ぼくは、透明な蓋越しにリアさんを見つめた。
 必死でここまで来た。リアさんのココロを暴き続けて、それが申し訳なくてたまらなかった。青い丘で、白い廊下で、朱い部屋と暗い階段で、リアさんの過去と想いに触れて、為す術のない自分の無力さを知らされた。
 それでも前へと、奥へと進んだのは、ただ一つの目的のため。
【もう一度、今度こそ、あなた自身があなたの言葉であなたのことを語るのを、ぼくは聞きたい。ぼくはあなたを知りたい。あなたに触れたい。あなたにぼくを見てほしい。ぼくを知ってほしい】
 脱出ゲームのクリア条件だとか、四獣珠と黄帝珠の抗争だとか、そういう具体的で重要な目的があるにもかかわらず。
 いつからぼくは、ぼく自身の想いのために動いていたんだろう?
「身勝手ですよね」
 壁のひび割れから吹き下ろす風に、頬を打たれた。
 感情を抑え切れなくなった。呼び掛けても応えてもらえないのに、稚拙な感情を一生懸命に押し付けようとして、その勢いだけでここまで来て。
 食い違っているし、空回りしているし、格好悪いし、未熟すぎて恥ずかしいし。
【だけど、応えてほしいんだ】
 両目の奥が熱くなって、視界が膨れ上がるように感じる。
 あっ、と思ったときには、両目から涙がこぼれていた。
【あなたに触れるための鍵を、ください】
 ぽたぽたと、涙は落ちた。透明な蓋を伝って、水滴は流れた。
 水滴が形を変える。
 ぼくは目を見張った。水滴はみるみるうちに、黒い箱に染み込みながら一点に集まり、氷のように透き通って光を宿す。
 そこに透明な一つの穴がうがたれた。
「鍵穴!」
 驚いて、ぼくはリアさんを見つめ直した。色のなかった唇が、かすかに朱い。指を組み合わせた両手の下で、胸が、呼吸に上下している。
 唐突に、とげとげしいチカラを真横から感じた。祥之助の体で浮遊した黄帝珠が、ぼくの側面に回り込んでいる。
【今一度、問うぞ! その体、我に寄越す気はないか?】
「何度訊かれても、答えは同じです。絶対に譲らない!」
 一瞬。
 消えたと錯覚するほど、黄帝珠の動きが速い。
【寄越せ!】
 つかみ掛かる手を、反射的に払いのける。接近した顔を、振り上げた足で蹴り飛ばした。
「150mm未満までぼくに顔を寄せていいのは美人だけです!」
 黄帝珠が放出する破壊の波動が止まった。祥之助の体を起き上がらせようとしながら、黄帝珠が呻いている。
【なぜだ、平衡感覚が……】
「当然でしょう。普通なら脳震盪を起こす程度の衝撃を加えました。精神体のきみが無事でも、祥之助の体が指示について行けるはずがない」
 なるほど、最初からこうすればよかったのか。祥之助の体が動かないように、物理的に攻撃を加える。
 いや、加減が難しい。きっと骨折程度では、黄帝珠は平然と祥之助の体を酷使する。
 何にしても、今がチャンスだ。ぼくは、巨大な翼をたたんだばかりのイヌワシを見上げた。
【きみに命じますが、聞こえてますよね?】
 イヌワシがうなずいた。
【ここに鍵穴があります。きみなら鍵になれるはずだ。だって、きみが、ぼくとリアさんをつないでくれた。ゲーセンで。それから、連絡先も】
 ワンコインぶんの、生まれて初めてのデート。画面越しに電波を介して交わしたトーク。
 特別だったんだ。思い出すだけで、笑いたくもなるし泣きたくもなる。
【鍵になれ】
 イヌワシの体が黒く輝きながら縮んでいく。壁のひび割れから入り込んでくる風に乗って、羽根のようにふわふわと浮いて、輝きが新たな姿を形作る。
 漆黒に艶めく鍵が、ぼくの手に収まった。
 この鍵が合うんだろうか? ぼくの想いが創った鍵穴で、本当に箱の蓋が開くんだろうか? 蓋を開けるのがぼくでも、リアさんは目覚めてくれるんだろうか?
 鍵を穴に挿し込む手が震えた。
【お願いします】
 挿し込む。回す。手応えがある。
 持ち上げようとして透明の蓋に触れると、それは一瞬で蒸発した。
「リアさん」
 触れても、いいんだろうか。
 すきま風はまだ吹いている。乾いた風が冷たい。リアさんの体も冷えているんじゃないかと思った。
「リアさん」
 触れたいと思った。温めたいと思った。黒衣の肩のほうへと、手を差し伸べる。指先で、そっと。
 突然。再び。
 ざらつく不快な声が轟いた。
【玄武、おのれぇぇぇええっ!】
 怨みの本質を剥き出しにした黄帝珠が立ち上がっている。
 愚かな存在だと感じた。けれど、きっと誰のココロにもあれがある。わずかなりとも怨まない人間は、いないに違いない。
 醜い感情ほど簡単に肥大化していく。善なる人間ほど嘘くさいものはない。人がいかにあるべきか、その理想の値なんて測れない。
 でも、黄帝珠、おまえは美しくない。均衡の上に、法則に従って、すべては存在するから。因果の天秤の崩れた均衡は、必ず正されるべきだ。
 黄帝珠が、祥之助の右手に獣の爪を生やした。
【殺して乗っ取ってくれるわッ!】
 空を切って黄帝珠が突進してくる。
 ぼくは体側を向けて待つ。身構えるのではなく、力を抜いた。
【柔よく剛を制す、というんですよ】
 喉を裂こうとする爪が皮膚に触れる寸前、背中を反らせて床に手を突く。床を蹴った脚に回転の反動を乗せる。
 ぼくの上に不格好に浮かぶ黄帝珠へ、脚を跳ね上げる。
「くたばれ!」
 蹴り飛ばした。完璧に急所《タマ》に食らわせた。祥之助の体が吹っ飛んでいった。
【何だ、この痛みは!】
「後で徹底的に対処してあげますから、今はそこでおとなしく悶絶しててください」
【くっ……祥之助の体が動かんっ】
 品のない呻き声が、あまりにも聞き苦しい。ぼくは命じる。
【黙れ】
 祥之助の体で這いつくばった黄帝珠が、号令《コマンド》を受けて沈黙する。
 疲労感がのしかかってきた。めまいがして、膝に腕を突きながら目を閉じる。ぼくから黄帝珠へと伸びるチカラの残像が、まぶたの裏にハッキリと見えた。
 ココロの滞在時間が、そろそろ長すぎるんだろう。リアさんにも負担が掛かっているはずだ。早くリアさんを目覚めさせて、異物であるぼくたちは外に出なければ。
 冷たいすきま風に乗って、天井や壁の破片が降ってくる。
 ぼくは目を開けた。リアさんが横たわる箱のそばに膝を突く。
 おとぎ話の王子だなんて、そんなロマンチックなもの、柄でもない。でも、王子が姫にキスをした理由が、今は少しだけわかる。
 だって、いざこの場面に立たされると、言葉が出てこない。
 ぼくはリアさんの冷えた手に触れた。自分の手が温かいのだと知った。リアさんの右手をそっと持ち上げる。
 手の甲にくちづけを落とす。声にならない声で、ささやく。
 目を覚ましてください、リアさん。
 次の瞬間、すべてが光に染まった。