演劇部では次回公演の準備と稽古が始まった。
応募脚本が採用された一年生部員は、演出の部長や演出補佐の副部長と一緒に役者とやりとりする側に“昇格”した。こうして彼の頭にあった物語世界は、大勢の人間によって目に見える形に昇華されるわけだ。
そして今回のヒロインは一穂。
やっぱりというかなんというか、いまうちの部に彼女以上に華のある女子はいない。きれいなだけじゃなく、堂々と演技ができる女優気質の一穂はみんなが一目置いている。
そんな彼女に、
『すごく好きな世界観。優しさが溢れてた。この物語の大ファンだよ。』
と言わしめた後輩くん。
僕は彼とは話していない。
なんでって、あいつはどうもいけ好かないからだ。
先日あった演劇部全体ミーティングで、顧問から脚本審査にあたった五人の審査員の講評が伝えられた。
後輩くんの書いた脚本は、物語のキャラクターたちが実際の演劇部員ひとりひとりの個性と非常にマッチしていたと。それに、その息遣いが聞こえてきそうなほどキャラが生き生きしていて、演じる部員たちのことを思って描かれていたと。
とくにヒロインは、ちょっと読んだだけで一穂の演じる姿がありありと想像できたと。
――まあ、わたしは独自の世界観を前面に打ち出したコウの作品も面白いと 思って票を投じたがね。ははは。
最後にダンディーな顧問が渋い声でそう付け加えた。
これまで講評の解説時に、誰が誰に投票したなんてことは発表されてこなかった。
それなのに、これはいったい……。
三度も落ちた僕を憐れんでフォローしてくれたのか。
だったら頼む。やめてくれ。
いくら顧問とはいえ、あなたひとりに選ばれたって、同輩先輩の誰からも支持されてないのを後輩同輩先輩みんなに知られるのは悲しすぎるし恥ずかしすぎる。
顧問の最後の「ははは」という笑いだって、
――あ、ヤベ、俺の感性鈍っちゃったかな。
なんていう自嘲だろ。自分のミスチョイスをごまかしてるだけじゃないか。
それに何より、投票者の内訳を伏せてさえいてくれれば、ひょっとしたら一穂が僕を選んだかもなんていう淡い幻想を抱き続けられたのに……。
それにしても――。
選評は裏を返せばこういうことか?
物語のキャラクターと実際の部員たちの個性がマッチしてないから、演じる姿も想像できない。お前が描く人物たちは部員が演じにくい。なぜならお前が 勝手に妄想で描いて気持ちよくなってるだけだから。
こんなときにクソ忌々しい楓の言葉が頭をよぎった。
『共同作業より性に合ってんじゃね?』
そう付け足して小説を書けと言った。
ああ、ああ、どうせ僕は強調性が乏しいのさ。
でもあの後輩くんが優れてるなんて思っていないぞ。
その役を演じる俳優をあらかじめ決めてから脚本を書いただけだろう。そういうのは『当て書き』っていうんだ。商業作品ならともかく、部員にこびへつらって、おもねてどうするんだ。せっかくオリジナル脚本で上演するんだったら独自の世界観打ち立ててみろって。キャラを俳優に寄せるんじゃなくて、まったく別人になりきるのが俳優ってもんだろうが。
くそう。
そういうことをみんなわかっちゃいない。
どうせ一穂なんて、自分がおいしい役を演じられるからあっちに飛びついたんだ。
で、結局僕は、またしても裏方担当。
これまで同様、大道具作りと照明だ。
別にひがんでなんてない。だって、これらの仕事なくして舞台を創造することはできないからね。いわば、重要任務である。
である。――である。――である。
である……だって。
本心のため息が漏れ出た。
だめだ。黙っていても才能を評価された後輩――彼を羨む下劣な気持ちがむくむくと膨らんでくる。
お猪口にも満たない、なんて器が小さい人間だ!
もういっそうのこと、世の中で素敵な大道具を手掛けている美術のプロの方々に「ざけんなよ、セット舐めんな!」って罵倒されちまえ!
毒吐く自分を蔑む自分。
なんともいびつな、僕なりの情緒の保ち方なんだろう。
放課後。
僕はひとり、校舎の屋上で作業していた。
グラウンドからは運動部の掛け声、音楽室からは吹奏楽部の奏でる演奏が聞こえた。
部室は稽古場として使われ、体育館内の倉庫に作業スペースはない。
そこで屋上を選んだわけだ。
四畳半くらいの範囲に新聞紙を広げ、風で飛ばないように重石を置いてある。
その上で、のこぎりを使ってベニヤ板を切ったり、組み合わせたり。
こういう仕事を放課後毎日続けていく。
僕は切ったベニヤにペンキを塗りながら、ここ数日憑りつかれたように書き続けてきた小説のことを考えた。
登校時に偶然見かけた見知らぬ女の子。
彼女とは、高枝から下りられなくなった子猫を一緒に救出した。
一度は昇降口で別れたものの、あとから再び教室に現れた女の子。
その子はなんと同級生でクラスメイトで、そして転校生でもあった。
名前はゆずき。
笑顔がとびっきりかわいくて、ほんとに心のきれいな子。
彼女はすぐに学校生活に慣れ、友達もできた。
でも、時折見せる彼女の切ない表情を僕は見逃さなかった。
放課後、ひとり教室に残っていた僕は、忘れ物を取りに戻ってきたゆずきとばったり会う。そして、何か悩んでいることがあるんじゃないかと、控えめに声を掛けた。
――なんで?
驚くゆずきに僕は、彼女が一瞬だけ見せた悲しげな目が気になっていたのだと伝える。
ゆずきはそんなことに気づくなんて、と意外そうな顔で僕をじっと見つめた。
きっと事情は話したくないのだろう。そう悟った僕は、まだ部活動に所属していなかった彼女を演劇部に誘った。
少し迷っていたけど、雑務くらいなら、と彼女は答えた。
僕の本心を言えば、本当はゆずきに演じてほしい役があったのだけれど……。
でも、彼女にはまだ演技経験がないらしく、しかも転校してきて間もなかったから、あまり無理に勧めることもしなかった。
それから月日が経ち、僕は自分が手掛けた脚本の舞台を成功させ、部員たちから賞賛を浴びた。
打ち上げで行ったバーベキュー。
その日僕は、思い切ってゆずきに告白し、ゆずきは僕を受け入れてくれた。
晴れて彼女と両思いになった。
それからというもの、ふたりでよく、一緒にしゃべったり、勉強したり――。
ぼんやりとゆずきのことを思い浮かべるうちに、自分の顔がニヤけていることに気づいた。
小説はまだ執筆中で、昨日ようやく彼女との仲を深めつつある場面まで書き進めた。
これからの展開をどうしようか。頭の中であれこれと思いを巡らせるのが毎日楽しい。
さっきまで自分の不遇を嘆いてみたが、脚本落選の件も一穂のことも、ゆずきの笑顔を想像すれば些末なこととして忘れられる。
それだけゆずきは特別だった。
彼女こそ、僕にとって理想の子なのだ。
するとそのとき、声がした。
――コウくん。
コウくん……て?
この声はゆずき? なんかやけに現実感のある声音だったけど、気のせいか。
だって、現実世界で僕のことを「コウくん」なんて呼ぶ女子はいないし。
僕はきっと、まだ頭の中でふたりの物語を進めようとしていたようだ。
この妄想ボーイめ、想像ばっかしてないでペンキ塗りの手を動かせ、手を。
「コウくん」
今度は鼓膜にはっきりと届いた。
振り返ると……、
制服姿のゆずきが立っていた。
…………。
放課後の、校舎の屋上で。
僕はひとり、大道具を作っていたはず。
「コウくん、ここにいたんだー」
真っ白なシャツ。胸の前でちゃんと結んだ赤いリボン。そして品よく着こなした紺のベスト。同じ紺のスカートからは白く長い足がすらりと伸びていて。
夢で見たゆずき、そして小説に描くゆずきと同じだった。
僕は震える膝を押さえながらよろよろと立ち上がった。
「あ、あ、あの……」
なんか、舌がもつれてうまく話せない。
「どしたの?」
「あ、いや、えっと……」
彼女が頬にかかった髪を小指で耳にかけ直す。
か、かわいい――。
けど、息が苦しい。……なんだこの気分、吐きそう。
心臓が早鐘を打つ。
めまいがしてきた。
同じだ。全部。
僕の想像と。
――雷に打たれたような衝撃。まさに。
……ゆずき。……ゆずきなのか?
「コウくん?」
彼女が小首をかしげる。
いったい、何が起こってる?
プツっ。
思考停止――。
僕は表情を固めたまま、無言でゆずきの脇をすり抜け、その場から逃げた。
応募脚本が採用された一年生部員は、演出の部長や演出補佐の副部長と一緒に役者とやりとりする側に“昇格”した。こうして彼の頭にあった物語世界は、大勢の人間によって目に見える形に昇華されるわけだ。
そして今回のヒロインは一穂。
やっぱりというかなんというか、いまうちの部に彼女以上に華のある女子はいない。きれいなだけじゃなく、堂々と演技ができる女優気質の一穂はみんなが一目置いている。
そんな彼女に、
『すごく好きな世界観。優しさが溢れてた。この物語の大ファンだよ。』
と言わしめた後輩くん。
僕は彼とは話していない。
なんでって、あいつはどうもいけ好かないからだ。
先日あった演劇部全体ミーティングで、顧問から脚本審査にあたった五人の審査員の講評が伝えられた。
後輩くんの書いた脚本は、物語のキャラクターたちが実際の演劇部員ひとりひとりの個性と非常にマッチしていたと。それに、その息遣いが聞こえてきそうなほどキャラが生き生きしていて、演じる部員たちのことを思って描かれていたと。
とくにヒロインは、ちょっと読んだだけで一穂の演じる姿がありありと想像できたと。
――まあ、わたしは独自の世界観を前面に打ち出したコウの作品も面白いと 思って票を投じたがね。ははは。
最後にダンディーな顧問が渋い声でそう付け加えた。
これまで講評の解説時に、誰が誰に投票したなんてことは発表されてこなかった。
それなのに、これはいったい……。
三度も落ちた僕を憐れんでフォローしてくれたのか。
だったら頼む。やめてくれ。
いくら顧問とはいえ、あなたひとりに選ばれたって、同輩先輩の誰からも支持されてないのを後輩同輩先輩みんなに知られるのは悲しすぎるし恥ずかしすぎる。
顧問の最後の「ははは」という笑いだって、
――あ、ヤベ、俺の感性鈍っちゃったかな。
なんていう自嘲だろ。自分のミスチョイスをごまかしてるだけじゃないか。
それに何より、投票者の内訳を伏せてさえいてくれれば、ひょっとしたら一穂が僕を選んだかもなんていう淡い幻想を抱き続けられたのに……。
それにしても――。
選評は裏を返せばこういうことか?
物語のキャラクターと実際の部員たちの個性がマッチしてないから、演じる姿も想像できない。お前が描く人物たちは部員が演じにくい。なぜならお前が 勝手に妄想で描いて気持ちよくなってるだけだから。
こんなときにクソ忌々しい楓の言葉が頭をよぎった。
『共同作業より性に合ってんじゃね?』
そう付け足して小説を書けと言った。
ああ、ああ、どうせ僕は強調性が乏しいのさ。
でもあの後輩くんが優れてるなんて思っていないぞ。
その役を演じる俳優をあらかじめ決めてから脚本を書いただけだろう。そういうのは『当て書き』っていうんだ。商業作品ならともかく、部員にこびへつらって、おもねてどうするんだ。せっかくオリジナル脚本で上演するんだったら独自の世界観打ち立ててみろって。キャラを俳優に寄せるんじゃなくて、まったく別人になりきるのが俳優ってもんだろうが。
くそう。
そういうことをみんなわかっちゃいない。
どうせ一穂なんて、自分がおいしい役を演じられるからあっちに飛びついたんだ。
で、結局僕は、またしても裏方担当。
これまで同様、大道具作りと照明だ。
別にひがんでなんてない。だって、これらの仕事なくして舞台を創造することはできないからね。いわば、重要任務である。
である。――である。――である。
である……だって。
本心のため息が漏れ出た。
だめだ。黙っていても才能を評価された後輩――彼を羨む下劣な気持ちがむくむくと膨らんでくる。
お猪口にも満たない、なんて器が小さい人間だ!
もういっそうのこと、世の中で素敵な大道具を手掛けている美術のプロの方々に「ざけんなよ、セット舐めんな!」って罵倒されちまえ!
毒吐く自分を蔑む自分。
なんともいびつな、僕なりの情緒の保ち方なんだろう。
放課後。
僕はひとり、校舎の屋上で作業していた。
グラウンドからは運動部の掛け声、音楽室からは吹奏楽部の奏でる演奏が聞こえた。
部室は稽古場として使われ、体育館内の倉庫に作業スペースはない。
そこで屋上を選んだわけだ。
四畳半くらいの範囲に新聞紙を広げ、風で飛ばないように重石を置いてある。
その上で、のこぎりを使ってベニヤ板を切ったり、組み合わせたり。
こういう仕事を放課後毎日続けていく。
僕は切ったベニヤにペンキを塗りながら、ここ数日憑りつかれたように書き続けてきた小説のことを考えた。
登校時に偶然見かけた見知らぬ女の子。
彼女とは、高枝から下りられなくなった子猫を一緒に救出した。
一度は昇降口で別れたものの、あとから再び教室に現れた女の子。
その子はなんと同級生でクラスメイトで、そして転校生でもあった。
名前はゆずき。
笑顔がとびっきりかわいくて、ほんとに心のきれいな子。
彼女はすぐに学校生活に慣れ、友達もできた。
でも、時折見せる彼女の切ない表情を僕は見逃さなかった。
放課後、ひとり教室に残っていた僕は、忘れ物を取りに戻ってきたゆずきとばったり会う。そして、何か悩んでいることがあるんじゃないかと、控えめに声を掛けた。
――なんで?
驚くゆずきに僕は、彼女が一瞬だけ見せた悲しげな目が気になっていたのだと伝える。
ゆずきはそんなことに気づくなんて、と意外そうな顔で僕をじっと見つめた。
きっと事情は話したくないのだろう。そう悟った僕は、まだ部活動に所属していなかった彼女を演劇部に誘った。
少し迷っていたけど、雑務くらいなら、と彼女は答えた。
僕の本心を言えば、本当はゆずきに演じてほしい役があったのだけれど……。
でも、彼女にはまだ演技経験がないらしく、しかも転校してきて間もなかったから、あまり無理に勧めることもしなかった。
それから月日が経ち、僕は自分が手掛けた脚本の舞台を成功させ、部員たちから賞賛を浴びた。
打ち上げで行ったバーベキュー。
その日僕は、思い切ってゆずきに告白し、ゆずきは僕を受け入れてくれた。
晴れて彼女と両思いになった。
それからというもの、ふたりでよく、一緒にしゃべったり、勉強したり――。
ぼんやりとゆずきのことを思い浮かべるうちに、自分の顔がニヤけていることに気づいた。
小説はまだ執筆中で、昨日ようやく彼女との仲を深めつつある場面まで書き進めた。
これからの展開をどうしようか。頭の中であれこれと思いを巡らせるのが毎日楽しい。
さっきまで自分の不遇を嘆いてみたが、脚本落選の件も一穂のことも、ゆずきの笑顔を想像すれば些末なこととして忘れられる。
それだけゆずきは特別だった。
彼女こそ、僕にとって理想の子なのだ。
するとそのとき、声がした。
――コウくん。
コウくん……て?
この声はゆずき? なんかやけに現実感のある声音だったけど、気のせいか。
だって、現実世界で僕のことを「コウくん」なんて呼ぶ女子はいないし。
僕はきっと、まだ頭の中でふたりの物語を進めようとしていたようだ。
この妄想ボーイめ、想像ばっかしてないでペンキ塗りの手を動かせ、手を。
「コウくん」
今度は鼓膜にはっきりと届いた。
振り返ると……、
制服姿のゆずきが立っていた。
…………。
放課後の、校舎の屋上で。
僕はひとり、大道具を作っていたはず。
「コウくん、ここにいたんだー」
真っ白なシャツ。胸の前でちゃんと結んだ赤いリボン。そして品よく着こなした紺のベスト。同じ紺のスカートからは白く長い足がすらりと伸びていて。
夢で見たゆずき、そして小説に描くゆずきと同じだった。
僕は震える膝を押さえながらよろよろと立ち上がった。
「あ、あ、あの……」
なんか、舌がもつれてうまく話せない。
「どしたの?」
「あ、いや、えっと……」
彼女が頬にかかった髪を小指で耳にかけ直す。
か、かわいい――。
けど、息が苦しい。……なんだこの気分、吐きそう。
心臓が早鐘を打つ。
めまいがしてきた。
同じだ。全部。
僕の想像と。
――雷に打たれたような衝撃。まさに。
……ゆずき。……ゆずきなのか?
「コウくん?」
彼女が小首をかしげる。
いったい、何が起こってる?
プツっ。
思考停止――。
僕は表情を固めたまま、無言でゆずきの脇をすり抜け、その場から逃げた。