「こちらが、璃鈴様のご滞在なさる棟になります」
七日馬車に乗った後で璃鈴が到着したのは、首都黎安にある皇帝の別邸の一つだ。
婚儀は、明日の夜に行うことになっている。璃鈴はここでそのための衣装などを整えることになっていた。
「璃鈴様、お疲れになったでしょう」
璃鈴のために寝床を整えながら、秋華が言った。
侍女となってからは、秋華の言葉遣いは、友人から目上のものへのそれに変わっていた。それを璃鈴は寂しく思う。
「ねえ秋華」
「何でございましょう」
「あの……せめて、二人だけの時は、今までのように話してほしいのだけれど……」
控えめに言った璃鈴に、秋華は一瞬戸惑ったような顔をしたけれど、そのあと、少し悲し気に微笑んだ。
「それは、できませんわ。私と璃鈴様では、もう立場が違ってしまったのですもの。たとえ他人がいようといまいと、きちんと線を引かないと」
「私が、どうしても、と言っても?」
「……それは命令ですか?」
きっと、普通に話せと璃鈴が命令すれば、秋華は今まで通りの言葉遣いに戻ってくれるだろう。けれどそれは璃鈴の望んでいる関係ではない。
皇后とその侍女となってしまった二人は、今までの関係には二度と戻れない。
璃鈴はそれを悟って、ぎゅっと唇を噛む。
「ううん、いいの。忘れてちょうだい」
「かしこまりました。では、私はとなりの部屋におりますから、何かありましたらお呼びください」
おやすみなさいませ、と秋華は言って璃鈴の部屋から出て行った。
璃鈴は、大きくため息をついて窓をあけた。春先の、まだ冷たい夜気が忍び込んでくる。
黎安はさすが首都だけあって、璃鈴が今まで見てきた街とはまったく様子が違った。
夜だというのに、馬車が何台もすれ違えそうな大きな通りはいまだに煌々と明かりが灯り人影が絶えない。通り沿いの商店はまだ開いているところも多く、二階から見下ろす璃鈴の耳には、人々の喧騒がにぎやかに聞こえた。
「本当に、人が多いのね」
独り言をつぶやいて、璃鈴は窓にもたれて人通りを眺めていた。
その時だった。
多くの行き交う人々の中に、一人だけ。
自分を見上げている男性がいることに気づいて、璃鈴は、は、と息を飲む。
闇の中に溶けるような黒い服を着た男性だった。薄暗く顔ははっきりとは見えなかったが、強烈な視線が自分に向けられていることを、璃鈴ははっきりと感じた。
見えない視線が、璃鈴の視線をとらえる。息をすることすらも忘れて、璃鈴はその視線を受けとめた。
時間にすれば、ほんの刹那の時間だっただろう。
ふい、と視線を外した男性は、もう振り返ることなく人ごみにまぎれて消えていった。
(今のは……)
いつの間にか握りしめていた璃鈴の手は、ぐっしょりと汗で濡れていた。
七日馬車に乗った後で璃鈴が到着したのは、首都黎安にある皇帝の別邸の一つだ。
婚儀は、明日の夜に行うことになっている。璃鈴はここでそのための衣装などを整えることになっていた。
「璃鈴様、お疲れになったでしょう」
璃鈴のために寝床を整えながら、秋華が言った。
侍女となってからは、秋華の言葉遣いは、友人から目上のものへのそれに変わっていた。それを璃鈴は寂しく思う。
「ねえ秋華」
「何でございましょう」
「あの……せめて、二人だけの時は、今までのように話してほしいのだけれど……」
控えめに言った璃鈴に、秋華は一瞬戸惑ったような顔をしたけれど、そのあと、少し悲し気に微笑んだ。
「それは、できませんわ。私と璃鈴様では、もう立場が違ってしまったのですもの。たとえ他人がいようといまいと、きちんと線を引かないと」
「私が、どうしても、と言っても?」
「……それは命令ですか?」
きっと、普通に話せと璃鈴が命令すれば、秋華は今まで通りの言葉遣いに戻ってくれるだろう。けれどそれは璃鈴の望んでいる関係ではない。
皇后とその侍女となってしまった二人は、今までの関係には二度と戻れない。
璃鈴はそれを悟って、ぎゅっと唇を噛む。
「ううん、いいの。忘れてちょうだい」
「かしこまりました。では、私はとなりの部屋におりますから、何かありましたらお呼びください」
おやすみなさいませ、と秋華は言って璃鈴の部屋から出て行った。
璃鈴は、大きくため息をついて窓をあけた。春先の、まだ冷たい夜気が忍び込んでくる。
黎安はさすが首都だけあって、璃鈴が今まで見てきた街とはまったく様子が違った。
夜だというのに、馬車が何台もすれ違えそうな大きな通りはいまだに煌々と明かりが灯り人影が絶えない。通り沿いの商店はまだ開いているところも多く、二階から見下ろす璃鈴の耳には、人々の喧騒がにぎやかに聞こえた。
「本当に、人が多いのね」
独り言をつぶやいて、璃鈴は窓にもたれて人通りを眺めていた。
その時だった。
多くの行き交う人々の中に、一人だけ。
自分を見上げている男性がいることに気づいて、璃鈴は、は、と息を飲む。
闇の中に溶けるような黒い服を着た男性だった。薄暗く顔ははっきりとは見えなかったが、強烈な視線が自分に向けられていることを、璃鈴ははっきりと感じた。
見えない視線が、璃鈴の視線をとらえる。息をすることすらも忘れて、璃鈴はその視線を受けとめた。
時間にすれば、ほんの刹那の時間だっただろう。
ふい、と視線を外した男性は、もう振り返ることなく人ごみにまぎれて消えていった。
(今のは……)
いつの間にか握りしめていた璃鈴の手は、ぐっしょりと汗で濡れていた。