桜も終わり、新緑の季節に移り変わる頃。
 琴音は喫茶丸屋がなかなかの盛況ぶりであることにホクホクとしていた。
 具体的に縁結びを求めて来店するお客さんが増えたわけではないけれど、そういう店だという評判は広がっている。何より、縁結びにちなんだメニューがよく注文される。
 このまま口コミでどんどん広がって、縁結びのお客さんがたくさん来て、クダギツネたちとの約束も果たせてしまえるのではないだろうかと、琴音は期待していた。
 一方、店主である九田はといえば、相変わらず営業中は眠そうにしてカウンターの向こうにいるし、縁結びには一切興味を示していないけれど。というよりも、否定的な姿勢はずっと変わらない。
 この前来店した男子高校生たちへの対応を見る限り、根が親切な人間なのは間違いないだろうと琴音は思っているものの、それだけだ。

「飯田くん、新メニューなんだけど、イチゴを使ったものはどうかな? これから露地物のイチゴが出回るし、暑くなる前にイチゴフェアはやっときたいかなって」

 夕方に向けて客が引けた時間になり、琴音はキッチンに向けて呼びかけた。明日に向けての簡単な仕込みと清掃をしていた飯田が、その呼びかけに嬉しそうにする。

「いいっすね。俺、イチゴ大好きです。それに、とりあえず年中どのタイミングでもイチゴのフェアやるとそれなりに食いつきいい気がしますよね」
「だよね。私も、某コーヒーチェーンがイチゴのドリンクを出したら必ず飲みに行っちゃうもん。イチゴの人気はやばいね」
「一定の集客は見込めます。パフェとかタルトなんかのスイーツは絶対にやるとして、軽食にも使いたいですよね。サラダにしても意外においしいから、そこから派生させたメニューも作れるかも」
「楽しみ! 期間限定だから、奇抜なものでもそれなりに話題になりそう」

 料理が好きな琴音と、仕事以外でも料理のことで頭がいっぱいな飯田だから、新メニューの話し合いになるとすごく盛り上がる。ここから試行錯誤を重ねて実物のメニューにしていかないといけないのは毎度大変なのだが、話し合いの段階でアイデアに行き詰まったことはこれまでない。

「イチゴって、また赤いもんの話か……赤は嫌いなんだよなぁ」

 琴音と飯田がキャッキャと話し合いをしていると、九田の気怠げな声が聞こえてきた。寝ているのか起きているのかわからないと思っていたけれど、どうやら起きていたらしい。

「またですか、九田さん。九田さんの赤色嫌いはわかりましたから。九田さんがいろいろ言うから、この店にはトマトソースとかのメニューが置けないんですよ。イチゴのメニューは大体ピンクになるはずですから、セーフです」
「セーフってなんだ、セーフって。どう見たってイチゴは赤いだろう。俺はなぁ、赤を見ると悲しくなるんだ」
「じゃあ、なるべく見ないようにしてください」

 赤色は嫌だとまた言い出した九田を、琴音はぴしゃりと黙らせた。九田がこんなことを言うから、喫茶丸屋にはナポリタンがメニューにない。喫茶店なのに、である。喫茶店にはナポリタンがあるべきだと思っている琴音は不満なのだけれど、期限を損ねるわけにもいかないから押し通さない。
 そうはいっても期間限定のイチゴのメニューくらい認めてもらわないと、やっていられないという話だ。

「九田さんってさ、ひねくれてるよねぇ」

 静かな寝息が聞こえてきたのを確認して、琴音はコソッと飯田に言った。

「家は資産家っぽいし、顔もそこそこいいし、身長は高いし、いわゆる勝ち組っぽい感じじゃないですか。そんな人があんなにひねくれるというかこじらせるのって、それなりにしんどい理由があるんじゃないかと思うんすよね」

 批判的な琴音に対し、飯田は慎重な意見だ。そんなふうに言われて琴音は、彼が確かに表面上はひねくれる理由がないことに気がつく。

「しんどい理由かぁ……そうだよねぇ」

 九田の過去に何があったのだろうか。それはわからないものの、よほど傷つくことがあったのだろうと想像して、琴音は同情的に彼を見ることができるようになった。
 ひねくれていてこじれていて、扱いがやや面倒くさいけれど、悪い人ではないのだ。だから少し優しい目で見てやろうと、琴音はそのとき決めたのだった。


 
 気の早い夏の到来を感じさせるようなやたら暑いある日。
 
「いらっしゃいませ……?」

 来客を告げるドアベルがカラランと鳴ったため、琴音は出迎えようと声をかけたけれど、半開きのドアの向こうから覗いていたのは、不安そうな顔をした女性だった。

「……どうぞ?」
「え、あ、はい……あの、ここって縁結びできるんですか? 神社じゃないからお守り授与とかご祈祷とかやってるわけでは、ないんですよね?」

 どうやらこの女性は、縁結びの評判を聞いてやってきてくれたらしい。しかし、その内容の曖昧さに不安を感じているようだ。

「えっと……そうですね。縁結びにちなんだテーマのお食事や、恋愛相談と言いますか、お話を聞かせていただいて、縁が結ばれますようにと念じていると言いますか……」

 説明しながら、なんて胡散臭いのだろうと琴音は思った。普通の人には見えないものを結んでいるのだから、そんな実体がないものの話をするのは難しい。でもそれにしたって、あまりにも怪しい話だ。これまで胡乱げな目で見る人がいなかったことが幸運なだけだったのだろう。
 でも、今の説明で女性は少し安心したみたいだ。

「そうなんですね。じゃあ、お願いしようかな……」
「えっ、では、お好きなお席へどうぞ」

 やや緊張した様子の女性を席へ案内して、琴音はメニューを開いて見せた。いつもはお客さんの好きにさせるのだけれど、この人は少し丁寧な接客をしたほうがいいかもしれないと思ったのだ。

「こちらが、当店の縁結びにちなんだフードメニューです。もちろん、何を頼んでいただいても構わないんですけど」
「その、相談っていうのは、ドリンクだけでも受け付けてもらえますか? このあと、食事の約束があるので、何か食べるのはちょっと……」
「大丈夫です! お飲みものを飲みながらでも、お話を聞かせていただけたら」
「じゃあ、紅茶をお願いします。ミルクで」
「かしこまりました」

 厨房に戻って紅茶を淹れながら、あまり縁結びという感じではないなと琴音は考えていた。あの女性の疲れた感じや思い悩む様子は、恋するウキウキなんてものとは無縁だ。それでも、訝しみながらここへ来たということは、何か理由があるのだろうけれど。

「お待たせいたしました。……それでは、お話を聞かせていただけますか。どなたと縁を結びたいかとか、そういうお話を」
「わかりました。……縁を結んでほしいのは、婚約者となんですけど」
「え? 婚約者? 婚約してるのに、その人と縁を結びたいんですか?」
「そうなんです。おかしいって思われるのはわかってるんですけど、彼と自分の縁がきちんと結ばれてるとは思えなくて……」

 驚く琴音に苦笑しながら、女性は婚約者のことを話し始めた。
 その婚約者とは、会社の上司の紹介で知り合ったのだという。女性は女子大出身でなかなか異性との交際に積極的になれなかったのと、男性が恋人と別れたきり次の恋愛をする様子がないのを見かねて周囲がセッティングした、言ってみればお見合いみたいなものだったそうだ。
 その後、二人で会うようになって、トントン拍子で交際するようになったらしい。引っ込み思案な女性と穏やかな男性との相性は悪くなく、付き合ってすぐに居心地のいい関係になれたため、結婚を意識するのにも時間はかからなかったのだという。

「でも、あるとき私、気づいてしまったんです。彼がまだ、前の恋人のことを忘れられていないんだってことに。大学生の頃から五年間付き合っていたそうですから、簡単に忘れられないのはわかるんですけど……私だけを見てくれていないんだと思うと寂しくて、どうせ結婚するなら人為的にでも赤い糸が結ばれた状態がいいなって、そう思ったんです」
「そう、だったんですね……」

 女性の声はあまりに悲痛で、琴音はうまく言葉を返すことができなかった。縁結びの話なのにウキウキしたところがないなと感じていたのは、こういったわけだったようだ。
 いつもなら、それでも琴音は意気揚々と縁結びの話をしただろう。大丈夫だと、きっとうまくいくと、笑顔で背中を押しただろう。
 でも、今回ばかりはできなかった。いつもみたいに、話を聞いて涙ぐんでもいない。
 冷静で真剣な顔で、女性を見ていた。

「結婚が本決まりになって、不安になる気持ちはわかります。婚約者さんが自分だけを見てくれていないと思ったら、嫌ですよね」
「いわゆるマリッジブルーかなとも思うんですけど。……くだらないって言われそうで、周囲の人には話せなくて」
「くだらなくなんてないですよ! この時期に悩むのは当然だし、大事なことです!」

 話してから不安になったのだろうか。女性はごまかすみたいに笑った。でも琴音はそれに笑い返さず、拳を握りしめて力説した。

「私はバツイチだから……結婚に失敗してるから言えるんですけど、少しでも何か心配事がある状態で結婚することはおすすめできません」
「え……」
「結婚するなって言ってるわけじゃないんです。ただ、心配事や違和感から目を逸らしたまま結婚はしないほうがいいってことは言えます。……私は、この人と合うのかな?って思ったまま結婚してしまって、その結果離婚したので、結婚前のタイミングで慎重になるのが悪いことだとは思わないんですよね」

 琴音の声色は穏やかだけれど、そこには熱がこもっていた。自分の立場だからできるアドバイスがあると信じているため、つい熱が入ってしまうのだろう。

「離婚、されてるんですね。そっか……離婚経験者の言葉は、重いですね」
「すみません。決して水をさしたいわけじゃ、ないんですけど」
「水をさされるなんてそんな……誰にも言えないことを話してみて、適当にあしらわれず、ちゃんと聞いた上で意見を言っていただけてよかったです」

 傷つけただろうかと心配したものの、女性は冷静に琴音の言葉を受け止めていた。そして、その表情は来たときよりもわずかに明るくなっていた。

「おかしな話ですけど、アドバイスをいただいてその通りだなって思った反面、やっぱり彼と結婚したいんだって気持ちが強くなりました。もし友人に同じ相談をされたら、絶対にやめときなよって言うはずなのに……」
「止められたとしても結婚したいって思うのなら、その気持ちを大事にするのもいいと思います」

 どうしようもないとわかっていても結婚への思いをあきらめられないという女性の気持ちは、琴音にもよくわかった。琴音だってきっと、結婚前に誰かに止められたとしても、それを振り切って結婚しただろうから……結果は変わらない。

「まだきっと迷いは晴れてはいないと思うんですけれど、それでも婚約者さんと縁を結びたいと感じたのなら、またご来店ください」
「わかりました。ありがとうございます」
「普通の来店も、お待ちしてます。もうすぐ、イチゴのフェアを始めるんですよ」

 紅茶を飲み終えた女性を見送って、琴音は視線に気がついてそちらを見た。
 いつもなら縁結び希望の客が帰ったあとは琴音のほうから見るのだけれど、今日は九田が琴音を見つめていた。

「あんた、変な人間だな。まさか、縁結びを勧めないことがあるとは。ようやく、縁結びなんてものがおこがましいことだって気づいたか?」

 内容としては勝ち誇っていてもおかしくないのに、九田の声に元気はない。琴音の様子をうかがうような、心配するような、そんな響きがある。

「別に、そういうことじゃないですよ。ただ私は、立ち止まって結婚について考えるチャンスがある人は、考えたほうがいいんじゃないかって思っただけなんです。今頃になって、花代おばちゃんの勧める相手と会っていたらどうだったかなって、ちょっとだけ考えるんですよ」

 別れた夫に未練はないものの、幸せな結婚というものへの憧れは捨てきれない。だから琴音は時々、花代に言われるがままお見合いをしていたらどうなっていただろうかと考えるのだ。どんな相手だったのか釣書すら見ていないから、何とも言えないけれど。

「……後悔するくらいなら、会っときゃよかったのに。まあ、縁があればこれから何とかなるだろう」

 琴音の話を聞いて何を思ったのか、なぜか九田はにんまりとした。それからまた居眠りを決め込んだから、琴音はつっこむのはやめにして閉店作業を始めた。