――私と付き合って下さい。
まさかの爆弾発言だった。
あれから一晩が過ぎ、実ヶ丘警察署で仮眠を取った徳憲は、目が覚めたあとも鮮明に覚えている小夜の懇願に、ほっと胸を撫で下ろした。
夢ではないのだ。自分の頬をつねるなどというベタな真似をするまでもない。
徳憲は――愛の告白をされたのだ。
(俺のことを好いてくれる女性が居るなんて……しかもあんな若くて清楚な子が!)
起床しているのに夢心地だった。殺風景な署内も景色が違って見える。総天然色だ。
徳憲は色恋沙汰に疎かった。仕事一辺倒でプライベートを殺して来たのは前述した通りだが、当然ながら出会いなどなく、独身で生涯を終えると考えていた。
ところが、降って湧いたラブコール。
しかも殺人事件がきっかけで、だ。
警察らしいと言えばらしいが、捜査対象の異性に手を出すのは公私混同に取られかねない。しばらくは他言無用にしておくべきだろう。
かつて検挙件数を稼ぎまくった善行が、巡り巡って徳憲に春をもたらした。情けは人の為ならず、とはよく言ったものだ。
(二九歳……三十路を目前に控えた俺にも、ようやく春が訪れたわけだ。一〇代の頃は微塵もなかった『青春』という名の春が!)
遅咲きの春である。
謳歌すべき時期が常人より遅延しているが、その春はとても青い。
いや、恋に年齢など関係ない。人の運命は水物だ。今それを迎えたのであれば、この瞬間が『青春』で良いではないか。
二〇代の最後にして、最初の『青春』――これを逃したら、恐らく二度と来ないであろう春だ。
(青春に早いも遅いもない! 事件関係者と結婚した刑事や検察は多いんだ。公表する時期さえ間違えなければ、尻込みする必要はない!)
徳憲は覆面パトカーを駆って一路、警視庁へ舞い戻った。
聞き込み捜査の情報をまとめるべく、本部と警視庁を往復する。もちろん警察総合庁舎へ立ち寄ることも忘れない。徳憲の背中を押してくれた科捜研の面々に顔を出しておきたい。
(小夜さんのためにも、必ず犯人を挙げてみせる!)
徳憲は警視庁の駐車場へハンドルを切りつつ、もう一度『捜査方針』を整理した。
愛しの小夜が言っていた通り、鴨志田が容疑者だと徳憲は目算する。小夜との会話で最も犯行動機がしっくり来たし、他の二件とも顔見知りだったことが判明した。
(鴨志田はプライドを重んじる。恥を一番恐れている。凋落の発端となった三年前のオフパコ……逮捕される原因となった小夜と恨辺たちの存在は、何よりも抹殺したい『恥』に違いない)
大恥である。恥は消さなければならない。
小夜との再会が、鴨志田を連続殺人に走らせたと徳憲は結論付けた。
途中、彼女の母親も殺して動画再生数を稼いだりもしたが、いずれは本命である小夜本人も殺すに違いない。それだけは防がなければならない。
「包丁の出どころや指紋の照合は結果待ちですが、時間の問題だと思います」
翌日、科捜研に取って返した徳憲は、意気揚々と忠岡に報告した。
警察総合庁舎の七階。文書鑑定科に併設された『心理係』の一角。自席のパソコンで活動日誌をしたためていた忠岡悲呂は、昨日から一睡もしていない様相だった。
というより、帰宅すらしていないのではないか。服装は昨日と同じだし、顔も髪も薄汚れ、少し臭う。
まさか、泊まり込みで働いていたのか?
忠岡は徳憲を視界に収めるや、眠そうなまなこをこすりこすり、ぱっと顔を輝かせた。
「わー、わざわざあたしに報告するなんて律儀だねー。ひょっとして惚れちゃった?」
「それは絶対にないです」飛び付く忠岡を手で遮る徳憲。「一応、忠岡さんに相談した身ですから、経過の報告もすべきでしょう」
「ちぇー。お堅い返事ね。つまんなーい」
へそを曲げられても困る。物事には道理があり、通すべき筋があるものだ。
「でもさー忠志くん、まだ決定的な証拠はないんでしょー? 勇み足にならない?」
「平気です。奴を署まで引っ張って、自供させてみせますよ。刑事の腕の見せ所ですね」
被疑者の自白に頼った立件とは、いかにも昔気質な警察である。
証拠が不充分でも犯人の自供で裁判へ持ち込んだ事例は、枚挙にいとまがない。平成以降は減少しつつあるが、昭和までは平気でまかり通っていた。
古い根性論だ。たとえ証拠不充分だろうと、容疑者を是が非でも『ストーリー』通りに従わせることが警察の実力だと思っている。
「んー、あたしは時期尚早だと思うけどなー」
「何を言うんですか、善は急げですよ。すぐにでも鴨志田を追い込むべきです」
忠岡と徳憲の意見が対立した。
もともと彼女が苦手だった徳憲にしてみれば、衝突は必然だったのかも知れない。
忠岡は椅子に背をもたれ、徳憲をななめに見上げた。半眼で睨んでいる。
「忠告しとくけどー、悪いことは言わないから別の奴を捜査した方がいーわよ」
「なぜですか! 第一発見者が一番怪しいのは刑事事件のセオリーですよ!」
「あたしの心理分析だと鴨志田は潔白よー」
「は?」
いさめるように忠岡が断言した。
鴨志田が、シロ?
徳憲は耳を疑った。あろうことか忠岡は、あの悪名高い炎上配信者を、無罪だと豪語したのである。
「忠岡さん、正気ですか?」
「当然よ……昨日からずーっと眠らず『プロファイリング』して出した結論だもん」
プロファイリング。
主にアメリカで研究が進んでいる、心理的見地から犯人像を推理する捜査方法だ。
犯行の状況から加害者の行動と心境を推測し、犯人の性格や外見、職業、年齢、性別、生活サイクルまで的中させるという試みだ。
ただし、これも確実性には疑問が残っており、日本では参考程度の信用度にとどまっている。本場アメリカですらプロファイリングが大外れした失敗例は多い。
心理係である忠岡は、それを本件で実践したのだ。
「まさか、徹夜で分析していたんですか!? そのために一睡もせず?」
「ご飯も食べてないわー、お腹空いたー」腹を撫でる忠岡。「おかげで肌は荒れるわ目にクマは出来るわで、もークタクタ。お風呂入りたいよー」
忠岡の集中力に愕然となった。
彼女がずぼらな干物女だった理由は、これだったのだ。研究熱心すぎて他のことに頭が回らず、身だしなみが乱れる。声もだらける。
呆れて立ち尽くす徳憲に、遠くのデスクから穂村管理官がバリトンで叫んだ。
「忠岡はな、一つ鑑定依頼をもらうと寝食を惜しんで、何日も泊まり込みで集中してしまう困った奴なのだよ。だから化粧っ気もないし服も汚れてボロボロというわけだ!」
「そうだったんですか……」
「何かあるたび徹夜で一気に終わらせてしまうから、必然的に後半は手が空いて、さも暇そうに見えるわけだ。他の研究員は勤務時間を守っているのに、ほとほと困ったものだ」
忠岡だけ手すきに見えたのは、そんなカラクリだったのか。
彼女も仕事一筋なのだ。
ひとたび火がつくと、私生活を顧みず没頭する――。
(……俺と同じだ)
徳憲もプライベートを捨てて職務に邁進し、検挙記録を打ち立ててスピード出世した。
忠岡が徳憲を気に入った端緒は、二人が似た者どうしだったから――。
「あたしのプロファイリングによるとー、犯人像は若い女性。普段は虫も殺さぬ品行方正で、服装も地味で大人しめな清楚系。服のボタンを全部とめるよーな生真面目さよ」
「女? 連続殺人の犯人が女なんですか?」
「被害者へ馬乗りになったのは、非力な女でも体重をかければ心臓に刃が届くからよー」
また、正面からではなく後ろから組み伏せたことも重要だという。
背後から不意打ちされると、ほとんどの人は応戦できない。人間の目も両手の構造も、正面を想定して出来ているからだ。つまり、背後の方が奇襲は成功しやすい。
「付け加えると、犯人は左利きよー」
「左利き? なぜですか?」
「背中から心臓部を突き刺すには、左手で包丁を持つのが最適でしょー? 右手で包丁を構えたら、腕を斜め前に振り下ろす挙動になるわー。それだと体重を乗せにくいのよー」
「ああ、確かに……」
「さらに、不審な目撃情報もないことから、犯人は現場まで迅速に行き来できる近場の人間に限られるわー。加えて『不審者の目撃』がないのは心理的な盲点でもあるのよ」
「心理的な盲点?」
「不審者は見当たらなかった……逆に言えば不審じゃない人は居たのよー。被害者宅を出入りしても目立たない地味で清楚な左利きの女性――それは惜田小夜ただ一人よー」
「小夜さんが……?」
徳憲は全身を雷で打たれた気分になった。
あの可憐な乙女が連続殺人をしでかしたと言うのか。にわかには信じられない暴言だ。
「小夜って子、左利きでしょー?」
「確かに……左手で調書に署名していたし、握手も左手、俺と手を繋ぐのも左手でした」
「ほーらプロファイリング的中」
「で、でもそれだけで?」
「他にもあるわよー。小夜さんなら普段から母の部屋を出入りしてたからー、指紋や毛髪が遺留してても怪しまれずに済むわー」
「そんな……じゃあ他の二件は?」
「よりを戻したくて再接触したけど、ご破算になった恨みが再燃したんでしょーね。鴨志田との再会が過去を蒸し返すトリガーになったのは、小夜さんの方だったのよ。市販の包丁を足が付かないよーにあちこちで購入して、犯行を計画したに違いないわー」
「うぐ……」たたらを踏む徳憲。「だとしても、三件目の母親を殺す理由が不明です!」
「じゃー試してみよっか?」
忠岡は徳憲の袖を引っ張った。
ずぼらで垢抜けない新人心理係だが、専門分野に関しては確固たる知見を持っている。
「小夜さんが黒幕か潔白か、嘘か本当かを検査するたった一つの冴えた方法があるわー」
「何ですかそれは?」
「聞いたことなーい? 『嘘発見器』よ」
*
プロファイリングの次はポリグラフ検査。先日、年輩の部下と話したので覚えている。
心理係ならではの十八番が立て続けに執行される案配だ。徳憲は捜査本部がある実ヶ丘警察署の取調室に、ポリグラフ検査機器一式を持ち込むよう取り計らった。
ここなら小夜も事情聴取と称して足を運びやすいし、捜査の手続きもすぐ通せる。
「徳憲さん、今日はどんなご用件ですか?」
待ち合い室で向き合った小夜は、徳憲をまっすぐ見定めた。
「小夜さんにポリグラフ検査を受けていただきたいのですが、これは事前に被検者の同意書が必要で、断っても構いません。俺はお勧めしません……」
「でも、それが捜査に必要なんですよね?」
小夜に問われ、徳憲は言葉に詰まる。断って欲しかった。誤診で有名なポリグラフで冤罪を吹っかけられたら目も当てられない。
徳憲をこんなに慕ってくれる彼女を、犯罪者にしたくない。デートの約束もあるのに。
「判りました、受けます」
「いいんですか!?」
「はい」左手で同意書に署名する小夜。「それで私の疑いが晴れるなら……第一、ポリグラフって正式な証拠にはならないと聞いたことがあります。私は平気です」
ポリグラフは絶対ではない。人の心を見透かすという不確定な代物は、過去に誤認逮捕をいくつも起こしている。近年は精度も上がっているが、信用度は低い。
「では……こちらへどうぞ」
徳憲は小夜を取調室へ案内した。
小夜は彼の手を繋ぐ。もちろん左手だ。
いくつかある取調室のうち、一番奥にある薄暗い角部屋が決戦の場に選ばれた。窓からの採光が少ない、建物の日陰だ。
室内の机上にはポリグラフ検査機器が並べられ、ちんまい白衣姿の女性が点検をこなしていた。薄汚れた瓶底眼鏡を指で押し上げ、ニヒヒと品のない笑みを湛える。
「よーこそ。あたしが検査官を務める忠岡でーす。よろしくー」
「……この方が科捜研の学者なんですか?」
小夜は露骨に渋面をかたどった。
無理もない、外見と言動がとても社会人には見えないからだ。
「失礼ね! あたしは心理学博士号を持ってるしー、臨床心理士や公認心理師も取得してるってば! もちろん法科学研修所で『鑑定技術職員養成ポリグラフ課程』も修了して、国のお墨付きももらってるわよー」
何やらご大層な経歴が語られた。
よく判らないが、検査技術と適性は備わっているらしい。眉つばではあるが、ここまで来たからには中断するわけには行かなかった。
徳憲はワイシャツの襟を正し、せいぜい小夜に笑いかけた。
「ここで行なう質問は全て、あらかじめ俺と忠岡さんが検査用に作成した内容です。事件に不必要なことは一切触れませんから、安心して答えて下さい」
「はい……」
「返答は全て『いいえ』でお願いしまーす!」
「いいえ、ですか?」
「解答を統一しないと、公平な判定が出来ないのでー」
忠岡は小夜を椅子に座らせ、体のあちこちにセンサーを貼り付けた。
センサーはコードで各検査機器に接続されている。それぞれ、脈拍やまばたきの回数、肌を走る皮膚電気信号、呼吸波と言った項目を測定する。
人が嘘をつく際、脳から特殊な命令が発せられ、筋肉の緊張や鼓動の上昇、目が泳いだり呼吸が乱れたりと言った異変が生じる。それを余さず記録するのがポリグラフだ。
「検査を始めまーす。質問その①、あなたの名前は惜田小夜ですかー?」
「……いいえ」
約束通りに否定すると、ポリグラフが大きく反応した。正解なのに嘘をついたからだ。
(これが、虚偽を答弁したときの測定値か。今後の基準となる反応だ)
今のと同じ反応が検出されれば、小夜が嘘をついたかどうかが判るという寸法だ。
「質問その②ー。あなたは犯行現場でクラシックが流れたことを知っていますかー?」
「……いいえ」
これも反応あり。
順当な結果だ。クラシックが流れていたことを知らないはずがない。鴨志田の炎上動画で、世界中に拡散されたのだから。
(ポリグラフの質問は、徐々に事件の核心に触れて行く。犯人しか知り得ない質問に反応すれば、それが決定打となる)
「質問その③ー。クラシックが流れた理由はー、殺害の物音を掻き消すためですかー?」
「……いいえ」
反応がなかった。
徳憲は目を瞠った。どういうことだ? 小夜は以前、クラシックが鳴った理由について推論していたではないか。あれは本心ではなかったのか?
「質問その④ー。犯行現場でクラシックが流れた理由はー、鴨志田が第一発見者を装うための仕込みだと思いますかー?」
「……いいえ」
また反応がなかった。
今の質問も、小夜が推理していたものだ。全て口から出任せだったのか? 徳憲は目の前の出来事が信じられなくなった。
「質問その⑤ー。犯行現場でクラシックが流れたのはー、被害者である悟中愛子が死に際にリモコン操作したものでー、犯人の行動ではないと思いますかー?」
「……っ! え、い、いいえ……」
小夜が大いに動揺した。
妙に具体的な問いかけに度肝を抜かされたのか。いや、違う。まるで全てを見抜いたような質問文が、小夜の無垢な仮面を打ち破ったのだ。
ポリグラフがついに反応する。あらゆる測定器がゲージ一杯に針を振り切る。小夜はまばたきもせず、全身の筋肉を強張らせ、息を止め、早鐘を打ったように心拍が上がった。
(嘘をついている……!)
小夜の華奢な肢体が悲鳴を上げている。
いいえと否定すればするほど、ポリグラフが虚偽を看破する。
小夜は知っていたのだ――あのクラシックが『被害者が鳴らした音』だったことを。
「何がどうなっているんですか忠岡さん!」
「なーにうろたえてるの忠志くーん? 小夜さんは、わざと心にもない③と④の推理を忠志くんに吹き込んで、鴨志田に罪を着せよーとミスリードしてたのよー」
「ミスリード……!」
「けど、真実は⑤――被害者自身が発信した『ダイイング・メッセージ』だったのよー」
「ダイイング・メッセージ?」
ちんぷんかんぷんだ。衝撃が強すぎて、思考が追い付かない。
「小夜さんは他の二件と同様、心臓を刺して逃げたけどー、母親は即死しなかったのよ。かと言って余力もない……せーぜーリモコンを取って、音楽プレイヤーのリストにあったモーツァルトのセレナーデ第十三番を大音量で周知するのが手一杯だった」
「どうしてモーツァルトを?」
「セレナーデ第十三番の正式名称は、小さな夜の曲――『小夜曲』ってゆーのよ」
「小夜!」
ターンタ・ターンタ・タタタタタン。
被害者が犯人を告発するダイイング・メッセージ。
文字に書き起こすと間抜けな旋律だが、一度聴いたら忘れられない『力強い言葉』だ。
「ポリグラフは誤診も多いと聞きました」ごまかす小夜。「これも信用できませんよ、徳憲さん! 私を信じて下さい!」
「ううっ……ちょっと忠岡さん! どうして小夜さんなんですか?」
「彼女はエレクトラ・コンプレックスだからねー」
エレクトラ。
以前も聞いた心理学用語だ。あれは伏線だったのか。
「エレクトラ・コンプレックスは、パパ大好きな娘が逆にママを疎んじて、ついには殺しちゃうってゆー歪んだ心理状態なのよー」
「母を殺す心理!?」
「そ。エレクトラは古代ギリシャ悲劇の女王にちなんだ名称よー。小夜さんは重度のパパっ子だったらしーし、離婚後も父方に付いて行った……エレクトラにぴったりよねー?」
「わ、私は……」
小夜はついに反論を詰まらせた。忠岡は気にせずまくし立てる。
「先の二件でオフパコの三角関係を抹殺した小夜さんはー、自分を愛してくれるのは父親しか居ないって再認識したんじゃなーい? 再会した鴨志田もクズのまんまだしー、父への愛が極限まで高まった小夜さんは、母の存在を疎むよーになったんだわ。大好きな父を捨てて離婚した母なんか、もー殺しちゃおー、ってね」
母を殺したい心理に支配された小夜は、憎き鴨志田に濡れ衣を着せることも視野に入れ、三件目の事件を起こしたのだ。
「ごめんなさい、徳憲さん……私はあなたと、デート出来なくなりました……」
それきり小夜は黙りこくった。椅子に座ったまま塞ぎ込むと、さめざめと涙を流す。
本来、ポリグラフ検査は余計な私語を挟んではならない。よって、この検査も無効となるだろうが、それは些末なことだ。小夜は自供した。もはや言い逃れは出来ない。
事件は、幕を下ろしたのだ。
*