文徳がアイスコーヒーのグラスに口を付けたから、おれは喉の渇きを思い出した。シロップを入れすぎたアイスコーヒーは、香りもなければ冷えてもいなくて、ベタベタする。
海牙は、かなりミルクの色に近いアイスコーヒーを一口飲んで、いつになく緊張した顔をした。
「長江さんとお話ししておきたいと言い出したの、ぼくなんです。ぼくが文徳くんに相談して、二人で会いに行くことになりました」
「そーなんだ? 文徳のお節介じゃなかったんだ」
「お節介ではなくて、ぼくの感覚では情報収集ですね。敵情視察ともいうかな。リアさんの役に立てないかなと思って。リアさんがつらそうなとき、ありますよね。仕事も忙しいんでしょうけど、やっぱりストレスの最大の要因は長江さんの件だろうから」
姉貴は海牙のことを妙にかわいがっている。海牙のウェーブした黒髪は、十日に一度は姉貴がハサミを入れていて、素材がいいだけに海牙は急激に垢抜けた。
海牙のほうは、姉貴の態度より、はるかにあからさまだ。最初っから姉貴に物欲しげな視線を向けたりしてたけど、今はそれ以上。うらやましいほど一生懸命、姉貴のことを見ている。
恋っていうやつなんだろうな、それ。おれにはよくわかんないんだよね。女の子なんてさ、ほしいって思ったら、イージーモードどころじゃないチートモードで、一瞬で手に入るから。
海牙には、苦労しやがれって言いたい。姉貴にとっていちばん特別な男って、今まではずっと、弟のおれだったの。ほかの誰でもなかったの。海牙はそこに割り込んでこようとしてんの。ムカつかないっつったら嘘になるから。
姉貴お気に入りのダークグリーンの目に、海牙はまじめな色をたたえている。
「長江さんから、息子の友達なのかと訊かれたとき、正直に答えました。理仁くんの友達でもありますが、リアさんのことを慕っています、いずれリアさんとお付き合いさせていただきたいと思っています、とね」
「言っちゃったんだ。すげー」
「長江さんとお会いするチャンスはそう頻繁にはないだろうと思ったので」
「姉貴にはまだ何も言ってないんでしょ?」
「言ってませんよ。でも、ぼくは本気です。長江さんから殴られても仕方ないって覚悟だったし」
「殴られた?」
海牙はかぶりを振った。夏だってのに白い顔に、淡い苦笑いが浮かんだ。
「頭を下げられました」
「うちの娘をよろしくって?」
「ええ。自分には父親らしいことをする資格がないから、だそうです」
「してんじゃん。海ちゃんに頭下げるとか。そんなやり取り、姉貴が知ったら激怒するよ」
「そうですね。リアさんには言えません。でもまあ、ぼく自身の目的は果たしました。後顧の憂いは絶ったことだし、あとは前に進むだけです」
おれは、ストップの格好で手のひらを掲げた。
「何で親父に挨拶するだけで障害物がなくなったと思えるわけ? おれ、すっげーシスコンだっていう自覚あるんだけど」
「姉貴と交際したければ、おれを倒して交換日記から始めろ! とか言います?」
「言わねーよ。とっくにスマホで連絡取りまくってんでしょーが」
「じゃあ、何なんですか?」
「言葉にできねぇモヤモヤがある。これ、理屈じゃねぇんだ。相対的に評価しろってことなら、ほかの誰かじゃなくて海ちゃんでいいやってなるけど」
「海ちゃん『で』いい、ですか」
「海ちゃん『が』いいっていう絶対的な評価を下せるのは姉貴だけだし、姉貴が選ぶんならしゃーないってわかってるけど、やっぱモヤモヤは残るよね。海ちゃんが友達としておもしれーやつだっていう認識とは別のところで、モヤモヤする」
海牙は、一時期より短くなった前髪を掻き上げた。
「それなら、どうすればいいんです?」
おれは、大事なものを投げ捨てるような気分で言った。
「姉貴と付き合うことになったら、一発、海ちゃんのこと殴らせろよ」
「いつの時代の頑固親父ですか?」
「別に、今の時代のシスコン弟のセリフでも問題ないでしょ?」
海牙は、喉を鳴らす笑い方をした。
「殴るくらいで気が済むのなら、いくらでもどうぞ。ぼくは基本的に好き勝手に生きる人間ですけど、きみには認めてほしいからね。真剣なんです」
なるほどね、と思った。
海牙って、飄々として、振る舞いがちょっとキザで、嫌味っぽく見えることもあるけど、根はめちゃくちゃまじめでピュアだ。おれみたいに小器用なタイプより、よっぽど信用できる。
なついたら、ひたすら一途。海牙のそういうところが、姉貴にとってはかわいくて仕方ないのかな。「きみには認めてほしい」って言葉、おれでさえ、すげー嬉しいし。
変わっていくんだろうな。わちゃわちゃしてにぎやかな、今のおれたちの関係。
「青春してるやつがいるよ~。まっぶし~。せっかくだから、高校生活最後の夏、みんな誘ってプールとか海とか花火大会とか行きまくっちゃう?」
「おっ、いいな。俺は亜美も誘おう」
「ぼくも、このメンバーだったら楽しみです。目の保養になりそうだ」
「あっきーを巡って、さよ子ちゃんと鈴蘭ちゃんのガチバトルが展開されるかもね」
「煥のやつ、一瞬で逃げ出すぞ」
「硬派ですよね、煥くんは」
「というか、ただの鈍感って説もあるけどー」
「俺は鈍感説に一票。あいつ、それ系の動画とかは普通に観てるよ」
「へえ。どういうジャンルが好きなんでしょう?」
その瞬間、テーブルに投げ出した三台のスマホに、同時に同じメッセージがポップアップされた。煥からの連絡だ。
〈すぐ〉
それだけ。
もうすぐ着くって言いたいんだろうか。ニュアンスでわかることが多いとはいえ、煥からの連絡はいつも極端に短くて、何だか笑える。
「つーか、おれ、課題が全然進んでねえ。ヤバいってば!」
急に現実に引き戻される。ヤバいとか言いながらついつい笑ってしまう、そんな他愛ない現実に。
願わくは。
こういう現実のピースが一つひとつつながって、しょうもなくてささやかで居心地のいい未来が、ずっと続いていきますように。
願うための代償は、なくてもいいでしょ? おれがほしいのは華やかな奇跡なんかじゃなくて、一歩ずつ踏みしめていくための、草ぼーぼーの道だからさ。
そんな道を、気の置けない仲間たちと、おれはマイペースに突き進んでいきたいんだよ。
【幕】
BGM:BUMP OF CHICKEN「コロニー」
海牙は、かなりミルクの色に近いアイスコーヒーを一口飲んで、いつになく緊張した顔をした。
「長江さんとお話ししておきたいと言い出したの、ぼくなんです。ぼくが文徳くんに相談して、二人で会いに行くことになりました」
「そーなんだ? 文徳のお節介じゃなかったんだ」
「お節介ではなくて、ぼくの感覚では情報収集ですね。敵情視察ともいうかな。リアさんの役に立てないかなと思って。リアさんがつらそうなとき、ありますよね。仕事も忙しいんでしょうけど、やっぱりストレスの最大の要因は長江さんの件だろうから」
姉貴は海牙のことを妙にかわいがっている。海牙のウェーブした黒髪は、十日に一度は姉貴がハサミを入れていて、素材がいいだけに海牙は急激に垢抜けた。
海牙のほうは、姉貴の態度より、はるかにあからさまだ。最初っから姉貴に物欲しげな視線を向けたりしてたけど、今はそれ以上。うらやましいほど一生懸命、姉貴のことを見ている。
恋っていうやつなんだろうな、それ。おれにはよくわかんないんだよね。女の子なんてさ、ほしいって思ったら、イージーモードどころじゃないチートモードで、一瞬で手に入るから。
海牙には、苦労しやがれって言いたい。姉貴にとっていちばん特別な男って、今まではずっと、弟のおれだったの。ほかの誰でもなかったの。海牙はそこに割り込んでこようとしてんの。ムカつかないっつったら嘘になるから。
姉貴お気に入りのダークグリーンの目に、海牙はまじめな色をたたえている。
「長江さんから、息子の友達なのかと訊かれたとき、正直に答えました。理仁くんの友達でもありますが、リアさんのことを慕っています、いずれリアさんとお付き合いさせていただきたいと思っています、とね」
「言っちゃったんだ。すげー」
「長江さんとお会いするチャンスはそう頻繁にはないだろうと思ったので」
「姉貴にはまだ何も言ってないんでしょ?」
「言ってませんよ。でも、ぼくは本気です。長江さんから殴られても仕方ないって覚悟だったし」
「殴られた?」
海牙はかぶりを振った。夏だってのに白い顔に、淡い苦笑いが浮かんだ。
「頭を下げられました」
「うちの娘をよろしくって?」
「ええ。自分には父親らしいことをする資格がないから、だそうです」
「してんじゃん。海ちゃんに頭下げるとか。そんなやり取り、姉貴が知ったら激怒するよ」
「そうですね。リアさんには言えません。でもまあ、ぼく自身の目的は果たしました。後顧の憂いは絶ったことだし、あとは前に進むだけです」
おれは、ストップの格好で手のひらを掲げた。
「何で親父に挨拶するだけで障害物がなくなったと思えるわけ? おれ、すっげーシスコンだっていう自覚あるんだけど」
「姉貴と交際したければ、おれを倒して交換日記から始めろ! とか言います?」
「言わねーよ。とっくにスマホで連絡取りまくってんでしょーが」
「じゃあ、何なんですか?」
「言葉にできねぇモヤモヤがある。これ、理屈じゃねぇんだ。相対的に評価しろってことなら、ほかの誰かじゃなくて海ちゃんでいいやってなるけど」
「海ちゃん『で』いい、ですか」
「海ちゃん『が』いいっていう絶対的な評価を下せるのは姉貴だけだし、姉貴が選ぶんならしゃーないってわかってるけど、やっぱモヤモヤは残るよね。海ちゃんが友達としておもしれーやつだっていう認識とは別のところで、モヤモヤする」
海牙は、一時期より短くなった前髪を掻き上げた。
「それなら、どうすればいいんです?」
おれは、大事なものを投げ捨てるような気分で言った。
「姉貴と付き合うことになったら、一発、海ちゃんのこと殴らせろよ」
「いつの時代の頑固親父ですか?」
「別に、今の時代のシスコン弟のセリフでも問題ないでしょ?」
海牙は、喉を鳴らす笑い方をした。
「殴るくらいで気が済むのなら、いくらでもどうぞ。ぼくは基本的に好き勝手に生きる人間ですけど、きみには認めてほしいからね。真剣なんです」
なるほどね、と思った。
海牙って、飄々として、振る舞いがちょっとキザで、嫌味っぽく見えることもあるけど、根はめちゃくちゃまじめでピュアだ。おれみたいに小器用なタイプより、よっぽど信用できる。
なついたら、ひたすら一途。海牙のそういうところが、姉貴にとってはかわいくて仕方ないのかな。「きみには認めてほしい」って言葉、おれでさえ、すげー嬉しいし。
変わっていくんだろうな。わちゃわちゃしてにぎやかな、今のおれたちの関係。
「青春してるやつがいるよ~。まっぶし~。せっかくだから、高校生活最後の夏、みんな誘ってプールとか海とか花火大会とか行きまくっちゃう?」
「おっ、いいな。俺は亜美も誘おう」
「ぼくも、このメンバーだったら楽しみです。目の保養になりそうだ」
「あっきーを巡って、さよ子ちゃんと鈴蘭ちゃんのガチバトルが展開されるかもね」
「煥のやつ、一瞬で逃げ出すぞ」
「硬派ですよね、煥くんは」
「というか、ただの鈍感って説もあるけどー」
「俺は鈍感説に一票。あいつ、それ系の動画とかは普通に観てるよ」
「へえ。どういうジャンルが好きなんでしょう?」
その瞬間、テーブルに投げ出した三台のスマホに、同時に同じメッセージがポップアップされた。煥からの連絡だ。
〈すぐ〉
それだけ。
もうすぐ着くって言いたいんだろうか。ニュアンスでわかることが多いとはいえ、煥からの連絡はいつも極端に短くて、何だか笑える。
「つーか、おれ、課題が全然進んでねえ。ヤバいってば!」
急に現実に引き戻される。ヤバいとか言いながらついつい笑ってしまう、そんな他愛ない現実に。
願わくは。
こういう現実のピースが一つひとつつながって、しょうもなくてささやかで居心地のいい未来が、ずっと続いていきますように。
願うための代償は、なくてもいいでしょ? おれがほしいのは華やかな奇跡なんかじゃなくて、一歩ずつ踏みしめていくための、草ぼーぼーの道だからさ。
そんな道を、気の置けない仲間たちと、おれはマイペースに突き進んでいきたいんだよ。
【幕】
BGM:BUMP OF CHICKEN「コロニー」