綾都は、何かを傷つけるようなことをする人ではなかった。自分を真っ直ぐに持ち、意に沿わないものには怯まず立ち向かう気質でも、怒りが早くても、すぐに声を荒げたりすることなど無かった。
人を邪険に扱うこともない、増してや、誰かを故意に傷つけるようなことなど。
自分たちの間の空気までもが、軋みをあげている。
数年前、慎司よりも余程丈夫だった綾都が、日差しに眩んで倒れた時からか。医師の診察を受けた後だったか。否、それより以前から、変わってきてはいなかったか。
綾都の快活な笑みが歪み始めたのは。
「綾都」
懇願するように、慎司が再び呼ぶ。けれど被さるように、綾都が大声を上げる。
「偽善者」
哄笑する。
再び、自分の前の碗を持ち上げ、放った。汁が飛び散り、慎司に降りかかる。
「お前だって、逃げ出せばいいだろ」
「逃げないよ。ぼくは」
「かわいそうな病気の従兄弟を見捨てたら体裁悪いもんな。町の人間やら東京の奴らやら気にして痩せ我慢か。出来の悪い親戚がいると、面倒だな」
綾都は白い喉をさらして仰け反り、せせら笑う。
「俺がいなくなったら清々するんだろう。東京に戻れるし、洋行したっていいな。俺がいなきゃ、好きに絵を描いて暮らせる。いちいち、俺に構って、世話を焼く必要もなくなるし」
「綾都」
「煩い」
哀願するような声を、怒声が踏みにじる。
「お前に何が分かる」
叫ぶ声に、慎司は答える事が出来ない。お前が何もかも奪ったのだと言った、昼の言葉が甦る。
「俺の方が、お前の顔なんて見ていたくない」
綾都は吐き捨てるように言って立ち上がった。身を起こして顔を上げて、瞬間少し揺らいだ。
慎司が慌てて腰を上げようとするが、その動きすら拒絶して、綾都は鋭い視線だけを投げる。怯んだ慎司が動けずにいると、青い顔で、自分を叱責するように首を振った。その拍子に再び体が傾いだが、そのまま足を踏み出す。今度こそ慎司が立ち上がったときには、衝動のままに歩き出していた。
「綾、どこに……」
「おとなしく部屋にいれば満足なんだろう。これ以上ぶつくさ言われる前に、さっさと消えてやるよ」
頑として助けを受け付けないまま、汚れた部屋に慎司ひとりを残して、行ってしまった。
冷えた木の床は、熱を持った体に、身の内から震えるような感触を呼ぶ。綾都の軽い体でも軋みをあげるのが、酷く鬱陶しかった。足音を抑えようとする余裕などなく、その上、耳から頭に響く。
部屋には戻らず、よろめきながらも玄関へ向った。
靴を履こうとしたが、細い穴に足を入れることすら容易ではなかった。下駄を見遣るも、鼻緒に指をはめることを考えると嫌気が差した。第一、重くて邪魔だ。
裸足のまま直土に触れると、そこは木の床よりも冴えていた。冷気が爪先から這い登ってくる。
夜風が皮膚や肉を通り越し骨に沁みるようで、痛いくらいだった。痩せた手で自分の腕を掴む、腕を組み、身を庇うようにして、体を縮こませながら先へ進む。
門を出て、月の光の下に転び出る。
山の中、久我の家まで切り分けられた道に木は無く、割れた草葉の、枯れ木の隙間から、空に散る星が光を落としていた。
だが、夜の山は暗い。道の両脇に繁る木々の奥は暗い。けれど綾都には、そんなもの少しの恐怖にもなり得なかった。
外の、恐怖など。
身の内に、血も病も、何よりも澱んだものが巣食っているのに、そんなものの恐ろしさなど。例え何が潜んでいようとも、奸賊が、もしくは人ですらない者が窺っていようとも、構いはしない。どうせ、長くない命だ。
骨ばかりの腕を掴む手に、知らず力が篭る。そうやって揺らぐ体を抑えようとしながら、唇を噛み締め、騙し騙し先へ進む。
目は足元に落として、俯いたまま黒い土の上を歩く。歩いていると言うよりは、前へ倒れ込みそうになるのを、片方ずつ足を出してこらえている。不可抗力と執念で前へ進んでいる。
けれど、身を刺すような空気よりも、身の内の毒が邪魔をする。堪え切れなくて、腕を掴んでいた手が離れ、自然、胸を押さえた。必死の力を込める。骨なんて折れたって構わない。
歩調が緩む。それでも、前へ進む。
呼吸が荒くなる。
動いているからだけではない。こんなのろのろとした歩みで、下り坂で、たいした距離を進んだ訳でもないのに、動悸が強く早い。胸が痛い。
前へ出した一歩が上手く行かなくて、綾都は片膝をついた。体が傾いで、それを止めることすら出来なかった。胸を押さえたまま、肩から前のめりに倒れる。
苦しい。
焼け付くように、頭に単語が浮かぶ。
苦しい。苦しい。
助けを求めて、名前が、言葉が浮かんだ。けれど、唇にはのぼらせなかった。呼ぶ声が出ない。出せない、だけではなくて。
こんな姿、誰にも見られるわけには行かない。例え声が届くわけがないと分かっていても、助けは呼ばない。そのために誰も呼ばない。決して。
人を邪険に扱うこともない、増してや、誰かを故意に傷つけるようなことなど。
自分たちの間の空気までもが、軋みをあげている。
数年前、慎司よりも余程丈夫だった綾都が、日差しに眩んで倒れた時からか。医師の診察を受けた後だったか。否、それより以前から、変わってきてはいなかったか。
綾都の快活な笑みが歪み始めたのは。
「綾都」
懇願するように、慎司が再び呼ぶ。けれど被さるように、綾都が大声を上げる。
「偽善者」
哄笑する。
再び、自分の前の碗を持ち上げ、放った。汁が飛び散り、慎司に降りかかる。
「お前だって、逃げ出せばいいだろ」
「逃げないよ。ぼくは」
「かわいそうな病気の従兄弟を見捨てたら体裁悪いもんな。町の人間やら東京の奴らやら気にして痩せ我慢か。出来の悪い親戚がいると、面倒だな」
綾都は白い喉をさらして仰け反り、せせら笑う。
「俺がいなくなったら清々するんだろう。東京に戻れるし、洋行したっていいな。俺がいなきゃ、好きに絵を描いて暮らせる。いちいち、俺に構って、世話を焼く必要もなくなるし」
「綾都」
「煩い」
哀願するような声を、怒声が踏みにじる。
「お前に何が分かる」
叫ぶ声に、慎司は答える事が出来ない。お前が何もかも奪ったのだと言った、昼の言葉が甦る。
「俺の方が、お前の顔なんて見ていたくない」
綾都は吐き捨てるように言って立ち上がった。身を起こして顔を上げて、瞬間少し揺らいだ。
慎司が慌てて腰を上げようとするが、その動きすら拒絶して、綾都は鋭い視線だけを投げる。怯んだ慎司が動けずにいると、青い顔で、自分を叱責するように首を振った。その拍子に再び体が傾いだが、そのまま足を踏み出す。今度こそ慎司が立ち上がったときには、衝動のままに歩き出していた。
「綾、どこに……」
「おとなしく部屋にいれば満足なんだろう。これ以上ぶつくさ言われる前に、さっさと消えてやるよ」
頑として助けを受け付けないまま、汚れた部屋に慎司ひとりを残して、行ってしまった。
冷えた木の床は、熱を持った体に、身の内から震えるような感触を呼ぶ。綾都の軽い体でも軋みをあげるのが、酷く鬱陶しかった。足音を抑えようとする余裕などなく、その上、耳から頭に響く。
部屋には戻らず、よろめきながらも玄関へ向った。
靴を履こうとしたが、細い穴に足を入れることすら容易ではなかった。下駄を見遣るも、鼻緒に指をはめることを考えると嫌気が差した。第一、重くて邪魔だ。
裸足のまま直土に触れると、そこは木の床よりも冴えていた。冷気が爪先から這い登ってくる。
夜風が皮膚や肉を通り越し骨に沁みるようで、痛いくらいだった。痩せた手で自分の腕を掴む、腕を組み、身を庇うようにして、体を縮こませながら先へ進む。
門を出て、月の光の下に転び出る。
山の中、久我の家まで切り分けられた道に木は無く、割れた草葉の、枯れ木の隙間から、空に散る星が光を落としていた。
だが、夜の山は暗い。道の両脇に繁る木々の奥は暗い。けれど綾都には、そんなもの少しの恐怖にもなり得なかった。
外の、恐怖など。
身の内に、血も病も、何よりも澱んだものが巣食っているのに、そんなものの恐ろしさなど。例え何が潜んでいようとも、奸賊が、もしくは人ですらない者が窺っていようとも、構いはしない。どうせ、長くない命だ。
骨ばかりの腕を掴む手に、知らず力が篭る。そうやって揺らぐ体を抑えようとしながら、唇を噛み締め、騙し騙し先へ進む。
目は足元に落として、俯いたまま黒い土の上を歩く。歩いていると言うよりは、前へ倒れ込みそうになるのを、片方ずつ足を出してこらえている。不可抗力と執念で前へ進んでいる。
けれど、身を刺すような空気よりも、身の内の毒が邪魔をする。堪え切れなくて、腕を掴んでいた手が離れ、自然、胸を押さえた。必死の力を込める。骨なんて折れたって構わない。
歩調が緩む。それでも、前へ進む。
呼吸が荒くなる。
動いているからだけではない。こんなのろのろとした歩みで、下り坂で、たいした距離を進んだ訳でもないのに、動悸が強く早い。胸が痛い。
前へ出した一歩が上手く行かなくて、綾都は片膝をついた。体が傾いで、それを止めることすら出来なかった。胸を押さえたまま、肩から前のめりに倒れる。
苦しい。
焼け付くように、頭に単語が浮かぶ。
苦しい。苦しい。
助けを求めて、名前が、言葉が浮かんだ。けれど、唇にはのぼらせなかった。呼ぶ声が出ない。出せない、だけではなくて。
こんな姿、誰にも見られるわけには行かない。例え声が届くわけがないと分かっていても、助けは呼ばない。そのために誰も呼ばない。決して。