「海牙くん」
 リアさんの声に呼ばれて、ハッと跳ね起きた。まわりを見渡す。カフェレストランTOPAZの気取った内装。脱出できたんだ。
 みんな、まだ倒れている。唯一、起き上がっているのは、赤いドレスを着たリアさんだった。
 立った瞬間、軽いめまいがした。どうにか踏ん張って、視界の揺れが落ち着いてから、リアさんに駆け寄る。
「体に異常はありませんか?」
「わたしは大丈夫」
「でも、タイムリミットが」
「お坊ちゃま基準で測らないでもらいたいわ。わたしはそんなに軟弱じゃないの」
 リアさんは身軽な動作で、寝かされていた台から下りた。
 改めて見ると、すごいドレスだ。肩は全開で、胸元もきわどい。マーメイドラインのすそは長いけれど、スリットが深くて、太ももまで見える。
 大丈夫とは言ったものの、リアさんはよろけた。ちょうどぼくの胸に倒れ込んでくる格好だった。ぼくの肩に手を掛けて、体を支える。
「やっぱりゴメン、ちょっと貧血みたいな感じ」
「だ、大丈夫ですか?」
 真上から胸の谷間がのぞける。
【絶景だ】
 思わず、その一つずつの直径をあてずっぽうに目測した。ああもう、力学《フィジックス》が戻っていれば……。
「こら」
 視界がリアさんの手のひらでさえぎられた。
「す、すみません」
「正直なのよ、きみは」
「ごめんなさい」
「そういう軽率な視線を誰にでも向けちゃダメよ」
「しません、やりません」
【リアさん以外の人には向けません】
「……そういうトコかわいいから、ひとまず許す」
「すみません」
【やった】
 そのときだ。
「おいおいおい、ちょっとちょっと、いきなりそういうの困るよ~。お二人さん、何をイチャついてんのかね~?」
 理仁《りひと》くんの声と、起き上がる気配。ぼくに目隠しをしたまま、リアさんが嬉しそうな声を上げた。
「よかった、理仁! 鈴蘭ちゃんも煥《あきら》くんも! みんな大丈夫そうね」
「おれらもそんなに軟弱じゃねぇし~」
 駆け寄ってくる足音は鈴蘭さんだろう。と思った三秒後、ぼくはリアさんに押しのけられた。リアさんは、飛び付いてきた鈴蘭さんを抱きしめる。
「リアさん、目を覚ましてくれてよかったですー!」
「苦労させちゃってゴメンね」
 ダメだ、あのドレス。どうしても胸に目が行く。小柄な鈴蘭さんの顔の位置がうらやましすぎる。
 ざらざらとした呻き声が聞こえた。
【こ、ここは……現実世界か。せっかく手に入れた肉体的自由が……】
 黄帝珠が、祥之助の頭のそばに、四つに割れた姿で転がっている。チカチカと発光するものの、浮かび上がるのがままならないらしい。祥之助はまだ意識が戻っていない。
 ぼくは笑みをこしらえて、黄帝珠に歩み寄った。
「くたばりぞこないの鉱物が、一人前に気絶していたんですか? 予告しましたよね。後で徹底的に対処する、と。今がそのときですよ」
 割れた破片の四つをまとめて蹴り飛ばして、祥之助から引き離す。逃げ出そうとしてフラフラと浮かび上がるところを、ぼくと煥くんで蹴落とした。
【わ、我を足蹴にするとは、無礼な! おぬしら、ただではおかぬぞ!】
「男に蹴られるのが不満だそうです。リアさん、鈴蘭さん、踏んであげてください」
【ふざけるな!】
「まあ、喜ばせてやる義理もありませんね」
 わめく黄帝珠の形状を観察する。氷を乱雑にアイスピックで割った感じだ。割れ目がギザギザしている。細かなひびも入っている。
「海牙、こいつをどうする?」
「そうですね。すでにずいぶんと脆そうですが」
 球は、あらゆる形の中で最も表面積が少ないから、最も安定した形だ。かつての四獣珠の預かり手が完全体の黄帝珠と対峙したとき、球である宝珠を破壊するには、きわめて大きな力が必要だっただろう。
 黄帝珠は今、かなり安定を欠く形をしている。硬い上に不安定となれば、負荷の加え方次第で、簡単に割れるはずだ。
「そうだ、煥くんの障壁《ガード》は薄くて硬い板状のモノで、形を自由に変えられるんですよね?」
「ああ。単純な形なら作れる」
「鋭角の三角形はできますか?」
「大きさは?」
「これに先端をぶつけやすいサイズで」
 ぼくは黄帝珠を指差した。
 納得した顔の煥くんが、左右の手を胸の前にかざした。空間が白く光って、障壁《ガード》とは名ばかりの武器が出現する。煥くんの胸から膝までの高さを持つ、鋭角十五度の二等辺三角形。まるで、巨大な槍の穂先だ。
「ひびに突き込めばいいんだな?」
【や、やめろ、白虎! そうだ、おぬしにチカラを貸そう! 白獣珠よりも強いチカラで、おぬしを……】
「黙れ、耳が腐る」
 煥くんは容赦なく、白い光の三角形を黄帝珠に突き立てた。二本同時に、一点を狙って。
 黄金色の破片が割れる。さらに新たなひびが走って、また割れる。白い光に焼かれながら、細かく砕けていく。聞き苦しい悲鳴が神経を引っ掻く。
 破片は、一定未満の小さな粒子になると、存在を保てないようだった。試験管の中で起こす水素爆発みたいな、頼りない爆発音が連なる。黄金色の残光も消えていく。
【白虎、また今回も、きさまぁぁああっ!】
「またですか? かつて同じことが起こったと?」
「オレの先祖がこいつを割ったのか。もっとキッチリやっておけよな」
【我を侮辱するなぁぁああっ!】
「侮辱じゃねえ。軽蔑してんだ」
「察するに、黄帝珠自身なんでしょうね。禁忌を冒したのは、預かり手と呼ばれる人間ではなく黄帝珠。明確な人格を持ったり、預かり手の肉体を乗っ取ったりと、かつても好き放題にやったんでしょう。運命の一枝を揺さぶるほどの影響力に、四獣珠が危機感をいだいた」
【玄武、その気取った口をいつまでも利けると思うな! 怨んでやる……怨んでやるぞ。人間に感情の存する限り、我が司る怨みは不滅。四獣珠、きさまらの引き合うチカラの中心に、我は必ず復活する!】
 煥くんが二つ目の破片に白い光を突き込んだ。
「復活するなら、そのときは、またぶっつぶしてやるだけだ」
【き、消えていく! 我が存在が、我がチカラが、ああぁぁ……!】
 煥くんが白い光を振り上げて、振り下ろす。黄帝珠が悲鳴を上げ、黄金色の粒子が飛び、すぐに四散する。
「この白い光にはこんなに破壊力があるのに、煥くんはこれを障壁《ガード》と名付けたんですね」
「人を守るためのチカラがほしかったんだ。破壊したり奪ったりするためのチカラなんて、弱ぇよ」
 低い声で吐き捨てて、煥くんは正確に、白い光で黄帝珠の最後の破片を貫いた。悲鳴が一瞬だけ高くなって。すぐに途絶えた。
 そして、凄まじい衝撃が来た。
 脳を直接殴られたかのように、刹那、意識が真っ白になる。