡の腕輪が急に光りだす。見れば嘲風(ちょうふう)の宝玉が光っている。

『鬼火が見えた。艶黄色の服を着た人間たちがたくさんいる宮だ』
「艶黄……どこの宮だろう」
『わからぬ。東の方角だ。急ぎ火を消しにいくぞ』

 頷き、星蔡は立ち上がる。水盤の中で微睡(まどろ)んでいた負屓を起こして袖に入れると、すぐに外へ出た。


 霄妖宮より東へ近づくと焦げた匂いがする。騒ぎ声のする方へと向かうと、火元は容易に見つかった。黄鷺宮だ。嘲風が遠視した通り、艶黄の襦裙を着た宮女らが出ている。みな水桶を持って火を消そうとしているが、碧色の炎にはまったく効いていなかった。

「離れて! 鬼火はわたしが消す!」

 鬼火は拡大し、宮の内部まで至っているようだった。宮女の一人が、駆けつけた星蔡に気づきしがみつく。

「妖妃様、どうかお助けください。中に人が残っております」
「まさか、関妃も?」

 関妃らしき姿は見当たらない。宮の中に残っているのかもしれない。
 星蔡は急ぎ腕輪を撫でた。

「九竜は第九子、鴟吻(しふん)

 鴟吻もこの状況を把握しているらしく、すぐに竜魚の姿が浮かび上がる。

「お願い、この鬼火を消したいの」
『範囲が広いわね。鬼火を消す雨を呼ぶわ』

 鴟吻は空に向けて口を開き、水を吐き出す。その水は雨雲となって空を覆う。そして黄鷺宮全体に向けて雨が降りそそぐ。それは鬼火を消す雨だ。雨の勢いは増していく。

(関妃が、無事でありますように)

 火が消えるまで宮の中に入れない。突入する機を窺いあたりを見渡していると、何かが落ちていた。きらきらと光る黄金色の毛だ。人の髪にしては固く、獣の体毛に似ている。

(これは、あやかしの毛?)

 鴟吻が水を吐き出している間に、他の宝玉を撫でる。

「九竜は第五子、狻猊(さんげい)
『お、星蔡じゃん。何かあったか?』
「この毛を手がかりにして、鬼火を呼んだあやかしを調べられないかな」

 狻猊の宝玉の前に獣毛をかざして尋ねる。

『なんだそれ』
「落ちてたの。犯人の毛かなって」
『じゃ調べてやるよ。なんかわかったら教えてやる』

 狻猊は火と煙の妖術を得意とする。相反する水を用いる鴟吻とは相性が悪いが、同じ火を用いるあやかしとは気が合うようで顔が広い。鬼火を呼び出すあやかしはたくさんいるが、獣毛を足がかりに絞り込むことができるだろう。
 庭に面している部分は焼けているが、奥は無事のようだ。できることなら関妃が奥に逃げていればいい。それを願うしかない。