混ぜた納豆を茶碗のご飯にかけ、玉子焼きを適当な大きさに切って皿に載せる。皿と茶碗、箸を持って引き戸の先に進む。座卓に食器を並べ、いただきますと手を合わせる。

 しかし人間は不思議だ。冷蔵庫の中にはベーコンもあった。軽く炒めてその上に目玉焼きを作るという方法もあったのに、わたしは納豆と玉子焼きという形を選んだ。特別にこれが食べたいというわけではなかったはずだ。いや、どこかではそう思っていたのだろうか。物事には必ず意味がある。わたしが玉子焼きを選んだ意味――。

 なんでそんなに考えるの、と問われたことがある。高校二年の秋、周囲が受験だ受験だと慌ただしく書籍やらノートやらの頁をめくっている頃のことだ。その直前まで、わたしも至極純粋なありふれた少女だった。好きな物事に好きだと言ってまっすぐ取り組み、嫌いな物事には嫌いだと言ってそっぽを向いた。楓には特技があるじゃないとその人は言った。これからもそれを続ければいいじゃないと。わたしはそれに疑問を抱いた。その人の言うわたしの“特技”は、果たしてそれほど心強いものだろうかと。好きな物事を堂々と好きだと言ってそれに向き合えるほど、世界は暖かい場所ではないのではないかという気は、以前よりちらちらと見え隠れしていた。それがはっきりと姿を現したのが、高校二年の秋のことだった。わたしは何事に対しても素直になれず、理由を求めるようになった。