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体が固くて冷たい床に横たわっている。意識を取り戻した花彌子は、その染み入る冷たさから、自分が右半身を下にして横たえられていることが分かった。腕は背中で縛られており、動かすことができない。足も同様で、逃すつもりがないことが伝わってきた。
目隠しが外されているのをいいことに、細く目を開ける。初めに目に入ったのはパイプ椅子。そこに男が座っていた。
脱色した髪に、酷薄そうな顔つき。耳には異様な数のピアスがつけられている。椅子の上で組まれた足は長く、鍛えているのか体格がいい。黒っぽいシャツに、これまた黒のズボンに身を包んでいる。年齢は二十代半ばだろうか。花彌子には見覚えのない男だった。
その閉じられた目が開けられる。鋭い光を宿した三白眼と、目が合った。
まずい、と瞼を下ろすがもう遅い。男は立ち上がり、花彌子の近くまで歩いてきた。そのまま彼女の三つ編みを引っ張り、頭を上げさせる。
「──お目覚めかァ?」
低い声に、花彌子は身を竦める。目を閉じたままでいると、乱暴に地面に叩きつけられた。
「意識が戻ってんのは分かってるんだよ。さっさと起きろ」
訳の分からない状況で、ひっと息を呑む。恐る恐る目を開け、辺りを見渡した。
そこはビルの空き室のようだった。何かの事務所だったようで、埃を被った机やパーテーションが打ち捨てられている。窓から見える景色は地上から高く、月明かりが差し込んでいた。どうやら攫われてから随分と時間が経っているらしい。部屋の隅の方に段ボール箱が積まれていた。床はコンクリートだ。所々に、黒っぽい染みが付着している。
「な、なんですか……?」
喉から出たのは、情けないほど掠れた声だった。男を見上げる。座っているときには分からなかったがかなり背が高い。見下ろされると威圧感があり、それを男自身もよく理解しているようだった。
「なんですかじゃねえよ」
吐き捨てるように言って、花彌子の腹に蹴りを入れる。息が詰まり、呻いているところにさらに背中を踏みつけられる。恐怖で頭が真っ白になった。ガタガタと震え、頬に押し付けられた床の固さも分からない。
石のようなものが目と鼻の先に転がっていた。よく目を凝らすと、それは人間の歯だった。床に染み込んだ黒い汚れが何か、肌身で直感した。
男が彼女の胸ぐらを掴んだ。セーラー服の胸元のボタンがぶちぶちと音を立てて外れる。男の凄まじい形相が至近にあり、花彌子は顔を背けた。
「お前、唯人に何しやがった」
それは思いもよらない問いだった。花彌子は唖然として男を見つめる。見開かれた三白眼。その瞳は、晴れ渡った青空の色をしていた。
「答えろ」
「あ、あの」
「お前が殺したんだろ」
男の顔が歪む。静かな響きだった。けれど裏に流れる激情を抑えた、震える声だった。
「答えろよ。誰が唯人を殺したってんだよ」
怒りに任せて花彌子の体を地面に投げつける。強かに背中を打ちつけながら、花彌子は声をあげた。
「わ、私じゃない」
「ハァ? てめえ第一発見者だろ。唯人を殺して、何とでもできるだろ」
「違う。私は第一発見者だけど、殺していない。大体、警察は自殺だって……」
男の目が見開かれる。瞳孔が完全に開き切っている。男は拳を振り上げ、打ち下ろした。
「唯人が自殺なんかするわけねえだろ!!」
男の拳は花彌子の顔の横に振り下ろされた。冷たいコンクリートが指の関節の皮膚を削り取り、わずかに出血している。
意思の疎通が図れない男の言葉の中で、それは奇しくも、初めて同意できるものだった。
花彌子はゆっくりと身を起こす。拳を打ちつけたまま震えている男に声をかける。
「……ええ。それは、私もそう思います」
男が花彌子に顔を向けた。彼の瞳に初めて映ったと花彌子は思った。
「なら、犯人は誰だ。お前じゃねえってんなら証明しろ」
地を這うような響きだった。そんな申し出、普段の花彌子なら首を横に振っていた。
けれど彼女はあまりに疲れていた。朝から初恋の人の死体を発見し、刑事には軽くあしらわれ、訳の分からない男に暴力をふるわれた一日だった。それはもう、取り繕うのが面倒なほどに疲れきっていた。
それに何より、花彌子は怒っていた。
「……私が、唯人くんを殺すはずがないのに。私は唯人くんのことが好きで、初恋で、だから殺すなんてことできるはずがないのに!」
男を睨みつける。目元を覆う眼鏡はなく、三つ編みにまとめた髪はほどけ、普段の彼女からは程遠い姿。それが月光を浴び、舞台の主役のように輝いていた。
「いいでしょう。私が唯人くんを殺害した犯人を必ず見つけ出します。あなたにも協力してもらいますよ」
男をまっすぐに見据え、言い切った。
「私の名前は玖条花彌子。あなたは?」
男は目を細め、眉間に皺を寄せて唸るように答えた。
「神須屋綾人。……二歳までは、外場綾人」
唯人とは全く異なる顔立ちの中で、同じ色の瞳が光っている。花彌子はそれを見て取り、唇を噛み締めた。
体が固くて冷たい床に横たわっている。意識を取り戻した花彌子は、その染み入る冷たさから、自分が右半身を下にして横たえられていることが分かった。腕は背中で縛られており、動かすことができない。足も同様で、逃すつもりがないことが伝わってきた。
目隠しが外されているのをいいことに、細く目を開ける。初めに目に入ったのはパイプ椅子。そこに男が座っていた。
脱色した髪に、酷薄そうな顔つき。耳には異様な数のピアスがつけられている。椅子の上で組まれた足は長く、鍛えているのか体格がいい。黒っぽいシャツに、これまた黒のズボンに身を包んでいる。年齢は二十代半ばだろうか。花彌子には見覚えのない男だった。
その閉じられた目が開けられる。鋭い光を宿した三白眼と、目が合った。
まずい、と瞼を下ろすがもう遅い。男は立ち上がり、花彌子の近くまで歩いてきた。そのまま彼女の三つ編みを引っ張り、頭を上げさせる。
「──お目覚めかァ?」
低い声に、花彌子は身を竦める。目を閉じたままでいると、乱暴に地面に叩きつけられた。
「意識が戻ってんのは分かってるんだよ。さっさと起きろ」
訳の分からない状況で、ひっと息を呑む。恐る恐る目を開け、辺りを見渡した。
そこはビルの空き室のようだった。何かの事務所だったようで、埃を被った机やパーテーションが打ち捨てられている。窓から見える景色は地上から高く、月明かりが差し込んでいた。どうやら攫われてから随分と時間が経っているらしい。部屋の隅の方に段ボール箱が積まれていた。床はコンクリートだ。所々に、黒っぽい染みが付着している。
「な、なんですか……?」
喉から出たのは、情けないほど掠れた声だった。男を見上げる。座っているときには分からなかったがかなり背が高い。見下ろされると威圧感があり、それを男自身もよく理解しているようだった。
「なんですかじゃねえよ」
吐き捨てるように言って、花彌子の腹に蹴りを入れる。息が詰まり、呻いているところにさらに背中を踏みつけられる。恐怖で頭が真っ白になった。ガタガタと震え、頬に押し付けられた床の固さも分からない。
石のようなものが目と鼻の先に転がっていた。よく目を凝らすと、それは人間の歯だった。床に染み込んだ黒い汚れが何か、肌身で直感した。
男が彼女の胸ぐらを掴んだ。セーラー服の胸元のボタンがぶちぶちと音を立てて外れる。男の凄まじい形相が至近にあり、花彌子は顔を背けた。
「お前、唯人に何しやがった」
それは思いもよらない問いだった。花彌子は唖然として男を見つめる。見開かれた三白眼。その瞳は、晴れ渡った青空の色をしていた。
「答えろ」
「あ、あの」
「お前が殺したんだろ」
男の顔が歪む。静かな響きだった。けれど裏に流れる激情を抑えた、震える声だった。
「答えろよ。誰が唯人を殺したってんだよ」
怒りに任せて花彌子の体を地面に投げつける。強かに背中を打ちつけながら、花彌子は声をあげた。
「わ、私じゃない」
「ハァ? てめえ第一発見者だろ。唯人を殺して、何とでもできるだろ」
「違う。私は第一発見者だけど、殺していない。大体、警察は自殺だって……」
男の目が見開かれる。瞳孔が完全に開き切っている。男は拳を振り上げ、打ち下ろした。
「唯人が自殺なんかするわけねえだろ!!」
男の拳は花彌子の顔の横に振り下ろされた。冷たいコンクリートが指の関節の皮膚を削り取り、わずかに出血している。
意思の疎通が図れない男の言葉の中で、それは奇しくも、初めて同意できるものだった。
花彌子はゆっくりと身を起こす。拳を打ちつけたまま震えている男に声をかける。
「……ええ。それは、私もそう思います」
男が花彌子に顔を向けた。彼の瞳に初めて映ったと花彌子は思った。
「なら、犯人は誰だ。お前じゃねえってんなら証明しろ」
地を這うような響きだった。そんな申し出、普段の花彌子なら首を横に振っていた。
けれど彼女はあまりに疲れていた。朝から初恋の人の死体を発見し、刑事には軽くあしらわれ、訳の分からない男に暴力をふるわれた一日だった。それはもう、取り繕うのが面倒なほどに疲れきっていた。
それに何より、花彌子は怒っていた。
「……私が、唯人くんを殺すはずがないのに。私は唯人くんのことが好きで、初恋で、だから殺すなんてことできるはずがないのに!」
男を睨みつける。目元を覆う眼鏡はなく、三つ編みにまとめた髪はほどけ、普段の彼女からは程遠い姿。それが月光を浴び、舞台の主役のように輝いていた。
「いいでしょう。私が唯人くんを殺害した犯人を必ず見つけ出します。あなたにも協力してもらいますよ」
男をまっすぐに見据え、言い切った。
「私の名前は玖条花彌子。あなたは?」
男は目を細め、眉間に皺を寄せて唸るように答えた。
「神須屋綾人。……二歳までは、外場綾人」
唯人とは全く異なる顔立ちの中で、同じ色の瞳が光っている。花彌子はそれを見て取り、唇を噛み締めた。