企画の段階で頓挫したのか、ただひらめいただけで膨らまそうとしなかったのか判然としない、プロットも本文もない作品名がノートの隅に転がっていた。

 どうしてタイトルが『傘』なのだろう。
 どうしてそれ以上書き残さなかったのだろう。
 一体ジャンルは?
 登場人物は?

 全てが謎のまま、タイトルだけが書き残されている。

 むろん記憶の中のどの抽斗を開けてまさぐっても、そのようなタイトルの作品を企画した覚えはない。



「ねえ、これって本当に僕が書き残したメモなのかな?」

 念のため、相棒に僕は尋ねる。ひょっとして彼女に対し、かつて構想なりアイディアなりを語っていたかもしれない、と思ったのだ。

「さあ、そうなんじゃないの?」
「でもね、タイトル以外の情報が、全く書き残されていないんだ」

 僕は事情を説明した。しかし彼女はリンゴの皮をむきながら力なく首を横に振った。
 彼女の記憶の中にもこの『傘』は存在しないのだ。彼女は首を振るだけで再びリンゴの皮むきへと意識を集中させた。

『傘』というタイトルに魅力がないということの証だ。
 関心を寄せさえしない。
 それは僕とて同じだ。
『傘』、だけのタイトルに誰が惹かれる?

 しかしだからこそ気にかかるのだ。
 こんな書いた当人でさえ魅力を感じないタイトルをなぜ思いつき(アイディアとさえいえない)、なぜわざわざ書き残したのか。

「そんなタイトルにこだわっていないで、新作の企画を出せば?」

 相棒は苦笑いしながら僕に助言する。すでにそこには皮をむき終えたつやつやと果汁を光らせたリンゴが置かれている。彼女は苦笑したまま、リンゴを等分して皿にのせ、僕に差し出してくれた。

「そりゃあ、ごもっともなんだけどね、気になるじゃないか。何だよ、『傘』って。その時の自分が何を考えていたのかわかりやしないよ」
「何冊目のアイディア帳に書かれていたの?」
「八冊目。僕が学生のころのノートさ」
「じゃあもう十年以上前の話ね」

 彼女はため息をついた。十年以上も前のアイディアにこだわる作家は売れない作家だ、ということを表す暗示的でアイロニカルなため息だ。

 リンゴを頬張りながら、彼女ははっと目を見開いた。

「あの事件のことじゃないかしら?」

 素早く僕を振り返る瞳には、子どものような無邪気さが浮かんでいる。

「事件?」
「あなたの傘が折られた事件よ」

 記憶のベルが鳴らされ、扉が開く気配があった。

「それだ。学校の下駄箱の傘立てに立てていた傘を誰かに折られたんだ」

 小さな事件を思い出した。未だ犯人は分かっていない。

「だけど、それが僕が書くに足るほどの事件なのかな」

 首をかしげた。
 傘を折られたぐらいで、僕はその出来事を書こうと思うだろうか?

 それに事件というよりはほとんど事故のようにして起こった出来事だという感覚があったはずだ。

 つまり、僕はその出来事に心を大きくは揺さぶられなかった。
 だから相棒が言いだすまで、僕は思い出せなかった。

「そうね……」

 それから彼女はいくつかの仮説を提示した。
 相合い傘を意味するのではないか、雨傘運動を意味するのではないか、日傘を差した貴婦人を意味するのではないか――。

「うーん、どれもピンと来ないね」

 残念ながら彼女のどの説にも僕は正解を見いだすことは出来なかった。

 どうしてだろう、なぜ僕は『傘』なんて迷宮入りしそうなタイトルをひらめき、それをノートに書き留めたのだろう……。

「ねえ、ひょっとして、こういう状況こそが私たちにとっての『傘』なんじゃない?」

 数分ほど互いに沈黙した後、彼女がそれを破った。もう皿の上にリンゴはひとかけらも残されてはいなかった。全部彼女が食べてしまったのだ。

「こういう状況?」

 首をひねる。彼女の言葉はミステリアスに過ぎた。暗示的で、茫漠としている。

「そう。こうしてあなたと私が身を寄せ合って、ああだのこうだのと推理し合っている。まるで一本の傘で二人が雨を凌ぐようにね」

 僕は記憶の糸をたぐり寄せる。果たして学生時代の僕が、未来の自分のそんな姿をイメージして、この言葉を書いたのか、否か。――として、止めた。記憶の糸をたぐる作業は、ここでは意味を成さないのだ。
 
 今、僕が成すべきこと。それは、新たな意味づけ作業なんだ。

「そうだ。君のいうとおり、それがきっと正解だ」

 すると予想通り、彼女は満面に笑みをたたえて、僕を強くハグした。嗅ぎなれた石けんの匂いが、僕の鼻いっぱいに広がった。

 これが、正解なんだな。

 僕はぼやけた過去の自分像に語りかける。

『傘』の真意――それは、どんな風にでも意味づけできる言葉。でも決して悪い意味にはなりそうにもない言葉で、僕と彼女を結びつけ続ける言葉。





 それから何日かして当時のブログが見つかり、僕は『傘』という小説の“真の”プロットを発見することになるのだが、まあそんなことどうでもいいじゃないか。


(完)