穢れは深まれば深まるほど神力を喰い荒らす。蝕んでいく。よってその身が穢れたぶん神力は比例して弱まり、結果的に神としての存在が霞んでいく。
天照大神ほどの名の知れた大神ともなれば、万が一にも信仰が途絶えることはないけれど、神である限りこの穢れからはどうしたって逃れられない。
ゆえに神々は、願いを聞き届けて失った神力を蓄えるため、そしてなにより穢れを祓うため、定期的に清められた場所で眠りにつくのだそう。
そのスパンは神々の格によりけりだが、大神は基本的に数千年に一度。
──眠る期間は、千年。
「私はね、これでも怒ってるんだよ」
「怒ってる……真宵さまを置いて眠ってしまったことを、ですか?」
「ううん。いや、もちろんそれもあるけど……そうじゃなくて」
千年なんて、真宵にとっては想像も出来ないほど長い時だ。けれど、実質的に寿命を持たない神々にとっては、ほんの一瞬にしか過ぎない時間なのだろう。
しかも大神ほど眠ることに抵抗がないのだと、前に冴霧から聞いたことがある。眠っている間に、信仰がなくなって存在が消えるという心配がないから。
確かに天利もそうだった。
ちょっとコンビニ行ってくるわ、みたいなノリで眠ってしまった。
それに関してはもはや仕方がないというか、人と神ではどうしたって価値観が異なる部分はある。
たとえ高天原で育っても、やはり真宵は『人の子』なのだ。異質なのは真宵の方で、立場を弁えず神々の仕組みに口を出すほど愚かではない。
ならばなにに真宵が怒っているのかというと──。
「私には穢れを祓う力がある。それは白火も知ってるよね?」
「はい」
「じゃあなんでかか様は、私に頼って契りを交わさなかったと思う?」
白火はぎゅっと両の手で拳を作り、言いにくそうに顔を俯けた。
「──それは……人は一度しか神と契れないから?」
正解、と真宵は微笑んで白火の頭を撫でた。
「そう。……その〝一度〟を消費しないために、かか様は重要なことを私に言わなかった。本当に眠る寸前までね。私がこれ聞いたの前日の夜だし」
契りには、いくつか種類がある。
ひとつは主従関係のように、いくつかの制約の元で交わされるギブアンドテイクな契りだ。
人間が式神を使役したりする時にも用いられるもので、これに関してはとくに回数制限はない。
ここでいう契りは──【魂の契り】のことを指す。
「さあここでもう一つ問題です。人と神が魂の契りを交わすのはどんな時だ?」
「え、えと……?」
白火が小首を傾げる。さすがにこれは知らないらしい。
「──正解は『婚姻』。結婚するときだよ」
ただの人の子と神が契る。それは魂の一部分を神へ受け渡す行為に等しい。
女神との契りの場合、名目上『婚姻』とはならないだろうけれど、行為自体は同じこと。
要約すれば、人と神が結婚するには【魂の契り】が必須なのである。
ゆえに一度きりしか許されない契りの制約がある限り、決して使い時を失敗してはならないものであるわけで。
「つまりかか様は、私が誰かと『結婚』するために契りを交わさなかったんだよね」
「……誰かって、」
「うん。なぜか冴霧様に限定されちゃってるけど」
否──真宵との結婚を望む神々が他にいないわけではない。
むしろ引く手あまた。
次から次へと恋文が届くので、もはや専用の部屋を作ってしまったくらいには、ひっきりなしに数多くの神々からプロポーズされている。
ただし、そこに『愛』はない。
神ともあろうものが、ただの人の子を娶ろうとするのは、相応の理由があるのだ。
「でも、でも、真宵さま。冴霧様はああ見えて天利様に並ぶほどの大神様ですし、真宵さまのお力は必要ないのではないですか?」
「そうだね。私がいなくたって穢れがたまれば眠れば良いだけだもん。神様にとっては千年なんてお昼寝くらいの感覚みたいだし」
真宵と契った神の利点はただひとつ。
──魂を介して無条件に穢れを祓い、清め続けられることだ。
これにより神は眠る必要がなくなる。どんなに穢れを負ってもすぐさま祓われるため、穢れによる迫害を気にすることなく力を振るうことが可能になる。
神々にとっては喉から手が出るほど欲しいものだろう。とりわけ眠っている間に存在が消えるリスクが高い──力の弱い、信仰の薄い神ほど真宵を欲する。
だが冴霧ほどの大神にとっては、この程度大したキャプションではない。
「なら、なぜ天利様は冴霧様を許嫁に……?」
「ね、わからないでしょう。私もさっぱりわからない」
契りを交わさずとも『儀式』は出来る。
けれど神が負う穢れは重く、儀式は必ず本式でなければならない。霊力消費の激しいそれを、何度も行うのは不可能だ。
だから天利は、自分も含め、絶対に神々へこの力を使わせなかった。
(……今となっては、使ったら死ぬらしいしね)
なんでも真宵の体は、霊力を使い過ぎるとだめになるのだとか。実際にこの危機に襲われるまでまさかそんな冗談と思っていたけれど、どうやら本当らしい。
現在進行形で、霊力を消費した後は『死』を予感する。
こうなったのは天利が眠った後からだが、その辺りの事情は説明してもらっていないので原因は不明。ああもう、本当にわからないことばかりで嫌になる。
まあ、それゆえに神々には【魂の契り】という選択しか残されていないのだ。
ただ、それだけ。
その為だけに、数多くの神々が真宵を堕とそうと決死になっている……らしい。
届く文は開くことなく処理部屋送り。なにか事件が起こった時は天利がすべて処理してくれていたから、正直言って真宵は詳しく知らないのだけれど。
(──にしても、やっぱり冴霧様には関係ない)
ならばなぜ、あれほどまでに冴霧は真宵を求めるのか。
大神である以上、真宵に縛られる必要はないのに。
(たぶん……そこに私の知らない『なにか』があるんだろうな)
真宵はずきずきと痛む頭を振って、どこまでも沈んでいきそうな思考を掻き消す。
これは考えだしたらキリがないことだ。現時点で答えがない。
「ただ真宵さまが心配だから、という可能性はありませんか?」
うーん、と真宵は苦笑した。
純粋無垢な瞳で問われると一概に否定もしにくいというものだが、正直、納得はしづらい。なんといっても相手はあの冴霧だ。
「冴霧様は淡々としたお方だからなぁ……」
耳元で囁かれた言葉が脳裏に過ぎる。
『──おまえ、死にてえのか』
あれは脅しでもなんでもない。ただの事実だ。
神様と結婚しなければ、真宵は死ぬ。
なぜなら、真宵は天照大神からの加護を受けて生きていた存在だから。
それは、真宵が人の子でありながら高天原にいる理由そのもの。
天利が眠ってしまった以上、支えを失った真宵の体は、他の神々と魂の契りを交わさなければ生きられない──そんな運命のもとにある。残酷なことに。
真宵がそれを聞いたのは、天利が眠る前日の夜だった。
(かか様は私に神力を使い過ぎたから眠らなくちゃいけなくなった。それを悟らせないために言わなかったんだろうけど……)
だとしても、あんまりだと思う。
自分のせいで犠牲になっていた天利。
それが露見した途端に眠ってしまうのだから、結局、文句も感謝も言えずじまいだ。
最高神の『休眠』は高天原全体に影響する。この事情がどれほど知れ渡っているのかは定かではないけれど、すべての神々に申し訳なくて、もはや立つ瀬がない。
生きられないのなら、いっそこのまま──。
そういう気持ちが拭えないのは、こういった背景があるからだ。
冴霧の求婚を受け入れられないのは、他にも明確な理由があるけれど。
「どちらにしても、今の状態じゃ先には進めないよね」
加護がなくなった状態の真宵が生きられる期間は、最大で二年くらいだろうと言われている。天利が眠ってから、もうすでに半年。
本当にその通りならば、残り時間は一年半。
(……でもたぶん、そんなに残ってない)
真宵はここ半年の間、定期的にこの儀式を行っているため、霊力の消耗が著しく激しい。
いくら縮小版とはいえ、少なからず霊力は流れ出るし、体にも相応の負担がかかる。
おそらく直接的に〝生きられる時間〟を削っている状態だ。
「冴霧様が私を求める本当の理由が知りたいの。なんのメリットもなしに『許嫁』を受けいれたとも思えないし。……それ以前に、何か隠してることがあるもの」
「そう、なのですか?」
「うん、ただの勘だけど。ほら、あの方は裏表が激しすぎるから」
契りを交わせば真宵は生き長らえることが出来る。
刻一刻と死が迫る今、もう猶予はない。
だがどうしても踏み込めないのは、冴霧がなにも打ちあけてくれないからだ。
何か重要なことを隠しているのは火を見るよりも明らかなのに、彼は決して真宵にそれを言わない。素振りすら見せない。だから、どうしても信じられない。
冴霧との付き合いはもう記憶がないほど幼い頃からだが、なかなかどうして、ふたりを隔てる壁を壊すことが出来ないのである。
「……困っちゃうよねえ」
向こうにその気がないのなら、真宵だって受け入れられない。
真宵がいくら冴霧に想いを寄せていても、そんな一方通行な結婚をするくらいなら、いっそなんの想いも抱いていない相手と結婚した方がまだマシだ。
まあ絶対、しないけど。
「真宵さま……」
「ふふ、でも面白いでしょう? 私の体から神力が尽きて限界を迎えるか、かか様が煩さに耐えかねて起きてくるか、知らない人と結婚するか、冴霧様に無理やり娶られるか──笑っちゃうくらいイタチごっこで」
ああ、いやだ。なんで私は人間なんだろう──。
もう何度思ったか分からない言葉を胸の内で繰り返して、真宵は立ち上がった。
「さてと、帰って夕飯にしよう」
「っ……は、はい」
いっそ、自ら全てを捨ててしまおうか。なんて、一瞬闇深い考えが浮かんだことに自嘲しながら、真宵はゆっくりと天岩戸に背を向けた。
「ねえ白火、今日は白火の好きなお稲荷さんにしようか」
◇
夜の静寂に惑いしモノ
◇
「真宵さま、眠れないのです?」
褥の中で落ち着きなくもぞもぞと動いていると、腕の中で毛玉のように丸まっていた白火が遠慮がちに声をかけてきた。
鬱陶しかったかなと申し訳なく思いながら、真宵は唸るように「うぅん」と曖昧な返事をする。
子狐姿の白火をぎゅっと抱きよせながら、真宵は微塵の遠慮もなく柔らかいお腹に顔を埋めた。
温かい。これぞ天然湯たんぽだ。真夏は暑いけど。
「もふもふ……この絶妙なふわふわもちもち感が最高……」
そんな失礼なことを口走ると、白火が微妙な顔をした──ような気がした。
丸々した毛玉の状態になると、表情の変化がなかなかわかりづらい。
「大丈夫。白火がいればそのうち寝れるよ」
「……ならどうぞぼくでモフッてください、存分に」
「うふふ」
夜に眠れないのは今に始まったことではない。もともと寝つきは良くない方だ。
最近は変な夢を見ることが多くて、なおのこと眠りが浅くなっているけれど。
「ねえ、白火。私がいなくなったら寂しい?」
びくりと白火が体を震わせる。
「やめてくださいってば、そういうの!」
「怒った。でも白火だって覚悟はしててくれなきゃ」
抱きしめていた腕の力を緩めると同時、白火がぐっと言葉を詰まらせた。
「……嫌、なんです。考えたくないんです」
「うーん、その気持ちはわかるけど……」
「ぼくは天利様に、生涯真宵さまの従者として心身ともにお仕えするよう命じられたんです。そのために生まれたと言っても過言ではありません。主命すなわち存在意義ですから、真宵さまを失うのは、ぼくが消えるということと同義ですよ」
(とはいっても、ねえ……)
確かに白火は、天利から生みだされた瞬間『おまえの主は真宵だよ』と命じられていた。その時のことは真宵も昨日のことのように覚えている。
あれは十三歳の誕生日。年頃を迎える真宵の世話役として贈られた子だった。
物ではなく『従者』というあたりが、なんとも天利らしい。
そこから六年、真宵と白火はどんな時も一緒だ。
時に弟のようで、時に子どものようで、だけどもやっぱり忠実なる従者で──今となってはれっきとした家族の一員。
そんな白火だからこそ、真宵は心配だった。
「……あのね、白火のことセッちゃんたちに相談してみようと思うんだけど」
「は!?」
「うん、ごめん。絶対嫌がる気はしてたけど、主としては今後のことも責任持って考えないといけないじゃない? 白火はそう言うけど、実際消えないし」
ぶわわわっ!と全身の毛をこれでもかと逆立たせた白火。
瞬く間に大粒の涙をためて真宵の腕を脱兎の勢いで抜け出したかと思えば、部屋の隅で丸くなった。
「そんなこと言う真宵さまなんか、キライですっ!!」
おや、嫌われてしまった。もう何度聞いたセリフかわからないけど。
おまんじゅうみたい、なんてこの期に及んで失礼極まりないことを考えながら、真宵は苦笑する。これが世に言う、親の心子知らずというやつか。
こんな感じだからこそ心配になるのだが、本人にはまだ伝わらないらしい。
明日機嫌が直っていることを願いながら、真宵はひとり布団を被り直す。
いくら神使とはいえ、内面六歳の子狐の安泰した今後を考えれば、やはり信用出来る相手に頼むしかないだろう。さすがに千年ひとりにはしておけない。
しかしそうなると、必然的に冴霧とも会わなければならなくなってしまう。
この旨を伝えたら彼はなんと言うだろう。またろくでもねえとため息交じりに呆れられるか、もしかしたらそろそろ諦めるかもしれない。
そう考えながら真宵は目を瞑る。
誘われるように夢の世界へと沈んでいく最中、腕の中にもふもふが潜りこんできたような気がした。