親父はおれたちを順繰りに見やった。
「去年の暮れのころにね、妻の体調が急に悪くなってしまった。どうも時間があまり残されていないようで、医者には手を尽くすように頼んだのだが、厳しいものがある、と。科学の限界というやつだよ。私には奇跡が必要なんだ」
 なるほど、と思った。腑に落ちた。理解できてしまった。
 だって、おれも朱獣珠に言っちまったことあるもん。おかあさんを返せよ、って。
 でも、おれのそれはただの愚痴に過ぎなくて、何かを犠牲にして願いを叶えようとしたわけじゃなかった。それは絶対の禁忌だと、本能的に感じていた。願ってしまうことは恐怖でしかなくて、ただ嘆いた。おかあさんを返せよ、って。
 あのとき朱獣珠は何も答えずに、せわしなく明滅しただけだ。
 ねえ、それとも、おまえ本当は何か言いたかったの? おかあさんを解放するから代わりに何か食わせろって、おれに言うつもりだった?
 まさかね。おれがあいつと同じことするところなんて見たくないよね。おれもそんなことやりたくねーよ。
 じゃあ、その代わりに、おかあさんはずっと帰ってこねぇのかな。
 親父が不意に強い目をして、おれを見つめた。
「理仁、親孝行をしなさい。父を裏切って母を見殺しにするつもりか?」
 親父の目には光があって、まっすぐのぞき込むようにおれを見ていた。真正面から、おれはまなざしを受け止めてしまった。遠近感は狂わなかった。
 こいつ正気なんだなって、いきなり実感した。正気なのにこんなにトチ狂ってんだなって、すげー絶望的な現実を、おれは初めてハッキリと認めた。
「あんたに朱獣珠を渡して、そのへんの誰かを殺して代償にして、おかあさんを快復させるのが、おれのやるべき親孝行なのかよ?」
「母の命と、言葉もしゃべれない動物や見も知らぬ他人の命と、どちらを優先させたい? 選ぶ権利は、理仁、おまえにある」
「やめろ」
「おまえが私に力を貸してくれなければ、おまえの母が死んでしまうんだ。おまえが見殺しにするんだぞ、私の妻を」
「ふざけんな」
「私はたくさんのものを持っている。成功した資産家だ。だが、どれだけ金があっても手に入らないものがある。金と引き換えにできないほど大切なものだってある。私は、家族が形を成さなくなったことが悲しくて仕方がない」
 何が「悲しくて仕方ない」だよ?
 怒りがおのずとチカラを帯びて、おれの肉体を音もなくすり抜けて、獣の唸り声みたいに低く響く。
【黙れ】
 でも、親父の長広舌がやまない。
「帰ってきなさい、理仁、リア。そして理仁、朱獣珠に願うんだ。おかあさんが健康な姿でうちに帰ってきてくれることを。家族として、やり直していこう。今なら取り戻せるはずだ」
 聞きたくない言葉のオンパレードだ。帰るとか、家族とか、やり直すとか。テメー、どのツラ下げて、そんなくだらねぇこと言ってやがんだ?
 怒号がおれの全身から衝撃波になって噴き出す。
【黙れっつってんだよ!】
 パシン、と、ぶん殴ったような音があちこちから聞こえた。親父がのけぞる。ほかのみんなも、耳や頭を押さえてうずくまる。
 体じゅうの血が沸騰してるみたいだ。怒りと憎しみで熱せられたチカラが、血管の中を隅々まで巡りながら暴れている。
 親父がなおも、おれにすがろうとしてくる。
「理仁、おまえが必要なんだ。私がより大きな資産を求めるのは、すべて、愛する家族のため……」
 聞きたくない。
 愛なんて言葉、親父の口から聞きたくない。
【嘘なら許せねえ。本気なら受け入れられねえ。見栄や建前のために父親を演じてるってんなら、まずは本音をさらせよ】
 言葉の一つひとつにズッシリと重みを持たせて、親父めがけて投げる。ぶつける。叩き付ける。
 親父は顔を歪めた。苦痛の表情。もっと苦しめばいい。
【言ってみろよ、本当のこと。テメーのいちばん大事なモンって何だ? 何のためにおれや姉貴が悲しい思いばっかしてきたのか。何のためにおかあさんが人生を棒に振ることになったのか。テメーが本当に愛してるモンって、一体、何なんだよ? 言えよ】
 号令《コマンド》が親父にも効けばいいのに。
 親父がおれの前に膝を屈するのは、おれが言霊使いの王さまだからじゃなくて、ただ単に親父に苦痛を与えているからだ。
 鼓膜とは別のもっと奥、音じゃなくて言葉を理解するための脳ミソのどこかを、おれの声は直接ガッシリ握って離さない。握りしめて、痛め付けて。