琴音が店じまいを済ませて帰宅しようとアパートへの道を歩いていると、少し先に見知った、というよりすごく目立つ人物の姿を見つけた。
 あきらかに偶然そこにいるというような風体はしていないため、琴音は足を止めて声をかけた。

「栄子さん、こんばんは。……ここにいるってことは、もしかして私に用事ですか?」

 出会いが出会いなだけに、栄子に罪はないものの、つい身構えてしまった。

「やだ、ちょっと構えないでよ。心配しなくても今日はあの女絡みじゃないわ。てか、私は仕事が終わってからも依頼人の面倒を見るほどお人好しじゃないの。頼まれた通り縁を切ったらそれっきり。その後不幸になろうがうまくいこうが関係ないわ」
「そ、そうですか」

 栄子と喫茶丸屋で会ったのは琴音の元夫の不倫相手からの依頼で顔合わせのときだったため、そのときのことを思い出して琴音は嫌な気分になっていた。栄子は彼女との黒い縁を無償で切ってくれた親切な人だとわかっているのだけれど、不倫相手との思わぬ邂逅は、まだ琴音の中に苦い記憶として残っている。

「私の家、すぐそこですけど、よかったら上がっていきますか? 大したお構いはできませんが」
「ううん、ここでいいの。だって、縁人(よりひと)が管理してる物件でしょ。帰るときにあいつと鉢合わせしたら気まずいし。……わざわざ店の外で待ってたのは、あいつには聞かせられない話をするためよ」
「あ、九田さんの話ですね」
「察しが良くて助かるわ。あいつの糸を切ったのはあたしだから、やっぱり気になるのよ。捻くれてるのは、あいつ自身のせいだけどね」

 夕方のひと気のない住宅街なのに栄子は心持ち声をひそめた。心情的に、誰にも聞かせたくないことなのだろうと琴音は察する。

「縁人は、過去に向き合う気概があるように見える?」

 栄子は、その大きな体と見た目の派手さに似合わないような、少し気弱な表情をした。この表情の理由は「糸を切ったのはあたしだから」に繋がるのだろうなとわかって、琴音は考え込んだ。
 つい数日前も飯田と話したばかりだけれど、九田のような人があれだけ拗れらせているのには、相応の理由があるはずだ。現在進行形で拗れているのを見る限り、その過去とやらに向き合う気概があると言い切ることは、難しいだろうと思ったのだ。

「よくわかりません。縁結びを嫌いになるくらいには、傷ついてるみたいですし」

 どんなことがあればあんなふうに拗らせてしまうのだろうと考えて、琴音は彼が可哀想になった。だから、傷つくことからは遠ざけたいと思ってしまった。
 こんなふうに尋ねてくるということは、栄子は九田が傷つくような話を持っているということだろう。それなら、できることならそんなものとは接触させたくない。

「……そっか。あいつに会いたがってる人間がいたんだけど、やっぱり難しいわね」

 元々、直接喫茶丸屋に来なかったあたり、九田に無理強いするつもりはなかったのだろう。だから栄子はあっさりと、「何かあったら連絡して」と名刺を渡して去っていった。
 栄子に対して何でもズバズバ言いそうなイメージを勝手に持っていたから、琴音にすら話さず帰っていったのが意外だった。でもそれだけに、その名刺が不吉の予兆みたいに思えて嫌だった。
 琴音が九田のことで連絡をしなくてはならないこととは、一体何なのだろうか。わからないけれど不安になって、一応連絡先をスマホに登録しておいた。


 何か変わったことが起こるのではないかと身構えていたものの、栄子と会った数日に起きたことといえば、近所の古書店の店主と古物商の店主が連日やってくるようになったことくらいだ。
 琴音が喫茶丸屋で働き始めてすぐのときから親切にしてくれていた彼らだったけれど、店に来ることはほとんどなかった。それがどういう風のふきまわしなのか、毎日やってきては何か食べていく。

「このお店、琴音さんが来てから格段によくなったのは間違いないんだけど、“喫茶”という感じはしないよね」

 縁結びパスタランチを食べ終えて食後のコーヒーを飲みながら、古物商の店主が言った。

「喫茶店ぽくないってことですか? 確かに、喫茶店に必要不可欠なマスターがあれではちょっと……ですよね?」

 九田がピシッとした服装でもして店内にいてくれればいいのにと思って、琴音はいつものように居眠りしている九田に厳しい視線を向ける。クダギツネたちがまた右手にまとわりついて、一生懸命に絡まった糸をほぐそうとしていた。

「九田くん? 彼はあれでいいのいいの。タヌキの置物か何かだと思ってるから」
「あ、九田さんのことじゃないんですね」
「違う違う。メニューについて話してたんだよ。ここさ、ナポリタンもピザトーストもミックスジュースもないでしょ。喫茶店なのに」
「そうなんですよ、ないんですよ。九田さんが赤色が嫌いだって言って、メニューに置かせてくれないんです」
「何だそれ」

 古物商の店主も古書店の店主も一瞬怪訝そうに九田を見たあと、納得したように何度か頷いた。

「まあさ、ナポリタンもピザトーストもなければないでいいんだけどさ。でも、ここのメニューがあんまりにもオシャレなのは感じなのはなー、もったいないかなって」
「そう。ここは喫茶店というより、“カフェ”だなというのが、僕らの共通の意見なんだよ」
「オシャレすぎる……褒められたのかな? でも、確かに落ち着いたメニューのことはあまり考えて来なかったですね」

 思わぬ指摘に、琴音は考え込んだ。
 琴音としては、縁結びを売り出すために集客したくて、それには女性の口コミの力を借りるのが一番だと考えていたのだ。だから少しでも薄暗い店内を華やかにしようとしたり、メニューを可愛くオシャレにしようとしたりしていたのだけれど、それが“喫茶店”らしさを損ない、“カフェ”っぽくしてしまっていたなんて思いもしなかった。

「どうすれば喫茶店っぽくなりますかね?」
「僕らおじさんにも優しいメニューを置いてみるとかかな。うどんや蕎麦なんか」
「そうそう。渋い感じのものがないとなあ」
「……うち、定食屋さんになっちゃうじゃないですか」

 店が少しでもよくなればと思いアドバイスを聞き入れようと思っていたものの、方向性の違いに琴音は唸るしかなかった。うどんや蕎麦を提供するようになったからといって、縁結びの集客率アップは見込めないだろうし、何より先に言っていた“喫茶店っぽさ”ともかけ離れているとしか思えない。

「琴音さん、そんな顔するけど、うどんは大事よ? ほら、小さなお子さん連れの女性とか来たらさ、うどん頼むと思うんだよ。だからうどんをメニューに加えて、取り皿とちっちゃなフォークを用意して来店をお待ちしたらいいんだよ」
「……具体的」
「試食ならいつでも引き受けるからね」

 好きなことを好きなだけ言って、古物商と古書店の店主は帰っていった。気ままなおじさんたちに見えるけれど、そこまで長居はしないのだ。一時的に店を閉めて出てきているから、適度に休憩を取ったら帰っていくらしい。ずっと居眠りしている九田とは、店主としての意識が違う。

「子連れのママさんが来たことはまだないけど、女性が集まるお店なら、その可能性も考えとくべきなのか……」

 うどんや蕎麦をメニューに追加するかはまだわからないものの、取り皿と子供用の食器は検討の余地があるなと、琴音は考えていた。縁結びには関係ないけれど、子連れのお客さんに優しい店になるのはいいことかもしれない。

「一体何屋になるつもりなんだ。儲からないのは別に構わんが、ここがファミレスみたいにうるさい場所になるのは勘弁だからな」
「でも、にぎわってるのは別にいいことだと思いますけど。人が来た分だけ、縁結びの来客も増えるかも知れませんし」
「俺は増えて欲しくない。ここは閑古鳥が鳴く薄暗い店のままでいいんだ。縁結びもくだらん」
「それじゃ私が困るんです!」
「俺は困らん!」

 頑固オヤジみたいなことを言うと、九田は店の奥に引っ込んでいった。置物のように動かない彼が立ち上がるのは、トイレくらいのものだ。その生態を知ったとき飯田が「本物のナマケモノと一緒だ……」と言っていたけれど、九田は本物の怠け者なのだ。こんなのが店主なのでは、琴音はいつまで経ってもクダギツネたちとの約束を果たせないことになってしまう。
 
「いらっしゃいませ。……あ、足元気をつけてください。そこ、少し段差があるんです」

 琴音が店の在り方を思案していると、来客を告げるドアベルが鳴った。そちらに目をやると、そこにいたのはお腹の大きな女性だ。ひと目で妊婦とわかるその女性に、琴音は慌てていたわりの声をかける。

「どうもありがとう。……喫茶店になったのね、ここ。でも、懐かしい」

 手を貸そうかとまごついている琴音に対し、女性は微笑んで首を振った。それから、昔を思い出すかのように店内を見回した。

「もしかして、以前のここのお店をご存知なんですか?」
「ええ。ここ、同級生の……友達の家がやっていた店だったから」

 そう言いながら女性は視線を巡らせて、ある一点で止まった。その先にあるのは、店の奥から戻ってきた九田の姿だ。

「九田くん……久しぶり」

 嬉しそうにする女性とは対照的に、九田の表情は複雑だった。一瞬驚いて、それから苦々しい顔をした。
 〝同級生〟であるということ以外どんな間柄なのかわからないが、九田のその顔には、はっきりと「会いたくなかった」と書かれていた。
 
「栄太郎くんに連絡とったんだけど、はぐらかされちゃって。でも、縁人に会いたいなって思ってきちゃった」

 九田が苦い顔をしているのは見えているだろうに、女性はめげずに微笑んでいる。うろたえているのは、明らかに九田のほうだ。
 九田は困った顔で琴音を見てそれから今来た店の奥を振り返った。どこかに逃げ場はないかと考えたのだろう。
 しかし、少し考えてからどこにも逃げ場はないと気がついたのか、重たい溜め息をついた。この場においてそれは、まるで深呼吸のようにも思えた。

「……すまないが、帰ってくれないか。大したおかまいはできないし、あいにく俺はこれから出かける用事がある」
「ちょっと話すだけだから」
「無理だ。……頼むから帰ってくれ」

 ほとんど懇願するみたいに九田が言うと、女性は少し逡巡してから、仕方がないというように店を出て行った。ドアベルの音がいつまでも耳に残るような気がして、それがようやく静かになったと感じた頃、九田がまた重たい息を吐いた。

「……あの、先ほどの方は、どなただったんでしょう? もしかして、元カノ?」

 どうにも気になって、放っておくわけにもいかないしと、琴音は九田にそう尋ねた。どうにか重苦しくならないようにと尋ねたけれど、それは完全に失敗していた。