最後の一人を、煥の回し蹴りが昏倒させた。踏み込もうと身構えていた海牙は、ふう、と息をついて肩をすくめた。
「倒した敵の数、今ので煥くんの勝ちですよ。残念」
「全部倒せりゃ何だっていいだろ」
「ぼくはちょっと気にしますけど。すごいものですね。チカラも使わず、純粋な身体能力だけで、その動きでしょう?」
「オレのチカラは光の障壁《ガード》だ。あんたは、その動きが能力なのか?」
 海牙は、額にかかる黒髪を掻き上げた。髪が濡れてるのがわかった。短い間に、ものすごい量の汗をかいている。
「動き自体はトレーニングの成果です。ぼくのチカラは目ですよ。力学《フィジックス》と名付けたチカラで、ザックリ言えば、ぼくの視界にはありとあらゆる数字が表示されるんです。だから、コンピュータで最適値を求めるように、ぼくは効率的な数字に従って動ける」
 海牙の足下で、覆面が呻いた。海牙は迷いもなく覆面の股間を踏み付けた。呻き声がパッタリと途絶える。
「うっわ、容赦ないね~」
「容赦する理由がありませんから。汚いものを踏んでしまって、気分悪いけどね」
 おれは少し笑った。その拍子にふらつきそうになった。膝に手を突いてこらえる。文徳が肩を貸そうと申し出てくれたけど、サンキュって言って断った。
 煥が険しい目をして、路地に転がる覆面のご一行を見やった。
「こいつら、何なんだ? 組織的だよな。裏に何がいるんだ?」
 おれと姉貴の視線が絡んだ。姉貴は、そっとかぶりを振った。
 だよね。心当たりはありまくるけど、ハッキリ確認してないんだ。まだ何も言えねーよな。
 海牙が慎重な言葉を口にした。
「明日以降で、かまいませんか? 確証を得てからお話ししたい。ここにいるぼくたち全員の身の安全に関わることです」
 四獣珠のチカラに由縁のあること、だろう。おれや姉貴が経験と想像から推測している敵の姿を、海牙はきっと、もっと正確な情報によって知り得ている。
 重苦しい沈黙が落ちかけて。
 あっ、と鈴蘭が声を上げた。
「煥先輩、腕、血が出てます」
 まくった袖からのぞく左の前腕に、赤く裂けた傷がある。明らかに刃物の傷だ。
 煥は傷口をのぞき込むと、舌を出して血を舐めた。
「やっぱりやられてたか。拳の内側にナイフ仕込んでるやつがいたからな」
「やだ、その傷、ずいぶんひどいじゃないですか! わたしが治しますから」
 パッと飛び出した鈴蘭は、煥に抱き付きそうな勢いだった。煥がちょっとのけぞる。鈴蘭は気にせず、煥の肘のあたりをつかまえた。
「お、おい」
「じっとしててください」
 鈴蘭は煥の傷口に手をかざした。鈴蘭の小さな手では覆い切れないほどの赤色は、次の瞬間、淡い青色の光に包まれた。鈴蘭の手のひらから、やわやわと光が染み出している。
 光を映す煥の顔に驚きが広がった。切れ長の目がまっすぐに鈴蘭を見下ろす。
 パックリと開いた傷口が、だんだんとふさがっていく。あの青い光は、傷を治すチカラなんだ。
 鈴蘭は横顔をしかめて、ギュッと目をつぶっていた。痛みをこらえる顔だ。肩が細かく震えている。
 煥は怪訝《けげん》そうに眉をひそめた。
「どうした?」
「い、痛い……煥先輩、こんな痛いのをこらえながら戦ってたんですね。わたし、今、同じ痛みを感じてるんですけど、ほんとに痛い……」
「バカ、もういい。よせ」
「イヤです! ちゃんと治します!」
 痛みに対する耐性は人それぞれだ。女のほうが痛みに強いっていうけど、それまた個人差があるはずだし。
 というか、真っ赤に裂けた傷は、見るだけで痛い。煥はケンカ慣れしてるからケガの痛みにも慣れてるんだろうけど、けっこうえげつない傷だ。
 そうしていた時間は、数十秒ってところか。青い光が引いた。煥の腕から傷が消えている。
 鈴蘭は肩で息をして、煥を見上げた。
「もしまた煥先輩がケガをしたら、私が治します。本当は、さっきみたいな危ないこと、してほしくないんですけど」
「反撃しなきゃ、やられてた。仕方なかっただろ」
「わかってます。だけど……」
 鈴蘭は言葉が続かない。煥はしかめっ面でそっぽを向いて、ぶっきらぼうに言った。
「……治療、ありがとう」
「えっ、あ、いえ、このくらいしかできないから、わたしっ」
 鈴蘭は目を大きく見張って、小さな手で口元を覆った。暗くてよくわかんないけど、たぶん真っ赤になってる。そっぽ向いたっきりの煥も、きっと同じだ。
 何か非常に雰囲気がよろしいようで。
 不意に、海牙がへたり込んだ。うつむくと、ちょっと長めの髪で顔が隠れてしまう。
 誰より素早く動いたのは姉貴だった。
「海牙くん、どうしたの? 大丈夫?」
 姉貴は海牙のそばにかがんで、グレーの制服の肩に手を触れた。海牙は顔を上げて苦笑いした。
「おなかがすきました。あの動き方をすると、ものすごく消費するんです」
「何だ、そういうこと。とりあえず、チョコレートあげる」
「いいんですか? ありがとうございます」
「どういたしまして。ケガはない?」
「問題ないですよ。いくつかアザはできたかもしれませんが、その程度です。顔は守りましたし」
「キレイな顔に傷が付かなくてよかったわ。ねえ、この後、一緒に食事に行ける? この間のお礼がしたいの」
 海牙が息を呑むのがわかった。姉貴のこと見つめてるというか、見惚れてるというか。
 あのさー、海牙、状況わかってる? 実の弟がいる前で、姉貴に対するその物欲しげなまなざしは、ちょっと正直すぎないかい?
「行けます。もともと下宿先にも、今日は外食して帰ると言ってあります。ご一緒できるなら、ぜひ」
「じゃあ、おごってあげる。ほかのみんなはどう?」
 文徳が「ごめん」のジェスチャーをした。
「すみません。バンドメンバーで食事の約束をしてます。ライヴの反省会と次回の予定を立てるから、今日のところはここまでで」
 煥は文徳の言葉にうなずいた。
 鈴蘭も、残念そうに眉尻を下げて唇を尖らせた。
「わたしの家は門限や規則がちょっと厳しいんです。ストリートライヴを聴くことも、必死で親にお願いして許可してもらったくらいなので、そろそろ急いで帰らないと」
 そんなわけで、路地から駅前の広場に戻った。バンドのみんなは、鈴蘭のお迎えが来るまで一緒にそこで待機。おれと姉貴は、へろへろになってる海牙を連れて、一足先に離脱した。
 姉貴と海牙が並んで歩く後ろを、おれが一人で付いていく。
 海牙って、同い年の目から見ると、かなり癖が強くていけ好かないタイプなんだけど。八つ年上の姉貴には、変てこでかわいい犬でも拾っちゃった感じなんだろうか。
 いつになく姉貴がはしゃいでるような気がして、おれは、どんな顔してればいいのかわからなかった。だから、いつもと同じように、へらへら笑いの仮面を付けて、何も考えてないみたいにふざけておいた。
 姉貴が誰かに取られるのがイヤっつーか、そう単純なんじゃなくて。
 誰かが姉貴を決定的に傷付けるかもしれないのがイヤなんだよ。
 海牙がちゃんとしたやつだって確信、今のとこ、まだないんだもん。