そいつはあまりにも速かった。あっ、と思った次の瞬間にはもう目の前にいた。
殺られる。
躊躇《ちゅうちょ》のない腕がおれの喉を狙っている。素手でも人間ひとり殺すくらい簡単なんだって、確信的な殺意が無言のうちにそう言っている。
ガクンと、おれはのけぞった。引っ張られたせいだ。
風圧が頬を叩いた。空振りした腕が、ビュッと音を立てた。
「弱いんなら下がってろ!」
おれの腕を引っ張った煥《あきら》が怒鳴った。かばったついでに振り回すようにして、おれを襲撃者から遠ざける。おれは踏ん張りが利かなくて、吹っ飛ばされて尻もちをついた。
襲撃者が飛びすさる。人間離れした身軽さだ。チラリと視線を動かして、一つの名前を呼ぶ。
「さよ子さん」
見た目どおりの細い声だ。男の声じゃあるけど、圧を感じさせない性質。
でも、呼ばれたさよ子はビクッと震えた。そりゃそっか。ひどく機械的っていうか、人間味に乏しい声音だ。不気味だった。
煥が半歩、前に出る。いつでも飛び出せるように身構えている。
襲撃者の視線が煥をまっすぐとらえる。機械的な口調がまた、言う。
「邪魔ですよ。あなたには用がない。どいてください」
「じゃあ、誰に用がある?」
「さよ子さんと、長江理仁《ながえ・りひと》」
背筋がゾワッとした。やっぱりこいつ、おれのこと知ってやがる。
おれは立ち上がって埃を払った。口を開くより先に、顔がニヤリと仮面みたいに笑う。癖になった笑顔が、こんなときでも剥がれない。
「話があるって言う割に、いきなり殴り掛かってくるのはおかしいんじゃないの?」
答えが返ってきた。
「防衛手段としての攻撃です。先にちょっかいを出してきたのはそっちでしょう」
「はい? 何のこと? 誤解してない?」
「とぼけているのか本当に知らないのか、判断する材料に欠けますが、ぼくにとってはどちらでもいい。命じられたことを遂行するだけですから。さよ子さん、こちらへ」
最後の一言はもちろん、さよ子に向けて放たれた。
さよ子はかぶりを振った。鈴蘭がさよ子の前に進み出て、通せんぼするように両腕を広げた。
「嫌がってる女の子を連れ去ろうなんて、顔見知りだとしても失礼すぎるでしょ、あなた! さよ子に何の用なんですか!」
「命じられたんですよ。日が暮れた後、こんな場所にいては危険ですから」
ピリピリと空気が帯電するように、敵意が、戦意が、殺意が、あたり一帯に放射される。ひんやりした春の夜気が瞬時にカッと燃え立った。そう感じた。
襲撃者とその連れの二人、おびえるようでいて怒りのほうが強いさよ子と鈴蘭、牙を剥くようにニヤリとした煥と文徳《ふみのり》。チカラある血の持ち主がこんだけ集まって、にらみ合いの興奮を胞珠で増幅させてんだ。まわりはみんな、あっさり呑まれちまう。
熱狂が始まる。ケンカだ。
襲撃者の連れの一人が、襲撃者の細い肩に手を置いて何かを告げる。撤退、とでも言ったんだろう。襲撃者は仲間の手を払って、先に行けとジェスチャーで示す。
煥が一歩、踏み込んだ。
「よそ見してんじゃねぇよ」
悪魔の顔で笑っている。
バンドの取り巻きの不良どもが一足先に暴れ出している。特に親しい仲間でない相手は、全部が敵。恨みや害のない相手だろうが、おかまいなし。野蛮な声を上げながら、乱闘が始まる。
バカバカしいけど、これがこの世界の日常だ。戦闘的な熱狂ほど簡単に増幅されて伝播する感情は、ほかにない。人が集まって興奮の度がちょっと過ぎるだけで、止めようもない暴動に発展する。
自分の身を守れるのは、自分だけ。
【こっち来んなよ。おれには手ぇ出すな】
おれは号令《コマンド》を発動して、乱闘を遠ざける。
鈴蘭がさよ子の手を引いて、おれのそばに寄った。ここにいれば安全だと直感的に理解したんだろう。
おれは女の子ふたりに笑ってみせる。
「今の号令《コマンド》、雑魚にしか効かないよ?」
鈴蘭がちゃっかりと微笑む。
「厄介な人たちからは、煥先輩が守ってくれますから」
ほら、と鈴蘭が指差す先で異次元の戦闘が始まっている。
殺られる。
躊躇《ちゅうちょ》のない腕がおれの喉を狙っている。素手でも人間ひとり殺すくらい簡単なんだって、確信的な殺意が無言のうちにそう言っている。
ガクンと、おれはのけぞった。引っ張られたせいだ。
風圧が頬を叩いた。空振りした腕が、ビュッと音を立てた。
「弱いんなら下がってろ!」
おれの腕を引っ張った煥《あきら》が怒鳴った。かばったついでに振り回すようにして、おれを襲撃者から遠ざける。おれは踏ん張りが利かなくて、吹っ飛ばされて尻もちをついた。
襲撃者が飛びすさる。人間離れした身軽さだ。チラリと視線を動かして、一つの名前を呼ぶ。
「さよ子さん」
見た目どおりの細い声だ。男の声じゃあるけど、圧を感じさせない性質。
でも、呼ばれたさよ子はビクッと震えた。そりゃそっか。ひどく機械的っていうか、人間味に乏しい声音だ。不気味だった。
煥が半歩、前に出る。いつでも飛び出せるように身構えている。
襲撃者の視線が煥をまっすぐとらえる。機械的な口調がまた、言う。
「邪魔ですよ。あなたには用がない。どいてください」
「じゃあ、誰に用がある?」
「さよ子さんと、長江理仁《ながえ・りひと》」
背筋がゾワッとした。やっぱりこいつ、おれのこと知ってやがる。
おれは立ち上がって埃を払った。口を開くより先に、顔がニヤリと仮面みたいに笑う。癖になった笑顔が、こんなときでも剥がれない。
「話があるって言う割に、いきなり殴り掛かってくるのはおかしいんじゃないの?」
答えが返ってきた。
「防衛手段としての攻撃です。先にちょっかいを出してきたのはそっちでしょう」
「はい? 何のこと? 誤解してない?」
「とぼけているのか本当に知らないのか、判断する材料に欠けますが、ぼくにとってはどちらでもいい。命じられたことを遂行するだけですから。さよ子さん、こちらへ」
最後の一言はもちろん、さよ子に向けて放たれた。
さよ子はかぶりを振った。鈴蘭がさよ子の前に進み出て、通せんぼするように両腕を広げた。
「嫌がってる女の子を連れ去ろうなんて、顔見知りだとしても失礼すぎるでしょ、あなた! さよ子に何の用なんですか!」
「命じられたんですよ。日が暮れた後、こんな場所にいては危険ですから」
ピリピリと空気が帯電するように、敵意が、戦意が、殺意が、あたり一帯に放射される。ひんやりした春の夜気が瞬時にカッと燃え立った。そう感じた。
襲撃者とその連れの二人、おびえるようでいて怒りのほうが強いさよ子と鈴蘭、牙を剥くようにニヤリとした煥と文徳《ふみのり》。チカラある血の持ち主がこんだけ集まって、にらみ合いの興奮を胞珠で増幅させてんだ。まわりはみんな、あっさり呑まれちまう。
熱狂が始まる。ケンカだ。
襲撃者の連れの一人が、襲撃者の細い肩に手を置いて何かを告げる。撤退、とでも言ったんだろう。襲撃者は仲間の手を払って、先に行けとジェスチャーで示す。
煥が一歩、踏み込んだ。
「よそ見してんじゃねぇよ」
悪魔の顔で笑っている。
バンドの取り巻きの不良どもが一足先に暴れ出している。特に親しい仲間でない相手は、全部が敵。恨みや害のない相手だろうが、おかまいなし。野蛮な声を上げながら、乱闘が始まる。
バカバカしいけど、これがこの世界の日常だ。戦闘的な熱狂ほど簡単に増幅されて伝播する感情は、ほかにない。人が集まって興奮の度がちょっと過ぎるだけで、止めようもない暴動に発展する。
自分の身を守れるのは、自分だけ。
【こっち来んなよ。おれには手ぇ出すな】
おれは号令《コマンド》を発動して、乱闘を遠ざける。
鈴蘭がさよ子の手を引いて、おれのそばに寄った。ここにいれば安全だと直感的に理解したんだろう。
おれは女の子ふたりに笑ってみせる。
「今の号令《コマンド》、雑魚にしか効かないよ?」
鈴蘭がちゃっかりと微笑む。
「厄介な人たちからは、煥先輩が守ってくれますから」
ほら、と鈴蘭が指差す先で異次元の戦闘が始まっている。