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「よう花彌子。いつお前があのガキを刺すかヒヤヒヤしたぜ」


 さめざめと涙を流すひまりと喫茶店の前で別れ、呆然と道路で立ち尽くしていた花彌子の後ろから、神須屋がニヤニヤ笑いながら現れた。


「唯人にあんな可愛い彼女がいたとはなあ? 知らなかったのかよ?」


 満面の笑みで花彌子を小突く。傍目にはヤクザに絡まれる女子高生の図であるため、通り過ぎる通行人が距離を取っていた。


 何とか言えよ、と彼女の脇腹をドスドスつつき回す。花彌子の両手がゆっくりと持ち上がり、頬を押さえた。


「……すっごく、お似合いでしたよね?」

「あん?」

 訝しげな神須屋を、花彌子はがばりと振り仰いだ。

「唯人くんと村井さん、びっくりするくらい『正しい』組み合わせじゃなかったですか?」

「……頭狂ったか?」


 神須屋が人差し指で自分の頭を指差す。それに構わず、彼女は話し続けた。


「平凡で善良な唯人くんと、凡庸で善良な村井さん。誰からも祝福される、文句のつけようのないカレカノじゃないですか。どこにでもいる、ありふれた、可愛らしい高校生カップル。ドラマティックな筋書きとは無縁の、まさに日常系。平穏で平和で相思相愛の恋人同士」


 花彌子の両手がだらりと垂れ下がった。


「──私には眩しすぎる」


 彼女は目をすがめて、ひまりが去った方を見つめていた。冷たい風が吹いて、三つ編みを揺らしていく。


「……マジで大丈夫か」


 神須屋が、彼にしては慎重な手つきで、花彌子の肩を抱こうとした。と、彼女が雲の上を歩くような足取りで道の端に歩を進める。ふらふらとガードレールに軽く腰掛け、空を仰いだ。丸眼鏡のせいで表情はよく分からない。


「だから……私の失恋も、ありふれた、夢見がちな女が思い上がっただけのお話なんです」


 彼女は笑っていた。晴れやかに、とびきり爽快に。


 神須屋はその顔を覗き込んで、眼鏡を外してやる。あらわになった瞳は真っ赤に充血していた。


「……泣けよ」

「嫌ですよ。これは笑い話なんですから」

「……今なら胸を貸してやる」

「絶対に嫌ですね!!」

「っとに可愛くねえなあ!」


 ほとんど掴み合いになりながら騒ぐ二人を、ほとんどの通行人は遠巻きにしている。一部、これは通報した方が良いものかと悩むものもいる。


 その中から、一人の男がつかつかと歩み寄った。花彌子の肩を掴む神須屋の腕をぐいと引っ張る。


「失礼。うちの生徒に何か?」

「……アァ?」


 神須屋の凄みに、その男は生唾を飲み込む。だが、強張った顔つきのまま繰り返した。


「彼女はうちの生徒だ。何か問題を起こしたなら、私が話を請け負うが」

「須川先生!」


 花彌子はガードレールから弾みをつけて降りる。慌てて神須屋と須川の間に割って入った。


「すみません先生。大丈夫です。この人は知り合いなので」

「玖条とこの男が……?」


 明らかに怪しむ目つきで須川は二人を見比べる。花彌子は神須屋の手から眼鏡を引っ掴み、かけ直した。完璧な優等生の顔で須川を見上げる。


 須川はしばらく迷っていたようだが、やがてため息をつくと花彌子に紙片を渡した。それは名刺で、須川の電話番号が記載されている。


「……困ったらいつでも電話してきなさい。あんなことがあったあとだが、来れるようになったらまた学校にも来いよ」

「はい。ありがとうございます」


 正確無比な笑顔で礼を言う。須川は何度も振り返りながらその場をあとにした。


 花彌子は手元の名刺に目を落とす。大して会話したことのなかった担任教師の意外な一面を見た気持ちだった。


「神須屋さん、今のは私と唯人くんの担任で……」


 説明しようとして口を閉ざす。彼は凍りついた表情で須川の後ろ姿を凝視していた。


「……どうしました?」

「……あいつ、百瀬に金を借りていた男だ」

「は?」


 神須屋の漏らした呻きに、すっと目を細める。喫茶店での乱闘を思い出す。確かあのとき彼は。


「ああ、そういうことですか」


 花彌子は一つ頷き、薄い笑みを口元に浮かべた。精一杯背伸びをして、硬直した神須屋の耳元にあることを囁く。


 二人の視線が交わった。


 すぐに神須屋が早足でその場を去る。花彌子も踵を返し、大きく伸びをした。


「まったく、恋は盲目とはよく言ったもの」