「ここのところずっと、町も人が襲われているそうだな」
「恐ろしいことです」
「お前さん、この町の名士なんだろう」
「ええまあ、名目上はそうですが」
「把握していないとまずいんじゃないのか」
「ぼくが、何から何まで、面倒を見ないといけないのですか」
少し憂鬱そうに彼は言う。
綾都のことであれだけ必死になっていたから、他が疎ましくなるのは仕方が無いのかもしれない。
けれど以前見た慎司は、町の人間に対して丁寧に接していた。久我と町の人間は同じ土地に囚われながらも、別のものとしてそこにあった。それでも慎司は、人々と同じであろうとしているように見えたのに。
彼の言葉とも思えないことに、柾は驚きを禁じえない。けれど同時に、妙な納得があった。先刻からの、気だるそうな様子を見れば。
「綾都は、生きているのか」
言葉を口にした途端、横をすれ違うようだった慎司の目が、柾を捉えた。
「無遠慮に過ぎませんか。どういう答えがほしいのですか。あまりにも不躾ではありませんか」
眇められた目が、敵意を孕んだ視線が真っ直ぐに向かってくる。以前、綾都を背負って現れた柾を見たのと同じ目だった。害するものを見る目だ。
「ああ、悪い」
柾は朗らかに、素直に謝った。
「最近誰も、綾都の姿を見ないって聞いたから」
心配になって、と言うと、慎司は表情を和ませた。微笑むのとは違う。以前は悲痛に眉を寄せていることが多かったが、そうではない。悲壮感の漂う、そのくせ悠然とした笑みだ。
「安静にしているからでしょう。今までの方が、おかしかったのですから」
「綾都に会えないかな」
「いえ、それは」
間をおかずに拒絶が返る。
「無理させるつもりはないんだけど。そんなに悪いのか」
「そういうことではありませんよ。綾都もやっと、ぼくの言うことを聞いてくれるようになったというだけで」
「家で雇っていた人間に、暇を出したのだって聞いたが」
「ひとりですることに慣れてきましたので、必要ないかなと」
「前までは医者が多く出入りしていたのに、その様子もないと聞く」
「もっと良い医者を雇っただけです」
「言うね」
柾も笑みを返す。
「だけど、その医者だってここに来るには、町を通るだろう。町の人間は、誰も知らないみたいだけど」
「噂話ばかり好きで、困った人たちですね」
哀れむような吐息がひとつ。
「そう、変な噂話が流れてるよ」
慎司は、何ですか、とは問わない。興味がないということなのだろうか。以前なら、お愛想でもそう尋ねたと思うのに。
「人を食う鬼が出るって」
「何が、おっしゃりたいのです」
「用心しろよってだけ」
「ご忠告、痛み入ります」
「あんたや綾都が姿を見せないから、町の人間が不安がってるんだ。綾都の様子が落ち着いたら、少し散歩でもさせてやれよ」
「そうですね」
「お前さん、様子がおかしいぞ。大丈夫なのか」
「ええ」
何を言っても、慎司は淡々と相槌を打つ。水面をたゆたうように、頼りない笑みをにじませたままで、あやふやに。迷惑がられているのはあからさまで、柾は少し困ってしまった。
それでも、再び問いかける。何よりも、気にかかる問いを。
「綾都は本当に、ここにいるのか」
慎司はもう、過敏な反応を見せることも無かった。風に揺れる花を見遣り、少し睫毛を伏せたまま応える。
「何をおっしゃっているのか分かりません」
考えては、いけない。
「綾都はいつだって、ぼくのそばにいます。ぼくらはもう、別の者ではなくなったのだもの」
少年はしあわせそうに、やわやわと微笑んだ。
「何をした」
「ぼくは、何も」
――――何も。
お大事に、と言った柾に慎司は、あなたも、と返して、道を下っていく背を見送る。
のどかな風を感じ、大きく息を吸い込んでから家に戻り、門を固く閉めた。軽い足取りで広い家を渡り、自室に戻る。
家の中で、ここだけ異質な空間だった。和風にしつらえられ、無骨な空気を放つ家の中で、ここだけが西洋のものにあふれている。切り取られたように。切り離したように。
キャンバスの前に座る。筆を手に取り、パレットで絵の具を捏ねて混ぜて、画面に押し付ける。何度も何度も。塗りこめていく。鮮やかな血の赤。空の青。夜の藍。繁る緑。灯火の色。どんどん、厚さを増していく。
もはや画面には、何の形も残っていなかった。何の造形も。
ただ、感情だけが押し付けられて。
「恐ろしいことです」
「お前さん、この町の名士なんだろう」
「ええまあ、名目上はそうですが」
「把握していないとまずいんじゃないのか」
「ぼくが、何から何まで、面倒を見ないといけないのですか」
少し憂鬱そうに彼は言う。
綾都のことであれだけ必死になっていたから、他が疎ましくなるのは仕方が無いのかもしれない。
けれど以前見た慎司は、町の人間に対して丁寧に接していた。久我と町の人間は同じ土地に囚われながらも、別のものとしてそこにあった。それでも慎司は、人々と同じであろうとしているように見えたのに。
彼の言葉とも思えないことに、柾は驚きを禁じえない。けれど同時に、妙な納得があった。先刻からの、気だるそうな様子を見れば。
「綾都は、生きているのか」
言葉を口にした途端、横をすれ違うようだった慎司の目が、柾を捉えた。
「無遠慮に過ぎませんか。どういう答えがほしいのですか。あまりにも不躾ではありませんか」
眇められた目が、敵意を孕んだ視線が真っ直ぐに向かってくる。以前、綾都を背負って現れた柾を見たのと同じ目だった。害するものを見る目だ。
「ああ、悪い」
柾は朗らかに、素直に謝った。
「最近誰も、綾都の姿を見ないって聞いたから」
心配になって、と言うと、慎司は表情を和ませた。微笑むのとは違う。以前は悲痛に眉を寄せていることが多かったが、そうではない。悲壮感の漂う、そのくせ悠然とした笑みだ。
「安静にしているからでしょう。今までの方が、おかしかったのですから」
「綾都に会えないかな」
「いえ、それは」
間をおかずに拒絶が返る。
「無理させるつもりはないんだけど。そんなに悪いのか」
「そういうことではありませんよ。綾都もやっと、ぼくの言うことを聞いてくれるようになったというだけで」
「家で雇っていた人間に、暇を出したのだって聞いたが」
「ひとりですることに慣れてきましたので、必要ないかなと」
「前までは医者が多く出入りしていたのに、その様子もないと聞く」
「もっと良い医者を雇っただけです」
「言うね」
柾も笑みを返す。
「だけど、その医者だってここに来るには、町を通るだろう。町の人間は、誰も知らないみたいだけど」
「噂話ばかり好きで、困った人たちですね」
哀れむような吐息がひとつ。
「そう、変な噂話が流れてるよ」
慎司は、何ですか、とは問わない。興味がないということなのだろうか。以前なら、お愛想でもそう尋ねたと思うのに。
「人を食う鬼が出るって」
「何が、おっしゃりたいのです」
「用心しろよってだけ」
「ご忠告、痛み入ります」
「あんたや綾都が姿を見せないから、町の人間が不安がってるんだ。綾都の様子が落ち着いたら、少し散歩でもさせてやれよ」
「そうですね」
「お前さん、様子がおかしいぞ。大丈夫なのか」
「ええ」
何を言っても、慎司は淡々と相槌を打つ。水面をたゆたうように、頼りない笑みをにじませたままで、あやふやに。迷惑がられているのはあからさまで、柾は少し困ってしまった。
それでも、再び問いかける。何よりも、気にかかる問いを。
「綾都は本当に、ここにいるのか」
慎司はもう、過敏な反応を見せることも無かった。風に揺れる花を見遣り、少し睫毛を伏せたまま応える。
「何をおっしゃっているのか分かりません」
考えては、いけない。
「綾都はいつだって、ぼくのそばにいます。ぼくらはもう、別の者ではなくなったのだもの」
少年はしあわせそうに、やわやわと微笑んだ。
「何をした」
「ぼくは、何も」
――――何も。
お大事に、と言った柾に慎司は、あなたも、と返して、道を下っていく背を見送る。
のどかな風を感じ、大きく息を吸い込んでから家に戻り、門を固く閉めた。軽い足取りで広い家を渡り、自室に戻る。
家の中で、ここだけ異質な空間だった。和風にしつらえられ、無骨な空気を放つ家の中で、ここだけが西洋のものにあふれている。切り取られたように。切り離したように。
キャンバスの前に座る。筆を手に取り、パレットで絵の具を捏ねて混ぜて、画面に押し付ける。何度も何度も。塗りこめていく。鮮やかな血の赤。空の青。夜の藍。繁る緑。灯火の色。どんどん、厚さを増していく。
もはや画面には、何の形も残っていなかった。何の造形も。
ただ、感情だけが押し付けられて。