警察総合庁舎の七階にある科捜研は、総勢約八〇名から構成される警察屈指の頭脳派集団だ。ただし彼らは研究職なので逮捕権や捜査権限は有さず、刑事部の依頼に応じてのみ事件に関与できる。
依頼するには、第一法医科を介さなければならない。証拠品を鑑定したい場合や、研究員を捜査現場に随行させる臨場要請も、必ず第一法医科で申請する必要がある。
徳憲は窓口で鑑定依頼を提出した。
今まで何度か捜査主任をこなしたが、科捜研へ踏み込んだのは初めてだ。いつもは書面上の手続きだけで事足りていたから、じかに内部を視察できるのは新鮮だった。
「犯人像のアドバイスを頂戴できればと思いまして、心理係の方と話せないでしょうか」
心理係の管轄は文書鑑定科なので、そこの管理官に話を通す必要がある。
受付は文書鑑定科に内線をつなぎ、やがて目通りの許可を得られた。
「おお、君が徳憲くんか。自分が文書の管理官・穂村憾十郎だ、よろしくな」
管理官は徳憲より二回りほど年上の、ロマンスグレーがよく似合う壮年男性だった。
重低音の声、涼しげな流し目、彫りの深い鼻梁が自慢のナイスミドルで、いかにも学者然とした白衣をまとっている。今はデスクで書類の捺印に追われていた。
「あいにく心理係は忙しくてな。新人しか手が空いていないが、良いかね?」
「新人ですか」
「ああ。科捜研はめったに求人しないから、新人と言っても二年くらい勤めているが」
入職二年の新人か。欲を言えば刑事事件に詳しいベテランと相談したかったが、新手のウェブ文化に関しては若い新人の方が適任かも知れない。
「では、その方でお願いします」
「ふむ。付いて来たまえ」
穂村管理官は颯爽とデスクから立ち上がるや、白衣を翻して奥へ案内した。
心理係のフロアは文書鑑定科の片隅にあった。文書鑑定に必要な印刷機械やインクの種類を判別する機器、筆圧測定器やら筆跡鑑定資料集やらが所せましと並べられた物陰に、心理係のポリグラフ検査機材が積み重なっていた。
他には心理学に関する蔵書を詰め込んだ本棚が壁一面を埋め尽くし、数名の心理学研究員が机上のパソコンにかじり付いていた。
たった一名だけ、暇そうにポリグラフ検査機を点検している女性が見て取れる。
「おい忠岡。忠岡悲呂」
「あっ、はーい?」
穂村のバリトンに対し、女性は間延びしたソプラノボイスで応じた。
背の低い、だらけた女子である。白衣はぶかぶかで、インナーのブラウスとホットパンツも埃にまみれている。黒髪はぼさぼさで伸び放題、頬にそばかす、野暮ったい瓶底眼鏡など、ぐーたらな干物女そのものだ。
研究にかまけるあまり、身だしなみには気が回らないのだろうか。
「わー。管理官があたしに声かけるなんて珍しーっ!」
「気を引き締めろ。こちらの刑事さんが犯罪心理について相談したいらしい」
「へー、この人がー?」
忠岡は初めて目線を徳憲にぶつけた。
遠慮のない、品定めする眼差しだ。子供のようにまっすぐな双眸は、純粋だからこそ人となりを見透かす鋭さを宿している気がして、徳憲は身震いした。
「初めまして、徳憲忠志と申します」
「わー礼儀正しー」手を叩く忠岡。「いかにも現場の叩き上げって感じ。あたし気に入っちゃった」
「だから騒ぐな、気を引き締めろ」
穂村が、飛び跳ねる忠岡の頭を押さえ付けた。
まさに聞き分けのない子供だった。本当に正規の研究員なのか? 科捜研と言えば大学院や専門機関での業務経験を持つエリートしか採用されない狭き門だ。さらに警察学校で座学も修了しなければならない。このちんちくりんな女性が、それをクリアしたのか?
「ねーねー、タダシってどー書くの?」
「忠実のチュウに、ココロザシです」
「あたしの忠岡も『忠』の字があるよー。ちょっと運命感じちゃうね、気が合うかも!」
同じ字があるから何だと言うのだ。
徳憲は失笑するしかない。同じ字なら鴨志田だって『志』が共通している。しかし徳憲は、あいつと同類に思われたくない。
「忠岡さん、静かにね」
デスクにかじり付いていた他の研究員がたしなめた。
「そんなだから一人だけ暇になるんだぞ」
辛辣な物言いである。忠岡は「はーい」と返事しつつ、あっかんべーをした。子供か。
「では頼んだぞ」
穂村は遠ざかり、徳憲と忠岡だけが取り残される。
「じゃー行こっかー」
「い、行くってどこへ?」
「休憩室ー。ここじゃ腰を据えて話せないでしょ」
忠岡は右手をぐいぐい引っ張って、科捜研の入口まで引き返した。
脇にあった休憩室へ立ち入る。まだ休み時間ではないため、誰も居ない。ベンチと自販機が並べられているのみだ。
忠岡は白衣をなびかせて歩き、ベンチの真ん中に小さな尻を落とした。徳憲はその正面に向かい合って座る。
「あれー? 隣に座ってもいーのに」
「いや、そういうわけには……」
「対面して座る人ってー、これから正面切って話がしたい強張った心理の表れなのよね」
唐突に心理学を講釈された。
徳憲が図星を差される間も、彼女は幼い口調に似つかわしくない専門知識を衒学する。
「隣に座る人はー、距離感の近い友人や恋人。斜め向かいに座る人は、それほど親しくないけど肩肘張らずに接したい心理ねー。これは会議や集会にも使える豆知識よー?」
「そ、そうですか」
いきなり先制攻撃を喰らった気分だ。
忠岡は徳憲を牽制している。心理学の披露に見せかけて、あたしを舐めるなよと警告したのだ。
「今日は忠岡さんに相談がありまして……」
「知ってるー。実ヶ丘市の連続殺人よねー」
「え? なぜそれを」
「さっき鑑定依頼の品がぞろぞろ入荷されてたしー、捜査主任が新進気鋭の若手警部補だって噂になってるよー?」
「俺、そんなに有名ですか?」
「検挙記録持ちだもんねー。デキる男は見られてるものよ」
忠岡はいたずらっぽく笑った。こまっしゃくれたガキのような笑い方だ。
「失礼ですが、忠岡さんって何歳ですか?」
「二九だけど?」
「俺とタメかよ……」
「忠志くんもギリ二〇代? あたしにぴったりじゃーん。今度どこか遊びに行こーよ」
「は? 今は仕事中ですよ、真面目にやって下さい」
「ぶー。つまんないのー。SNSとかならごく普通のお誘いなのにー」
SNS。
ウェブ文化の一つだ。個人がリアルタイムにメッセージを送り合えるツールの総称。知らない人にも気軽に声を掛けられる距離感の狭さは、いかにも今どきの若者文化だ。
忠岡も、そうしたウェブ文化の申し子というわけか。子供じみた言動も得心が行く。
徳憲は話が逸れないよう、一心不乱に事件のあらましを語って聞かせた。小夜のこと、鴨志田のこと。その間、足をぶらぶら揺らしていた忠岡は、話が終わるなり手を叩いた。
「よーし、判った!」
「な、何がですか忠岡さん」
「忠志くんさー、その小夜って子にほだされてるでしょー?」
言い当てられて、たまらず徳憲は顔面が熱くなった。
「ほーら大正解」
「い、いや、別にそういうわけじゃ……むしろ小夜さんが勝手に懐いて来ただけで……」
「うわー、ベタな言い訳」膝の上で頬杖を突く忠岡。「劇的な再会をして心惹かれちゃったのねー? その小夜って子、筋金入りの年上好きじゃなーい?」
「小夜さんが年上好き?」
「その人、パパっ子なんでしょー? 父方の姓を名乗るのも『ファザコン』だからよ。世代の離れた年上が好きなのよー」
「ファザコン……ファザー・コンプレックスですか」
「彼女がオフパコで会った男性は三〇代の年上ばかりー。鴨志田も三〇代よね?」
確かに年上だらけだ。対して女性は若い二〇代ばかり食われていた。
徳憲も誕生日が来れば三〇歳になるから、小夜より一世代だけ上ということになる。
「ファザコンは正式な心理学用語じゃないけどー、フロイトが似たよーな論説を残してるわねー。ユングは近しー名称として『エレクトラ・コンプレックス』を発表してたわ」
エレクトラ?
知らない専門用語を羅列されても返答に窮する。
とりあえず、娘が父親を慕う複合心理なのだろうと理解して、徳憲は話を進めた。
「小夜さんが年上男性との出会いを求めた結果、女漁り中の鴨志田にちょっかいをかけられた、と?」
「そーなるわね。小夜さん、過去にも交際経験がありそーだわ。他の二件も、小夜さんと交流してたんじゃない?」
「かつてオフ会に集まったメンバーですから、ウェブ上でも交友があったとは思います」
そこをもっと掘り下げろ、と忠岡は示唆しているのだ。
「いーい忠志くん? 若者は大人が考えるよりも刹那的で、今が楽しければそれでいーのよ。リアルに影響がないウェブだけの関係だからこそ、心置きなく羽目を外せるのよー」
リアルの知人が相手だと、どうしても噂が立つ。その点、ウェブは一時の快楽に身をゆだねてもインスタントに使い捨てしやすい。
「確かに……そうした短絡的な欲求は、スマホでより身近になりましたね。出会い系アプリが流行し、それが規制されたあとはSNSや動画サイトが新たな温床になっています」
「そーゆーこと。理解できた?」
忠岡は黄ばんだ歯を見せて朗笑した。ずぼらな干物女だが、その慧眼は確かだ。
「……俺、もう一度、鴨志田と小夜さんに聞き込みして来ます」
「おー。頑張ってねー」
何とも奇矯な女性だったが、おかげでいくばくかの光明を見いだせた。
徳憲は礼を述べてから、脇目も振らず出口を目指す。
「ひゅー。クールに去る姿もかっこいーね」
本気で忠岡に気に入られたようだった。
*
徳憲がアパートの三階を訪問すると、すでに先客が喧々諤々に口論していた。
鴨志田と、小夜だ。
小夜は母の部屋を様子見に来たのだろう。目立たぬよう地味な暗色系シャツとフレアスカートを着ていたが、それでも隣室の鴨志田にめざとく絡まれてしまったようだ。
「なぁ小夜ちゃん。俺、この間の死体動画がものすげぇバズってさ、広告収入で向こう三ヶ月は遊んで暮らせるわけよ」
「だから何ですか。不謹慎な動画が炎上しただけのくせに」
「炎上だろうと何だろうと、俺は昔の人気を取り戻した! 三年前のことも水に流してやる。他の二件も、あのオフパコ参加者だったよな? あいつらとお前の秘密を警察に話されたくなきゃ、言うことを聞――」
「こっちに来ないで!」
小夜は反射的に鴨志田の頬を引っぱたいた。
甲高い炸裂音がこだまする。一瞬の静けさ、そして鴨志田の笑い声。
「ははは! いい度胸だなてめぇ。覚悟は出来てんだろうな――」
「ぜひ俺も聞きたいな」
「――なぁっ!?」
徳憲は駆け足で三階に躍り出るなり、小夜をかばうように体を滑り込ませた。
鴨志田の魔手は小夜に届く寸前で、徳憲にあえなく払いのけられる。
「徳憲さん!」
「こんにちは、小夜さん」肩越しに振り返る徳憲。「刑事は現場百回が基本です。今日も聞き込みに来たのですが、とんだ修羅場に出くわしましたね……おい鴨志田!」
「な、何だよ」
「今『あいつらとお前の秘密』と言っていたな。何か知っているのか?」
「けっ。そこの女に聞いたらどうだ? 何しろ当事者なんだから。その女の交際経験、男の遍歴がつまびらかになるぜ」
「何だと?」
徳憲は絶句した。
小夜の交際経験――それは先刻、忠岡からもほのめかされた懸案だ。
二の句を継げない徳憲へ、小夜が観念したように口を開く。
「殺された恨辺芯一さんは三三歳。私より一回りほど年上でした」
動画配信者は、若者が動画に群がる心理を利用し、女をよりどりみどり漁れるという。
「私は元々、恨辺さんと交際していました」
「え!」
「恨辺さんが夜の街を徘徊するスリリングな配信は、私の知らないサスペンスに満ちていて夢中になりました。でも……」
でも。
小夜の表情が曇った。目を伏せ、唇を噛み締め、拳をわななかせる。一向に続きを話さない彼女に業を煮やした鴨志田が、フンと鼻を鳴らした。
「じれってぇな! 刑事さんも察しただろうが、ユーチューバーは動画に食い付いた若い女を引っかけて遊んでんの! 殺された恨辺もその一人さ! 小夜ちゃんは昔、恨辺に遊ばれたんだよ。へへっ、青春の一ページが台なしだなぁ?」
「…………」
「で、恨辺が小夜ちゃんに飽きて、次に付き合い始めたのが惑井懍だったのさ! 小夜ちゃんが三年前のオフパコに参加した理由も、恨辺と復縁するために惑井へ別れるよう頼むのが目的だったんだろ?」
「……そうよ」緩慢に相槌を打つ小夜。「それを鴨志田に斡旋してもらった、というのがオフ会の真相。対価として鴨志田は、私の体を要求して来たけど……」
しかし小夜はホテルから逃げた。恨辺も惑井も説得できなかったので、斡旋は無効だ。
(嫌な話を聞かされたな)
徳憲は頭が痛くなった。そうまでして動画配信者にすがるのか。画面に華々しく映る異性を特別視するのは人の常か。
いつの時代もそうだった。舞台役者、ラジオスター、テレビのアイドル。メディアで拡散される最先端の演者は、いつだってモテた。
現代では、その最先端が『動画配信者』なのだ。
「そんなことのために、下らない動画を血眼になって見続けるのか……」
「そんなこと、だぁ?」
鴨志田が徳憲に額を小突き合わせた。
喧嘩腰で反撃されたので、徳憲も臨戦態勢に入る。
「何だ鴨志田、反抗する気か? 公務執行妨害になるぞ」
「動画を馬鹿にするな!」眼前で猛る鴨志田。「俺たちは動画一つに命張ってんだ! どんなに不道徳だろうと、不謹慎な炎上動画だろうと! そこには覚悟が、信念が、矜持があるんだよ!」
「はっ。素人の動画撮影に覚悟だって?」
「動画は、やったもん勝ちだ、目立てば勝ちだ。犯罪スレスレだろうと、覚悟キメてバズらせたもんが勝つんだよ!」
「バズる……って何だ?」
「視聴者が爆発的に増えることだ! だから炎上大歓迎! リスクを判った上でやってんだ! 部外者にとやかく言われる筋合いはねぇ!」
下衆には下衆のプライドがあるのか。
悪の美学とも違う、低俗な誇りだが、そこには彼らなりの信条が込められている。
「断っとくが刑事さんよぉ、俺様はただの第一発見者だ。俺様を疑ってんなら無駄だぜ」
「…………」
「てことで、俺様はそろそろ動画編集の仕事をしなきゃいけねぇから帰るわ。じゃあな」
302号室へ引っ込んだ鴨志田は、当てつけのようにけたたましく扉を閉めた。
嵐が過ぎ去ったように、無音がのしかかる。
「何だったんだ一体……言いたいことだけ言って退散かよ」
「あ、ありがとうございます徳憲さん」腕にしがみ付く小夜。「徳憲さんが来なければ、鴨志田に何をされていたか判りませんでした。余計な事情も明かしちゃいましたが」
「いや、俺は当然のことをしたまでです」
謙遜する徳憲だったが、小夜の意外な過去と側面を知ったのは事実だ。
動画一つでここまで話がこじれるのか。そして彼女の年上好きは本当らしい。
「小夜さんは父親を慕っているんですよね」
「はい……うちは共働きで、いつも父が母より早く帰宅していたので、昔から父にベッタリでした……」
パパっ子の原因は、幼少時の単純接触回数だった。刷り込みのようなものだ。
「母は休日にピアノを教えてくれたりしましたけど、私には音楽の才能がなくて……クラシック音楽も好きになれませんでした」
「クラシック……!」
徳憲は思い出した。
殺された母・悟中愛子はクラシック鑑賞が好きだった。死に際に流れていた曲もそうだったし、音楽プレイヤーの横には多数のクラシックCDが収納されていた。
「なぜ被害者の部屋で、クラシックが大音量で流れていたのか……」
徳憲はまだその答えを出せていない。
それは自問でもあったが、眼前の小夜に対する問いかけのようにも聞こえたため、彼女は小首を傾げつつも話を合わせてくれた。
「犯人が母を襲撃する物音を、大音量で掻き消すため、とか……?」
「なるほど。騒ぎを隠す措置か」
「と言っても、その音楽がうるさいせいで早期発見に繋がったので、あまり意味ないですけど……あ! なら、これはどうですか?」
小夜がブレインストーミングよろしく次々と新案を発表した。
「私は鴨志田を疑っています。奴が第一発見者を装うために自作自演したのでは……?」
「自作自演!」虚空を見上げる徳憲。「悟中さんを殺したあと音楽をかけ、自室に戻って自撮りを開始する。さもクレーマーの振りをして突撃し、第一発見者を演じた、と?」
「はい。こうすれば鴨志田が最初に母の部屋へ押し入った形跡もごまかせますよね」
鴨志田の指紋や毛髪が遺留していても、死体発見時に落ちたのだと言い逃れが出来る。
「しかし小夜さん、鴨志田が隣人を殺す目的は何ですか?」
「低迷中の動画再生数をバズらせるためです。隣人なら死体の早期発見も自然ですし」
そうだ。鴨志田は再生数を復調させるためなら、炎上大歓迎だと語っていた。
殺人事件において「第一発見者をまず疑え」はよく言われる鉄則である。小夜に遺恨を抱く鴨志田が、彼女の母に標的を定め、死体発見という炎上動画で復活を試みた――。
この『ストーリー』はあり得そうだ。
「感謝します、小夜さん。おかげで捜査の『ストーリー』が出来上がりました!」
徳憲は両手で、小夜の左手を強く握りしめた。
しばし見つめ合った二人は、どちらからともなく頬を染める。やがて小夜が呟いた。
「徳憲さん……この事件が解決したら、私とデートしてもらえませんか?」
「え?」
「私は動画サイトから足を洗って、生まれ変わりたいんです。かつて私を救ってくれた徳憲さんと、新たな人生を歩みたい……私と付き合って下さい!」
*