古い樹のような、土くれのような、錆びた金属のような、何だかよくわかんない物質が、やせこけた男をとらえて呑み込もうとしている。
 いや、逆だ。男を中心に物質が生まれ出ている。男を中心に、この空間の地面も天井も壁も形作られている。
 吹っ飛んでた意識が戻ってきたとき、おれはここにいた。目を見開いたまま土気色になってピクリとも動かないその男のそばに、一人きりで転がっていた。
 おれは男を見上げた。
「総統って呼ばれてたよね? あんた、偉い人なんだ? そりゃそっか。あんだけ胞珠いっぱい持ってたら、チカラのほうもすごいっしょ」
 キラキラまぶしかった胞珠は全部、沈み切った色に変わっている。粒の粗い砂みたいに、ざらざらだ。もともとなかった右腕は、相変わらず空っぽだった。
 生きてるようには見えなかった。でも、総統は応えた。
【確かに、私には何をするチカラでも備わっていた。だからこそ、何もしてはならなかった。何かを成せば、代償として何かが失われる。それが因果の天秤の均衡だ】
「そりゃまた禁欲的なことで。おれなんかさ~、他人にできないことが自分にはできるって気付いた瞬間から、さんざんいろいろやらかしてきたよ。だって、楽しんだもん勝ちじゃん? どーせこんなご時世じゃ、長生きできやしねぇんだし」
【私も長生きを望んではいないのだがね。実際、こうなってしまったからには、もう生者には戻れない。それを惜しんでもいない】
「冷静だね。第一印象は、ネジが何本か飛んじゃってる感じだったけど」
【その表現は正しい。右腕を奪われて体内のチカラの均衡が崩れ、暴走を押さえるのに必死だった。その精神状態のよくないときに、さよ子までいなくなった。そして、きみの思念と感応してしまい、トリガーが引かれた】
 おれは笑った。
「何それ。おれのせいってこと? おっちゃん、偉い人なんでしょ? たかが十七歳のガキに引きずられてトチ狂うとか、ちょっとだらしなくない?」
 総統も少し笑った。
【まったく面目ない。きみと私のチカラは相性がよいようでね、ふっと引き込まれてしまった。気が付いたら、このざまだ】
 おれは笑いを腹の奥にしまった。
「このざまっていうのは、どういうざま? おっちゃん、死んでんの? ここ、おっちゃんが創り出したダンジョン?」
 総統の思念は笑みを含んだままだった。
【人間の肉体としては、私は死んでいる。胞珠のチカラもほぼ流出してしまった。そのチカラと周辺の大地が混じって、いわゆるダンジョンのようなものを形成したようだね。ただ、胞珠の破砕には至っていない。その一歩手前で押しとどめている】
「だよね~。おっちゃんみたいに全身胞珠の人が破砕したら、地球、割れるよね」
【そのあたりは海牙くんが計算したことがあったな。残念ながら、地球を割ったり砕いたりするには、エネルギーが足りないそうだ。とはいえ、人間社会や自然環境を破壊し尽くすには十分なエネルギーだと言っていた】
 総統の語り口は穏やかで、だから不気味だった。こんな場面、危機を煽《あお》り立てるような話し方をされるほうがナチュラルってもんだ。
 胃の底がゾワゾワして、吐き気が込み上げた。おれは恐れてるらしい。死んでる男と会話することそのものも、男が平然と語ってのける可能性の話も、両方とも怖くて気持ち悪い。
 おれはぐるっと周囲を見渡した。
 ダンジョンの中は蟻の巣に似てるって聞いてたとおりだ。天井の低い小部屋があって、何本かの道が続いてて、さらに先にも小部屋がある。そんな感じで、見通しが利かない。
 うっすらと明るい。光源が何なのかわかんないけど。あるいは、目で見てる景色じゃないのかもしれないけど。
 おれは総統に訊いた。
「ここから出る方法、あるよね?」
【出て、どうする?】
「どうもしない。ただ、死に場所を選べるんなら、ここよりはマシなとこがいい」
【出られるはずだよ。さして大きな広がりを感じない。目を凝らしても、ろくに見えなくなっているから、具体的なことは言えないが】
「あっそう。んじゃ、おれ、行きますゎ」
 おれは総統に背を向けた。待ってくれ、と言われて、振り返る。
【私が破砕するのを止めてもらえないだろうか?】
「えー、何それ? おれ、大冒険とかするつもりないよ? そんなチカラ持ってないし、そんなガラじゃないし」
【大仰なことを頼みたいわけではない。さよ子だ】
「はい? あのお目々キラキラの美少女が何なの?」
【ここへ連れてきてほしい。あの子が生きている可能性だけを希望に、その一縷《いちる》の光にすがって、私は自我を保ち、破砕を食い止めている。さよ子さえ確保できれば、さよ子が生きている限り、私は世界を崩壊させずに済むだろう】
 胃の底がまたザワザワして、きつく痛んだ。冷たい手で胃をつかまれて搾り上げられるように感じた。
 不吉の予感。強烈な確信を伴う、最悪の可能性。
 カウントダウンが聞こえ始めた。そう感じた。
「はいはいはい、さよ子姫をお連れすればいいわけね~。割に合わないお仕事な気もするけど、まー、巡り合わせってやつかな。しゃーないね。行ってきますゎ」
 歩き出したおれの背中に、音なき声が触れた。
【運命は大樹の形をしている。私たちが存在するこの世界は、運命の一枝に過ぎない。別の一枝では、同じでありながらまったく別の、私たちそっくりの私たちが生きている。そちらの世界ならば、きみの働きも、割に合うお仕事になり得るのだがね】
 おれは、今度は振り返らずに笑った。
「どっかで読んだよ、そういう話。昔の学者が大まじめに論述した古文書とか。もしも人間が胞珠を持たなかったら、みたいなフィクションとか。でも、想像したってしょうがなくない? この一枝では、平穏無事な世の中なんて、どーせ手に入んないんだし」
【気休めにもならないかね?】
「どうだろ? おれ、考え事するの苦手だから、ちょっとよくわかんねーや」
 会話を続けたくなかった。おれはひらひらと手を振って、総統がご神体みたいに生えた小部屋を後にした。