この後は時間ある? と、おれは訊こうとした。それが途中で阻まれた。
 さよ子が鈴蘭の手を引っ張って、にぎやかに声を上げながら、こっちへ走ってきた。
「もーぅ、海牙さん! そんな端っこにいたら、ボディガード頼んだ意味がないでしょ! ほかの屈強なおにーさんじゃなくて海牙さんを指名したのは、海牙さんだったら高校生の中にまぎれ込んで目立たないからなんですよ!」
 鈴蘭が目を白黒させた。
「さよ子、えっと……この人は知り合い?」
「阿里海牙さん。うちに下宿してるの。パパ関連の人」
「なるほど。さよ子の家、大豪邸だもんね」
「海牙さんは大都高校の三年生でね、すっごい頭いいんだよ。性格はちょっとものすごいし、ナルシストで腹黒っぽい発言も多々あるけど、悪い人ではなくてね。パパが運営してる奨学金で勉強してるんでしたっけ、海牙さん?」
 海牙はウェーブした髪を掻き上げて、ため息をついた。
「おっしゃるとおり、平井財団の奨学金を使わせていただいてますが。本人の前で、性格や発言がどうのこうのと批評するのは、いかがなものかと思いますよ」
「海牙さんだって、いつも本人の目の前でズバズバ言うじゃないですかー。陰口言うより絶対マシですけど、毒舌すぎるのはモテないと思います」
「ほらまたそれを言う。カッコいいのに変人だからモテないだの、髪が長めなのが鬱陶しげだからモテないだの、黙ってればいいのに口を開けば理屈っぽいからモテないだの、何かに付けて小姑のごとく、ぼく以上にやかましいのは、どこのどなたでしょうか?」
「だって海牙さん、見た目の素材はとーってもいいのに、カノジョできたことないでしょ? もったいないから、しっかりプロデュースしてあげたいなーって」
「余計なお世話です。ぼくにカノジョができないのは男子校に通っているから出会いがないためであって、モテないからではありませんので。そのあたりを誤解しないでいただきたい」
「ふーん? そうなんですかー? じゃあ、わたしの友達を紹介してあげましょうかー?」
「あいにくですが、年下には興味ありませんので。子どもっぽい人は無理ですね」
 舌戦、なんて呼ぶには微笑ましすぎるやり取りに、ついに姉貴が噴き出した。おれも一応は笑うのを我慢してたんだけど、姉貴につられてニヤニヤしてしまう。
「海ちゃんって、だいぶクールそうに見えるのに、けっこうすぐムキになるタイプなんだ。年上のがいいなら、うちの姉貴はどう? 今ならライバルいなくてお買い得だよ」
 姉貴がおれの脇腹に肘鉄を突っ込んだ。
「変なこと言わないの。海牙くんを困らせちゃうでしょ」
「姉貴は困んねーんだ?」
「お黙り」
「ぐえっ」
 海牙は目を丸くして姉貴を見ていた。ごめんね、と姉貴が笑顔で取り繕うと、かぶりを振りながら視線をそらす。照れてやんの。案外ちょろいやつ。年上が好みって、ガチの本心なんだろう。
 ストリートライヴの熱の余韻が、だんだんと引いていく。オーディエンスが解散し出して、瑪都流の楽器や機材の片付けもほぼ終わった。
 おれたちは、ようやく人波の中心から解放された文徳と煥のところへ行って、初対面同士で挨拶を交わした。
 込み入ったことを話す暇はなかった。駅前のロータリーに、上等な国産の電気自動車が静かに滑ってきて止まった。
 さよ子が髪を弾ませて、車のほうに手を振った。
「お迎えが来ちゃいました。あの車、パパのです。海牙さん、行きましょ?」
「遠慮します。ちょっと本屋に寄ってから自力で帰りますから、総統にはそうお伝えください」
「はーい。迷子にならずに帰ってきてくださいね」
「なりません」
「方向音痴のくせにー」
「自宅で迷子になるきみにだけは言われたくありません」
「だって広いんですもん。じゃあ、皆さん、また今度! そろそろ、さよ子、行きまーす!」
 さよ子がカバンを提げて歩いていく先で、車の後部座席のウィンドウがスーッと下がった。
 そのとたん、チカラを感じた。
【どうもこんばんは、四獣珠の預かり手の諸君。娘がお世話になっているね】
 思念による声だ。おれが使う号令《コマンド》と同じで、号令《コマンド》よりもはるかに大きなチカラを秘めた声。
 何者なんだ、と思った。
 声が答えた。
【私は平井鉄真《ひらい・てっしん》という。さよ子の父だ。きみたちのアドバイザーになれるかもしれないが、今はそのときではない。まだもう少し、きみたちが自力で得るべき情報がある。いくらかの時を経て、きみたちは再び私と会うことになるだろう】
 海牙はさっき、平井のことを「総統」と呼んだ。「総《すべ》て統《す》べる」ってのは正しい呼び名だと、おれは直感的に思った。
 暗がりの中で、うっすらと顔が見えた。微笑んでいる気配があった。
 さよ子が車のそばでおれたちに向き直って、ペコリと頭を下げた。それから、ぶんぶんと勢いよく手を振って、車に乗り込んだ。車は来たときと同じように、静かで甲高いモーター音を立てて走り去った。
 さて、と場を仕切り直すように声を張ったのは、海牙だ。
「ぼくもそろそろ退散します。本屋とファミレスにでも寄って帰りますね。総統があんなふうにおっしゃったからには、ぼくたちはまたすぐに会えるんでしょう」
 海牙はあっさりときびすを返した。
 その背中に、文徳が声を掛けた。
「本屋に行くって、参考書でも探しに? 全国模試のランキングで、阿里海牙くんの名前をいつも見てるよ。どんな勉強の仕方をしてるんだ?」
「おや、襄陽学園の伊呂波文徳くんのほうが有名人でしょう? 生徒会やバンドで活躍するだけじゃなく、受験生としての学業成績は十分だと聞いてますけど」
「もうちょっと手を抜きながら成績を維持できないかと考えててね」
「なるほど。でも、ぼくの勉強の仕方は誰の参考にもなりませんよ。これから行くのも、参考書じゃなくて小説の新刊を探すためだしね」
 進学校の大秀才のくせに意外すぎることを言って、海牙はゆったりと歩き出した。いや、ゆったりに見えるけど、去っていくペースが異様に速い。注意してみると、動きがしなやかすぎて非現実的。よくできたCGみたいだ。
 薄暗い路地に海牙の後ろ姿が消えたところで、はたと、姉貴が手を打った。
「本屋、あっちじゃないでしょ。方角が正反対よ」
「ほんとだ~。あいつ、実はけっこうドジっ子? 方向音痴って言われてたの、ガチ情報だったの?」
 視界を銀色がよぎっていった。煥だ。肩越しに振り返る横顔は、まなざしがひどく鋭い。
「追い掛ける。何かイヤな予感がする」
 煥は言い捨てて、駆け出した。足がめちゃくちゃ速い。たちまち後ろ姿が遠ざかっていく。
 その背中に引き寄せられるように、気付いたら、おれも走り出していた。
 イヤな予感。
 そう。煥の口からそう聞いた瞬間、おれもそれを察知した。首筋の毛が逆立つような、寒気にも似たザワザワを感じる。