その夜の夕食は、乙女ゲームの攻略対象者の一人である騎士団長が運んできた硬いパンと、野菜のほぼ入っていないスープだった。
 紺色の髪と瞳を持つ無口でクールな彼は一言「貴方の両親や家族は無事だ」と温度を感じさせない声で告げると、私の口に噛ませていた布を外して「食事をしろ」と促した。
 晩餐も食べていないのだからお腹が空いているずなのに、精神的に参っているせいか、スープをひとくち飲んだだけでも気持ちが悪くなってしまう。
 結局二口目も喉を通らず、それだけで「もう結構です」と食事を終えた。
 その後は眠る気にもなれなくて、遥か遠い小窓の月明かりを眺めて過ごした。
 時刻はもう、真夜中の十二時を回ったところだろうか。
 色々なことに考えを巡らせながら過ごしていると、カツン、カツンと遠くから石畳を硬質のブーツが踏む音が響き始めた。
 足音……? こんな夜中に、誰かしら?
 布を噛まされて手錠をかけられ、さらに鎖に繋がれている状態の自分は『助けて』と悲鳴をあげることも逃げることもできない。
 その上、牢獄の中では魔法も使えないようにされているため、護身術だって使えない。
 カツン、カツンと徐々に近づいてくる足音に、私は身を竦ませる。
 もしも悪漢だったらどうしよう。誰か、助けて……っ。
 目をぎゅっと閉じた、その時。
「エミリア、大丈夫かい? 起きてる?」
 ……その声は、テオドール殿下!
 石造の壁に蜂蜜のような声音が響いたのち、真っ暗闇だった地下牢に暖かいランプの火が灯る。
 ほっと安心した私は、肩に入れていた力を抜いた。
 深緑の正装を身にまとったアルフォンス王太子殿下の双子の弟――王位継承権第二位のテオドール・フォン・ヴァーミリオン殿下が手の中で魔法を使いながら、「こんばんは。悪い夜だね」と戯けたように笑う。
 私に付けられていた手錠や口布が、彼の静かな指の動きだけでさらりと解けるように床に落ちた。
「ありがとうございます、テオドール殿下。ご帰還なさったのですね」
「ああ、少し前にね」
「お帰りなさいませ」
 私の言葉に、彼は小さく微笑みを浮かべながら「ただいま」と返す。
 彼は王太子殿下によく似た金髪碧眼の容姿端麗な美青年だが、長兄のように唯我独尊で棘がある感じではなく、お伽話に出てくるような〝理想の王子様らしい〟洗練された雰囲気をもっている。
 心が温かくなるような声も喋り方も、少し高慢なところがある双子の兄とは正反対のものだ。
 そんな彼は、先祖返りばかりが集まる王太子殿下一派とは友好的ではないようだった。
 ちなみに風の魔力の持ち主である彼は、乙女ゲームの攻略対象キャラクターではない。だから彼には、私の悪役補正が効いていないのだろう。
「生誕祭には案の定間に合わなかったよ。まあ、僕のことなど誰も気にしていないようだったけど」
「私はちゃんと覚えていますよ。お誕生日おめでとうございます、テオドール殿下」
「ありがとう、エミリア。この国で僕の誕生日を覚えてくれているのは君くらいだ」
 テオドール殿下は目を細めてはにかむような顔をしながら、少しだけ寂しそうに肩を竦めた。
 彼は数ヶ月前まで、東の国にある王立魔術学院に三年間留学していた。
 卒業後は周辺諸国を巡り、政治や文化などを学んでいると聞いていたのだが、ようやく帰国を果たしたみたいだ。
 私はカヴァネスに勉強を教えてもらいながら育ったので、学院に通うということが少し羨ましかった。
 この国にも王立魔術学院はあるが、通えるのは王侯貴族や商家など富裕層の男子のみ。
 他国へ行けば女子校もあるが、次期聖女という立場では留学なんて夢のまた夢だ。
 そんな私へ、テオドール殿下は長期休暇で帰国した際に何度もお茶会を設けてくれて、東の国の文化や知識などを教えてくれた。
 東の国は、昔の日本によく似た国なのだが、どこよりも先祖返りの研究分野が発達している。
 私が個人的に書いていた先祖返りを抑える論文も、彼に見てもらっていた。
 ちなみに、我が家にある東の国の文化に関する本の多くは、彼が贈ってくれたものだ。
 私にとってのテオドール殿下は、学び舎の先輩であり兄のような存在だった。
 そんなテオドール殿下も本日十八歳になったはずだが、数十年前まで双子が忌み嫌われていたこの国では、彼の肩身は第三王妃の息子である第四王子よりも狭い。
 もしかしたら改めて生誕祭が行われるのかもしれないが、彼には婚約者候補すら選定されていないので、彼だけの生誕祭が行われるかどうかは正直微妙なところだ。
 うちで盛大に晩餐会でも開けたら良かったんだけれど……。
 三日後に生きているかどうかもわからない自分の身では、残念ながらお誘いすることも出来そうにない。
 彼の生誕祭が改めて開かれることを願うばかりだ。
「それにしても。帰ってくるなり、君のことを聞いて驚いたよ。僕が一日でも早く帰ってきていれば、こんな事にはさせなかったのに」
 テオドール殿下は悔しそうに言って、魔法で牢獄の鉄の扉を開く。
 私は彼の予期せぬ行動に目をパチクリしながら、せっかく扉が開いたというのに、その場から動けなかった。
 彼の話では、私がここに投獄された理由を知っているようだが、これはどういうことだろう?
「えーっと、テオドール殿下、もしかして私を出そうとしてくれていますか?」
「そうだよ? 君は無罪に決まってる。それとも何かやらかした?」
「いえ、まあ、ええと」
 してないと言えばしてないし、したと言われたらしている。
 でもそれは善意で行なったことで、聖女の名を穢したわけでもアーニャを虐げたわけでもないのだが、ここにきて『脱獄』という新たな罪を重ねるのは如何なものかと……。
 正直、死亡フラグを回避できるのは今だと思うし、自分だってむざむざ処刑される気はない。
 むしろ絶対に助かりたい。でも今ここを出てしまって本当に良いの? それで、アイスフェルト公爵家に関わる全ての人が幸せになれる?
 少し考えを巡らされただけでも、私が脱獄すれば状況は悪化の一途を辿るとわかる。
 その上、この国で既に危うい立場にあるテオドール殿下まで、私のせいで王位継承権剥からの国外追放などになったら大変だ。
「……私は無実です。しかし、脱獄すれば脱獄という罪を作ることになりますし、テオドール殿下にも多大な迷惑をお掛けしてしまいます。
 なので、もし宜しければ、私の父の支援をしていただけませんか? きっと明日にも国王陛下に謁見し、議会を開いていただくはずです。その時に、アイスフェルト公爵家の手助けをしていただけたら。それだけで私は十分です」
 まだこの国には自分の味方がいるのだ、と知れたことだけで舞い上がりそうなくらい嬉しくて、明日への希望が湧いてくる。
 牢屋の中で予期せず心が温かくなった私は、煤汚れてしまった真紅のドレスのスカートを両手で軽く摘み、丁寧にカーテシーを行なった。
「お疲れのところ、こんなところまで来てくださって本当にありがとうございます。けれど……私は、テオドール殿下の人生をめちゃくちゃにしたくはありません。どうかこのまま、お帰り下さい」
 そう言って令嬢らしく微笑めば、テオドール殿下は急に真剣な顔つきをする。
 次の瞬間、強引に手を引かれ――私は彼の側に、引き寄せられていた。
 彼に触れられたことが今までにあっただろうか。
 不意に近づいた距離と真っ直ぐに私を見つめる碧色の瞳に、思わず息を呑む。
「て、テオドール殿下……?」
「……いいよ。僕は、君にめちゃくちゃにされても」
 え……っ、えええっ!?
「二人で、このまま東の国に行こう。君も東の文化は気に入っていたはずだ。きっと楽しい生活ができる。僕には亡命先の伝手もあるし、無罪の証明は君の命が助かってからでも遅くはないよ」
 テオドール殿下の突然のご乱心に私の頭は一気に混乱した。
 東の国は着物文化が花開く、日本によく似た文化の国。そりゃあ前世の記憶からしてみれば、住みやすいかもしれないけれど……。
 って、ダメよエミリア。気を確かに持って! 脱獄して、国外逃亡してどうなるの? もしも無罪が証明できなければ二人で処刑されるのに?
 アイスフェルト公爵家にはきっと更なる罪が重ねられて……没落どころじゃないわ。ダメダメ。絶対ダメ! お父様とジェラルドの言葉を信じるのよ。
 もし駄目だったその時は……家族や領地の皆のために、ここでちゃんと罪を償わなくちゃ。
「テオドール殿下、私は」
「――そこまでだ、テオドール。お前ともあろう者が、大罪人の脱獄に手を貸す気か?」
 聞こえて良いはずのない声に、私はハッとして地下牢へと続く階段を見上げる。
「……兄さん。思っていたよりも随分早い到着だね。侵入したことがわからないように、証拠隠滅は完璧にしてきたはずなんだけど。まさかまた先祖返りが進行してる?」
 テオドール殿下は私から手を離すことなく、すっと目を細めて双子の兄を睨みつけた。
 音もなく現れた元婚約者を前に、私は警戒心と虚栄心からきゅっと唇を引き結んで顔を強張らせる。
「今ならまだ見逃してやろう。長期留学から帰国した解放感で、ついお気に入りの令嬢に会いに来たくなっただけ。そう解釈してやる。……それとも、エミリア嬢をこれ以上の危険に晒したいのか?」
 蔑むような声音で、アルフォンス王太子殿下が答えを迫る。
 彼の本気を悟ったのだろうテオドール殿下は、握っていた私の手を静かに離した。
「……彼女を危険に晒す気は無い。でも、せめてこれぐらいは許してもらおうかな。どうやら、僕は帰国した解放感で一杯みたいだから」
 彼は指先をしなやかに握り込むようにして、床に落ちていた手錠や口布を消し去り、私のドレスの煤を払った。
 嫌味のような理由付けに、アルフォンス王太子殿下は不快感を示す。
 けれど食えない微笑みを浮かべたテオドール殿下は、さらなる魔法を使って牢獄のベッドをふかふかなベッドに変えてしまった。
 突如現れたベッドの様子は、昔案内された王太子殿下の部屋で見かけたものに似ている。
 ……いや、そんな、まさかね。
 テオドール殿下はおもむろに上着を脱ぐと、私の肩にふわりとかけてから悲しそうに微笑んだ。
「助けてあげられなくて、ごめんね。今夜は冷えるから……これが、僕の代わりに君を温めてくれますように。……おやすみ」
「あ、ありがとうございます。おやすみ、なさい」
 アルフォンス王太子殿下によって閉められた牢獄の扉から、テオドール殿下が名残惜しそうに離れていく。
 深緑の上着の胸元を握って合わせると、まるで兄が妹を思いやるような優しい温かさに満ちていた。