なんでも、この泉には神力を吸い取る力があるらしい。
かくりよへと流される間にその力の殆どを吸い取られた神は、以降何千年と高天原へ上がることは出来なくなるのだとか。
それほどまでに神力を失った神が、その後どうなるか。
信仰される神ならば、地道に神力を回復して、やがては高天原へ帰ることも可能だろう。しかし信仰もない神は消滅の一途を辿るしかない。
天利は言っていた。
罪を犯すほどの愚者は、往々にして人から見放された神々だと。
「マヨイ、オイデ」
ならばなぜ、この中から声が聞こえるのか?
それを冷静に考えられるほどの理はもう残っていなかった。
本来ならば〝罪〟を犯したものにしか反応しないはずの結界が、『なにもしていないはずの』真宵を受け入れた──その意味すら考えられなかった。
けれど、ただひとつだけ。
この中に落ちてはいけない。
それだけが、その恐怖だけが、かろうじて真宵の足を押しとどめる。
──しかし。
「ホラ、オイデ……!」
腕につけていた鉱麗珠のブレスレットが、語りかけてくる音に呼応するように強く光った。そのままブレスレットごと泉へ強制的に引き寄せられる。
まずいと思う暇もなかった。
抗いきれなかった真宵の体がぐらりと倒れる。
そのまま泉の中へ引きずりこまれた真宵は、ゴボッと肺から空気を吐き出した。
勢いよく体内に流れ込んでくる水。
急激に力を無くしていく体。
──元来、人である真宵に神力はない。
だが神聖な高天原を包み支える自然の神力は、長くここで暮らしてきた真宵に多大な影響を及ぼしている。
体内には少なからず神力を溜め込んでいるし、それは真宵にとって命の綱そのもの。言葉通り、神力がなければ真宵は生きられない。
なぜなら、真宵の魂はその神力によって無理やり体に縫い留められているに過ぎないからだ。
これまでは天利の加護がそれを助けていた。けれど加護がなくなったことで、真宵の体内からは今、時と共に神力がすり減っている状態にある。
そうして完全に尽きたその時、訪れるのは〝死〟だ。
だから真宵は、生きるために神々と結婚して加護を得なければならなかった。
しかしこの場合──もっと前提的にまずい。
もしもここで全て神力が吸い取られなかったとしても、行き先はかくりよだ。
真宵はこの高天原から出られないのだ。出れば元来『ここにあるはずのない』魂が剥がれてしまうから。魂が剥がれた体などただの抜け殻。つまり死に等しい。
妖にとっては桃源郷であるそこも、真宵にとっては冥界なのである。
(……あ、私、死ぬんだ)
唐突にそれを理解した。理解して、少しだけ笑ってしまった。
その瞬間、最初に頭に浮かんだ顔が、冴霧だったから。
ゆっくりと重たい瞼を薄く上げて、青白く揺らめく視界でぼんやりと思い出す。
冴霧に出会ったのは、いつだったのだろう。
初対面の記憶も辿れないくらい幼い頃から、冴霧は真宵の傍にいた。傍で何かと真宵の世話を焼いてくれていた。
天利と同じくらい、彼は真宵の人生の中で欠かせない存在だった。
家族のような感覚はあれど、親でも兄でもない。冴霧はいつだって冴霧としてそこにいた。
ああでも、本当はどこかで気づいていたのかもしれない。
(死にかけていた私を救ってくれたのは……きっと冴霧様なんでしょう)
口から零れる空気の泡が徐々に減っていく。その間もどんどん水底へ沈んでいく体には、もう微塵の力も入らなかった。
神力が尽きるまでは時間の問題だろう。
(あなたは、最期までなにも話してくれなかったけれど)
──真宵は【神隠し】の子だった。
赤子の頃、事故で死にかけた真宵を救うために、とある神が高天原に連れ帰ったらしい。
とある神、とは天利ではない。親として育ててくれたのは彼女だが、それは自分ではないと言っていた。ならば、はたして誰なのか。
考えてみれば、簡単なことだった。
真宵が幼い頃から深く関わりのある神は、冴霧しかいない。
位の高い大神である彼が、あやうく禁忌に触れかねない行為に及んでまで人の子を救ったのは、一重に真宵が【清めの巫女】だからだろう。
救うほどの価値があったから、それが神々の総意だったからに過ぎない。
ああ、もしかしたらそれを真宵へ伝えるのが憚れて言わなかったのか。
だけど、理由なんて些細な事だ。
仮にその神様が冴霧でなくたって構わない。
なにが真実であったとしても、冴霧が特別であることは変わらないのだ。
(……やっぱり私、馬鹿だなぁ)
いつだって真宵の視線の先には、冴霧がいた。
そう、たぶん、初恋だった。
よもやこんな場所で自覚して、想いを告げることもなく逝くことになるとは思わなかったが、まあある意味良かったのかもしれないな、とも思う。
どうせもう長くない命だった。
覚悟はとうに出来ている。
まさかの結末で最期に冴霧に会えなかったのは悔やまれるけれど、それはそれで後腐れなく──。
なんて。
(あぁ、やだ。冴霧様に会いたい……っ)
ひと際大きな泡を吐き出しながら、真宵はきゅっと眉根を寄せた。
沈んでゆく力の入らない体を捻り、どうにか反転させて、遠のいていく泉の入口へ手を伸ばす。
(冴霧様……──!)
ごぼり、ごぼり、口からこぼれる空気がとうとうなくなった。
頭の深い部分に濃い霧がかかり、意識が朦朧とし始める。
泉のせいか涙のせいか、ひどく霞む視界が鬱陶しくて体を縮こませるけれど、体はどんどん重くなってゆく。
……これはもう、ダメかもしれない。
いよいよ本格的に死を覚悟した、その刹那。
ぼしゃん!と、水面が激しく波打った。
おびただしい量の水泡が浮き上がる中、儚い神秘の光を纏いながら、まるで泳ぐように月の光のような白銀が舞う。
(……うそ)
その瞳と目が合った瞬間、強く腰を引かれた真宵は一息に口を塞がれていた。
口付けされたのだと理解する間もなく、大量の空気と共に溢れんばかりの神力が流れ込んでくる。
意識が縁取られるように戻るのを感じながら、真宵は目を見開いた。
(冴霧、様……?)
その時、ふたたび凛とした声が響く。
『俺の花嫁に手を出すとは……──よほど殺されたいらしいな』
夢の声ではない。
正真正銘、冴霧の声だ。
真宵を腕の中に抱き込みながら、冴霧は泉の底に向かって静かに手を伸ばした。その瞳に光はない。
そこにあるのは、ただただ猛烈な怒りだった。
『ならば、お望み通りにしてやろう』
触れただけで全てを凍りつかせてしまうような声に反応するように、バチンッと音を立てて真宵の腕についていたブレスレットが弾け飛んだ。
同時に真宵は、体から何かぬめついたものが抜け出たような感覚を覚える。
『ぐぁぁぁぁああぁぁぁあ!』
頭の中に獰猛な唸り声が響き、思わずぎゅっと冴霧に抱きついた。
それをしっかりと片腕で抱き返しながら、冴霧は何も見えない水底に向かって言い放つ。
『──……罪を背負いし愚かなモノよ。無に還れ』
その瞬間、水中にさまよっていた鉱麗珠が全て砂のように崩れ落ちた。
それを見届けることなく冴霧と真宵は勢いよく浮上し、ザバリと音を立てて泉から飛び出す。
「お嬢っ! 主はんっ!」
「ご無事ですか!?」
ひどく焦燥交じりの声が耳に届いた。
一拍遅れて、それが赤羅と蒼爾のものだと認識した時には、手を伸ばしたふたりに力づくで引っ張りあげられる。
思いのほか勢いがついていたのか、真宵は冴霧の腕から離れて赤羅の腕の中に飛び込んだ。
「ゲホッゲホゲホゲホッ」
「ま、真宵さまっ……!」
顔面蒼白で駆け寄ってきた白火。
水を吐き出す真宵におろおろしているのが横目に見えたけれど、大量に水を飲んでしまっていた真宵はそれどころじゃない。
尋常でないくらい苦しい。
肺が圧迫されて今にも喉が擦り切れそうだ。
誰か助けて、と涙を滲ませた直後、傍らから「貸せ」と低い声が響いた。
それが冴霧のものだと認識すると同時、ぐっと抱き上げられる。
「吐け」
言いながら冴霧は真宵をうつ伏せに抱えると、思いきり背中を叩いてきた。
「ゲホッ……ゴホッゴホッ」
その反動で体内に残っていた水が全て吐き出される。
内臓が丸ごとひっくり返ったかと思った。鼻の奥がツンと痛んで、さすがに涙が零れ落ちる。
(あ、荒療治……!!)
あまりの苦しさに真宵はぐったりと脱力した。
気管がやられてしまったのか、上手く酸素が入ってこない。
ああもう嫌だ。なんでこんなことに。
わけがわからないまま、今にも途切れそうな程か細い呼吸を繰り返していたら、仰向けに抱き直される。
開けた視界に全身びしょ濡れの冴霧が写った。
「……大丈夫だ。ゆっくり呼吸しろ、真宵」
「さ、ぎりさ……ま……」
「いい、喋るな。体力を温存しておけ。死ぬぞ」
今しがた助けられたばかりなのにまだ死ぬのか。もう最近そればっかりだな。そう思いながらも意識はずぶずぶと沈んでいく。
真宵は耐えきれず瞼を下ろした。
「真宵さまっ!?」
「お嬢っ! しっかりせんか、コラ!」
白火と赤羅の焦った声が耳に届くが、答えられるほどの気力も体力もない。
しかしそんなふたりを遮るように、真宵を抱えたまま冴霧が立ち上がる。
「──蒼爾」
「はい」
「奴の正体を探れ。消し飛ばしたから実体はもうねえ。身元だけわかりゃいい」
蒼爾が息を呑む。
「……承知しました。しかし主、お身体は──」
「俺のことは気にすんな。こんくらい大して問題ねぇよ」
冴霧が歩き出したのか、体が揺れた。
ふわりと菊の花の香りが鼻腔を掠めて──しかしそこに混ざりこんだ違和感のある気配に、真宵は薄目を開けた。
冴霧とふたたび目が合う。
怒り混じりながらも、先ほどとはどこか異なる酷く悲しげな色を宿した瞳。
そうわかりやすい憂いを向けられると、さすがの真宵も心細くなってしまう。
(あなたに、そんな顔してほしくないのに……)
冴霧の冷たい指先が滑るように頬を撫でる。そのまま顔が近づいて、額にそっと唇が落とされた。
その瞬間、急速に意識が沈んでいく。
「今は眠れ、真宵」
待って、と声を発する間もなかった。
「──おまえだけは、絶対に逝かせねえ」
意識が途切れる寸前、なんだかとても思い詰めているような声が聞こえた気がしたのは、はたして幻聴か……それとも。
◇
重ならぬ縁
◇
「──……まさかおまえから依頼を受ける日が来るとはな」
爽やかな金髪を靡かせながら、端麗な男が腕を組んで現れる。
若竹柄の羽織が風に揺れ、いつにも増して妖艶な銀色の瞳が冴霧をとらえた。
場所は天照御殿の前。
待ち合わせにはもってこいな高天原一の有名所だ。
「俺もまさかこんなことを頼む日が来るたぁ思ってなかったぜ、翡翠」
冴霧はふんと鼻を鳴らしながら彼を迎えた。
とはいっても、つい数刻前まで顔を合わせていた相手である。
腐れ縁で、立場は違えどそれなりに関わりは深い。人の子ならば『親友』とでも称するのだろうか。
なんにしろ、冴霧にとっては数少ない友と呼べる相手だ。
「それで? 急を要するというから何もかも放り出してきたんだが」
「急も急だ。むしろ遅せぇぐらいだよ」
「無茶を言うな。官僚会議の途中で飛び出していったのはどこのどいつだ? 俺が庇ってやらんかったら、おまえ今ごろ神楽の野郎にペナルティを課せられてたぞ」
生理的に受け付けない嫌な名前が飛び出してきて、思わず顔を歪める。
やや投げやりに「その名前を出すな」と悪態をつきながら、粟立つ肌を摩った。
そんな冴霧を呆れたように見遣りながら、奴はひょいっと肩を竦める。
男の名は翡翠。
かくりよの統隠局に所属する官僚のひとりだ。
官僚としては冴霧と同期で、神としてはどちらが長いか微妙なところだろうか。
知り合ったのは──さて、いつだったか?
(忘れたな。官僚になるずっと昔だったような気はするが)
翡翠は地上で縁結びの神として信仰の深い神である。
正確には縁結びではなく、縁そのものを司る神だが、神界でもそれなりに名を馳せている大神だ。
官僚業と神業の傍らで、かくりよでは『よろず屋』を冠とした何でも屋を経営しており、神々の間では変わり者として知られていた。
まぁ変わり者同士、嫌味なもので何かと気が合う。最近は互いに多忙を極め
ているためご無沙汰ではあるが、時間が合えばたまに晩酌をする仲だった。
「──……それにおまえ、この短時間で何があった?」
冴霧の無様な成りを見ながら、翡翠が怪訝そうに眉間に皺を寄せる。
「なんだその神力の薄さと髪は。短時間で黒蝕が進みすぎだろう。いったい何をどうしたらそうなるんだ。まさか消えるつもりか? 自傷行為は感心しないな」
捲し立てるように言われ、自然と冴霧の口からは舌打ちが漏れる。
「んなわけあるか、アホ。細けえ話はまた後だ。今は俺なんかより急患がいる」
「急患?」
来い。
そう一言発して冴霧は踵を返すと同時、地面を蹴った。
ふわりと体が浮き、勢いよく上昇する。
神にしろ怪にしろ、それなりに──大神や大妖と呼ばれる者たちならば、力を持って空を飛ぶことが出来るのだ。
無駄に敷地面積が広い天照御殿は飛んで渡った方が断然早い。
(ああ、そういや……)
昔、真宵がどうして自分は飛べないのかとぐずったことがあった。
そりゃあ人の子だからな、と答えた冴霧に、真宵はならなぜ自分は神様じゃないのか、と聞いてきて返答に窮したものである。
人の子は本当に好奇心が強い。
(……今も思ってるんだろうな。なぜ自分は神じゃないのかって)
遅れることなく付いてきた翡翠を一瞥し、冴霧は離れの玄関先に降り立った。
乱暴に玄関の扉を開けて、足早に寝室へ向かう。
律儀に「邪魔するぞ」と言いながら部屋に入ってきた翡翠は、室内の様子を見るなり目を見張った。
「……ほう? こりゃまた、思っていたよりも大事だな」
褥に寝かされているのは真宵だ。
そんな真宵に縋り付くように子狐姿の白火が声を上げて泣いており、傍に控える赤羅も悲愴な面持ちで顔を俯けている。
まるで葬式のような雰囲気だが、まだ真宵は死んでいない。ちゃんと呼吸をしているし、心臓だって動いている。
正直かろうじて、ではあるが。
「先刻、俺の真宵に手を出した奴がいてな。例の泉に引きずり込まれた」
「なんだって? まさか流獄泉か?」
「あぁ」
翡翠はぎょっとしたように目を剥いた後、冴霧を頭の先から爪先まで食い入るように見つめた。
そして全てを察したのか、苦虫を噛み潰したような顔で深く息を吐いた。
「……消したのか」
「ったりめぇだろ」
冴霧は吐き捨てるように答える。