俺は「ああ……」と小さく納得の声をあげて頷いた。それと同時にまたも胸が痛くなる。
 久宝さんが俺のことを忘れてしまうのはまだわかる。他人だし、そう何度も会ったり長い
年月を一緒に過ごしたわけじゃないのだから。けど……飼っていた猫のことも、病は忘れさ
せてしまうのか。だってペットなんて、家族同然なのに。


 それから、久宝さんが眠くなってきたので退室した俺と四谷さんは、リビングで美沙子さ
んにお茶をいただいた。美沙子さんは話してくれた。久宝さんは手術は成功したものの、体
には麻痺が残り記憶の混濁も激しく、日に日に認知症が進んでいること。食も細くなり、相
反するように睡眠時間が増えていき、まるで……命の灯火が小さくなっていっているようだ
と。

 俺はそのときようやく、四谷さんの言っていた『覚悟』の意味を理解した。美沙子さんや
ご家族が、退院してから久宝さんのお見舞いを受け付けるようになったのは、きっと――お
別れが近いからだ。最期の挨拶をしてもらうために。

 ……胸が詰まる。お通夜やお葬式に参席したことはあるけれど、これから死を迎える人に
直面するのは初めてだ。理不尽で、けれど誰にでも平等に訪れる〝死〟。その一文字が俺の
中に重く重く沈んでいく。

 お茶を飲み終えお暇する俺たちを、美沙子さんは玄関まで送ってくれた。玄関で靴を履い
ていると、美沙子さんは「天澤さん、ありがとうございました。お母さんに話合わせてくだ
さって」とペコリと頭を下げた。

「いえ、俺こそ勝手に〝タカちゃん〟になっちゃってすみませんでした」

 認知症の人の話は間違っていても否定しないで聞いてあげた方がいい、と小耳に挟んだこ
とがあったので倣ってみたのだけど、果たして正しかったのだろうか。すると美沙子さんは
「お母さん、楽しそうでした」と微笑んだので、俺は少しホッとした。

「それじゃあ、おじゃましました」

 四谷さんと揃って玄関を出る。門扉へ向かう途中で前を歩いていた四谷さんが「あ、あれ」と呟いて足を止めた。なんだろうと思って追った彼の視線の先に、さっき久宝さんに窓越しに追い払われた猫の姿があった。

「あ、……お菊」

 お菊は松の太い枝の付け根の部分に器用に座って、じっとどこかを見ている。俺がチチチ
ッと呼んでみても少し耳を動かしただけで、微動だにしなかった。