しばらくすると、「こっち!」と言って少女が右に曲がった。もう分かる道に入ったのだろう、真冬を引っ張って少女はぐんぐん進んだ。
無事、お家に帰してあげられそうだ。真冬はほっと息をついた。
「このおうち、へいにいつも、ねこさんがいるよ! しましま!」
「今日はいないね、残念。」
少女はあちこち指さして色々教えてくれる。自分の方はまだ迷子だが、心に余裕が出てきて真冬はにこにこ笑った。
「ぞうさんのこうえん!」
「うん。」
滑り台かな。少女の指の先へ視線を投げて、真冬は凍り付いた。
公園をぐるっと囲む花壇は赤とオレンジのレンガで組まれていた。植わっている低木はツツジだ。緑がうっそうとしている。少し手狭なレクリエーションスペースの、その向こうにでーんと鎮座している小山。ゾウの滑り台だ。最近塗り替えたようで、体の空色は鮮やかで黒い丸い目がぱっちりしている。鼻先の砂場の中に、ワニの形のベンチが二匹泳ぐように並んでいる。
真冬はそれを知っていた。
男の子達がよくワニの上で押し相撲するので、ズボンを砂だらけにしていた。ある日、真冬も参加してみたが、すぐに負けて砂場に落ちてしまった。母は悲鳴をあげた。
――まーちゃん!? 髪の毛までジャリジャリじゃない!? ああ、だめ! 目をこすっちゃだめっ!
慌てて真冬を水道に連行した母は、そのまま丸洗いしそうな勢いだった。
「おねーちゃん?」
少女が呼ぶ。ぎこちなく首を回して、公園へ貼り付けていた視線をはがす。少女を見た。大きな丸い目がぱちぱちと瞬いている。
似ている、だろうか。どうだろう。
「……まーちゃん?」
「なぁに?」
真冬が呼ぶと、少女がこてりと首をかしげた。
もしかして。
幻想を振り払うことが出来ない。
記憶の中、手をつなぐ母と自分の影を追って真冬は歩き出した。引っ張られる少女は不思議そうにこちらを見上げている。
レンガの角を曲がって公園の横を抜ける。並ぶ家々は白壁がザラザラしていたり、門柱の石ブロックがゴツゴツしていたりと、どこにでもあるような家ばかりだ。その色味を、並びを、よく見知っているようで真冬の胸はざわついた。
十字路を一つ抜けて、次のT字路を真冬は左に曲がった。そしてさらに左手側に家が二つ並んでその先に、アパートが一つ立っていた。
駐車場を挟んで道路へ向く横に伸びた長方形で、外壁は黄色の強いクリーム色のタイルをレンガのように組んでいる。真ん中が凹の字のようにくぼんでいて、そこから階段の端がのぞいているのが見えた。真冬の”記憶”が正しければ、あのくぼみは玄関ポーチで、一階と二階にそれぞれ二つずつドアが並んでいるはずだ。
「おうちだー!」
ぱっと手が離れた。一台しか車の停まっていない駐車場を少女が斜めに駆けていく。揺れるウサギのしっぽを真冬は追いかけた。
押さえた胸が早く打っているのが分かる。ドキドキと全身に響く音に支配されて他の一切が遠くなる。夏の音も、じめっと暑い空気も、靴裏の固いアスファルトも、何もかも。
「ママー! パパー!」
駐車場からポーチへ上がる階段に、少女が足を掛ける。
「マツリっ!」
怒鳴るような声がビリビリと二人にたたきつけられた。真冬は体をすくめた。少女が振り返って目をまあるく見開いている。
横から走り込んで来た大きな影ががばりと少女に飛びついた。影、男性は背を丸めて少女を抱き込んだ。
「何やってんだバカ! どこ行ってたんだ! すげー探したわ、めっちゃ探したわ!」
「あのね、ジュースがね、」
「公園もいねーし、幼稚園もいねーし、電話掛けまくったわ!」
「パパー、おねーちゃんがね、」
「そうだ電話! いや、ここ家の前じゃん!」
第一声と変わらぬ音量でまくし立てていた男性がぱっと立ち上がる。ズボンの後ろポケットに手を当てた所で、ここがどこなのか認識したようだ。
「パパ、おねーちゃん。」
少女がぐいぐいと男性の手を引いた。男性が見下ろす。
「ん?」
「おねーちゃん、おうちつれてきてくれたの。」
少女が真冬を指さす。それを追って男性がこちらを見た。つり目を遮る銀フレームの眼鏡を見て、真っ白にフリーズしていた真冬の頭がようやく外界を認識した。
すうっと熱が引いた。
違う。
真冬の記憶の中でも写真の中でも、父は眼鏡なんてしていなかった。父の目は丸くて、この男性のように目尻がつり上がってはいなかった。
肩から力が抜けた。ずり落ちたカバンが腕と腰の間にかろうじて引っ掛かった。このままだとアスファルトに崩れてしまいそうで、脚に力を入れて真冬自身も何とか留まった。
少女と手をつないで男性が傍に寄ってくる。
背丈も違う。父は伯父と背が変わらなかった。伯父の背は今の真冬より頭半分くらい高いだけだ。だから、仰がないといけないほど高いはずがない。
真冬はため息をぐっと飲み込んだ。
「ありがとう。娘が世話になったみたいで。」
男性が軽く頭を下げる。アパートを振り返った。
「うち、すぐそこなんだ。家内もいるはずだし、何かお礼を。」
真冬は軽く首を振った。
「……いえ。大したことはしてませんし、もう、帰らなくてはいけないんです。」
真冬はカバンのベルトを肩に掛け直すと、屈んで少女の顔をのぞき込んだ。
「もう、ママやパパに黙って出掛けちゃだめだよ。」
「うんっ! ありがとー、おねーちゃん!」
にっこり笑って少女がうなずく。真冬が上体を起こす。
「さよなら、まーちゃん。」
「おねーちゃん、またねー!」
背を向ける真冬へ少女がぶんぶんと手を振る。その様子に目を細めてさっと前を向いた。唇を一文字に引き結ぶ。
何を、考えていたんだろう。
お母さんに会いたいなんて。お父さんに会いたいなんて。会えるかもしれないなんて。
そんなこと、叶いっこないのに。
そんな奇跡、起こるはずがないのに。
二人はもうどこにもいない。
あの子は真冬じゃない。自分じゃない。
自分を抱きしめてくれる人なんて、もういない。手をつないでくれる人なんて、もうどこにも。
「山野田っ。」
足が、止まった。真冬はゆっくりと振り返った。眼鏡の奥から真っ直ぐに、男性の目が真冬を捕らえていた。
どうして彼は知っているのだろう。真冬の上の名を。
父親譲りの丸い目を見開いて見つめ返す真冬へ、男性が一度うなずいた。
「俺とマツリがいるから!」
男性がつないだ手を上げたから、まだ手を振っていた少女はバンザイのポーズになった。不思議そうに父親を見上げている。
「俺が絶対君を見つけてみせるから。君にたどり着くから。だから、だから君も、君が歩くこの先をどうか諦めないでくれ。」
この人は、何の話をしているのか。
聞き返そうと、男性に向き直ろうと真冬は二人へつま先を向けた。けれど、がくりと脚の力が抜けて体が傾いた。
あ、と思う間に意識が遠のく。最後に見上げた青空へ、溶けていく心地がした。
***
ぐらぐらと体が揺れる。暖かいものがやわんわりと肩を包んでいる。
「なあ、駅着いたぞ。」
焦った声が間近で聞こえた。真冬はうなりながら目を開けた。顔を上げると台形のレンズ越しに誰かと目が合って、それがすぐにぱっと離れた。肩のぬくもりもなくなる。
見慣れた電車の中、座席に座った真冬はカバンを抱き込んで眠っていた。目の前に立つ少年が肩を揺すって起こしたらしい。
真冬が座っていることを差し引いても、かなり背の高い少年だ。締めているネクタイは青地に金のストライプが入っている。真冬の学校のネクタイは赤と黒の二種類なので、ジャケットがなくても違う学校の人間だと分かる。
ぼんやりと彼を見上げていると、眼鏡の向こうのつり目がちらっと真冬を見た。
「降りないのか?」
「え?」
真冬は少年の背後へ目を向けた。車窓の外に大きく駅の名前が掲げられている。
「うわああ!? 降ります! 降ります!」
真冬は悲鳴をあげて立ち上がった。少年がびくっと後退る。ぐりんっとカバンを振り回すようにターンしてドアをくぐる。幸いなことに乗車する人がいなくてあっさり降りることが出来た。
真冬が点字ブロックを超えると同時に、ぷしゅーっとドアが音を立てた。その音を背に、真冬はふーっと息をついた。ガタンっと電車が動き出す。
「あ! お礼言ってない!」
慌てて振り返るが窓も車両ももう遠く、とっくにホームから離れていた。銀色の車体が曲がって家屋の影に消えるのを真冬は見送った。
どうしよう。
ぐるぐると頭を巡らせている内に思い出した。あの少年には見覚えがある。朝、電車に乗ると同じ車両に既に乗っている人だ。長い体を窮屈そうに縮めてつり革の、それをつなぐ棒の方をつかんでいるので目立つのだ。
もしかしたら明日も会えるかもしれない。忘れないようにしよう。
カバンを肩に掛ける。人がぎゅうぎゅうと押し寄せている改札に向かって、真冬も歩き出した。ケータイの画面を見ると、予定していた帰宅時刻よりも大分遅くなってしまっていた。
まさか、一度寝過ごしてしまったのだろうか。伯母になんと言おう。
もう陽が傾いて空に橙色がにじみ始めている。いつもなら憂鬱になるその色が怖くない。学校を出た時はあんなに気持ちが塞いでいたのに、一体どうしたのだろう。
真冬は首をかしげた。
何か、夢を見た気がする。顔を上げた時、全て弾けて消えてしまったけれど。
カバンのベルトを握る手が熱を持っている。
「うん。」
真冬はうなずいた。
誰に対してかは分からない。でも、誰かに。
改札を抜ける足取りは軽かった。
END