図書室を漁れば、花の図鑑を見つけられた。表紙を開き、一頁目から初めて読んだときのように文字を辿る。彼女は僕が博識な人間であると予想した。その予想を下回るようなことはあってはならない。いつか彼女から連絡が来るまでに、花に関する知識を身につけておかなくてはならない。好きな分野であり、一時期真剣に学んだことのある内容であるのが幸いだ。

 「岸根君ってなんでも知ってるよね」、「岸根君って知らないことないんじゃないの?」、「ああいう人を完璧って言うんだろうね」――。耳の中で無数の人々が語り合っているような声に、一度文字から視線を外し、深く呼吸する。そして自らに大丈夫だと言い聞かせる。今と当時では状況が違う。接する人も物事も違う。僕自身の事の捉え方も違う。改めて大丈夫だと言い聞かせ、深く呼吸する。

 諸行無常という言葉があるが、万古不易だの百世不磨だのという言葉もある。十代とは一昨年に別れを告げ、なにに咎められるでもなく酒にも煙草にも手を伸ばせるようになれば、十代半ばだのそこから一歩進んだ程度の頃とは物事の捉え方も随分変わる。

しかし、その人を色濃く作る要素というのが誰にも存在する。それは生まれ持った性格や体質、能力だったり、あるいは記憶だったりするが、例えばおっちょこちょいだの抜けているだのと言われる人が、どれほど努力や注意していても、どこかでなんらかの失敗を犯すように、その人を色濃く作る部分というのは、様々な場面でひょっこり顔を出しては、日常や向上心の邪魔をする。

僕も、自らを色濃く作る要素には現在も邪魔されている。初めて、自分という人間について改めて思考を巡らせた頃には自分に自信の持てない質だったが、それは現在も、増家の言葉が理解できないという形で、僕が自信を持つことを邪魔している。

「自信を持て」、「もう少し自分を認めろ」。増家にこれまで幾度となく差し出された言葉だが、一度も受け取ることはできなかった。自らの中に、自信などという強く大きなものを持てるような部分が見当たらないのだ。彼は僕を、多くの分野で優れた成績を収める博識な男だと評するが、僕は自分をそうは思えない。そこで僕が取る行動は、決まって情報の収集だった。「博識な男」という増家の中の僕の像を、壊したくなかった。そうしてしまったときの、彼との「友達」より遥かに薄く遠い関係や距離を想像すると、恐ろしさに震える思いだったのだ。

彼に褒められ、時には「尊敬」などと大げさなほどの言葉を投げられる度、その痛みに耐えられるようにと情報という鎧を厚くし、今日まで「友達」という蝋燭の淡い火を保ってきた。今では、その火は随分としっかり芯を燃やすようになり、少し息を吹きかけたくらいでは消えなくなった。幸か不幸か、「とにかくすごい奴」とでもいうような、実際の僕とは遥かな距離を置いた印象が、彼の人間関係を築くにあたって大切な部分に、厄介なほどしっかりとこびりついてしまったのだ。