空の時間が過ぎていくのを感じながら一歩を繰り返していると、公園に着いていた。結構な広さのある公園で、一面に芝生が広がる場所がある。そこを囲むように、等間隔でベンチが設置されており、増家はその一つに腰を下ろした。僕もそのすぐ隣に座る。
「……なにがしたいんだ」
「なんもしたくない」
「はあ?」僕は帰るぞと言って腰を上げると、「まあまあまあ」と増家はシャツの裾を引いた。「なに」と言って座り直す。
「いいじゃんか」
「いくないから言ってるんだ」
「いいんだって。大丈夫だから」
「そう感じないんだってば。もうそわそわして仕方ない」
「読みたけりゃ読めばいいじゃねえか」
「自宅の静かな空間で読みたいんだ」
「ある程度の音があった方が集中できるとかって報告もあるみたいじゃねえか」
「僕の場合はそうじゃない」
「まあまあ、落ち着けや」
「別に慌ててない」と返して「そうかなあ」と返ってきた増家の言葉には、なにも返せなかった。慌てている――そうでないのなら、この忙しなく足踏みしている鼓動はなんであろうか。自宅から感じる強い磁力のようなものはなんであろうか。
「お前さあ」と増家は言う。本人はベンチの背もたれに両腕を載せ、体を預け、天を仰ぎ、実に気楽そうだ。「聴いてみ?」と言っては、「ミーンミンミン……」と蝉の合唱に参加する。「蝉の声とか」と続け、今度は「チュチュッ」などと鳥の声を真似る。本人は気の抜けた顔をしているくせに声真似はそれなりの出来なのだから笑ってしまう。
「いろんな音。虫とか鳥の声。遠くにゃ犬の声も聞こえるな」
「……なにが言いたい」
「リラックスしろって言いたい。お前はもう、情報という情報はほとんど知ってるって言っても過言じゃない」
「過言の塊さ」
ふうん、と増家はなにも思っていないように言う。「おれはそうは思わない」と、同じように続ける。「だけど、自然を知らない気がしてきた。お前、お茶点ててもどこか義務的だし、その図鑑読むのもそう。だからなんか、頭じゃなくて体で楽しめばいいのにって思う」
「僕は充分に楽しんでる」
滑稽だ。なにが――自分が。一度は、増家に貼り付けた博識の文字を引き剥がそうとし、いざそれが剥がれようというときには、僕自身に張り付いた無知の文字を見られることを恐れる。しかし、とも思う。実際、僕は日常を楽しんでいる。庭のブナを眺め、自ら点てた茶を飲み、季節限定の菓子を食べる。それ以上の楽しみなど、僕にはない。
「お前はもう、そんな義務的に情報を集める必要はない。だから、これからは体に染み渡らせるんだ。自然っていう、何遍取り入れても飽きない情報を。本なんか、文字と、ものによっては写真とか図だけの情報だろ? それらは視覚でしか得られない。しかも、一度読んだときと、なにも書かれてることはかわらない。そりゃあ、何度も読めばその度に新たな発見とかあったりすんのかもしんねえけどよ」
でも、と増家は言う。
「自然の空気ってのは、もっと面白いんだぜ。視覚だけじゃあ、とても感じきれん。まあそりゃあ、よほど優れた視覚なら無理と言い切れるほどじゃあねえのかもしんねえけど。おれらみたいな平々凡々な五感の持ち主じゃあ、全部をフル活動させねえと感じきれん。視覚、聴覚、嗅覚、触覚。ときには味覚をも使うんだ。そして、今日感じた空気と明日の空気はまるで違う。なんでか。まったく同じように虫が鳴いてるわけじゃねえし、まったく同じように犬の声が聞こえるわけじゃねえからだ」
増家は僕の顔を見ると、ふっと口角を上げた。「自然なんざ感じてなんの役に立つの、とでも言いたげな顔だな」はあ、と彼は息をつく。「そりゃあ、お前が一番知ってんだろう?」
ああ、そうだ。「情報自体に意味も価値もない。それを作るのは情報を知っている本人」
「そうだろ?」と増家は笑みを見せる。「自然を感じるってのも、やってみる価値はあるんじゃねえか?」お前が一番好きなことじゃねえかと言って、彼は再び天を仰ぐ。真似るように顔を上げると、心なしか胸が軽くなったように感じられた。
「……なにがしたいんだ」
「なんもしたくない」
「はあ?」僕は帰るぞと言って腰を上げると、「まあまあまあ」と増家はシャツの裾を引いた。「なに」と言って座り直す。
「いいじゃんか」
「いくないから言ってるんだ」
「いいんだって。大丈夫だから」
「そう感じないんだってば。もうそわそわして仕方ない」
「読みたけりゃ読めばいいじゃねえか」
「自宅の静かな空間で読みたいんだ」
「ある程度の音があった方が集中できるとかって報告もあるみたいじゃねえか」
「僕の場合はそうじゃない」
「まあまあ、落ち着けや」
「別に慌ててない」と返して「そうかなあ」と返ってきた増家の言葉には、なにも返せなかった。慌てている――そうでないのなら、この忙しなく足踏みしている鼓動はなんであろうか。自宅から感じる強い磁力のようなものはなんであろうか。
「お前さあ」と増家は言う。本人はベンチの背もたれに両腕を載せ、体を預け、天を仰ぎ、実に気楽そうだ。「聴いてみ?」と言っては、「ミーンミンミン……」と蝉の合唱に参加する。「蝉の声とか」と続け、今度は「チュチュッ」などと鳥の声を真似る。本人は気の抜けた顔をしているくせに声真似はそれなりの出来なのだから笑ってしまう。
「いろんな音。虫とか鳥の声。遠くにゃ犬の声も聞こえるな」
「……なにが言いたい」
「リラックスしろって言いたい。お前はもう、情報という情報はほとんど知ってるって言っても過言じゃない」
「過言の塊さ」
ふうん、と増家はなにも思っていないように言う。「おれはそうは思わない」と、同じように続ける。「だけど、自然を知らない気がしてきた。お前、お茶点ててもどこか義務的だし、その図鑑読むのもそう。だからなんか、頭じゃなくて体で楽しめばいいのにって思う」
「僕は充分に楽しんでる」
滑稽だ。なにが――自分が。一度は、増家に貼り付けた博識の文字を引き剥がそうとし、いざそれが剥がれようというときには、僕自身に張り付いた無知の文字を見られることを恐れる。しかし、とも思う。実際、僕は日常を楽しんでいる。庭のブナを眺め、自ら点てた茶を飲み、季節限定の菓子を食べる。それ以上の楽しみなど、僕にはない。
「お前はもう、そんな義務的に情報を集める必要はない。だから、これからは体に染み渡らせるんだ。自然っていう、何遍取り入れても飽きない情報を。本なんか、文字と、ものによっては写真とか図だけの情報だろ? それらは視覚でしか得られない。しかも、一度読んだときと、なにも書かれてることはかわらない。そりゃあ、何度も読めばその度に新たな発見とかあったりすんのかもしんねえけどよ」
でも、と増家は言う。
「自然の空気ってのは、もっと面白いんだぜ。視覚だけじゃあ、とても感じきれん。まあそりゃあ、よほど優れた視覚なら無理と言い切れるほどじゃあねえのかもしんねえけど。おれらみたいな平々凡々な五感の持ち主じゃあ、全部をフル活動させねえと感じきれん。視覚、聴覚、嗅覚、触覚。ときには味覚をも使うんだ。そして、今日感じた空気と明日の空気はまるで違う。なんでか。まったく同じように虫が鳴いてるわけじゃねえし、まったく同じように犬の声が聞こえるわけじゃねえからだ」
増家は僕の顔を見ると、ふっと口角を上げた。「自然なんざ感じてなんの役に立つの、とでも言いたげな顔だな」はあ、と彼は息をつく。「そりゃあ、お前が一番知ってんだろう?」
ああ、そうだ。「情報自体に意味も価値もない。それを作るのは情報を知っている本人」
「そうだろ?」と増家は笑みを見せる。「自然を感じるってのも、やってみる価値はあるんじゃねえか?」お前が一番好きなことじゃねえかと言って、彼は再び天を仰ぐ。真似るように顔を上げると、心なしか胸が軽くなったように感じられた。