LOGICAL PURENESS―秀才は初恋を理論する―

 アジュさんの車に回収してもらったのは、まだ深夜と呼べる時間帯だった。ココロの迷宮をさまよった時間は、中で体感していたより短かったらしい。
 総統の屋敷に戻って、夜食をつまんで、報告もそこそこに、各自の部屋や客室に引っ込んで眠った。
 疲労の度合いには、差があったみたいだ。煥《あきら》くんと鈴蘭さんは、普通に起きて登校した。リアさんも、きちんと起きて仕事に行った。すでに一日欠勤しているから、それ以上は休めなかったらしい。
 ぼくと理仁《りひと》くんがいちばん長く寝た。目が覚めたのは夕方近くだった。リアさんよりダメージが深いとは思っていなかったから、驚いた。
 起こったことを系統立てて総統に報告したのは、リアさんだったそうだ。ココロの中の出来事を全部感知していたみたいだけれど、総統にはどこまで言ったんだろう?
 目覚めたぼくと理仁くんに、総統みずからお茶を淹れてくれた。
「迷宮の中の一連の出来事は、例えて言えば、後戻りの利かない分岐だらけのシナリオを持つシミュレーションゲームだった。どこかで違う選択をしたら、ゲームオーバーだった。もちろん、バッドエンドのね」
 バッドエンドは、ぼくたち個人の結末にとどまらない。四獣珠を手にした祥之助と黄帝珠が暴走すれば、この一枝は負荷に耐えかねて滅んだかもしれない。
 分岐だらけのシミュレーションゲーム、か。
 鈴蘭さんが丘に、煥くんが病院に、残らなかったら? 独りぼっちのリアさんは、迷宮をより深くしてしまっただろう。
 理仁くんがぼくたちに過去を語ってくれなかったら? 事情のわからないぼくたちは、リアさんのココロを直接、傷付けたかもしれない。
 ぼくが思念をそのまま表現する声を持たなかったら? 何も言えなかったぼくを、リアさんは受け入れてくれなかっただろう。
 理仁くんがぼくを信頼してくれなかったら? ミラーハウスか赤外線か、どこか途中でタイムリミットを迎えただろう。
 リアさんは、そういう全部を見てくれた。ぼくたちの選択や判断にココロを開いてくれた。
 取りそびれた朝食と昼食のぶんを補う勢いで食事をしながら、同じテーブルに着いた理仁くんがぼくに言った。
「しかし、チカラの入れ替わり、ヤバかったよね~。その間ずっと黄帝珠の影響をこうむってて。そりゃ疲れて寝まくるって」
 ぼくのごはん茶碗には、うぞうぞと動く数字の群れが重なっている。けれど、そんなものも気にならないくらい空腹だった。
「リアさんたち、無理してないならいいんですけど」
「姉貴ってば、海ちゃんに愛されてるね~」
「リアさん『たち』と言いましたよ、ぼくは」
「料理が全然できない姉貴だけど、大目に見てやってよ」
「苦手なことくらい、誰にでもあるでしょう」
「お、そういうフォローするんだ? やっさしー」
 まだ眠いせいもあって、意識がどこか心もとない。ぼんやりしてしまう。
 ココロの中での出来事は、夢と呼ぶべきなんだろうか。みんなは、ぼくと同じようにすべてを覚えているんだろうか。
「海ちゃん、考え事?」
「まあ、少し」
「しっかし、細いのによく食べるよね~」
「体の使い方の問題で、消費が速いんですよ」
「座標どおりにピッタリ動く、あの動き方?」
「全身の筋肉を緊張させないと、あれはできないんです」
「海ちゃんの細さ、姉貴がうらやましがってた。ウェストがめちゃくちゃ細いとかって。身体測定でもした? てか、脱いだ? いつの間に何したの?」
 不意打ちだ。
 米粒が気管に入ってしまって、ぼくは思いっ切り咳き込む。
 測定が可能なシーンはあった。リアさんが後ろからぼくに抱き付いた、あのときだ。ぼくがリアさんの体の柔らかさと弾力を感じたように、リアさんにもぼくの体の骨や筋肉の硬い質感がわかったはずだ。
「さっきからさ~、海ちゃん、いちいち怪しいよ? 姉貴の話を出すたびに赤面すんの、気になるんだけど。二人きりのとき、何かあった?」
「いえ、別に……」
「その反応、絶対に黒! 姉貴に何て言ったのかな~? すっげー気になる!」
 ごほうびにデートしてください。
 あなたに触れるための鍵を、ください。
 あなたをぼくだけのものにしたい。
 あなたの力になるための方法を、ぼくに教えてください。
 自分がリアさんに告げた言葉が、頭の中でリフレインする。赤面ものだ。それ以上だ。他人に知られるわけには、絶対にいかない。
「海ちゃ~ん? 何て言ったの~?」
「お、教えられるはずないでしょう!」
「ってことは、何か言ったことは確定だ。熱~いセリフを吐いちゃったわけだね?」
「う」
「じゃなくて、セリフは甘~い系かな?」
「いや、その」
「それとも、年下男子の武器を最大限に活かして、かわいくお願いしまくった感じ?」
「えっと」
 理仁くんが持つ言葉のチカラは脅威だ。号令《コマンド》が効かないぼくにも、その誘導尋問は有効すぎる。
「お願い系ってか、おねだり系かな? それ、効果抜群だよ。姉貴って、まさに長女って感じの性格じゃん? 何々してくださいって頼まれると弱いんだよ。しかも、相手はかわいい年下男子だし。そんでもって、年下くんがたま~に強気なこと言ったら最強。でしょ?」
「わ、わかりませんよ……」
「えー、マジで? んー、まあ、そこんとこは信用してもいいかなー。海ちゃん、無意識でやってたわけだ。計算してやってたんじゃないって、そりゃまたすっげー破壊力だよ」
 黙っていよう。いや、黙っていてさえ、顔色を読まれてしまうけれど。
 自分で自分を制御できない。
 いつからぼくは恋をしていたんだろう? リアさんと出会った最初から惹かれていたのなら、ずるいと思う。ぼくに勝ち目はない。惚れた弱みという言葉があるけど、それだ。
「バカですよね」
「何が? てか、誰が?」
「ぼくが」
「恋したら、誰でもバカになるよ」
「自分がそうだとは知らなかったんです」
「今、全力で認めた」
「……認めたほうが楽になる気がしたので」
 姉であるリアさんが女性として見られるのは複雑だと、以前、理仁くんは言っていた。その後、ぼくならかまわないと、リアさんのことをお願いしてくれた。
 どちらが本心なんだろう? どちらも本心なんだろうか。
「どう転ぶかわかんねぇけど頑張れよ~。おれらの対親父バトル、これから始まるわけだしね。正直な話、黄帝珠のエピソードなんてのはゲーム本編じゃねーよなって思う。サブストーリーか外伝か、そんなもんだ」
「理仁くんにとって、本編は朱獣珠を巡る親子の対立なんですよね」
「ラスボスはうちの親父どのだね~。第二形態、第三形態とかに進化していく面倒なタイプじゃないことを願うけど」
 歌うように言って、理仁くんは食事を再開した。ぼくも、止まっていた手を再び動かす。
 総統も言っていた。運命のこの一枝は生長を続ける道を選んだが、油断をしてはならない、と。因果の天秤はいまだ安定せずに揺れている、と。
 食事にだいぶ満足してきたころ、先に食べ終わった理仁くんがぼくを呼んだ。
「海ちゃん、一つ、約束してほしいんだけど」
「何ですか?」
 理仁くんの朱っぽい目が微笑んでいた。
「姉貴と付き合うなら、中途半端なこと、すんなよ? ああ見えて、ほんと、傷付きやすいから。大事にしてほしいし、嘘つかないでほしい。本物の本心で、マジの真心で、想ってやってほしい」
 絶対の約束をできるほど、ぼくは自分を強い人間だと思っていない。でも、理仁くんの信頼を損ねたくはない。
「ぼくにできる最大限の努力をしますよ」
 精いっぱい、そう言った。
 理仁くんは食事の後、リアさんを一人にできないからと、帰宅した。さよ子さんはその直後に下校してきて、理仁くんと入れ違いになったことを悔しがっていた。さよ子さんにつかまる前に、ぼくは自室に引っ込んだ。
 動き回ったのはココロの中でのことなのに、全身の筋肉痛がつらい。ベッドに引っ繰り返って、スマホを眺める。
 リアさんに連絡したい。でも、何と送ればいいかわからない。
「新着メッセージなし。着信通知なし」
 リアさんからの連絡がないのは、忙しいからか。勤め先のヘアサロンは、何時から何時までの営業なんだろう? まだ仕事中なのかな。
 素っ気ない勉強机の上に、ぬいぐるみのイヌワシが一羽。その生意気な顔を見ているうちに、ぼくはまた眠くなった。
 明かりも消さずに、気付いたら朝だった。
 いつもの待ち合わせ場所で瑠偉と合流した。情報の速い瑠偉は、魂珠を抜かれた動物や人間のことを調べ上げていた。
「徘徊中だった変な動物は、生気が戻ったらしい。とはいえ、もとが野良だったからな。これからどうなるか。買われた記録がハッキリしてるぶんは、文天堂家に返されたみたいだけど」
 人間についても同様。生気は戻ったけど、記憶の有無は人によってばらつきがある。身なりから推測できたとおり、大半は、家にも学校にも寄り付かない不良少年少女だった。どこで何をしていようと、誰からも探されていなかったという。
「ところで、あのお坊ちゃんはどうなりました?」
 瑠偉は、しかめっ面で笑うような、微妙な表情をした。
「転校するらしい」
「はい? 新学期が始まったばかりのこの時期に?」
「本当は学年が変わるのと同時に学校も変わるつもりだったらしいけどな。首都圏の某私立の編入試験で歴代最高得点を取ったそうで。でも、先月、急にわがままを言い出したんだと。阿里海牙に負けっぱなしのまま転校できないし、この町でやるべきことがあるって」
「先月というと、黄帝珠の影響をこうむり始めた時期でしょうか?」
「たぶんな。昨日は体調不良で休んでた。おまえらがボコボコにしてやったせいだろうな。で、今日の朝にチラッと顔出すのが最後の登校って言ってたぞ」
「できれば会いたくないんだけどね」
 ぼくの場合、そういうささやかな願いが叶ったことがない。日頃の行いが悪いせいだと、さよ子さんには言われる。
 正門前のロータリーに、あのドイツ製の高級車が停まっていた。ちょっとした人だかりができている。その中央で墓石グレーの制服の群れに囲まれているのは、もちろん、祥之助だ。
 意外なことに、祥之助は笑っていた。
 理仁くんに殴られて自分でも自分を殴った痕は、頬骨の上のアザと頬全体の腫れと口元の赤いかさぶたとして、しっかり残っている。ケガの理由を訊かれて、祥之助は笑ってごまかして、冗談めいたものまで口にしている。
「SOU‐ZUIに泥棒が入って、撃退はできたんだけど、ボコボコにされちゃってさ。決戦の場所は、最上階のTOPAZ。行ったことない? みんなが思ってるほど高級料理じゃないんだけどな。大都高校の学生証提示で割引できるように、父に言っとこうか」
 ぼくは唖然とした。
「あれが本当に文天堂祥之助ですか?」
 お坊ちゃんで成績優秀で、同級生から一目置かれているらしい。そんなごく普通の優等生が、ぼくの前にいる。
 瑠偉がぼくの隣で、含み笑いをした。
「そんな顔すんなって。あいつはあれでいいんだよ。憑き物が落ちたってやつだ」
「信じられない」
「とは言ってもなあ。まわりにいろいろ話を聞いてみた限りでは、今のあれが本来の文天堂祥之助みたいだぞ。金持ちの息子で、何でもできすぎるから、無意識のうちに嫌味な言動をすることはあっても、怨んだり怨まれたりってキャラじゃないみたいだ」
「でも」
「不安や疑問があるなら、自分であいつと話して、確かめてきたらどうだ? 心配ねぇよ。理仁の暗示はちゃんと効いてて、あいつは何も覚えてない」
 瑠偉にうながされるまま、ぼくは祥之助に近付いた。人の間を縫って、中央の祥之助の前に立つ。
 祥之助は、ブラウンの目を怪訝《けげん》そうにすがめた。
「誰だ?」
 まるで初対面のような表情と言葉。
 ぼくは祥之助の顔をじっと見る。瞳孔の様子、まぶたの緊張感、異常な汗の有無。もしも祥之助が一連の出来事を覚えているのなら、顔色が急激に変化するのが道理だろう。
 ワックスで固めた髪も、手入れされた眉も、香水のような匂いも、イヤというほど向き合わされた敵の姿とまったく同じだ。
 けれど、祥之助は妙に行儀よく小首をかしげた。
「失敬。その校章の色、三年生ですね。先輩がどなたなのか、存じませんが」
 まさかの敬語。しおらしい祥之助なんて、想像もつかなかったのに。
 瑠偉が隣に来て、ぼくのカバンを引っ張った。
「ほら、言ったとおりだろ。ここに突っ立ってたら、下級生たちの邪魔になる。行こうぜ、海牙」
 その途端、祥之助がハッと目を見張った。
「海牙って、あの阿里海牙?」
「フルネームの呼び捨てとはまた失敬ですね。まあ、何にせよ、ぼくのことをご存じでしたか」
「すみません」
「え?」
「知らないはずもありません。ボクはずっと、阿里先輩の影と戦ってきましたから。阿里先輩が叩き出した成績に、文系科目の点数だけ辛うじて勝てることがあっても、総合成績では一度も勝つことができなかった。悔しいです」
 めまいがしそうなほど、調子が狂う。ぼくは祥之助から目をそらした。
「転校するそうですが。新しい学校でも頑張ってくださいね」
 平板な言葉を、投げ付けるように放った。
 祥之助は胸の前でこぶしを握って、半歩、ぼくのほうへ進み出た。口調に熱意がこもった。
「頑張ります。そして、阿里先輩に勝ってみせる。ボクは文系、先輩は理系ですが、志望する大学は同じだと聞きました。進学したら、どこかでお目にかかるかもしれませんね。そのときはまた、テストの点数ではない別の形で競えたら、ボクは嬉しいです」
 そうだ。これで祥之助と縁が切れるわけじゃないんだ。祥之助の実家はこの町に拠点を置く資産家だし、祥之助が言うとおり、進学先で顔を合わせることもあり得る。
 ゾッとして、ぼくは再び祥之助を強く見据えた。祥之助に顔を近付けて、ささやく。
「きみがぼくたちと約束したこと、肝に銘じていますよね? 次があったら許さねえ。おれたちに危害を加えた場合、てめぇ、死ねよ」
 祥之助の中に打ち込まれた号令《コマンド》の楔《くさび》を、理仁くんの言葉のままに、ぼくはなぞった。楔が反応したのが、玄獣珠を通じてぼくに伝わってきた。
「阿里先輩……」
「覚えてますか?」
 祥之助は顔をこわばらせて、かぶりを振った。制服の胸をつかんで、苦しげな呼吸に、肩を上下させる。
「覚えてない。でも……」
 ぼくはニッコリと、完全無欠の笑顔を作ってみせた。
「思い出さないほうがいいですよ。死にたくないのなら」
 怯《おび》えた顔の祥之助をそこに残して、ぼくはきびすを返した。
 すぐに瑠偉が隣に並んだ。
「まともなやつだって、わかっただろ。後輩相手に、いじめすぎじゃないのか?」
 ぼくはスマホを取り出した。祥之助が送り付けてきたメッセージは、消さずに残してある。祥之助のスマホからは、今回の件に関する写真もトーク履歴もすべて削除したけれど。ぼくは、あの悪趣味なメッセージを表示した画面を、瑠偉に向けた。
「これのインパクトが強すぎました。補正してやる気も起きません」
 瑠偉が画面をのぞき込んだ、まさにその瞬間。
 スマホが新着を知らせて振動した。ぼくがスマホを引っ込めるより先に、瑠偉が見てしまった。瑠偉はニヤリと笑った。
「爆発してろよ、おまえ」
 そんな言い方をされるということは、リアさんからだ。ぼくは慌てて新着のトークを確認した。
〈放課後、時間ある?〉
 今すぐ通話アイコンに触れたい衝動に駆られた。迷ったけど、結局、文字で返答する。
〈あります〉
 OK、とポップなスタンプが送られてきた。続く言葉に、ガッツポーズ。
〈ごほうびあげる。デートしよっか〉
 瑠偉が背伸びして、のぞき込もうとしてきた。ぼくは長身を活かして、瑠偉の視界からスマホを引き離す。
「おまえ、それ、二重三重にムカつくぞ!」
「はいはい」
「経験ないくせに!」
「え、瑠偉はあるんですか?」
「あるし!」
「人は見掛けによらないものですね」
「おまえもさっさと卒業してみせろ、DT!」
 リアさんから、またメッセージが来た。
〈この間の趣味の悪いドレスの写真、消してね〉
 リアさんにとっては、眠っているうちにあんな物凄い格好をさせられていたなんて、トラウマになりかねないはずだ。
 でも、あれが唯一の、ぼくのスマホに保存されているリアさんの画像だ。あっさり削除できるかというと、リアさんには本当に申し訳ないけれど、二の足を踏んでしまう。
 と、ぼくの胸中を見透かすかのように、さらに新着通知。
〈あれより趣味のいい写真、送るから〉
 トークルームに画像が読み込まれる。小さなサイズで見て、息を呑んで、思わず拡大してしまった。
 部屋で自撮りした写真だ。鏡台に頬杖を突いて、鏡を利用して撮ってある。画面全体のトーンが均一だから、明るさ以外の加工はされていないはずだ。
 視線がいたずらっぽい。唇は軽く尖らせてある。柔らかそうに白い肌。
 淡いオレンジ色のノースリーブは部屋着だろうか。鎖骨の形がキレイだ。胸の膨らみが布地を持ち上げる稜線のしわは、平面上の画像なのに、ひどく立体感がある。
「おい、海牙? 固まってるけど、何があった?」
 言葉にならない。
 画像ひとつが、こんなにも嬉しくて。
 きっと、この心はこれでいいんだ。方程式でも理論でも、無駄なくシンプルなのが最も美しい。
 阿里海牙は長江リアに恋をしている。そのシンプルな事実はバカバカしいけれど美しいと、ぼくは思った。
 運命というものがあるのなら、それは多数の枝を持つ大樹のような姿をしているに違いない。何かの本で、そんなふうに読んだ。
 未来は可能性に満ちているから、わたしより八歳も若いきみには、その年の差のぶんだけ、いろんな出会いの可能性があったはず。それなのに、本当にわたしでよかったの?
 とは言っても、わたしはもう、きみとは離れられない。白状してしまえば、最初からだったの。出会った瞬間から、きみは何だか特別だった。
 わたしの心は、きみがいるだけで満たされる。わがままを言わせて。わたしは、きみをずっと独占していたい。
 大学二年生にして、物理学界で頭角を現し始めている。十年に一度の世界的才能、なんて言われるらしい。
 黙っていれば、とんでもないほどのイケメンだけど、口を開けば、たちどころに変人だと露見する。しかも、自覚的に変人を演出しているんだから、どうしようもない。
 生意気、毒舌、皮肉屋。でも、発言は全部、正確もしくは最適。大学や研究会での大立ち回りを聞くたびに、わたしは呆れて笑ってしまう。敵も多いみたいだけど、間違った理論を前にすると、おとなしくなんてしていられないのよね。
 そんな阿里海牙の誕生日は、なんとクリスマスイヴ。ロマンチックなイベントなんて興味もない、みたいな看板を掛けているというのに、ちょっと皮肉だ。
「自分で成し遂げた功績でもないのに、祝う? まずその時点で、誕生日というものの意味がわかりません。祝うなら、親たちが勝手に祝えばいいだけの話です」
 これ、十八歳の秋ごろの、海牙くんの名ゼリフ。
 海牙くんの友達はみんな、彼の誕生日を訊くのに苦労していた。最終的には、クリスマスにわたしがばらしちゃったんだけど。
 どちらにしても、イヴはみんな予定が入っている。毎年、海牙くんの誕生日を当日に一緒に祝うのは、わたしだけだ。今年で三回目。海牙くんは今日で二十歳になった。
 海牙くんが通う国立大学は、高校時代の町から各駅停車で二時間ちょっとのところにある。わたしは彼の大学のそばにヘアサロンを開いた。一緒に住んでいるわけじゃないけど、ほとんど毎日、顔を合わせている。
 今日のディナーは、カジュアルな創作フレンチだった。クリスマス限定のコースに、乾杯は口当たりの甘いワイン。
 実は、これが海牙くんの初めてのお酒だった。象牙色の肌は、パッと朱に染まった。いきなりたくさん飲ませないほうがよさそうだと思った。食事を味わうためにワインは最初の一口だけにして、帰ってから改めて乾杯することを提案した。
 そして、整然と散らかった海牙くんの部屋で、帰りがけに買ったスパークリングワインを開けた。薄々予想していたとおり、海牙くんは、小さなワイングラス半分であえなくダウン。
「目が回る……三半規管がおかしい」
「おーい、大丈夫? 気持ち悪いわけではないのね?」
 今、わたしはベッドに腰掛けて、海牙くんはわたしの膝枕に頭を預けている。
「急激に眠くなっただけ。すごいな、C2H6Oって」
「何、その化学式?」
「エタノール。俗称、アルコール」
「スパークリングワインと言いなさいよ」
「香りがよくてオシャレでも、結局はエタノール混合物でしょう。摂取したC2H6Oの質量は15ml未満なのに、全然ダメだ。顔が熱い」
 ダークグリーンの目は閉じられている。まっすぐで長いまつげがうらやましい。
「意外な弱点発見ってところ? 今まで外で飲ませなくてよかったわ」
 海牙くんは体を丸めながら寝返りを打った。この体勢だと、わたしのおなかにくっついてくる形になる。
 眠るときは、いつもこんなふうよね。左を下にして丸くなって、わたしにくっついて、額をすりすりと寄せてくる。
 緩やかに波打った髪を、そっと撫でる。頬も赤いけど、耳はもっと真っ赤だ。少し冷えたわたしの指先に、海牙くんは喉を鳴らした。
「気持ちいい」
「こんな様子じゃ、日付が変わるまで保たないわね。せっかくプレゼントを用意してるのに」
「さっき、もらったけど?」
「あれは誕生日のプレゼント。それとクリスマスは別よ」
 満足そうに、薄い唇が微笑んだ。
 小さいころ、誕生日とクリスマスがひとまとめだったんだって。すねちゃったんだろうな。そのせいもあって、誕生日を人に言いたくないんでしょ?
「リアさん」
「何、子猫ちゃん?」
「にゃあ」
 まさかの冗談はお酒のせい?
「やっぱり外で飲ませなくて正解だわ」
 子猫ちゃんな海牙くん、かわいすぎるもの。誰かに拾って持っていかれたら困る。
 二年前の四月に出会った。曖昧なまま、春と夏を過ごした。
 九月になって、花火大会の夜。弟に告げられた待ち合わせ場所に、弟たちはいなかった。ごゆっくりどうぞ~、とスマホに弟からのメッセージ。わたしと海牙くんは、まんまと作戦に引っ掛かってしまったというわけ。
 浴衣の着付けをしてあげた海牙くんと、それなりに気合を入れて和服を着たわたし。二人で花火を眺めた。キレイね、と言ったら、海牙くんらしい答えが返ってきた。
「ただの炎色反応ですよ」
「何それ」
 思わず笑った。その次の海牙くんの言葉に、息を呑んだ。
「リアさんのほうがキレイです」
 見上げると、真剣なまなざしがそこにあった。
「何、それ……」
 ぱん、と遠くで弾ける花火の音。
「付き合ってもらえませんか? リアさんのことが好きなんです」
 返事は保留にしてしまった。頭が真っ白だった。
 ハロウィンの晩、わたしは魔法に掛けられた。弟に頼まれて、海牙くんの仮装を手伝ってあげて、こっそりドキドキしながらも、何ともないふりをし通せると思ったのに。
 わたしは出来心で、海牙くんにキスをしてしまった。
 甘い甘いお菓子だった。それが彼のファーストキスだったと聞かされて、嬉しくて、ときめいて、抑え切れなくて。欲張りな自分の心に気付かされた。
 弟たちの文化祭を観に行った、十一月の土曜日。わたしと海牙くんは一緒に回った。隣同士でしゃべったり笑ったりしながら歩いて、そのくせ、お互いの手に触れることさえしなかった。曖昧で、じれったかった。
 別れ際が寂しくて、暗くなった公園に寄った。ベンチで隣り合ったら、今度は何を話すこともできなかった。時間が流れた。体が冷えた。
 海牙くんが唐突に、わたしの手を初めて握った。
「もう一度言います。これで最後です。待たされるのも、はぐらかされるのも、苦しくて耐えられないから。もしも断られたら、二度と会いません」
 ダークグリーンの目が、じっとわたしを見つめた。そして、まぶたが閉ざされた。
 海牙くんの手は震えていた。見えすぎる目を敢えてふさいで、計算も策略もかなぐり捨てて、海牙くんは一生懸命な声でささやいた。
「ぼくはリアさんが好きです。だから、お願いします、ぼくと付き合ってください」
 わたしはうなずいた。
「はい。よろしくね。わたしも、きみのことが好き」
 その瞬間、海牙くんはギュッとわたしを抱きしめた。それから、自分の行動に驚いたみたいに、ふわりと腕の力を緩めた。
 海牙くんは臆病だった。そのくせ背伸びをしたがった。わたしには、それがいとしくてたまらなかった。
 冬スタイルのカットモデルになってもらって、遅くなった夜。二人きりのサロンで、こっそり唇を重ねた。大人のキスもした。
「少しだけ……さわっても、いいですか?」
 震えがちの言葉に、わたしもドキドキした。いいわよ、と短く答えて、待った。カットソーの内側に入ってきた手は大きくて熱かった。
 じれったい時間を大事にしたかった。でも、期待を胸の奥に押し込めておくことは、だんだん難しくなっていった。自分の心も誰も目もごまかせないくらい、わたしは、恋をしていた。
 初めて愛し合ったのは、ちょうど二年前。海牙くんの誕生日で、クリスマスイヴの夜だった。
 行きつけのバーの話や、高校時代のちょっとした流行りのこと。何気ないつもりで話していたら、海牙くんが表情を消した。わたしをベッドの上に追い詰めて、一言。
「今夜はぼくを子ども扱いしないでほしいって、言ったはずです」
 切羽詰まって燃える目をした彼は、少年ではなかった。大人の男の色気に満ちていた。この上なく熱っぽい夜が訪れて、溺れる、という言葉の意味をわたしは知った。
 海牙くん、恥ずかしくて、きみに言ったことはないけどね。カラダが恋に落ちたのは、あの夜が初めてだったの。それまで誰と何をしても、誰に何をされても、このカラダが感じたことなんてなかったのに。
 好き。本当に、大好き。
 どんなふうに運命が枝分かれしても、きみと一緒にいたいと願う。
 どんなときも、いつでも、どうかわたしを見付け出してね。
「リアさん……」
 眠そうな声で、海牙くんがつぶやいた。
「どうしたの?」
「寝る」
「このまま寝ていいわよ。後で膝から下ろしてあげても、意外と気付かないでしょ?」
 海牙くんは首を左右に振った。
「一緒に寝たい。ねえ」
 出た、甘えん坊のおねだり。わたしはこれに弱い。
「仕方ないわね」
 言ったとたん、男の力でしがみ付かれて、布団に引っ張り込まれる。あーあ、スカートがしわになっちゃう。
 わたしはいつも、海牙くんの左側。海牙くんはわたしを抱きしめて、わたしの肩にキュッと顔を寄せる。
「こら、くすぐったいってば。ちょっと、もう、きみのシャツもしわになるわよ?」
 聞こえている様子が、すでにない。すやすやと、温かい寝息が首筋に触れている。
 わたしは、ウェーブした髪を撫でて、海牙くんの頬にくちづけた。
「二十歳の誕生日、おめでとう」
 でも、甘える姿は子どもみたいよ。困った子。
 わたしより高い体温の、引き締まった体。ぐっすり眠って目覚めたら、今度は大人のやり方で、わたしを抱きしめてくれるかしら。
 夢の中でも、きみに会えたらいい。そう願う、きみの誕生日の聖夜。

 おやすみなさい。
 いい夢を。

【了】

BGM:BUMP OF CHICKEN「メーデー」

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