「違いますよね」
つぶやいたのが自分の声だと、最初はわからなかった。リアさんの怪訝《けげん》そうな目が、ごく近いところからぼくを見つめている。
「リアさん、違いますよね」
ぼくが口を動かすと同時に声が聞こえて、それが自分の声だと知って、ぼくは自分の気持ちを悟った。せめぎ合う感情の中で、より強いのが何なのかを理解した。
「こんな茶番、本心じゃないんでしょう? 今までずっとそうやってきたんですか? そうやって自分をごまかして、すり減らしてきたんですか? こんなの本心じゃないって言ってくださいよ。ねえ」
言葉にした途端、悲しくて、鼻の奥がツンとした。憧れの人が知らない誰かに触れられたのだと思うと、つらい。腹立たしくて、悔しくて。
それが大人の遊びだったとしても、本気の恋じゃなかったとしても、大事なものをけがされた気がして、ぼくの胸に身勝手な悲しみが湧いてくる。
「媚びを売るふりで本心を隠して、そのキレイな体を安い遊びに使って、寂しさや悲しみをまぎらわす手段だったとしても、もうやめてください。似合いません。それに、ぼくを……ぼくまでも、そんな嘘に付き合わせないでください」
リアさんの顔から、笑みが消える。怯《おび》えるように見張られた目に、ぼくが映り込んでいる。
こんなに距離が近い。抱き寄せることも押し倒すことも簡単だ。
ぼくは衝動を殺している。必死で殺している。流されたくない。今だけは、絶対に、流されてはいけない。
「ココロの奥まで見られたくないって、リアさんのその気持ちもわかります。わかるからこそ、今だけ見せてほしい。必ず大切にしますから、ぼくだけ許してください」
夜のドレスをまとったリアさんが男の目を美しい体へ向けさせるのは、きっと隠れ蓑《みの》だ。その本心から相手の目をそらすための武器なんだと思う。
「過去に何度、そんなふうにごまかして、誘惑してきたのか。人数や回数なんて、ぼくにはどうでもいいんです」
少し嘘だ。口にした瞬間、自分の言葉が胸に突き刺さって痛んだ。でも、その痛みは、はるかに小さい。ぼくのいちばん強い望みを黙殺される痛みより、ずっと小さい。
「ぼくを惑わさないでください。きちんと、あなたと向き合わせてください。未熟なんです、ぼくは。一つひとつ組み上げていかないと、理解できないんです。教えてください。一つひとつ順を追って、ごまかさずに。あなたの力になるための方法を、ぼくに教えてください」
【だから、その姿で、ぼくに迫らないで。あなたをメチャクチャに壊してしまいたくなる。そうだ、メチャクチャにしたいのも本心。あなたの過去が悔しくて、全部、上書きしてしまいたい。塗り替えてしまいたい。あなたをぼくだけのものにしたい】
抑え切れない浅はかな感情が、音のない声になってあふれ出す。チカラの使い方がわからないぼくの声は、実現性を持たない。ただ、ぼくの心を正直に映し出す鏡のようなもの。ぼくの理性は、ギリギリのところにしがみ付いている。
リアさんが、不意に笑った。
「かわいい」
「え?」
「でも、生意気よ」
「す、すみません」
「あやまちを繰り返せるほど、わたしはタフじゃないの。むなしくなるだけだった。寂しさもいらだちも、少しも埋まらなかった」
リアさんがぼくの胸に額を寄せた。
【聞かれてしまう……鼓動を】
「生ぬるい親切も同情も、いらない。下心で近付くなら、そうと言われるほうがマシ。わたしは、嘘をつかれるのが嫌いなの。自分が嘘つきなくせにね」
嘘と強がりは、同じではないと思う。リアさんは強がっているだけだ。
顔を伏せたまま、リアさんがクスクスと笑った。
「きみ、気が利かないわね。こういうときは、肩くらい抱いてよ」
「へっ?」
面食らった次の瞬間、ピンク色の濃い霧に包まれた。思わず目を閉じるほど、濃密な香水の匂いがした。
突風が吹いて、霧と香水が飛ばされる。目を開けると、ぼくは階段に一人で立ち尽くしていた。
「幻?」
リアさんも、脱ぎ捨てられたコートもドレスも、ない。ここは踊り場ですらない。
鼓動はまだ速い。体の興奮は収まっていない。
ぼくは階段にしゃがみ込んで顔を覆った。なまなましすぎた。今さらになって、かなりヤバい状態だったと気付く。
「むちゃくちゃだ、あんなの……」
難易度の高すぎる試験、クリア条件の厳しすぎるステージ。
流されて溺れなかったのは、ほとんど奇跡だ。ちょっとでも違うスイッチが入ってしまったら、完全にアウトだった。
漆黒の扉のそばにいたイヌワシが、ぼくのところまで戻ってきた。翼で繰り返し頭を打たれる。
「ごめんなさい、わかってますって」
だけど、あとちょっと待って。熱すぎる顔を上げられない。誰が見ているわけでもないけど、手のひらをどけられない。
リアさんには全部感知されているんだろうか。やましいところだらけだ。
さっき、どさくさまぎれに何て言った?
【あなたをぼくだけのものにしたい】
本音だった。リアさんに対して、その気持ちが百パーセントなのかどうかはわからない。でも、少なくとも、ぼくにそういう一面もあるのは確かだ。
恥ずかしくて、苦しくて、くすぐったくて、痛い。ざわついて仕方がない場所は、頭なのか胸なのか、もっと体の奥なのか。どこを押さえても収まらなくて、どこかが熱く騒ぎ続けている。
今、どうすればいいのか、わからない。答えが出なくてじれったい。叫び出したいくらいに。
漆黒の扉の前に立ったときから、ここが最奥部だと感じていた。扉を押して開く。ぼくはその部屋に足を踏み入れる。
壁も床も天井も黒曜石でできているかのように艶めく漆黒の部屋だ。
赤、青、黄、緑と、さまざまな色の淡い光が、ふわふわとただよっている。光が偶然、重なり合えば、そのときだけ少し強い輝きが現れる。
淡くない、ぎらついた光がある。けばけばしい黄金色が、部屋の中央で異質な存在感を主張していた。
「遅かったな、阿里海牙。しかも、おまえひとりか?」
祥之助は、浮遊する黄帝珠の破片を王冠のように頭の周囲にまとって、仰々しく巨大な椅子の上で脚を組み直した。椅子のデザインに見覚えがある。懐中時計と同じゴールドで、バラと宝石がしつこい。
ぼくは声を張り上げた。
「核への到達は全員でなければならない、との条件はなかったしょう? 制限時間内に、ぼくはここに至りました。このゲーム、ぼくたちの勝ちです」
ポケットから取り出した懐中時計の文字盤は、三百五十度以上が暗転している。ぼくはそれを祥之助のほうへ放った。無駄のない放物線を描いて、懐中時計は祥之助の手に収まる。
祥之助が鼻で笑った。
「気の早いやつだ。この部屋は確かにココロの最奥部だが、ここ全体が核というわけじゃない。核は、これだ」
これ、と示されたのは黒い直方体だ。長辺1,800mm×短辺550mm×高さ1,200mmと、おおよその寸法を目測する。
祥之助のそばにその直方体があることには、最初から気付いていた。その正体が何なのか、近付いてみて初めてわかった。
まるで棺《ひつぎ》だった。
「リアさん……」
直方体の中で、黒衣のリアさんが仰向けに横たわって目を閉じている。胸の上で両手の指が組み合わされた姿勢だ。じっと見つめる。呼吸をしている様子がうかがえない。
ぼくはとっさに、リアさんに触れようとした。無駄だった。透明度のきわめて高い素材から成る蓋が、直方体にぴったりとかぶせられている。
ざらざらと不快な声が哄笑した。
【ココロの核は、おおむね堅く閉ざされておる。このココロの主は殊《こと》に守りが堅い。おぬしらを最奥部へ近付けぬ迷宮も、ひどく入り組んでおったのう。しかも、侵入者を惑わす仕掛けだらけだった】
高みの見物をされていた、というわけか。
「最低な趣味ですね」
【ほざけ、駄犬が】
「石ころの戯言に付き合う暇はない。要するに、核に到達するための条件は、この蓋をどけることと解釈していいんですね?」
蓋と呼んでみたけれど、密閉されている。二種類の無機物で継ぎ目のない箱を構造させるなんて、どんな組成になっているんだか。
不意に、皮肉な気分が胸に差して笑いたくなった。力学《フィジックス》の目を保ったままなら、ぼくがここまで来るのは無理だったに違いない。ココロの矛盾にばかり意識が行って、大事なものを見なかっただろう。
祥之助が椅子に掛けたまま、伸ばした脚のつま先で、黒い直方体をつついた。
「やってみなよ。メルヘンのワンシーンを演じてみるがいい。王子が、眠れる姫君を目覚めさせるシーンだ」
祥之助の足を、ぼくは踏み付けた。涼しい笑顔で告げる。
「きみはメルヘンの再現を演じたことがあるようですが、本末転倒を自覚していますか?」
「痛い痛い痛いっ!」
「姫君に呪いを掛けた魔法使いと、眠りの呪いを解く王子の、一人二役。たいした道化ですね」
悲鳴がうるさいから、ぼくは祥之助の足を解放した。祥之助が涙目でぼくを見上げる。
「おまえ、ボクに暴力を……!」
「振るいましたが、それが何か?」
「野蛮人!」
「テストの点数で競ってもかまいませんよ?」
「が、学年が違うじゃないか!」
「ぼくの一昨年の成績を、きみは去年、超えられなかった。そういう話なんですが」
祥之助の涙目に黄金色が宿っている。怨《うら》みの感情は、淀んだ黄色。この色が、まさしくそれなのか。
「ボクは、負けてはならなかったんだ。それなのに、おまえがいた。おまえさえいなければ……!」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。ぼくもね、きみのわがままに振り回されるばかりじゃいられないんです」
言いながら、ぼくはすでに祥之助を見ていない。眠るリアさんを、透明な蓋越しに見つめている。
イヌワシが蓋の隅に降り立った。生意気な目を閉じて、じっと動かなくなる。
直方体のあちこちに手のひらで触れてみた。冷たい。軽く叩いてみる。結晶の集合密度が高いようで、音が響かない。びくともしない。
祥之助が鼻を鳴らした。
「無駄だと思うね。こんなに堅固な棺は初めて見た」
「棺?」
ハッキリとそれを声に出されると、カッと頭に来た。誰のせいでリアさんが眠らされたと思っているんだ?
ぼくはリアさんの眠る箱を揺さぶってみた。いや、揺さぶろうとしたけれど、無理だ。
「だから、言ってるじゃないか。その程度で開くわけがない。ボクが黄帝珠のチカラで以てさんざん叩いても、壊れなかったんだ」
ザワリと、髪が逆立つように感じた。瞬間的に感情が沸騰した。
ぼくは正面から祥之助をにらんだ。
「彼女に触れようとしたんですか。その小汚い手で」
「おまえはこの女の恋人でも何でもないだろう? 単なる片想い。おまえはこの女に、ボクより先に触れたいと望んでいる。ただそれだけだ」
ぼくは、暴れたくて震えるこぶしを固く握りしめた。
「ゲスな勘繰りをしたければ、勝手にどうぞ。これ以上、きみにかまってやるつもりもない。あの時計が示すのは、この迷宮の存続時間か、ぼくたちの滞在可能時間なのか。いずれにせよ、もう時間があまりないはずだ」
黄帝珠が応えた。
【異物の滞在可能時間、および、宿主のココロの安定時間。それを過ぎれば、両者ともに、精神崩壊へと向かう】
「そう、あと少しでタイムリミットだったね。どうするつもりなのかな、阿里海牙センパイ? 愛の言葉でも掛けてみるか? 理系では成績トップでも、ロマンスを語るための文才がどの程度なのか、見ものだな」
なるほど、文天堂祥之助は天才だ。ぼくの感情をこれほど見事に逆撫でしてくれるとは、何たる才能の持ち主なんだろう。
「繰り返しますが、きみにかまうつもりも時間もないんですよ」
「この迷宮を現出させたチカラの持ち主たるボクらとの会話の中に、ゲームクリアのヒントがあるかもしれないぞ。ないかもしれないが」
「……ロマンスを語る文才は持ち合わせていませんね。大げさな表現もクサい比喩も嫌いです。言葉は、正確さを期することだけ心掛けています」
だから今も、正確な言葉を選んで使うことにしようか。
ぼくは息を深く吸って、言葉とともに吐き出した。
「【黙ってろ、ゲス野郎! その汚い口、しばらく閉ざしてろ!】」
祥之助が目を剥いた。口は動かない。頬の筋肉がひくつく。
号令《コマンド》だ。チカラの込め方がわかった。
【離れろ】
祥之助が、見えない腕に引きずられるように、一歩二歩と後ずさる。
息を止めろとでも命じたら、どうなるんだろう? チラリとそう思った瞬間、祥之助の頭上の黄帝珠が声を轟かせた。
【こざかしい! この程度のチカラで、我らを制御したつもりかッ!】
その声は、衝撃波だった。
黄帝珠を中心として噴き出した圧力に、ぼくはよろける。ビリビリと部屋全体が揺れた。ただよう淡い光が、いくつか割れて砕けた。
「宝珠が、単独でチカラを使った?」
【驚いておるのか、玄武よ。無理もない。おぬしの玄獣珠は無能に沈黙しておるからな。しかし、我、黄帝珠は違う。物理的な制約を受けぬココロの世界では、思うままにチカラを使えるのだ】
哄笑が再び衝撃波を生んだ。
ピシッと、ひびの入る音がした。天井だ。
祥之助が懐中時計を掲げた。黄金色の両眼が爛々《らんらん》と光っている。ニタリと笑う口が開いた。声が回復している。
「体感時間にして、残り一分か二分ってところかな? この女、リミットまでの時間は長かったよ。もっとさっさと壊れ始める人間のほうが多い。さて、時間が来たら、ボクらは外に出る。ほら、無駄話をしているうちに、もうすぐその時間だよ、阿里海牙センパイ?」
近寄ってきた祥之助がぼくに懐中時計を突き付ける。暗転した文字盤に、ごく細い一条の黄金色。
ぼくは懐中時計を受け取らず、祥之助の胸倉をつかんで持ち上げた。怒鳴り付けたいのを押し殺して、低く尋ねる。
「文字盤をもとに戻す方法は?」
「は、離せ、無礼なっ」
「ぼくの質問に答えろ。文字盤をもとに戻す方法はあるのか、ないのか?」
祥之助の瞳孔が、黄金色の異様な光の奥で、広がったり縮んだりした。
「あるわけがないだろう! ココロの滞在可能時間は、宿主次第だ。ボクにどうこうできるわけが……うぎゃあ」
胸倉をつかむ手を、軽く押し出しながら離した。直感で計測した力点は正確で、効率よく力が作用して、祥之助が吹っ飛ぶ。
投げ飛ばした拍子に、懐中時計が床に落ちていた。絶望の瞬間が目の前にある。
【少しだけ……もう少しだけ時間をください、リアさん】
黄帝珠が、ざらざらと不快な声を轟かせた。
【絶望するか、玄武? 出会ってわずか数日の他人のココロの中で、むなしく滅ぶことを。それとも、歓喜するか? 美女のために死するは、男の愚かなる本望であろう。いや、怨みに溺れるか? 玄獣珠のチカラを以て怨みながら死ぬとは、これは芳しい】
さびたノコギリの刃を皮膚に押し当てられているかのように、黄帝珠の声が触れる耳や頬はピシピシと痛む。
また、部屋のどこかで、ひびが走る音がした。
【のう、玄武よ、おぬしは……】
「【黙れ、くたばりぞこない! もっと粉々に砕かれないと、反省の『は』の字も学習できないのか!】」
口から飛び出した怒声は、半分はぼく自身のものだ。もう半分は、玄獣珠の意志と記憶だった。
できるんだと思う。玄獣珠も、本当は、みずからチカラを振るえる。それをしないのは、禁忌だと固く理解しているからだ。因果の天秤の均衡を守れと、四獣珠の本能には刻み込まれているから。
「世の中のエネルギーはすべて均衡の下に成立している。ところが、禁忌を守れず、均衡を崩す愚かな宝珠がここにある。運命の一枝も、揺さぶりを受けるわけですね」
【こしゃくな口を利くでない、玄武!】
「あいにくと、ぼくは絶望していないし、死に歓喜を覚えることもない。ましてや、何かを怨むつもりもありません。怨むなんて面倒なことをするより、腹が立ったその瞬間に正面から叩きつぶします」
【生意気な愚か者が! あくまで我が意に染まぬと申すか! ならば、今すぐ滅べ!】
衝撃波が襲ってくる。
ぼくはいい。耐えてみせる。
でも。
【リアさんを傷付けるな!】
叫んだ瞬間、ぼくの目の前に巨大な影が立ちふさがった。影は黒い翼を広げて、ぼくとともに、リアさんの核をかばう。
「イヌワシ!」
ぼくよりも大きな、写実的な姿をしたイヌワシが目の前にいた。蓋の上にいたはずのぬいぐるみのイヌワシは姿を消している。
つまり、あれが、これか。
一瞬、めまいがした。物理法則に反しすぎている。ココロの中なんだから、何でもありかもしれないけれど。
いや、今はどうでもいい。問題は祥之助と黄帝珠だ。
祥之助は頭上の黄帝珠に触れた。
「もういいよ、黄帝珠。こいつらはどうせ死ぬんだ。放っておいて、早くボクらは脱出しよう」
【時間か。仕方あるまい】
ふわりと、祥之助の体が宙に浮き上がった。ぎらぎらする黄帝珠が、凄まじいチカラを放出している。祥之助がぼくを見下ろしながら、天井を指差した。
「ボクたちは外に出るよ。まあ、一応、しばらくは待っていてやる。少々時間をオーバーしても、まともでいられるココロもあるしね。せいぜい頑張ってくれ」
【待て!】
「無駄無駄。黄帝珠が本気でチカラを使ってるんだよ。おまえの不完全な声が効くと思ってるのか?」
仰々しい装飾の椅子が浮き上がって、そのまま天井に吸い込まれた。ここが魂珠の中心で、最下層だ。外へと脱出するには、上向きに外壁を抜けていくイメージが必要なのだろうか。
祥之助と黄帝珠が、まもなく漆黒の天井に達する。
祥之助の頭が天井に接した瞬間。
ゴッ!
鈍く硬い音がした。
痛みに呻きながら、祥之助が床に落ちてくる。黄帝珠が、チカチカと、せわしなくまたたく。
【バカな! 通り抜けられぬだと!】
黄帝珠が祥之助を光で包んで持ち上げた。再び天井に近付いて、ガツン、と凄まじい音が鳴る。祥之助ともども、黄帝珠は再び落ちてくる。
祥之助がぶつかる瞬間、天井や壁が発光したのがわかった。室内を舞う各色の光も、さっきより明るくなっている。
「リアさんの意志か?」
ココロを閉ざして、祥之助を逃がさないようにしている?
ぼくはハッとしてリアさんを見た。でも、横たわるリアさんは、まぶだを閉ざしたまま動かない。目覚めるどころか、呼吸の気配すらないのも相変わらずだ。
祥之助が情けない声を上げた。
「痛いよ、黄帝珠。打ったところが、痛い」
黄帝珠が笑って、祥之助をなぐさめた。
【痛いか、祥之助よ。そうか。ならば、その痛む体、放棄してみるか?】
「え?」
【その体を我が支配下に寄越せ】
「ちょ、ちょっと待て、黄帝珠! 約束が違う! きみは、ボクをサポートするだけって言ったじゃないか。ボクの心の弱いところを励ましてくれる、心の空虚な部分にきみがチカラを注入してくれる。そういう約束だ。体を譲るなんて、そんなこと!」
【致し方なかろう? ここから脱出するには、より強いチカラが必要だ。我らがチカラを合わせることが肝要なのだ】
「嘘だ、やめてくれ……ボクは正式な預かり手ではないから特別なチカラなんてないんだって、黄帝珠、きみがそう言ったんだぞ」
【さよう。ゆえに我がチカラを貸してやると、確かに言うた。しかれども、我が今、必要としておるのは、何も特別なチカラではない。祥之助よ、おぬしの生命力、使わせてもらうぞ!】
黄帝珠が強烈に発光する。光の触手が祥之助へと伸びる。
祥之助が頭を押さえて悲鳴を上げた。
ぼくは顔をしかめた。黄帝珠のチカラが脳に入り込んだときの強烈な不快感を思い出す。冷たくて、おぞましかった。
悲鳴は、あっという間に止んだ。
祥之助が立ち上がる。笑っている。両眼が、今までとは比べ物にならないほどハッキリと、黄金色に輝いている。光る両眼に照らされて、華やかな顔立ちに異様で濃厚な陰影が描かれた。
【さあ、どうしてくれようか? すでに時間切れだ。魂珠の迷宮が崩壊を始める。その内側に閉じ込められた異物もろとも、狂い始める。唯一、我が精神のみは、人間ごときのココロの作用など受けぬがな】
「それでも、きみがここから出られないことに変わりはないでしょう?」
【ほう、生意気な。我に不可能があると思うておるのか】
「思ってます。リアさんがきみ程度の小悪党に屈するなんて、想像がつきませんしね。ジタバタしてみたらどうです? 祥之助の生命力が尽きるのが、きっと先ですよ」
【こざかしい!】
黄帝珠が叫んだ瞬間、衝撃波が吹き荒れた。イヌワシが翼を広げて、ぼくとリアさんの核を守る。ピシピシと音を立てて、部屋じゅうにひびが広がる。
衝撃波を受けた懐中時計が、ぼくの足下に転がってきた。文字盤が完全に暗い。黙ってそれを踏み付ける。足の下で、硬いはずの懐中時計は呆気なく砕けた。
ざらざらとした哄笑が響いた。
【名案を思い付いたぞ、玄武! おぬしのその姿を寄越すがよい】
「何を言ってるんですか?」
【取引に応ずれば、我がチカラによっておぬしを外に出してやる。察するに、おぬしの生命力のほうが祥之助より豊富だ。迷宮の主も、おぬしの脱出を阻むことはあるまい。さあ、体を寄越せ!】
「気色悪い案を、よくぞ次々と思い付きますね。ぼくの肉体も精神も、ぼくのものだ。そうそう、ぼくの能力もね。さっさと返してもらいますよ。きみのチカラの影響は、きみを砕けば可逆でしょう?」
――むろん可逆だ。
ぼくの胸元で、玄獣珠が告げた。
――預かり手よ、やれ。
――黄帝珠を破壊すれば、事は解決する。
【取引に応じられぬと言うか!】
「取引と呼べるほど、等価な条件じゃないでしょう? 誰が応じるんですか?」
【生意気を申すな! 黙ってその体を差し出せ!】
「さっきから思ってたんですが、申すという謙譲語を、他人を主語にして使うのは、やはり現代日本語としては違和感がありますね」
【黙れ! 強引に奪ってくれるわ! そこに直れ!】
「時代錯誤もはなはだしいセリフを、よくもまあ恥ずかしげもなく。それとも、マインドコントロールのつもりで言ってました?」
黄帝珠が、祥之助の顔でニタリと笑った。歩み寄りながら指差す先に、眠るリアさんがいる。
【ならば、生意気な玄武ではなく、宿主の核を操ろうか? 眠りから覚め、我を受け入れよ。ほかの誰にも目をくれず、我を愛せ。こやつの目の前で、睦《むつ》み合ってみせようではないか】
目に見えない波動がリアさんの核に押し寄せる。その圧力を肌で感じた。
【やめろ!】
自分から波動が噴き出すのも感じた。二つのチカラがぶつかり合った。衝撃が、風のように大気を揺さぶる。
ぼくは黄帝珠の進路に立ちはだかった。すぐ背後に、リアさんの核がある。
「これ以上、近付くな」
【では、先にこの部屋を破壊してやろう! 堅き守りを破壊した上で、宿主の核を、ほしいままに扱ってくれる!】
黄帝珠を中心に、破壊の波動が吹き荒れる。揺れに耐えかねて、ぼくは膝を突いた。
「どこまで根性の腐った石ころなんだ!」
色とりどりの小さな光が、波動に撃ち落とされる。床も壁も天井も、ビシビシと激しくひび割れを起こした。
すきま風が吹き込んでくる。乾いて冷たい風だ。哀しい、と鳴りながら、ひびの割れ目から風が吹いている。
「哀しい、ですか」
静かな風だ。
自分の身に降りかかる苦しみにも、まっすぐな怒りの涙を流してきた。そんなリアさんの哀しみって、何だろう?
【結局、ぼくにも見せてくれないんですね。ココロの奥底で、独りきりで、何に哀しんでいるのか。呼び掛けているのに、どうして眠り続けているのか。あなたの孤独が、ぼくには寂しい】
思念がこぼれた。
黄帝珠が、祥之助の両腕を広げて天井を仰いで哄笑する。
【久方ぶりに、大いにチカラを振るうておる! 心地よい! 体があるとは、なんと自由で心地よいことか!】
祥之助の両足は、揺れる床から浮き上がっている。黄帝珠が念じるだけで、巨大なチカラが放出される。
ココロの部屋に亀裂が入る。時間がない。
「どうして目覚めてくれないんですか?」
つぶやく声が震えた。
【ぼくでは、落第点ですか? ぼくなら合格って、リアさん、言いましたよね? ゲーセンで、ぼくの手を握って、合格って言ったでしょう? からかってただけですか?】
パラパラと、漆黒の破片が天井から降ってくる。床が揺れる。
黄帝珠が吠える。衝撃波。イヌワシが羽根を散らし、血を流しながらも、ぼくとリアさんを守ろうとして翼を広げ続ける。
ぼくは、透明な蓋越しにリアさんを見つめた。
必死でここまで来た。リアさんのココロを暴き続けて、それが申し訳なくてたまらなかった。青い丘で、白い廊下で、朱い部屋と暗い階段で、リアさんの過去と想いに触れて、為す術のない自分の無力さを知らされた。
それでも前へと、奥へと進んだのは、ただ一つの目的のため。
【もう一度、今度こそ、あなた自身があなたの言葉であなたのことを語るのを、ぼくは聞きたい。ぼくはあなたを知りたい。あなたに触れたい。あなたにぼくを見てほしい。ぼくを知ってほしい】
脱出ゲームのクリア条件だとか、四獣珠と黄帝珠の抗争だとか、そういう具体的で重要な目的があるにもかかわらず。
いつからぼくは、ぼく自身の想いのために動いていたんだろう?
「身勝手ですよね」
壁のひび割れから吹き下ろす風に、頬を打たれた。
感情を抑え切れなくなった。呼び掛けても応えてもらえないのに、稚拙な感情を一生懸命に押し付けようとして、その勢いだけでここまで来て。
食い違っているし、空回りしているし、格好悪いし、未熟すぎて恥ずかしいし。
【だけど、応えてほしいんだ】
両目の奥が熱くなって、視界が膨れ上がるように感じる。
あっ、と思ったときには、両目から涙がこぼれていた。
【あなたに触れるための鍵を、ください】
ぽたぽたと、涙は落ちた。透明な蓋を伝って、水滴は流れた。
水滴が形を変える。
ぼくは目を見張った。水滴はみるみるうちに、黒い箱に染み込みながら一点に集まり、氷のように透き通って光を宿す。
そこに透明な一つの穴がうがたれた。
「鍵穴!」
驚いて、ぼくはリアさんを見つめ直した。色のなかった唇が、かすかに朱い。指を組み合わせた両手の下で、胸が、呼吸に上下している。
唐突に、とげとげしいチカラを真横から感じた。祥之助の体で浮遊した黄帝珠が、ぼくの側面に回り込んでいる。
【今一度、問うぞ! その体、我に寄越す気はないか?】
「何度訊かれても、答えは同じです。絶対に譲らない!」
一瞬。
消えたと錯覚するほど、黄帝珠の動きが速い。
【寄越せ!】
つかみ掛かる手を、反射的に払いのける。接近した顔を、振り上げた足で蹴り飛ばした。
「150mm未満までぼくに顔を寄せていいのは美人だけです!」
黄帝珠が放出する破壊の波動が止まった。祥之助の体を起き上がらせようとしながら、黄帝珠が呻いている。
【なぜだ、平衡感覚が……】
「当然でしょう。普通なら脳震盪を起こす程度の衝撃を加えました。精神体のきみが無事でも、祥之助の体が指示について行けるはずがない」
なるほど、最初からこうすればよかったのか。祥之助の体が動かないように、物理的に攻撃を加える。
いや、加減が難しい。きっと骨折程度では、黄帝珠は平然と祥之助の体を酷使する。
何にしても、今がチャンスだ。ぼくは、巨大な翼をたたんだばかりのイヌワシを見上げた。
【きみに命じますが、聞こえてますよね?】
イヌワシがうなずいた。
【ここに鍵穴があります。きみなら鍵になれるはずだ。だって、きみが、ぼくとリアさんをつないでくれた。ゲーセンで。それから、連絡先も】
ワンコインぶんの、生まれて初めてのデート。画面越しに電波を介して交わしたトーク。
特別だったんだ。思い出すだけで、笑いたくもなるし泣きたくもなる。
【鍵になれ】
イヌワシの体が黒く輝きながら縮んでいく。壁のひび割れから入り込んでくる風に乗って、羽根のようにふわふわと浮いて、輝きが新たな姿を形作る。
漆黒に艶めく鍵が、ぼくの手に収まった。
この鍵が合うんだろうか? ぼくの想いが創った鍵穴で、本当に箱の蓋が開くんだろうか? 蓋を開けるのがぼくでも、リアさんは目覚めてくれるんだろうか?
鍵を穴に挿し込む手が震えた。
【お願いします】
挿し込む。回す。手応えがある。
持ち上げようとして透明の蓋に触れると、それは一瞬で蒸発した。
「リアさん」
触れても、いいんだろうか。
すきま風はまだ吹いている。乾いた風が冷たい。リアさんの体も冷えているんじゃないかと思った。
「リアさん」
触れたいと思った。温めたいと思った。黒衣の肩のほうへと、手を差し伸べる。指先で、そっと。
突然。再び。
ざらつく不快な声が轟いた。
【玄武、おのれぇぇぇええっ!】
怨みの本質を剥き出しにした黄帝珠が立ち上がっている。
愚かな存在だと感じた。けれど、きっと誰のココロにもあれがある。わずかなりとも怨まない人間は、いないに違いない。
醜い感情ほど簡単に肥大化していく。善なる人間ほど嘘くさいものはない。人がいかにあるべきか、その理想の値なんて測れない。
でも、黄帝珠、おまえは美しくない。均衡の上に、法則に従って、すべては存在するから。因果の天秤の崩れた均衡は、必ず正されるべきだ。
黄帝珠が、祥之助の右手に獣の爪を生やした。
【殺して乗っ取ってくれるわッ!】
空を切って黄帝珠が突進してくる。
ぼくは体側を向けて待つ。身構えるのではなく、力を抜いた。
【柔よく剛を制す、というんですよ】
喉を裂こうとする爪が皮膚に触れる寸前、背中を反らせて床に手を突く。床を蹴った脚に回転の反動を乗せる。
ぼくの上に不格好に浮かぶ黄帝珠へ、脚を跳ね上げる。
「くたばれ!」
蹴り飛ばした。完璧に急所《タマ》に食らわせた。祥之助の体が吹っ飛んでいった。
【何だ、この痛みは!】
「後で徹底的に対処してあげますから、今はそこでおとなしく悶絶しててください」
【くっ……祥之助の体が動かんっ】
品のない呻き声が、あまりにも聞き苦しい。ぼくは命じる。
【黙れ】
祥之助の体で這いつくばった黄帝珠が、号令《コマンド》を受けて沈黙する。
疲労感がのしかかってきた。めまいがして、膝に腕を突きながら目を閉じる。ぼくから黄帝珠へと伸びるチカラの残像が、まぶたの裏にハッキリと見えた。
ココロの滞在時間が、そろそろ長すぎるんだろう。リアさんにも負担が掛かっているはずだ。早くリアさんを目覚めさせて、異物であるぼくたちは外に出なければ。
冷たいすきま風に乗って、天井や壁の破片が降ってくる。
ぼくは目を開けた。リアさんが横たわる箱のそばに膝を突く。
おとぎ話の王子だなんて、そんなロマンチックなもの、柄でもない。でも、王子が姫にキスをした理由が、今は少しだけわかる。
だって、いざこの場面に立たされると、言葉が出てこない。
ぼくはリアさんの冷えた手に触れた。自分の手が温かいのだと知った。リアさんの右手をそっと持ち上げる。
手の甲にくちづけを落とす。声にならない声で、ささやく。
目を覚ましてください、リアさん。
次の瞬間、すべてが光に染まった。
「海牙くん」
リアさんの声に呼ばれて、ハッと跳ね起きた。まわりを見渡す。カフェレストランTOPAZの気取った内装。脱出できたんだ。
みんな、まだ倒れている。唯一、起き上がっているのは、赤いドレスを着たリアさんだった。
立った瞬間、軽いめまいがした。どうにか踏ん張って、視界の揺れが落ち着いてから、リアさんに駆け寄る。
「体に異常はありませんか?」
「わたしは大丈夫」
「でも、タイムリミットが」
「お坊ちゃま基準で測らないでもらいたいわ。わたしはそんなに軟弱じゃないの」
リアさんは身軽な動作で、寝かされていた台から下りた。
改めて見ると、すごいドレスだ。肩は全開で、胸元もきわどい。マーメイドラインのすそは長いけれど、スリットが深くて、太ももまで見える。
大丈夫とは言ったものの、リアさんはよろけた。ちょうどぼくの胸に倒れ込んでくる格好だった。ぼくの肩に手を掛けて、体を支える。
「やっぱりゴメン、ちょっと貧血みたいな感じ」
「だ、大丈夫ですか?」
真上から胸の谷間がのぞける。
【絶景だ】
思わず、その一つずつの直径をあてずっぽうに目測した。ああもう、力学《フィジックス》が戻っていれば……。
「こら」
視界がリアさんの手のひらでさえぎられた。
「す、すみません」
「正直なのよ、きみは」
「ごめんなさい」
「そういう軽率な視線を誰にでも向けちゃダメよ」
「しません、やりません」
【リアさん以外の人には向けません】
「……そういうトコかわいいから、ひとまず許す」
「すみません」
【やった】
そのときだ。
「おいおいおい、ちょっとちょっと、いきなりそういうの困るよ~。お二人さん、何をイチャついてんのかね~?」
理仁《りひと》くんの声と、起き上がる気配。ぼくに目隠しをしたまま、リアさんが嬉しそうな声を上げた。
「よかった、理仁! 鈴蘭ちゃんも煥《あきら》くんも! みんな大丈夫そうね」
「おれらもそんなに軟弱じゃねぇし~」
駆け寄ってくる足音は鈴蘭さんだろう。と思った三秒後、ぼくはリアさんに押しのけられた。リアさんは、飛び付いてきた鈴蘭さんを抱きしめる。
「リアさん、目を覚ましてくれてよかったですー!」
「苦労させちゃってゴメンね」
ダメだ、あのドレス。どうしても胸に目が行く。小柄な鈴蘭さんの顔の位置がうらやましすぎる。
ざらざらとした呻き声が聞こえた。
【こ、ここは……現実世界か。せっかく手に入れた肉体的自由が……】
黄帝珠が、祥之助の頭のそばに、四つに割れた姿で転がっている。チカチカと発光するものの、浮かび上がるのがままならないらしい。祥之助はまだ意識が戻っていない。
ぼくは笑みをこしらえて、黄帝珠に歩み寄った。
「くたばりぞこないの鉱物が、一人前に気絶していたんですか? 予告しましたよね。後で徹底的に対処する、と。今がそのときですよ」
割れた破片の四つをまとめて蹴り飛ばして、祥之助から引き離す。逃げ出そうとしてフラフラと浮かび上がるところを、ぼくと煥くんで蹴落とした。
【わ、我を足蹴にするとは、無礼な! おぬしら、ただではおかぬぞ!】
「男に蹴られるのが不満だそうです。リアさん、鈴蘭さん、踏んであげてください」
【ふざけるな!】
「まあ、喜ばせてやる義理もありませんね」
わめく黄帝珠の形状を観察する。氷を乱雑にアイスピックで割った感じだ。割れ目がギザギザしている。細かなひびも入っている。
「海牙、こいつをどうする?」
「そうですね。すでにずいぶんと脆そうですが」
球は、あらゆる形の中で最も表面積が少ないから、最も安定した形だ。かつての四獣珠の預かり手が完全体の黄帝珠と対峙したとき、球である宝珠を破壊するには、きわめて大きな力が必要だっただろう。
黄帝珠は今、かなり安定を欠く形をしている。硬い上に不安定となれば、負荷の加え方次第で、簡単に割れるはずだ。
「そうだ、煥くんの障壁《ガード》は薄くて硬い板状のモノで、形を自由に変えられるんですよね?」
「ああ。単純な形なら作れる」
「鋭角の三角形はできますか?」
「大きさは?」
「これに先端をぶつけやすいサイズで」
ぼくは黄帝珠を指差した。
納得した顔の煥くんが、左右の手を胸の前にかざした。空間が白く光って、障壁《ガード》とは名ばかりの武器が出現する。煥くんの胸から膝までの高さを持つ、鋭角十五度の二等辺三角形。まるで、巨大な槍の穂先だ。
「ひびに突き込めばいいんだな?」
【や、やめろ、白虎! そうだ、おぬしにチカラを貸そう! 白獣珠よりも強いチカラで、おぬしを……】
「黙れ、耳が腐る」
煥くんは容赦なく、白い光の三角形を黄帝珠に突き立てた。二本同時に、一点を狙って。
黄金色の破片が割れる。さらに新たなひびが走って、また割れる。白い光に焼かれながら、細かく砕けていく。聞き苦しい悲鳴が神経を引っ掻く。
破片は、一定未満の小さな粒子になると、存在を保てないようだった。試験管の中で起こす水素爆発みたいな、頼りない爆発音が連なる。黄金色の残光も消えていく。
【白虎、また今回も、きさまぁぁああっ!】
「またですか? かつて同じことが起こったと?」
「オレの先祖がこいつを割ったのか。もっとキッチリやっておけよな」
【我を侮辱するなぁぁああっ!】
「侮辱じゃねえ。軽蔑してんだ」
「察するに、黄帝珠自身なんでしょうね。禁忌を冒したのは、預かり手と呼ばれる人間ではなく黄帝珠。明確な人格を持ったり、預かり手の肉体を乗っ取ったりと、かつても好き放題にやったんでしょう。運命の一枝を揺さぶるほどの影響力に、四獣珠が危機感をいだいた」
【玄武、その気取った口をいつまでも利けると思うな! 怨んでやる……怨んでやるぞ。人間に感情の存する限り、我が司る怨みは不滅。四獣珠、きさまらの引き合うチカラの中心に、我は必ず復活する!】
煥くんが二つ目の破片に白い光を突き込んだ。
「復活するなら、そのときは、またぶっつぶしてやるだけだ」
【き、消えていく! 我が存在が、我がチカラが、ああぁぁ……!】
煥くんが白い光を振り上げて、振り下ろす。黄帝珠が悲鳴を上げ、黄金色の粒子が飛び、すぐに四散する。
「この白い光にはこんなに破壊力があるのに、煥くんはこれを障壁《ガード》と名付けたんですね」
「人を守るためのチカラがほしかったんだ。破壊したり奪ったりするためのチカラなんて、弱ぇよ」
低い声で吐き捨てて、煥くんは正確に、白い光で黄帝珠の最後の破片を貫いた。悲鳴が一瞬だけ高くなって。すぐに途絶えた。
そして、凄まじい衝撃が来た。
脳を直接殴られたかのように、刹那、意識が真っ白になる。
「おい、海牙!」
揺さぶられて、目を上げた。
慌てた様子の煥くんの顔に、数値が重なって見えた。顔の縦方向の中心軸から各パーツへの距離。各パーツ同士の位置関係。
整然とした数値の群れは、ぼくの目にとって、きわめて美しいものだ。
「やっぱりイケメンですね、煥くんは」
「は?」
「心意気だけでなく、顔のパーツの座標もね。黄金比って知ってます?」
支えてくれていた煥くんから体を離す。煥くんが目を輝かせた。
「チカラ、戻ったのか!」
「ご心配をおかけしましたが、無事にね」
【もちろん、おれもね~。ってことで、早速お仕事! 隠れてる黒服の皆さん、全員カモ~ン!】
忘れていたけど、そうだった。このホールには、黒服の戦闘要員が、あちこちに潜んでいるはずだ。
五十九人、黒服が出てきた。麻酔銃やボウガンを構えている者、倒れたままの祥之助に呼び掛ける者。仕事とはいえ、ご苦労さまだ。
【全員、武装解除! さっさと武器を捨てろ! 捨てたら寝てろ! 手間の掛かるやつは、あっきーが殴るぞ!】
「オレかよ」
理仁くんに逆らえる黒服はいなかった。気迫が凄まじい。帯電しているかのように、ビリビリと振動する空気。膨大で解析不能な情報が理仁くんから噴き出して、荒れ狂う嵐の様相を呈している。
武器や防弾チョッキが投げ出される音のせいか。それとも、理仁くんの気迫に感応したのか。
【おんや~、お坊ちゃまのお目覚めかな?】
祥之助が、そろそろと体を起こした。
リアさんと鈴蘭さんが、思わずといった様子で身構えた。ぼくと煥くんが祥之助に近付こうとした。その誰よりも先に、理仁くんが動いていた。
理仁くんは、祥之助に駆け寄りながら命じた。
【立て!】
祥之助が、飛び跳ねるように立ち上がった。黄帝珠の影響が消えて、号令《コマンド》が通っている。
駆け寄った勢いのまま、理仁くんは祥之助の頬を殴った。ガクリと倒れかける祥之助に、理仁くんは再び命じる。
【誰が転んでいいと言った? 立てっつってんだよ!】
「な、何を……おまえ、ボ、ボクを殴った?」
【他人に殴られたくねぇか? じゃあ、自分でやれ!】
祥之助の手が、ベチン、と自分の頬を打った。みるみるうちに頬が腫れる。
リアさんが呆れ顔をした。
「訴えられたらどうするのよ?」
「この後、こいつの記憶消すから平気」
「できるの? 記憶の操作は大仕事だって言ってたじゃないの」
「こいつ相手なら、簡単だと思うよ。無駄にプライド高いもんな、お坊ちゃまは。敗北の記憶なんて、さっさと消したいでしょ? 余計な騒ぎを起こしてくれやがった黄帝珠のことも、ぜーんぶ忘れたいよね?」
祥之助が後ずさった。理仁くんは長い腕を伸ばして、祥之助の胸倉をつかんだ。
「お、おまえら、大勢で寄ってたかって、ボクを……」
「何十人もの黒服に護衛させといて、それ言う? おれって温和なナイスガイだけど、今、さすがにけっこう怒ってんだよね~。きみにかける暗示はさ、自分史上最大級にパワー出せる気がするんだ。ねえ、どんな命令されたい?」
理仁くんの両眼は危険そうに朱く燃えている。祥之助はもはや怯《おび》え切って、悲鳴すら上げられない。
煥くんが止めに入った。
「気持ちはわかるが、やりすぎるなよ。こいつ、軟弱そうだから、すぐ死ぬぞ」
「今、殺意あるよ、おれ」
「だから、こんなやつのために自分をすり減らすなって」
「理屈じゃねーんだよ。姉貴をこんな目に遭わされてさ、ねえ、何て言やいいんだよ、この感情?」
「それでも、落ち着け。あんたが本気で命じたら、こいつ、本当に死ぬかもしれないんだぞ。そしたら、一生、こんなやつの記憶があんたに付きまとうことになる」
理仁くんが肩で息をついた。
「自分で自分に号令《コマンド》できりゃいいのにねって、しょっちゅう思うよ。気持ちを切り替えたいとき、スパッとやれりゃ楽なのにね」
理仁くんは頭突きをするように、祥之助に顔を寄せた。至近距離で祥之助の目をにらむ。
【次があったら許さねえ。おれたちに危害を加えた場合、てめぇ、死ねよ】
絶対的な暗示。測定できないエネルギーを持つチカラが、祥之助の心臓に楔《くさび》を打った。
理仁くんが祥之助を突き放した。よろめきつつも、祥之助にはまだ、倒れてはならない指示が効いている。
【姉貴の服と荷物、どこ? 素直に出してくれたら、おれら、撤退してやるから】
「この店のスタッフルームだ。ロッカーに入れてある」
【意外とまともな待遇じゃん。さっさと案内してくれる?】
店の奥へと歩き出す祥之助に、理仁くんがついて行く。煥くんが理仁くんに並んだ。
「オレも行く。今の理仁は、ほっとくと危険だ」
「あっきー、ひどぉい。じゃなくて、ツンデレ? おれと一緒にいたい?」
普段の様子でおどける理仁くんに、煥くんは面倒そうに黙った。クスリと笑った鈴蘭さんが、ぼくを見て、リアさんを見た。小走りで二人を追い掛ける。
「待ってください、わたしも行きます! リアさんの荷物や服を男性がさわるのはダメです!」
「おいお~い、おれは姉貴の弟だよ?」
「それでも、です。あ、わたし、さよ子に電話しますね」
最後の一言は、ぼくを振り返りながらだった。さよ子さんに連絡すれば、KHANにぼくたちの無事が伝わる。すぐに迎えの車を送ってもらえるはずだ。
でも、荷物と着替えはリアさん自身が取りに行けばいいんじゃないですか? このドレスからもとの服に着替えられるし。
と、言おうとして。
思考も呼吸も吹き飛んだ。後ろから、ふわりと抱き付かれたせいだ。
「ちょっ、え、なっ……あの、リアさん?」
しなやかで白い腕がぼくの体の前で交差して、後ろ髪の掛かるぼくの首筋に、リアさんの額が押し当てられている。背中に、柔らかい膨らみを感じる。
「ちょっとこのままで」
「あ……め、めまいでも、しますか?」
一瞬のうちに加速した鼓動を、きっと聞かれてしまう。体が熱くほてっていく。
リアさんが少し笑った。吐息のくすぐったさを、ひどく敏感に背中が知る。
「ありがとう」
「な、何のことです?」
「覚えてるから。見えていたから。きみがわたしのために言ってくれたことも、わたしのために戦ってくれたことも、涙を流してくれたことも。全部、ありがとう」
恥ずかしい、苦しい、くすぐったい、痛い、苦い、じれったい、切ない。そして、甘くて熱い。
胸の中に沸き返る感情のせいで、また涙が出そうになった。変だな。そんなの、柄でもないのに。
「リアさん」
「何?」
口が勝手に動いた。
「ぼくは頑張りましたから、ごほうびにデートしてください」
支離滅裂だ。
リアさんが胸を震わせて笑った。
「変わり者の大秀才が、どうしたのよ? 何を言い出すかと思ったら、急に普通の高校生になっちゃって」
「先入観や固定観念があれば、そこから逸脱したくなるんです。ぼくだって、恋くらいしますよ」
言葉の持つチカラは絶大だ。恋、と口に出した瞬間、この気持ちから逃れようがなくなった。
ぼくは、リアさんのことが好きだ。
アジュさんの車に回収してもらったのは、まだ深夜と呼べる時間帯だった。ココロの迷宮をさまよった時間は、中で体感していたより短かったらしい。
総統の屋敷に戻って、夜食をつまんで、報告もそこそこに、各自の部屋や客室に引っ込んで眠った。
疲労の度合いには、差があったみたいだ。煥《あきら》くんと鈴蘭さんは、普通に起きて登校した。リアさんも、きちんと起きて仕事に行った。すでに一日欠勤しているから、それ以上は休めなかったらしい。
ぼくと理仁《りひと》くんがいちばん長く寝た。目が覚めたのは夕方近くだった。リアさんよりダメージが深いとは思っていなかったから、驚いた。
起こったことを系統立てて総統に報告したのは、リアさんだったそうだ。ココロの中の出来事を全部感知していたみたいだけれど、総統にはどこまで言ったんだろう?
目覚めたぼくと理仁くんに、総統みずからお茶を淹れてくれた。
「迷宮の中の一連の出来事は、例えて言えば、後戻りの利かない分岐だらけのシナリオを持つシミュレーションゲームだった。どこかで違う選択をしたら、ゲームオーバーだった。もちろん、バッドエンドのね」
バッドエンドは、ぼくたち個人の結末にとどまらない。四獣珠を手にした祥之助と黄帝珠が暴走すれば、この一枝は負荷に耐えかねて滅んだかもしれない。
分岐だらけのシミュレーションゲーム、か。
鈴蘭さんが丘に、煥くんが病院に、残らなかったら? 独りぼっちのリアさんは、迷宮をより深くしてしまっただろう。
理仁くんがぼくたちに過去を語ってくれなかったら? 事情のわからないぼくたちは、リアさんのココロを直接、傷付けたかもしれない。
ぼくが思念をそのまま表現する声を持たなかったら? 何も言えなかったぼくを、リアさんは受け入れてくれなかっただろう。
理仁くんがぼくを信頼してくれなかったら? ミラーハウスか赤外線か、どこか途中でタイムリミットを迎えただろう。
リアさんは、そういう全部を見てくれた。ぼくたちの選択や判断にココロを開いてくれた。
取りそびれた朝食と昼食のぶんを補う勢いで食事をしながら、同じテーブルに着いた理仁くんがぼくに言った。
「しかし、チカラの入れ替わり、ヤバかったよね~。その間ずっと黄帝珠の影響をこうむってて。そりゃ疲れて寝まくるって」
ぼくのごはん茶碗には、うぞうぞと動く数字の群れが重なっている。けれど、そんなものも気にならないくらい空腹だった。
「リアさんたち、無理してないならいいんですけど」
「姉貴ってば、海ちゃんに愛されてるね~」
「リアさん『たち』と言いましたよ、ぼくは」
「料理が全然できない姉貴だけど、大目に見てやってよ」
「苦手なことくらい、誰にでもあるでしょう」
「お、そういうフォローするんだ? やっさしー」
まだ眠いせいもあって、意識がどこか心もとない。ぼんやりしてしまう。
ココロの中での出来事は、夢と呼ぶべきなんだろうか。みんなは、ぼくと同じようにすべてを覚えているんだろうか。
「海ちゃん、考え事?」
「まあ、少し」
「しっかし、細いのによく食べるよね~」
「体の使い方の問題で、消費が速いんですよ」
「座標どおりにピッタリ動く、あの動き方?」
「全身の筋肉を緊張させないと、あれはできないんです」
「海ちゃんの細さ、姉貴がうらやましがってた。ウェストがめちゃくちゃ細いとかって。身体測定でもした? てか、脱いだ? いつの間に何したの?」
不意打ちだ。
米粒が気管に入ってしまって、ぼくは思いっ切り咳き込む。
測定が可能なシーンはあった。リアさんが後ろからぼくに抱き付いた、あのときだ。ぼくがリアさんの体の柔らかさと弾力を感じたように、リアさんにもぼくの体の骨や筋肉の硬い質感がわかったはずだ。
「さっきからさ~、海ちゃん、いちいち怪しいよ? 姉貴の話を出すたびに赤面すんの、気になるんだけど。二人きりのとき、何かあった?」
「いえ、別に……」
「その反応、絶対に黒! 姉貴に何て言ったのかな~? すっげー気になる!」
ごほうびにデートしてください。
あなたに触れるための鍵を、ください。
あなたをぼくだけのものにしたい。
あなたの力になるための方法を、ぼくに教えてください。
自分がリアさんに告げた言葉が、頭の中でリフレインする。赤面ものだ。それ以上だ。他人に知られるわけには、絶対にいかない。
「海ちゃ~ん? 何て言ったの~?」
「お、教えられるはずないでしょう!」
「ってことは、何か言ったことは確定だ。熱~いセリフを吐いちゃったわけだね?」
「う」
「じゃなくて、セリフは甘~い系かな?」
「いや、その」
「それとも、年下男子の武器を最大限に活かして、かわいくお願いしまくった感じ?」
「えっと」
理仁くんが持つ言葉のチカラは脅威だ。号令《コマンド》が効かないぼくにも、その誘導尋問は有効すぎる。
「お願い系ってか、おねだり系かな? それ、効果抜群だよ。姉貴って、まさに長女って感じの性格じゃん? 何々してくださいって頼まれると弱いんだよ。しかも、相手はかわいい年下男子だし。そんでもって、年下くんがたま~に強気なこと言ったら最強。でしょ?」
「わ、わかりませんよ……」
「えー、マジで? んー、まあ、そこんとこは信用してもいいかなー。海ちゃん、無意識でやってたわけだ。計算してやってたんじゃないって、そりゃまたすっげー破壊力だよ」
黙っていよう。いや、黙っていてさえ、顔色を読まれてしまうけれど。
自分で自分を制御できない。
いつからぼくは恋をしていたんだろう? リアさんと出会った最初から惹かれていたのなら、ずるいと思う。ぼくに勝ち目はない。惚れた弱みという言葉があるけど、それだ。
「バカですよね」
「何が? てか、誰が?」
「ぼくが」
「恋したら、誰でもバカになるよ」
「自分がそうだとは知らなかったんです」
「今、全力で認めた」
「……認めたほうが楽になる気がしたので」
姉であるリアさんが女性として見られるのは複雑だと、以前、理仁くんは言っていた。その後、ぼくならかまわないと、リアさんのことをお願いしてくれた。
どちらが本心なんだろう? どちらも本心なんだろうか。
「どう転ぶかわかんねぇけど頑張れよ~。おれらの対親父バトル、これから始まるわけだしね。正直な話、黄帝珠のエピソードなんてのはゲーム本編じゃねーよなって思う。サブストーリーか外伝か、そんなもんだ」
「理仁くんにとって、本編は朱獣珠を巡る親子の対立なんですよね」
「ラスボスはうちの親父どのだね~。第二形態、第三形態とかに進化していく面倒なタイプじゃないことを願うけど」
歌うように言って、理仁くんは食事を再開した。ぼくも、止まっていた手を再び動かす。
総統も言っていた。運命のこの一枝は生長を続ける道を選んだが、油断をしてはならない、と。因果の天秤はいまだ安定せずに揺れている、と。
食事にだいぶ満足してきたころ、先に食べ終わった理仁くんがぼくを呼んだ。
「海ちゃん、一つ、約束してほしいんだけど」
「何ですか?」
理仁くんの朱っぽい目が微笑んでいた。
「姉貴と付き合うなら、中途半端なこと、すんなよ? ああ見えて、ほんと、傷付きやすいから。大事にしてほしいし、嘘つかないでほしい。本物の本心で、マジの真心で、想ってやってほしい」
絶対の約束をできるほど、ぼくは自分を強い人間だと思っていない。でも、理仁くんの信頼を損ねたくはない。
「ぼくにできる最大限の努力をしますよ」
精いっぱい、そう言った。
理仁くんは食事の後、リアさんを一人にできないからと、帰宅した。さよ子さんはその直後に下校してきて、理仁くんと入れ違いになったことを悔しがっていた。さよ子さんにつかまる前に、ぼくは自室に引っ込んだ。
動き回ったのはココロの中でのことなのに、全身の筋肉痛がつらい。ベッドに引っ繰り返って、スマホを眺める。
リアさんに連絡したい。でも、何と送ればいいかわからない。
「新着メッセージなし。着信通知なし」
リアさんからの連絡がないのは、忙しいからか。勤め先のヘアサロンは、何時から何時までの営業なんだろう? まだ仕事中なのかな。
素っ気ない勉強机の上に、ぬいぐるみのイヌワシが一羽。その生意気な顔を見ているうちに、ぼくはまた眠くなった。
明かりも消さずに、気付いたら朝だった。
いつもの待ち合わせ場所で瑠偉と合流した。情報の速い瑠偉は、魂珠を抜かれた動物や人間のことを調べ上げていた。
「徘徊中だった変な動物は、生気が戻ったらしい。とはいえ、もとが野良だったからな。これからどうなるか。買われた記録がハッキリしてるぶんは、文天堂家に返されたみたいだけど」
人間についても同様。生気は戻ったけど、記憶の有無は人によってばらつきがある。身なりから推測できたとおり、大半は、家にも学校にも寄り付かない不良少年少女だった。どこで何をしていようと、誰からも探されていなかったという。
「ところで、あのお坊ちゃんはどうなりました?」
瑠偉は、しかめっ面で笑うような、微妙な表情をした。
「転校するらしい」
「はい? 新学期が始まったばかりのこの時期に?」
「本当は学年が変わるのと同時に学校も変わるつもりだったらしいけどな。首都圏の某私立の編入試験で歴代最高得点を取ったそうで。でも、先月、急にわがままを言い出したんだと。阿里海牙に負けっぱなしのまま転校できないし、この町でやるべきことがあるって」
「先月というと、黄帝珠の影響をこうむり始めた時期でしょうか?」
「たぶんな。昨日は体調不良で休んでた。おまえらがボコボコにしてやったせいだろうな。で、今日の朝にチラッと顔出すのが最後の登校って言ってたぞ」
「できれば会いたくないんだけどね」
ぼくの場合、そういうささやかな願いが叶ったことがない。日頃の行いが悪いせいだと、さよ子さんには言われる。
正門前のロータリーに、あのドイツ製の高級車が停まっていた。ちょっとした人だかりができている。その中央で墓石グレーの制服の群れに囲まれているのは、もちろん、祥之助だ。
意外なことに、祥之助は笑っていた。
理仁くんに殴られて自分でも自分を殴った痕は、頬骨の上のアザと頬全体の腫れと口元の赤いかさぶたとして、しっかり残っている。ケガの理由を訊かれて、祥之助は笑ってごまかして、冗談めいたものまで口にしている。
「SOU‐ZUIに泥棒が入って、撃退はできたんだけど、ボコボコにされちゃってさ。決戦の場所は、最上階のTOPAZ。行ったことない? みんなが思ってるほど高級料理じゃないんだけどな。大都高校の学生証提示で割引できるように、父に言っとこうか」
ぼくは唖然とした。
「あれが本当に文天堂祥之助ですか?」
お坊ちゃんで成績優秀で、同級生から一目置かれているらしい。そんなごく普通の優等生が、ぼくの前にいる。
瑠偉がぼくの隣で、含み笑いをした。
「そんな顔すんなって。あいつはあれでいいんだよ。憑き物が落ちたってやつだ」
「信じられない」
「とは言ってもなあ。まわりにいろいろ話を聞いてみた限りでは、今のあれが本来の文天堂祥之助みたいだぞ。金持ちの息子で、何でもできすぎるから、無意識のうちに嫌味な言動をすることはあっても、怨んだり怨まれたりってキャラじゃないみたいだ」
「でも」
「不安や疑問があるなら、自分であいつと話して、確かめてきたらどうだ? 心配ねぇよ。理仁の暗示はちゃんと効いてて、あいつは何も覚えてない」
瑠偉にうながされるまま、ぼくは祥之助に近付いた。人の間を縫って、中央の祥之助の前に立つ。
祥之助は、ブラウンの目を怪訝《けげん》そうにすがめた。
「誰だ?」
まるで初対面のような表情と言葉。
ぼくは祥之助の顔をじっと見る。瞳孔の様子、まぶたの緊張感、異常な汗の有無。もしも祥之助が一連の出来事を覚えているのなら、顔色が急激に変化するのが道理だろう。
ワックスで固めた髪も、手入れされた眉も、香水のような匂いも、イヤというほど向き合わされた敵の姿とまったく同じだ。
けれど、祥之助は妙に行儀よく小首をかしげた。
「失敬。その校章の色、三年生ですね。先輩がどなたなのか、存じませんが」
まさかの敬語。しおらしい祥之助なんて、想像もつかなかったのに。
瑠偉が隣に来て、ぼくのカバンを引っ張った。
「ほら、言ったとおりだろ。ここに突っ立ってたら、下級生たちの邪魔になる。行こうぜ、海牙」
その途端、祥之助がハッと目を見張った。
「海牙って、あの阿里海牙?」
「フルネームの呼び捨てとはまた失敬ですね。まあ、何にせよ、ぼくのことをご存じでしたか」
「すみません」
「え?」
「知らないはずもありません。ボクはずっと、阿里先輩の影と戦ってきましたから。阿里先輩が叩き出した成績に、文系科目の点数だけ辛うじて勝てることがあっても、総合成績では一度も勝つことができなかった。悔しいです」
めまいがしそうなほど、調子が狂う。ぼくは祥之助から目をそらした。
「転校するそうですが。新しい学校でも頑張ってくださいね」
平板な言葉を、投げ付けるように放った。