ゆずきをヒロインにした僕の小説は、昨日のデートシーンまで書きかけて以来、更新していない。
 今日の体育の授業だって、いまふたりでともにしたランチタイムだって。
 それでも彼女は自然に振る舞って。その表情をころころと変えて。とっても楽しそうに、幸せそうにしていて。
 やっぱりゆずきはもう、この現実世界に溶け込んで、存在を定着させたんだろうか。
 それとも僕のほうが、ゆずきのいる世界に染まり、受け入れたんだろうか。
 そんなことを考えていると、
「そういえばね、」
水筒の紅茶を啜っていたゆずきが話題を振ってきた。
「おとといの放課後、コウくんそのまま帰っちゃったあと」
 屋上で初めて、ゆずきの実体を目にして動揺したときのことか。
「あのときはごめん」
「ううん、それはいいの。みんなコウくんの大変さ知ってるし、気にしてないから」
 僕は僕の小説の中でだけみんなに慕われている設定だったから、そんなふうに言われるとそこだけは現実味がなくて、からだがなんだかむずむずする。
「それよりね、あのあと練習中断してみんなでエチュードやったの」
「えっ! それ、誰の発案? 部長?」
「ううん、誰だったかな。なんとなく自然発生的に決まった気がする」
「なんかそれ、悪い予感しかしない」
「そうなのー」
 ゆずきが困った顔で笑った。
 エチュードというのは即興劇のことだ。設定やキャラクターだけならともかく、セリフも全部その場で演じながら考える。役者の対応力や柔軟性、語彙力を養ううえでは必要な練習だった。でも、それは大概――
「収拾つかなくなったんじゃない?」
「うん、もう設定もストーリーもはちゃめちゃになって、みんな演じながらどこに向かってるのかよくわかんなくなっちゃってた」
「そもそもまともに終わったためし、ないしね」
「ないよねー」
 彼女も同調した。
 こういうの、なんかうれしい。
「完全に、『演劇部あるある』!」
 僕が言うと、ゆずきも手を打った。
「たしかに!」
 しかもこれまでの僕は大道具兼照明係だったから、よく起こるこのカオス、冷めた目で外から眺める側だった。役者たちが舞台上でわいわいやってるときの、照明や音響係の疎外感といったら……。
「『演劇部あるある』っていえば、わたし初めてブタカンって聞いたときにすごく誤解してたよ」
「舞台監督のことでしょ?」
「そうなんだけど、最初よくわかってなくて、豚の缶詰だと思ってたの」
「なんで缶詰?」
「わかんない。ひょっとしてそれが好物だからそう呼ばれてるのかなって」
 ゆずきがへへへへ、と頭を掻いた。
 天然な彼女もかわいい。
「まあたしかに演劇部って、あだ名付けたがるけどね」
 ずっと裏方の僕には経験がないものの、役名があだ名になることも珍しくない。
「たまに、自分の役名じゃなくて、ほかのひとの役名があだ名になってるひともいない?」
 ゆずきの問いは、なかなか高度な混迷ぶりを発揮しているウチの部のリアルだ。
「ああ、いるいる。役者ってさ、自分のセリフは覚えられないのに、相手役やほかの役者のセリフはなぜか完璧に覚えちゃったりするんだよね」
 そうして相手の役名があだ名として定着するというねじれ現象が起こるのだ。
「でもそれ、わかる気がするな。わたしも一穂ちゃんが演じてるの見て、けっこうヒロインのセリフ覚えてるかも」
「ゆずも、ヒロインやってみたいの?」
「え、え、違うよ! そんなつもりで言ったんじゃないから!」
 ゆずきが慌てて手を振った。
 彼女にヒロインを演じてほしいのは、僕のほうだった。
 僕が書いた物語をゆずきが演じてくれること。
 それこそ僕の、一番の夢。
 そのとき、
「コウさーん!」
と声が響いた。
 僕を『さん付け』で呼ぶのは演劇部の一年生部員くらいだ。
振り返ると、思った通り、屋上の東屋に現れたのは後輩男子だった。階段を一気に駆け上がってきたのか、少し息を切らしている。
「コウさん、大変です!」
「どうしたの?」
 ゆずきとのツーショットを初めて部員に見られた恥じらいから、僕はすっと立ち上がり、こちらから彼に近づいていった。
「あのっ、一穂さんのっ」
「落ち着いて」
「一穂さんの声が、出なくなっちゃいました!」