*
レッスンで用意される楽譜は年々音符が増えていった。複雑な指番号がなかなか覚えられなくなった。でたらめに指を動かすと先生に「だめでしょ」と何度も演奏を中断された。
片手ずつなら譜面の速さについていけるけど、先生のようなテンポではとても楽譜の全部を指に染みこませることはできなくなった。
今日も指がつっかえてピアノソナタを弾く手が止まった。
「みおちゃん、また良ければいつでも来てね。」
最後の月謝袋を渡す。
七年間続けたピアノのレッスンはこうして消化不良のまま終わった。
コートを羽織った私はレッスン室の重いドアを開け、「今までお世話になりました。」とお辞儀をした。
ピアノレッスンはいつもこんな感じで、細いビルのフロアにある防音のレッスン室で受けてきた。もうここに来ることはおそらくない。
廊下にはピアノの長椅子が壁際に置かれている。そこに次のレッスンを受ける生徒と保護者が待っているのだ。
ふと視線をそちらに向けると、椅子に座って、楽譜に顔を埋めて待っていたゆかりちゃんがいた。これもいつものことだ。
ゆかりちゃんは、私のいつもと違う挨拶に違和感を感じたのか、パッと顔を上げた。
遮るようにママがその前を通り、ゆかりちゃんのママに「どうも~」と話しかけに行った。
"あらあらどうも。ウチのみおにも、ゆかりちゃんの才能があれば、もっと続けていたんだけどねぇ。本選頑張ってくださいねぇ。"
"いえいえ、そんなことないわよ。ウチだって本選のために主人に有給取ってもらうし、お金カツカツなのよ。ドレスも新しいのがいいってわがまま言うし……"
そんなママ達の立ち話が繰り広げられる脇で、
「え、みおちゃんピアノ辞めちゃうの?」とゆかりちゃんが話してきた。
ゆかりちゃんは、学校ではグループが違うからあまり話さないけれど、毎週この時間に顔を合わす仲なので、決して仲は悪くない。ゆかりちゃんは、三年生のときのが合唱コンクールの伴奏をきちんとこなし、この小学五年生の冬のピアノコンクールでも初めての金賞を取って、本選を来週に控えていた。コツコツと努力のできる良い子だと、私はとても尊敬しているのだ。
「みおちゃん、他の先生にピアノ習うの?」
「ううん。ピアノは今日で最後。」
「なんで?もったいないよ」
「……塾に通わなくちゃだめになったんだ」
ゆかりちゃんはピアノコンクール以外の人前で決して習っているピアノを弾かない。仲良しの女子達にそそのかされた、内浜が電子オルガンを割ってしまったあの日のたった一回だけのことだった。
決して自慢しない。でも、めきめきとピアノの腕を上げている。毎週、練習を帰り際に聞いている私は、誰よりも知っていた。
「ゆかりちゃんなら、ぜったい優勝、保証する。応援してるね。」
「ありがとう。あっそろそろ行かなきゃ。また、学校でね。」
そう言い、ゆかりちゃんは、書き込みがいっぱいでボロボロになったショパンの楽譜を抱えてレッスン室に吸い込まれていった。