「おい、海牙!」
 揺さぶられて、目を上げた。
 慌てた様子の煥くんの顔に、数値が重なって見えた。顔の縦方向の中心軸から各パーツへの距離。各パーツ同士の位置関係。
 整然とした数値の群れは、ぼくの目にとって、きわめて美しいものだ。
「やっぱりイケメンですね、煥くんは」
「は?」
「心意気だけでなく、顔のパーツの座標もね。黄金比って知ってます?」
 支えてくれていた煥くんから体を離す。煥くんが目を輝かせた。
「チカラ、戻ったのか!」
「ご心配をおかけしましたが、無事にね」
【もちろん、おれもね~。ってことで、早速お仕事! 隠れてる黒服の皆さん、全員カモ~ン!】
 忘れていたけど、そうだった。このホールには、黒服の戦闘要員が、あちこちに潜んでいるはずだ。
 五十九人、黒服が出てきた。麻酔銃やボウガンを構えている者、倒れたままの祥之助に呼び掛ける者。仕事とはいえ、ご苦労さまだ。
【全員、武装解除! さっさと武器を捨てろ! 捨てたら寝てろ! 手間の掛かるやつは、あっきーが殴るぞ!】
「オレかよ」
 理仁くんに逆らえる黒服はいなかった。気迫が凄まじい。帯電しているかのように、ビリビリと振動する空気。膨大で解析不能な情報が理仁くんから噴き出して、荒れ狂う嵐の様相を呈している。
 武器や防弾チョッキが投げ出される音のせいか。それとも、理仁くんの気迫に感応したのか。
【おんや~、お坊ちゃまのお目覚めかな?】
 祥之助が、そろそろと体を起こした。
 リアさんと鈴蘭さんが、思わずといった様子で身構えた。ぼくと煥くんが祥之助に近付こうとした。その誰よりも先に、理仁くんが動いていた。
 理仁くんは、祥之助に駆け寄りながら命じた。
【立て!】
 祥之助が、飛び跳ねるように立ち上がった。黄帝珠の影響が消えて、号令《コマンド》が通っている。
 駆け寄った勢いのまま、理仁くんは祥之助の頬を殴った。ガクリと倒れかける祥之助に、理仁くんは再び命じる。
【誰が転んでいいと言った? 立てっつってんだよ!】
「な、何を……おまえ、ボ、ボクを殴った?」
【他人に殴られたくねぇか? じゃあ、自分でやれ!】
 祥之助の手が、ベチン、と自分の頬を打った。みるみるうちに頬が腫れる。
 リアさんが呆れ顔をした。
「訴えられたらどうするのよ?」
「この後、こいつの記憶消すから平気」
「できるの? 記憶の操作は大仕事だって言ってたじゃないの」
「こいつ相手なら、簡単だと思うよ。無駄にプライド高いもんな、お坊ちゃまは。敗北の記憶なんて、さっさと消したいでしょ? 余計な騒ぎを起こしてくれやがった黄帝珠のことも、ぜーんぶ忘れたいよね?」
 祥之助が後ずさった。理仁くんは長い腕を伸ばして、祥之助の胸倉をつかんだ。
「お、おまえら、大勢で寄ってたかって、ボクを……」
「何十人もの黒服に護衛させといて、それ言う? おれって温和なナイスガイだけど、今、さすがにけっこう怒ってんだよね~。きみにかける暗示はさ、自分史上最大級にパワー出せる気がするんだ。ねえ、どんな命令されたい?」
 理仁くんの両眼は危険そうに朱く燃えている。祥之助はもはや怯《おび》え切って、悲鳴すら上げられない。
 煥くんが止めに入った。
「気持ちはわかるが、やりすぎるなよ。こいつ、軟弱そうだから、すぐ死ぬぞ」
「今、殺意あるよ、おれ」
「だから、こんなやつのために自分をすり減らすなって」
「理屈じゃねーんだよ。姉貴をこんな目に遭わされてさ、ねえ、何て言やいいんだよ、この感情?」
「それでも、落ち着け。あんたが本気で命じたら、こいつ、本当に死ぬかもしれないんだぞ。そしたら、一生、こんなやつの記憶があんたに付きまとうことになる」
 理仁くんが肩で息をついた。
「自分で自分に号令《コマンド》できりゃいいのにねって、しょっちゅう思うよ。気持ちを切り替えたいとき、スパッとやれりゃ楽なのにね」
 理仁くんは頭突きをするように、祥之助に顔を寄せた。至近距離で祥之助の目をにらむ。
【次があったら許さねえ。おれたちに危害を加えた場合、てめぇ、死ねよ】
 絶対的な暗示。測定できないエネルギーを持つチカラが、祥之助の心臓に楔《くさび》を打った。
 理仁くんが祥之助を突き放した。よろめきつつも、祥之助にはまだ、倒れてはならない指示が効いている。
【姉貴の服と荷物、どこ? 素直に出してくれたら、おれら、撤退してやるから】
「この店のスタッフルームだ。ロッカーに入れてある」
【意外とまともな待遇じゃん。さっさと案内してくれる?】
 店の奥へと歩き出す祥之助に、理仁くんがついて行く。煥くんが理仁くんに並んだ。
「オレも行く。今の理仁は、ほっとくと危険だ」
「あっきー、ひどぉい。じゃなくて、ツンデレ? おれと一緒にいたい?」
 普段の様子でおどける理仁くんに、煥くんは面倒そうに黙った。クスリと笑った鈴蘭さんが、ぼくを見て、リアさんを見た。小走りで二人を追い掛ける。
「待ってください、わたしも行きます! リアさんの荷物や服を男性がさわるのはダメです!」
「おいお~い、おれは姉貴の弟だよ?」
「それでも、です。あ、わたし、さよ子に電話しますね」
 最後の一言は、ぼくを振り返りながらだった。さよ子さんに連絡すれば、KHANにぼくたちの無事が伝わる。すぐに迎えの車を送ってもらえるはずだ。
 でも、荷物と着替えはリアさん自身が取りに行けばいいんじゃないですか? このドレスからもとの服に着替えられるし。
 と、言おうとして。
 思考も呼吸も吹き飛んだ。後ろから、ふわりと抱き付かれたせいだ。
「ちょっ、え、なっ……あの、リアさん?」
 しなやかで白い腕がぼくの体の前で交差して、後ろ髪の掛かるぼくの首筋に、リアさんの額が押し当てられている。背中に、柔らかい膨らみを感じる。
「ちょっとこのままで」
「あ……め、めまいでも、しますか?」
 一瞬のうちに加速した鼓動を、きっと聞かれてしまう。体が熱くほてっていく。
 リアさんが少し笑った。吐息のくすぐったさを、ひどく敏感に背中が知る。
「ありがとう」
「な、何のことです?」
「覚えてるから。見えていたから。きみがわたしのために言ってくれたことも、わたしのために戦ってくれたことも、涙を流してくれたことも。全部、ありがとう」
 恥ずかしい、苦しい、くすぐったい、痛い、苦い、じれったい、切ない。そして、甘くて熱い。
 胸の中に沸き返る感情のせいで、また涙が出そうになった。変だな。そんなの、柄でもないのに。
「リアさん」
「何?」
 口が勝手に動いた。
「ぼくは頑張りましたから、ごほうびにデートしてください」
 支離滅裂だ。
 リアさんが胸を震わせて笑った。
「変わり者の大秀才が、どうしたのよ? 何を言い出すかと思ったら、急に普通の高校生になっちゃって」
「先入観や固定観念があれば、そこから逸脱したくなるんです。ぼくだって、恋くらいしますよ」
 言葉の持つチカラは絶大だ。恋、と口に出した瞬間、この気持ちから逃れようがなくなった。
 ぼくは、リアさんのことが好きだ。