13
 深夜、繁華街の隅に立つビルの空き室に男が一人。夜空には月もなく、砂粒のような星だけが微かに瞬いていた。


 男はソワソワと部屋の中を歩き回る。何度も腕時計を確認し、舌打ちする。


 ──ドアが音もなく開いた。


 男がハッと面を上げる。そこに現れた人影を見て顔色を変えた。


「玖条。……それに、昼の」

「こんばんは、先生。良い夜ですね」


 姿を表したのは花彌子と神須屋だった。花彌子はセーラー服を身にまとい、いつもの三つ編みに丸眼鏡。神須屋と合わせ、夜闇に溶け込む黒ずくめの格好だ。その中で、彼の瞳だけがやけに鮮やかだった。


 男は──須川は、もつれた足で一歩下がる。


「ど、どうしたんだ、玖条。やはりその男に脅されているのか? 困っているなら先生に話せ」

「……困っている?」


 花彌子が口元を指で押さえてくすりと笑う。その笑みの妖艶さに、須川の背筋に震えが走った。目の前にいる少女は誰だ。教室の隅で静かに本を読んでいるおとなしい女子生徒。素行に問題のない成績優秀な優等生。それが玖条花彌子に抱いている印象だった。今やどうだ。彼女は自分よりも体格のいい男を背後に従え、いっそ傲慢とも呼べる笑いを唇に乗せて彼を見据えている。彼女を構成する見た目は教室で見るものと変わらないにもかかわらず、明らかに何かが異なっていた。


 彼女の艶やかな唇が開いた。


「おかしなことを言いますね。お困りなのはあなたの方では? ──外場唯人を殺害した犯人さん?」


 須川の喉が鳴る。その目が見開かれ、ガクガクと足を震わせた。神須屋が一歩踏み出し、須川の胸を押して部屋に一つだけ置かれた椅子に座らせた。


「何を言っているんだ? 玖条、やっぱりおかしいぞ。誰かに唆されているんだろう? 今すぐこんな馬鹿なことはやめろ」

「唆されたのはあなたの方でしょう。ヤクザから金を借りるなんて、愚かなことをしましたね」


 須川の顔面から血の気が引く。花彌子は胸ポケットから須川の名刺を取り出した。須川の目の前に、指先で掲げてみせる。


「これ、ありがとうございました。わざわざ電話番号まで教えてくださって。調べたら面白いことが分かりましたよ」


 神須屋がスマホを手にする。それは血で汚れており、画面にはヒビが入っていた。


 神須屋が低く話し始める。


「これは百瀬龍生のスマホだ。発信履歴と着信履歴、両方ともにお前の電話番号がある。最後の履歴は……一月十七日の午後七時二分だな。お前から百瀬にかけてる。百瀬が出なくて焦っただろ?」

「そんなことは……」


 神須屋が指でスマホを操作した。すると、須川の尻ポケットから呼び出し音が鳴る。その音と振動に、須川の体が大きく跳ねた。


「な?」


 ニヤッと笑って神須屋が花彌子を見やる。彼女は軽く息を吐いた。


「認めますよね、須川先生?」

「分かった! 認める! 確かに俺は百瀬から金を借りていた。電話もした! だが、外場を殺してはいない。だいたい何で俺がそんなことをするんだ! 動機がない!」

「外場唯人を殺したら、借金を帳消しにしてやるとでも言われました?」


 須川がびくりと肩を震わせる。花彌子は俯く彼の顔を覗き込んだ。親指で神須屋を指し示し、


「彼の紹介がまだでしたね。名前は神須屋綾人さん。二歳までは外場綾人さんだったそうです。お分かりでしょう? 唯人くんの腹違いのお兄さんなんですよ。そして須川先生が金を借りていた百瀬龍生は、神須屋さんにしつこく絡んでいたんですって。──何だかとっても、因縁めいたものがあると思いません?」

「デタラメだ! 証拠がない! 妄想に過ぎない。そんなに言うなら、百瀬を連れて来い!」


 口から泡を飛ばして須川が叫ぶ。花彌子は神須屋と顔を見合わせた。


「あー、本当はそれができれば良かったんですが。残念ながら、百瀬さんは話せる状態ではないんですよね。永遠に」


 神須屋がつまらなそうにそっぽを向く。花彌子はやれやれと両手を上げた。


 須川が椅子の上で勢い付いて前のめりになる。


「そうだろ? 玖条、お前が言っていることは全部想像だ。そもそも、外場は自殺したんだ。遺書だってある。それにどちらにせよ玖条にメールを送ってる。二十時十五分までは生きていたんだ。玖条が外場に告白したことなんて、他の誰も知りようがない。あれは外場本人が送ったものだよ。なあ? そして俺は、二十時以降は友人の家にいたんだ。みんな証言してくれるさ」

「そうでしょうね。でもそれって、大した問題ではないんですよ」

「……は?」


 花彌子は恐ろしく冷めた瞳で須川を見下ろした。彼の目の前で、ポケットから取り出したハンカチの包みを開いてみせる。


 白いハンカチにくるまれていたのは、くしゃくしゃになった紙切れ。それは唯人が遺した遺書と同じ便箋。


 須川の額から脂汗が流れ落ちる。花彌子は容赦なく言葉を継いだ。


「これが何か、お分かりでしょう」

「なんのことだか」

「説明して差し上げますね。これは、唯人くんが私に宛てた告白の返事。その書き損じですよ」


 花彌子は便箋に直接手が触れないように気をつけながら、文章を読み上げた。


「『玖条花彌子様へ

 僕に告白なんてしてくれてありがとう。驚いて返事もできなくてごめん。でも本当に嬉しかったです。月並みな言葉になってしまうけれど、僕も君のことは大切に思っています。

 けれど、その気持ちには応えられません。僕には彼女がいます。遠くに住んでいる別の学校の女の子です。僕は彼女のことが好きなので、それを裏切るような真似はしません。

 君の望む形になれなくて申し訳ないけど、これが僕の本音です。それでも、花彌子さんのことを友人として大切に思っているのは本当です。君は頭が良くて、頼りがいのある、自慢の友人だと思っています。

 だから、これからも良い友人でいてくれませんか?

 勝手な僕を許してください。

 今までありがとう。

 外場唯人』」


 辺りに沈黙が落ちた。須川の荒い呼吸の音だけが夜の底に響いている。


 花彌子は眉尻を下げて、優しい手つきで便箋を撫でるそぶりをする。


「……とまあ、私は見事に振られてしまったわけです。彼女がいることにすら気づかなかったわけですね。まさに恋は盲目というやつです。唯人くんも困ったでしょうね。このほかにも四枚ほど書き損じが出てきましたよ。どれも文面は似たようなものでした」


 彼女は微笑む。須川はもう顔も上げられず、床に自分の汗が滴り落ちるさまを見つめている。


「学校のゴミ捨て場を探して、焼却される寸前のものを救出してきたんです。亡くなったときの唯人くんの荷物に、便箋はありませんでした。でも黒川先輩が、図書館で彼の荷物を漁ったときに便箋があったことを教えてくれたので、きっと図書館で手紙を書いて余った便箋は捨てたんだろうと思いました。それが当たりでしたね。意外とすぐに見つかりましたよ」


 花彌子の指先が須川の顎をとらえる。軽く力を入れるだけで、彼の顔は簡単に上がった。見開かれた彼の瞳の奥底を覗き、


「……この文章、どこかで見覚えがあると思いません? 特に最後の三行。よく見てくださいよ」

「お、俺は」

「え? なんですか? よく聞こえません」

「俺じゃ……」


 須川はか細い声で喉を震わせたのち、呆然とした面持ちで脱力した。花彌子は顎から手を外し、踊るような足取りで彼の背後に回る。


「須川先生はあの日、百瀬龍生から依頼されて唯人くんを生徒会室で絞殺した。もしかすると、死体の処理は百瀬が請け負うことになっていたんじゃないですか? 百瀬の目的は憎き神須屋さんにダメージを与えることですから、きっと異母弟のバラバラ死体なんかを神須屋さんの郵便受けに突っ込んだりしたかったんだと思います。けれど、約束の時間になっても百瀬は現れなかった。当然ですよね。その前日に、もう神須屋さんが百瀬を××していたんですから」


 人差し指でバツ印を作り、花彌子はたおやかに笑う。すっと無表情に戻り、


「午後七時二分。百瀬に電話をかけても繋がらない。このままでは須川先生が殺害したとバレてしまう。あなたは状況を打開しようと唯人くんの荷物を探り──私宛の手紙を見つけた。そこで思いついた。唯人くんは自殺したことにしようと。手紙の下三行を破りとり、恋の告白の返事を遺書に見せかける。ダメ押しに、私に宛ててメールを送る。彼のスマホにはロックがかかっていなかったし、メールなら自動送信ができますから。本人性を証明する文面も、手紙を読んだならばどのようにも書くことができますし」


 須川が縋るように辺りを見渡し、恐ろしく表情の欠落した神須屋と目が合って急いで下を向いた。

「そして唯人くんの死体を窓に吊り下げて、友人の家へ転がり込んだ。──違いますか?」


 彼女は須川の後ろから、彼の耳元に唇を寄せてふっと息を吹き込む。須川の肩が痙攣し、椅子から転がり落ちた。


 四つん這いになり、わめきながらドアの方へ向かおうとする。その手の甲を神須屋が踏み砕いた。苦悶の声をあげて須川が虫のように床に丸まる。


「違う違う違う! 俺はただ頼まれただけだ! 俺にとっても外場は可愛い生徒だった! 殺したくなんかなかった! でも、あいつが……百瀬が借金を盾にして脅してきたんだ。外場の兄に一泡吹かせてやりたいからって。そいつは百瀬のメンツを潰したんだって。そんな裏社会のことで俺たちを巻き込むなよ! お前が百瀬と上手くやってりゃ、外場は死ぬことなんかなかったんだ!」


 神須屋の顔色が変わる。いっそ青ざめて見えるほど血の気が引き、鋭い蹴りを須川の腹にめり込ませる。げえげえとえづきながら、須川は泣き叫んだ。


「お前が外場を殺したも同然だ! 百瀬がどうして外場とお前の繋がりを知ったと思う? 弟想いのお兄ちゃんは、外場の家を時々見に行ってたんだってな!? それでバレたんだよ。百瀬は大喜びだった。神須屋の弱みを握ったってさあ!」

「てめえ……」


 神須屋が須川の鼻を殴りつける。骨が折れる鈍い音が響き、鼻血が床を汚した。それでも、須川は狂ったように笑い続けた。


「可哀想な外場。あいつは最期まで『なんで?』って言ってたよ。そりゃそうだ。何にも悪くないんだから。何にも知らないのに殺されて……苦しかっただろうなあ」


 笑うのをやめ、さめざめと涙をこぼす。その様は悲劇に見舞われた一般人そのものだった。


 けれど、と花彌子は口を開いた。


「須川先生が殺さなければ、唯人くんは今も生きていましたよね?」


 頭を抱えていた須川が彼女を見上げる。花彌子は淡々と言葉を紡いだ。


「だって、百瀬は一月十六日にはもう死んでいたんですから。須川先生が可愛い生徒の首を絞める前に思いとどまっていれば、百瀬への借金はチャラ、殺人に手を汚すこともなく、あなたの日常は守られていたんじゃないですか?」

「は……」

「あなたは自分が世の理不尽に負けた被害者かのように振る舞っていますが、唯人くんを殺したのは紛れもないあなた自身です。人を殺さないという正しさを、勇気を、善良さを貫けば、あなたの手は生徒の死体を吊り下げることはなく、当たり前の生活を掴めたのに」

「あ、ああ……」


 どこからかサイレンの音が細く聞こえる。花彌子は須川から目を逸らさない。須川は両手で頬に爪を立て、肉に食い込ませ、そして。


「うわあああああ!!」


 弾かれたように立ち上がると、床を蹴り、窓に向かって突進した。止める間もなかった。彼は窓を開け、乗り越え、一瞬だけ和らいだ顔をして。


 どさ、と、水の詰まった袋が潰れるような音が響いた。


 花彌子はその場から動かなかった。神須屋は足早に窓辺に近寄り、下を覗いて「あーあ」と呟いた。


「あれはダメだな。処理はこっちでやっとくから、花彌子はもう帰れ」

「……」

「花彌子?」


 神須屋が眉をひそめて彼女を振り返る。暗がりで彼女の表情は分からない。ただ立ち尽くしているシルエットだけが浮かび上がっている。


「どうかしたか?」


 背中を柔らかく撫でるような、彼にとっては最上級に優しい口調。それを、花彌子が振り払った。


「私は誰を憎めばいいんです」


 眼鏡の奥で、瞳が激情に燃え上がった。鮮烈な輝きだった。彼女は両手を広げ、喉から血を吐くような声をあげた。


「須川先生が憎い、百瀬龍生が憎い、それに何より、神須屋さんが憎い」


 神須屋は口を閉ざしている。ただ、その血まみれの独白を黙って受け止めている。


「唯人くんを死に至らしめたあらゆるものが憎い。だけど──」


 花彌子の両手がだらりと落ちる。乾き切った目で中空を睨み据えた。


「私には、憎む資格がない。私は唯人くんにとっては何でもない、ただの友人Aだから」


 玖条花彌子は、ただ、恋のためにここまで駆けた。そしてその恋を失い、行き場のない憎悪を持て余している。


 彼女は顔を歪めて窓の向こうを凝視した。夜空が広がる、今はもう誰もいない景色を。


「須川先生を止めようと思えばきっと止められました。けれどそうしなかった。だからあれは、私の故意です」


 部屋が静まり返る。二人の間には静寂だけが横たわり、窓から入り込む風がわずかに空気を掻き回す。


 花彌子は顔をこすり、この場を去ろうと踵を返した。


「……それは違う」


 その背に低い声が投げられる。彼女は足を止め、顔だけで振り向いた。


「あれは花彌子だけの故意じゃない。──俺たちは共犯者だ」


 虚をつかれ、花彌子は口をつぐんだ。神須屋は逃げるのを許さない強さで彼女を見据えていた。


 彼女の頬がぎこちなく歪んだ。笑うのに失敗したように。


「神須屋さん、あなたは知っていたんじゃないですか。自分のせいで唯人くんが死んだこと。だからあなたは──」


 妙に良かった手回し。唯人が殺害される前日に完了していた百瀬の処分。関係者である花彌子へのおかしなくらい協力的な態度。


 神須屋は何も言わなかった。ただタバコを一本取り出して、火をつけた。そういえば、彼が喫煙しているのを初めて見たな、と花彌子は頭の片隅で思う。


 煙が吐き出される。それを目で追いながら、神須屋は零した。


「さあな。はじまりはどうであれ、少なくとも今は、お前が俺の探偵で良かったと思ってるさ」

「探偵って」


 今度こそ花彌子はふき出した。腹を抱えながら、


「それなら、神須屋さんが私の助手?」

「ああそうだ。なかなかいい働きだっただろ」

「そうですね。ええ、まあ、はい」


 ひとしきり笑い、目元に滲んだ涙を拭って、花彌子は今度こそ彼に背を向けた。右手をひらひらと振って、歩き出す。


「さようなら、共犯者の助手さん」

「ああ、お別れだ。俺の探偵で……共犯者さんよ」


 ──こうして、玖条花彌子の恋は失われた。