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それからのことは記憶にない。花彌子の悲鳴で大勢が集まり、唯人の死体を見てまた叫び声があがり、花彌子は押し出されるように生徒会室を出た。そして気づけば、校長室の来客用のソファに座り、警察を名乗る男二人組と対面していた。
「……さん。玖条さん!」
名を呼ばれ、花彌子はハッと我にかえった。年長の男と、まだ若い男が心配そうに花彌子を見ている。二人ともスーツで、若い方は手にペンと手帳を持っていた。
「……すみません。大丈夫です」
花彌子は額に手を当て、汗を拭った。校長室には二人組と花彌子、それから入口のところに花彌子の担任の須川智成が立っていた。
須川も顔色が悪く、腕を組んで落ち着きなく貧乏ゆすりをしている。彼が顧問を務める野球部の朝練に参加していたのか、ジャージ姿だ。
年長の男が口を開いた。
「最初から説明しますね。本日の朝、外場唯人くんが生徒会室で首を吊っているのが発見されました。それを一番初めに見つけたのは、玖条さんだね? ここまでは合っている?」
「はい……」
ぼんやりと頷く。
「つまり、君は第一発見者ということになる。発見したときの様子を、詳しく教えてほしいんだ」
「あのとき……」
花彌子は膝の上に置いた手を握りしめた。まだ現実感がなく、どこか宙に浮いた気持ちだ。
目を閉じて思い出す。あのとき、花彌子の目に真っ先に映ったのは、生徒会室の窓にぶら下がった唯人の首吊り死体だった。
生徒会室は両端の壁を、ファイルや本が詰まった本棚が埋めている。そして入って真正面に、座った人間が入口を向く形で生徒会長用の机が鎮座しており、その上に唯人のリュックと何かの紙切れが置いてあった。そしてその机の後ろには窓があり──そこに、唯人の首吊り死体がぶら下がっていたのだ。
虚ろに見開かれた瞳、力なく垂れ下がる腕、服装は学ランのまま。だらりと伸びきった首には、ぐるりと縄で擦れた傷痕がある。深く息を吸い込むと、今まで嗅いだことのない臭いが肺を満たし、これが死臭というものか、とどこか冷静に考えた。
それ以降のことは記憶にない。
震える声で話し終えると、刑事たちが頭をかいた。若い男は何やら熱心にメモを取っている。
「……その、紙切れのことなんですけどね」
年長の男が胸ポケットからビニール袋に入った何かを取り出した。花彌子にも見えるようにテーブルの上に置く。
それは破り取られた便箋の切れ端。見間違えるはずもない、唯人の端正な文字で短く書かれた文章は。
『勝手な僕を許してください。
今までありがとう。
外場唯人』
花彌子の目から涙が溢れる。気遣わしげに若い男が言った。
「自殺……でしょうね」
「だろうな。玖条さん、何か心当たりはありますか?」
花彌子はぐいと涙を拭い、刑事たちを睨みつけた。
「そんなはずありません。だって唯人くんは、私にメールを送ってくれました。だから私はあんな時間に生徒会室にいたんです」
「それはどういうことかな?」
男たちが身を乗り出す。花彌子は嫌々ながら、昨日唯人に告白したこと、その返事のために呼び出されたことを説明した。送られてきたメールも見せる。受信時刻は昨日の二十時十五分だった。
「わざわざ告白の返事をしようって人が、自殺なんかしますか?」
花彌子は言い募ったが、刑事たちは視線を交わし、気の毒げな眼差しで花彌子を見つめるばかりだった。
「だから……そういうことでしょう」
「はあ?」
年長の男の言葉に、花彌子は眉を寄せる。若い男が続きを引き取った。
「告白の返事が、自殺ということでは? 玖条さんがいくら好きでも、外場くんが玖条さんのことをどう思っていたのかは分からないのですから」
男の視線が花彌子の頭のてっぺんから爪先までを一瞥した。三つ編みにした黒髪、目元を隠すような丸眼鏡、校則通りに膝下まで伸ばしたスカート。どこにでもいる地味な女の子そのものの花彌子を。
その憐れむような目に、花彌子はどこかで何かが切れる音を聞いた。拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込んで痛む。
「……唯人くんは、自殺するほど私のことが嫌いだったと? 当てつけに私に死体を見せるくらいに?」
「あ、あくまで可能性ですよ」
焦ったように若い男が付け加える。年長の男が割って入った。
「まあまあ。これから調べれば、自殺の原因も出てくるかもしれません。思春期は変なことで思い詰めるものですから」
「変なことって何ですか! 唯人くんは本当に真面目で、善良で、みんなから慕われる人だったんですよ。だから二年生なのに生徒会長にも選ばれたんです」
「生徒会長ねえ。それじゃあ、目立つ分トラブルもあったんじゃないですか」
「トラブル……」
花彌子は顎に指を当てて考え込む。そこで、空気と化していた須川があっと声を上げた。
三人の注目を受けて、慌てたように手を振る。
「いや、大したことではないんですが……外場くんと少し揉めていた子がいまして」
「それは誰ですか?」
年長の男が勢い込んで身を乗り出す。若い男もペンを構えた。
「三年生の黒川鷹臣くんです。彼はサッカー部のエースで大学に推薦も決まっていたんですが、恥ずかしながら校内飲酒が発覚して停学になり推薦も取り消しに……。飲酒を見つけたのが、外場くんだったんです。もしかすると、外場くんはそれを気に病んでいたかもしれません」
刑事たちが新情報に沸き立つ。一方、花彌子は頭を殴られたような衝撃にふらふらしていた。
花彌子は何も知らなかった。隣の席で、よく話して、ときには本の貸し借りなんかもして、結構仲良くやっていたつもりだったのに。
今度は黒川が呼ばれることになり、花彌子は放免となった。須川の計らいで早退することになり、カバンを持って彼女は学校をあとにした。
けれど、真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった。今は一人になりたかった。人通りの多い道を避け、どことも知れぬ街を花彌子はとぼとぼと下を向いて歩いていた。
だから、気づかなかった。
彼女の後ろから、黒いライトバンがゆっくりと忍び寄っていた。窓はスモークガラスで、中の様子は窺えない。前にも後ろにも、花彌子以外には誰もいない路地で、ライトバンが花彌子の隣にピタリと付けた。
後部座席のドアが開く。花彌子が振り向いたときには、物凄い力で腕を掴まれ、車内に引きずり込まれていた。何も分からないうちに眼鏡を外されて目隠しされ、口元に薬品臭い布が押し付けられる。鳩尾を殴られ、思わず息を大きく吸い込んだあと、彼女の視界は暗転した。
それからのことは記憶にない。花彌子の悲鳴で大勢が集まり、唯人の死体を見てまた叫び声があがり、花彌子は押し出されるように生徒会室を出た。そして気づけば、校長室の来客用のソファに座り、警察を名乗る男二人組と対面していた。
「……さん。玖条さん!」
名を呼ばれ、花彌子はハッと我にかえった。年長の男と、まだ若い男が心配そうに花彌子を見ている。二人ともスーツで、若い方は手にペンと手帳を持っていた。
「……すみません。大丈夫です」
花彌子は額に手を当て、汗を拭った。校長室には二人組と花彌子、それから入口のところに花彌子の担任の須川智成が立っていた。
須川も顔色が悪く、腕を組んで落ち着きなく貧乏ゆすりをしている。彼が顧問を務める野球部の朝練に参加していたのか、ジャージ姿だ。
年長の男が口を開いた。
「最初から説明しますね。本日の朝、外場唯人くんが生徒会室で首を吊っているのが発見されました。それを一番初めに見つけたのは、玖条さんだね? ここまでは合っている?」
「はい……」
ぼんやりと頷く。
「つまり、君は第一発見者ということになる。発見したときの様子を、詳しく教えてほしいんだ」
「あのとき……」
花彌子は膝の上に置いた手を握りしめた。まだ現実感がなく、どこか宙に浮いた気持ちだ。
目を閉じて思い出す。あのとき、花彌子の目に真っ先に映ったのは、生徒会室の窓にぶら下がった唯人の首吊り死体だった。
生徒会室は両端の壁を、ファイルや本が詰まった本棚が埋めている。そして入って真正面に、座った人間が入口を向く形で生徒会長用の机が鎮座しており、その上に唯人のリュックと何かの紙切れが置いてあった。そしてその机の後ろには窓があり──そこに、唯人の首吊り死体がぶら下がっていたのだ。
虚ろに見開かれた瞳、力なく垂れ下がる腕、服装は学ランのまま。だらりと伸びきった首には、ぐるりと縄で擦れた傷痕がある。深く息を吸い込むと、今まで嗅いだことのない臭いが肺を満たし、これが死臭というものか、とどこか冷静に考えた。
それ以降のことは記憶にない。
震える声で話し終えると、刑事たちが頭をかいた。若い男は何やら熱心にメモを取っている。
「……その、紙切れのことなんですけどね」
年長の男が胸ポケットからビニール袋に入った何かを取り出した。花彌子にも見えるようにテーブルの上に置く。
それは破り取られた便箋の切れ端。見間違えるはずもない、唯人の端正な文字で短く書かれた文章は。
『勝手な僕を許してください。
今までありがとう。
外場唯人』
花彌子の目から涙が溢れる。気遣わしげに若い男が言った。
「自殺……でしょうね」
「だろうな。玖条さん、何か心当たりはありますか?」
花彌子はぐいと涙を拭い、刑事たちを睨みつけた。
「そんなはずありません。だって唯人くんは、私にメールを送ってくれました。だから私はあんな時間に生徒会室にいたんです」
「それはどういうことかな?」
男たちが身を乗り出す。花彌子は嫌々ながら、昨日唯人に告白したこと、その返事のために呼び出されたことを説明した。送られてきたメールも見せる。受信時刻は昨日の二十時十五分だった。
「わざわざ告白の返事をしようって人が、自殺なんかしますか?」
花彌子は言い募ったが、刑事たちは視線を交わし、気の毒げな眼差しで花彌子を見つめるばかりだった。
「だから……そういうことでしょう」
「はあ?」
年長の男の言葉に、花彌子は眉を寄せる。若い男が続きを引き取った。
「告白の返事が、自殺ということでは? 玖条さんがいくら好きでも、外場くんが玖条さんのことをどう思っていたのかは分からないのですから」
男の視線が花彌子の頭のてっぺんから爪先までを一瞥した。三つ編みにした黒髪、目元を隠すような丸眼鏡、校則通りに膝下まで伸ばしたスカート。どこにでもいる地味な女の子そのものの花彌子を。
その憐れむような目に、花彌子はどこかで何かが切れる音を聞いた。拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込んで痛む。
「……唯人くんは、自殺するほど私のことが嫌いだったと? 当てつけに私に死体を見せるくらいに?」
「あ、あくまで可能性ですよ」
焦ったように若い男が付け加える。年長の男が割って入った。
「まあまあ。これから調べれば、自殺の原因も出てくるかもしれません。思春期は変なことで思い詰めるものですから」
「変なことって何ですか! 唯人くんは本当に真面目で、善良で、みんなから慕われる人だったんですよ。だから二年生なのに生徒会長にも選ばれたんです」
「生徒会長ねえ。それじゃあ、目立つ分トラブルもあったんじゃないですか」
「トラブル……」
花彌子は顎に指を当てて考え込む。そこで、空気と化していた須川があっと声を上げた。
三人の注目を受けて、慌てたように手を振る。
「いや、大したことではないんですが……外場くんと少し揉めていた子がいまして」
「それは誰ですか?」
年長の男が勢い込んで身を乗り出す。若い男もペンを構えた。
「三年生の黒川鷹臣くんです。彼はサッカー部のエースで大学に推薦も決まっていたんですが、恥ずかしながら校内飲酒が発覚して停学になり推薦も取り消しに……。飲酒を見つけたのが、外場くんだったんです。もしかすると、外場くんはそれを気に病んでいたかもしれません」
刑事たちが新情報に沸き立つ。一方、花彌子は頭を殴られたような衝撃にふらふらしていた。
花彌子は何も知らなかった。隣の席で、よく話して、ときには本の貸し借りなんかもして、結構仲良くやっていたつもりだったのに。
今度は黒川が呼ばれることになり、花彌子は放免となった。須川の計らいで早退することになり、カバンを持って彼女は学校をあとにした。
けれど、真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった。今は一人になりたかった。人通りの多い道を避け、どことも知れぬ街を花彌子はとぼとぼと下を向いて歩いていた。
だから、気づかなかった。
彼女の後ろから、黒いライトバンがゆっくりと忍び寄っていた。窓はスモークガラスで、中の様子は窺えない。前にも後ろにも、花彌子以外には誰もいない路地で、ライトバンが花彌子の隣にピタリと付けた。
後部座席のドアが開く。花彌子が振り向いたときには、物凄い力で腕を掴まれ、車内に引きずり込まれていた。何も分からないうちに眼鏡を外されて目隠しされ、口元に薬品臭い布が押し付けられる。鳩尾を殴られ、思わず息を大きく吸い込んだあと、彼女の視界は暗転した。