大きなあくびをしながら教室のドアを開けると、俺の前の席で一人の女の子が机に突っ伏していた。この教室で見慣れないあの長く綺麗な髪は、麻宮さんに他ならない。
 彼女の長い髪が夕日に優しく照らされていて、まるで天使が居眠りをしているかのようにも思えてしまう。現実は、おそらくただクラスメイト達から長時間拘束されて、疲労困憊なだけなのだろうけど。
 どうやらこの二時間もの間、解放されなかったようだ。ずっと質問攻めに遭っていたとしたなら悲惨だ。まだよく知らない仲だが同情したくなる。
 疲れて寝ているのかもしれないので、声を掛けずに鞄だけ取って、そのまま帰ろう──そう思った時、彼女が身体を起こしてゆっくりとこちらに顔を向けた。どうやら、目をつぶっていただけだったようだ。
「あっ……どうも」
 慌てて髪を手で整えて、少し会釈する彼女。やっぱり彼女はとても美しくて、その瞳に吸い込まれそうになってしまう。そして、その大きな瞳には既視感があった。どこかで会った事があるのだろうか。もう一度記憶を巡らせてみるが、やはり思い当たらない。
 無音の教室で、転校生と二人きり──このシチュエーションに緊張しないわけがなかった。
「えっと、お疲れ様」
 黙っているわけにもいかず、何とか言葉を絞り出した。もうちょっと気の利いた言葉が出てくれば良いのだが、生憎と俺にはこれが限界だった。
情けない。信ならもっと言葉巧みなのだろうか? こんなチャンス滅多にないのに、何も言葉が浮かんでこない自分の残念さを呪った。
「もしかして、今までずっと捕まってたの?」
 転校生は「はい」と苦笑しながら頷いた。
「ひどいな。転校初日なんて緊張しまくりだろうに」
「ちょっと拷問みたいでした」
 眉を寄せて、困ったような笑みを見せた。
 外国語科女子は好奇心優先で人の迷惑はその次だ。仕方が無いと言えば仕方が無い。
「どうせ、前の学校の話聞かせろとかだろ?」
「どうしてわかるんですか?」
「いや、やっぱ転校生に訊きたい事アンケートの六割を占めた回答だからな。このクラスでも例外ではないかと」
「へー……そんなのあるんだ。知らなかった」
「いや、適当に言ってみただけなんだけど」
「もう。なんですか、それ」
 すると再び彼女はさっきみたいにくすっと笑ってから、少し怒った表情を作る。それが果てしなく可愛い。こんなところを信に見られたら殺されそうだな、とふと思った。
「名前覚えれた?」
「ううん、まだ顔と名前が一致してないかも。あんなにたくさん一度で覚えられないです」
「じゃあ、俺の名前はまた後日の方がいいかな」
「覚えれますよー? あと一人くらいなら」
 一応気を遣ってみたのだが、彼女は口を尖らせて返す。
「お、そりゃ良かった。明日になって忘れられてたらショックだもんな」
「私、そこまで記憶力悪くないです」
 言うと、また彼女は少し怒った顔を作った。女の子と話すのすら随分久しぶりで、何だか凄く新鮮だ。それなのに、こうして言葉がスラスラ出てくるのは、我ながら不思議だった。彼女と話すのにはなぜか抵抗がない。まるで昔から友達だったような、そんな安心感があるのだ。
「冗談は抜きで、俺は麻生真樹(あそうまさき)。真実の真に、樹木の樹でマサキ。よろしく」
麻宮伊織(あさみやいおり)です……って、それはさっき言ったっけ。あ、質問なんですけど、どうして出席番号一番が嫌なんですか?」
「何かとよく教師に当てられるし、ホームルーム用の資料を教室まで運ばされるから」
 今までの苦労を教えてやると、麻宮さんは嫌そうな顔をしていた。
「えっ……最悪じゃないですか、それ」
「だからアリガトって言ったんだけど?」
「ひっどーい。運ぶのは手伝ってくれますよね? 私まだこの学校の事よくわかってないし」
「はいはい……ってか、敬語使わなくていいから。学年同じだし」
「あっ、そうだよね。じゃあ、そうしちゃおっかな」
 はにかんだ笑みを見せる麻宮さん。こんなやりとりすら、何だか夢じゃないかと一瞬疑ってしまう。俺、いつか寝たか? もしかしてこれは夢の中なんじゃないか? そんな事を考えさせられてしまう。こっそりと手の甲を抓ってみると、痛みを感じたので、どうやら現実に起こっている事らしい。信じられない。
「でも、麻生君って何だか同い年の気がしないな。絶対年上に見える」
「それって老けてるって意味で?」
「そうじゃなくて、大人っぽいって意味。何だか落ち着いた感じだからかな?」
「そうか?」
 どうやら褒め言葉として受け取っていいようだ。こんな可愛い子に褒められるなんて、俺の人生もまだ捨てたものではないな、と少し嬉しくなってしまう。実際は大人っぽいのではなく、荒んでいるだけだと思うけれど。
「そういえば、何で教室に残ってるんだ? 誰も帰り誘ってくれなかったのか?」
「あ、そうだった。進路指導室の場所、教えてほしいかも」
「進路指導? 全然問題無いけど……俺の質問と何の関係が?」
 すると、彼女は書類らしきものを鞄から数枚出した。
「これ、提出しないといけないんだって。転入の手続きって結構めんどくさくて」
 要するに、それを提出しなくちゃいけないから誘いを断ったという事らしい。で、とりあえず解放されたかったから進路指導室の場所を聞く事すら忘れていたそうだ。
 それにしても、手続きだって? 泉堂はそんなもの口にも出さずにカラオケに直行していた気がする。
「一つ聞いていいか?」
「どうしたの?」
 麻宮さんがきょとんとして首を傾げた。
「泉堂もこれ提出しなくちゃいけないよな?」
「うん、もちろん。もしかして帰っちゃった?」
「クラスの男子とカラオケ行った」
 それを聞いた彼女は呆れた表情をして、小さく溜息を吐いていた。
「はぁ……しーらない」
「知らないって。彼氏じゃないのかよ」
「怒るよ?」
 割と本当に不機嫌そうな表情をして、眉を顰めた。どうやらこれは禁句らしい。さっきの冗談っぽい怒り方ではなく、目がマジだ。
「じょ、冗談。気にしないでくれ」
 嘘だと強調すると、彼女は顔を緩めてくれた。
「さっきクラスの子達にも散々訊かれて、もう嫌気が差しちゃった。しばらく彰吾とは口利いてあげないんだ」
 麻宮さんは溜め息を吐いて、眉根を寄せて困ったように笑った。この表情は彼女の癖なのだろうか。とても可愛くて、でもどこか自信が無さそうなその表情が個人的には好きだった。
「じゃ、行こっか」
 麻宮さんは頷き立ち上がると、彼女の甘い香が鼻を擽って、一瞬どきっとしてしまう。
「そういえば、どうして麻生君はカラオケ行かなかったの?」
 進路指導室までの道のりで彼女はさっきから疑問に思っていたらしい事を訊いてきた。確かに俺以外の男子全員が行っているのに一人だけ行かないのは変だ。
「ん? そりゃ財布が入ったコレが取れなかったからだな」
 鞄を指差して言う。それで彼女は「あっ」と小さく声を上げた。
「……ごめんなさい。私がいたから、だよね?」
「別に謝らなくていいって。その御蔭で話せたんだし」
「そう言ってくれると嬉しいけど……麻生君って、優しいんだね」
「そうかな? 俺は普通だけど」
 優しいも何も本音なんだけどな、と思ったものの、恥ずかしくなって、彼女から視線を外した。
「あ、そういえば麻生君、ホームルームが終わって皆が集まってきた時もすぐにどっか行っちゃったけど……もしかして、あれも私のせいだったりする?」
 申し訳なさそうに見上げてくる。その上目遣いは反則だと思う。泉堂が惚れるのもよくわかった。
「違う違う。信が俺を呼んだだけ。別に麻宮さんのせいじゃないから」
「そうなんだ。心配しちゃった」
 彼女がほっとしたように笑みを浮かべた。
 俺が立ち上がった時に目が合ったのはそれか。というか、どうして彼女はそんなに俺を意識しているのだろうか。もちろん、意識されているのは嬉しい。それに、女の子から気を遣われたなんて、高校に入ってからは初めてだった。
 いや、でも落ち着け。ここで変に調子に乗ると、六月の悲劇の再来でしかない。ただただ麻宮さんが優しいだけかもしれないし、もう勘違いで好きになって振られるなんて、ごめんだった。
「ところで、信さんって……?」
「麻宮さんの自己紹介の時に口笛吹いてはしゃいでたバカ」
「あ、わかった。ノリ良くて面白そうな人だよね?」
「そうそう。ただのバカとも言うけど」
「麻生君、ひどい」
 麻宮さんがくすっと笑って髪を揺らした。
 さすが信。目立った事をして印象付け、顔を覚えてもらっている。
 そんな会話を交わしながら廊下を歩いていると、程なくして進路指導室の前に着いた。教室から進路指導室まではそう遠くない。もっと長く話したいのに。
「ここが進路指導室。電気ついてるし、先生いるんじゃないかな」
「うん、わざわざありがとう」
「どういたしまして。終わるまで待ってようか?」
 勇気を出して訊いてみるが、彼女は首を横に振った。
「ううん、いいよ。結構時間かかりそうだし、これ以上麻生君に迷惑かけるわけにもいかないから」
 別に迷惑ではないけども、彼女がいいと言っているのだから、無理に待たない方がいいだろう。まだそこまでの仲ではないのだから、あんまりぐいぐい行き過ぎても嫌われてしまうかもしれない。
「そっか。じゃあ、気をつけてな」
「うん。また明日ね」
 麻宮さんは微笑み、小さく手を振ってくれたので、つい俺も手を振り返してしまう。今までの人生で一番幸せかもしれない。
「麻宮伊織、かぁ……」
 なんだろう、この暖かで優しい気持ちは。久し振りにこんな気持ちになれた気がする。荒んでいた俺が、この数分の間はいなかった。
 地平線に沈む夕日を眺めながら、どことなく笑みを浮かべていた自分にふと気付いてしまった。