祥之助の頭が天井に接した瞬間。
 ゴッ!
 鈍く硬い音がした。
 痛みに呻きながら、祥之助が床に落ちてくる。黄帝珠が、チカチカと、せわしなくまたたく。
【バカな! 通り抜けられぬだと!】
 黄帝珠が祥之助を光で包んで持ち上げた。再び天井に近付いて、ガツン、と凄まじい音が鳴る。祥之助ともども、黄帝珠は再び落ちてくる。
 祥之助がぶつかる瞬間、天井や壁が発光したのがわかった。室内を舞う各色の光も、さっきより明るくなっている。
「リアさんの意志か?」
 ココロを閉ざして、祥之助を逃がさないようにしている?
 ぼくはハッとしてリアさんを見た。でも、横たわるリアさんは、まぶだを閉ざしたまま動かない。目覚めるどころか、呼吸の気配すらないのも相変わらずだ。
 祥之助が情けない声を上げた。
「痛いよ、黄帝珠。打ったところが、痛い」
 黄帝珠が笑って、祥之助をなぐさめた。
【痛いか、祥之助よ。そうか。ならば、その痛む体、放棄してみるか?】
「え?」
【その体を我が支配下に寄越せ】
「ちょ、ちょっと待て、黄帝珠! 約束が違う! きみは、ボクをサポートするだけって言ったじゃないか。ボクの心の弱いところを励ましてくれる、心の空虚な部分にきみがチカラを注入してくれる。そういう約束だ。体を譲るなんて、そんなこと!」
【致し方なかろう? ここから脱出するには、より強いチカラが必要だ。我らがチカラを合わせることが肝要なのだ】
「嘘だ、やめてくれ……ボクは正式な預かり手ではないから特別なチカラなんてないんだって、黄帝珠、きみがそう言ったんだぞ」
【さよう。ゆえに我がチカラを貸してやると、確かに言うた。しかれども、我が今、必要としておるのは、何も特別なチカラではない。祥之助よ、おぬしの生命力、使わせてもらうぞ!】
 黄帝珠が強烈に発光する。光の触手が祥之助へと伸びる。
 祥之助が頭を押さえて悲鳴を上げた。
 ぼくは顔をしかめた。黄帝珠のチカラが脳に入り込んだときの強烈な不快感を思い出す。冷たくて、おぞましかった。
 悲鳴は、あっという間に止んだ。
 祥之助が立ち上がる。笑っている。両眼が、今までとは比べ物にならないほどハッキリと、黄金色に輝いている。光る両眼に照らされて、華やかな顔立ちに異様で濃厚な陰影が描かれた。
【さあ、どうしてくれようか? すでに時間切れだ。魂珠の迷宮が崩壊を始める。その内側に閉じ込められた異物もろとも、狂い始める。唯一、我が精神のみは、人間ごときのココロの作用など受けぬがな】
「それでも、きみがここから出られないことに変わりはないでしょう?」
【ほう、生意気な。我に不可能があると思うておるのか】
「思ってます。リアさんがきみ程度の小悪党に屈するなんて、想像がつきませんしね。ジタバタしてみたらどうです? 祥之助の生命力が尽きるのが、きっと先ですよ」
【こざかしい!】
 黄帝珠が叫んだ瞬間、衝撃波が吹き荒れた。イヌワシが翼を広げて、ぼくとリアさんの核を守る。ピシピシと音を立てて、部屋じゅうにひびが広がる。
 衝撃波を受けた懐中時計が、ぼくの足下に転がってきた。文字盤が完全に暗い。黙ってそれを踏み付ける。足の下で、硬いはずの懐中時計は呆気なく砕けた。
 ざらざらとした哄笑が響いた。
【名案を思い付いたぞ、玄武! おぬしのその姿を寄越すがよい】
「何を言ってるんですか?」
【取引に応ずれば、我がチカラによっておぬしを外に出してやる。察するに、おぬしの生命力のほうが祥之助より豊富だ。迷宮の主も、おぬしの脱出を阻むことはあるまい。さあ、体を寄越せ!】
「気色悪い案を、よくぞ次々と思い付きますね。ぼくの肉体も精神も、ぼくのものだ。そうそう、ぼくの能力もね。さっさと返してもらいますよ。きみのチカラの影響は、きみを砕けば可逆でしょう?」
 ――むろん可逆だ。
 ぼくの胸元で、玄獣珠が告げた。
 ――預かり手よ、やれ。
 ――黄帝珠を破壊すれば、事は解決する。
【取引に応じられぬと言うか!】
「取引と呼べるほど、等価な条件じゃないでしょう? 誰が応じるんですか?」
【生意気を申すな! 黙ってその体を差し出せ!】
「さっきから思ってたんですが、申すという謙譲語を、他人を主語にして使うのは、やはり現代日本語としては違和感がありますね」
【黙れ! 強引に奪ってくれるわ! そこに直れ!】
「時代錯誤もはなはだしいセリフを、よくもまあ恥ずかしげもなく。それとも、マインドコントロールのつもりで言ってました?」
 黄帝珠が、祥之助の顔でニタリと笑った。歩み寄りながら指差す先に、眠るリアさんがいる。
【ならば、生意気な玄武ではなく、宿主の核を操ろうか? 眠りから覚め、我を受け入れよ。ほかの誰にも目をくれず、我を愛せ。こやつの目の前で、睦《むつ》み合ってみせようではないか】
 目に見えない波動がリアさんの核に押し寄せる。その圧力を肌で感じた。
【やめろ!】
 自分から波動が噴き出すのも感じた。二つのチカラがぶつかり合った。衝撃が、風のように大気を揺さぶる。
 ぼくは黄帝珠の進路に立ちはだかった。すぐ背後に、リアさんの核がある。
「これ以上、近付くな」
【では、先にこの部屋を破壊してやろう! 堅き守りを破壊した上で、宿主の核を、ほしいままに扱ってくれる!】
 黄帝珠を中心に、破壊の波動が吹き荒れる。揺れに耐えかねて、ぼくは膝を突いた。
「どこまで根性の腐った石ころなんだ!」
 色とりどりの小さな光が、波動に撃ち落とされる。床も壁も天井も、ビシビシと激しくひび割れを起こした。
 すきま風が吹き込んでくる。乾いて冷たい風だ。哀しい、と鳴りながら、ひびの割れ目から風が吹いている。
「哀しい、ですか」
 静かな風だ。
 自分の身に降りかかる苦しみにも、まっすぐな怒りの涙を流してきた。そんなリアさんの哀しみって、何だろう?
【結局、ぼくにも見せてくれないんですね。ココロの奥底で、独りきりで、何に哀しんでいるのか。呼び掛けているのに、どうして眠り続けているのか。あなたの孤独が、ぼくには寂しい】
 思念がこぼれた。
 黄帝珠が、祥之助の両腕を広げて天井を仰いで哄笑する。
【久方ぶりに、大いにチカラを振るうておる! 心地よい! 体があるとは、なんと自由で心地よいことか!】
 祥之助の両足は、揺れる床から浮き上がっている。黄帝珠が念じるだけで、巨大なチカラが放出される。
 ココロの部屋に亀裂が入る。時間がない。
「どうして目覚めてくれないんですか?」
 つぶやく声が震えた。
【ぼくでは、落第点ですか? ぼくなら合格って、リアさん、言いましたよね? ゲーセンで、ぼくの手を握って、合格って言ったでしょう? からかってただけですか?】
 パラパラと、漆黒の破片が天井から降ってくる。床が揺れる。
 黄帝珠が吠える。衝撃波。イヌワシが羽根を散らし、血を流しながらも、ぼくとリアさんを守ろうとして翼を広げ続ける。