螺旋階段を下りる。どんどん下りていく。
またショーケースの様相が変わった。小さな刷毛《はけ》や細いペンが丁寧に並べられている。その正体が、最初はわからなかった。
「メイク道具ですか?」
「海ちゃん、何で疑問形?」
「あまり見る機会がありませんから」
「そういやそっか。大都高校って男子校だし、親元離れてるし、自供を信じるなら、彼女もいないわけだし」
煥くんがフォローを入れてくれた。
「オレもわからなかったぞ。ファンデーション? のコンパクトを見て、やっとわかった」
「あっきーもそんなもんか~。ま、鈴蘭ちゃんは化粧してないしね」
「どうしてそこで鈴蘭の名前が出てくる?」
煥くんは心底不思議そうだ。鈴蘭さんの恋路は、きっと険しくて長い。
「姉貴がメイクに手ぇ出したの、割と早かったと思うよ。髪をいじったり染めたり切ったりもしてた。変身願望があったんだって。で、その延長線上で美容師免許を取った」
首から上だけのマネキンが並んでいる。いろんな髪型、髪の色。このゾーンは、着せ替え人形や子供服のゾーンより色味が強い。
「リアさんの顔を最初に見たとき、化粧が上手だと思いました。顔立ちの左右の誤差をうまく修正している。ぼくなりに、顔のパーツの座標には理想値があるんです。それにかなり近い値でしたね。化粧する前から、もともと、いい感じの値の持ち主なんでしょうけど」
つまり、と煥くんが要約した。
「好みの顔だったってことか?」
一瞬、息を吸おうとしたのか吐こうとしたのか、混乱した。その結果、ゴホッと咳き込む。
「ちょ、な、何でそういう……」
「違うのか?」
「違いま……せんけど、いや、何かちょっと途中経過が省略されすぎている気がしますが」
好みの顔。
そうだったのか。リアさんを美人だとは思っていたけど、それ以上だったのか。だから、最初からあんなに印象が強かったのか。
理仁くんが喉を鳴らして笑った。
「おれ見たらわかると思うけど、姉貴も素で美形だよ? 化粧落としても、ちゃんと目がデカいし、まつげ濃いし。キリッとしたとこだけ、なくなる感じ。二重の幅が広いから、ふわっとして、ちょい眠そうな顔になる」
「別に、そういう説明をしてもらう必要はないと思うんですが」
「それなりに前説があったほうがよくない?」
「何の前説ですか?」
「え、そりゃ、そーいう夜を過ごすことになった場合の」
【そーいう夜って生まれたままの化粧も覆いもない姿で愛を情熱を欲……】
シャットダウン!
ぼくは顔の熱さを無視して、冷静なふりをした。
「地雷を踏みましたが、止め方も覚えました」
「みたいね~。そもそも、あんまり声を洩らさなくなったよね。あっきーの『好みの顔』発言で暴発するんじゃないかと期待したけど」
いちいち聞かれてたまるものか。
メイク道具とヘアスタイルのゾーンを抜けると、階段が尽きた。くすんだ色のドアがある。
イヌワシがドアノブを翼で示した。煥くんがドアノブに手を掛けて、回した。鍵もかかっていない。
ドアを開けると、長い長い廊下だった。はるか向こうにドアがある。
廊下は、壁にも天井にも、ランダムに人物写真が貼り付けられている。赤ん坊、幼児、小学生、中学生、高校生。年齢はバラバラだけど、彼の正体は見間違いようもない。
「おれ、だ……」
圧倒されたように、理仁くんが後ずさった。朱い目を、じっと凝らしている。
煥くんが先に立って歩き出した。
「すげぇな、この数。さっきの階段の人形の比じゃねえ。何枚あるんだか」
理仁くんが、ため息をつくように言った。
「19,419枚」
「枚数、見えましたか?」
「重なって下敷きになってるやつもあるけどね。表に見えてるぶんだけで、19,419枚」
理仁くんは下を向いて歩き出した。ぼくは彼の隣を歩く。
写真は、笑顔が多い。キョトンとした表情もある。素直な表情を撮影してあるんだと感じた。
「きみが生まれてから今まで、一日約三枚のペースですね」
理仁くんが力なく笑った。
「この空間、めっちゃキツい。おればっかじゃん。姉貴の影もなくて、ほんとにおれだけ。おれ、どんだけ姉貴の中のスペース食ってるわけ? 何でこんな……おれの存在、重すぎんだろ? どこまで重たいお荷物だよ?」
泣き出してもおかしくない自虐を口にしながら、理仁くんは笑っている。ぼくの前にいる理仁くんは、写真の中の彼とは違う。
煥くんが足を止めた。自然と、理仁くんもぼくも立ち止まった。
「オレには、実の姉はいない。でも、姉と呼んでいいくらいの幼なじみがいる。兄貴の彼女なんだけど、飯作ってくれたり、服選んでくれたり、面倒見てくれる人だ」
向き合って立つ。煥くんがぼくたちより背が低いことを思い出した。
「文徳の彼女って、瑪都流《バァトル》のベーシストちゃんだよね。イケメン女子ってんで、女の子からの人気すごいけど、面倒見いいんだね~」
煥くんが琥珀色の目で理仁くんをにらんだ。
「無理して笑うなって言ってんだ。ここにある写真みたいに、普通に笑えるときに笑え。姉っていう人は、弟には想像もつかないくらい、わかってる。背負ってくれてる。だから、背負われろよ。姉っていう人をいたわるのは、弟じゃない男だ」
「痛ってぇな~。それ言われると、すげぇ痛い。正しすぎて、何も言えないね」
理仁くんは、へたり込むように、しゃがんで下を向いた。リアさんと同じ色の髪。その頭の上に、イヌワシが肩から移動していった。
「兄貴と、姉貴みたいな人と。年上だからって、その二人に背負われるのは、オレも心苦しかった。だけど……」
「あー、うん、わかってる。ここは素直になったがいいのは、わかってる。甘えりゃいいんだってことは重々承知。姉貴がそれを望んでんだってことくらい、わかってるつもりなんだけど」
ぼくは理仁くんの頭上からイヌワシを抱え上げた。軽い。質感も質量も、まるっきりぬいぐるみだ。
「弟としてではなく、別の関係で、リアさんと出会いたかったですか?」
即答が来た。
「絶対無理」
「無理って、どうして?」
「あんな強烈な女、他人だったら絶対無理」
「そんな言い方は……」
「海ちゃん、すげぇ度胸あるよ。よくあんな強烈な人、女として見れるね~」
「いやあの何をまた……」
イヌワシがぼくの手を抜け出して、理仁くんの頭を翼で打った。リアさんのナイトのような存在なんだろうか。ぼくが贈ったぬいぐるみが?
理仁くんが立ち上がって、顔も上げた。脱力した感じに笑っている。
長い廊下を行く間、ほとんど無言だった。次の部屋への扉に至る直前、唐突に理仁くんが言った。
「あっきー、さっきの話だけどさ。姉をいたわる男は弟じゃない、っての」
「ああ」
「謎が解けた感じがした。おれと姉貴の関係、ちゃんと見えた。サンキュ」
話はそこで途切れた。
煥くんが、次の扉を開けた。
扉の向こうは白い廊下だった。病院だ。白いリノリウムの床に、道案内のカラフルな矢印が描かれている。
理仁くんがピンク色の矢印を指差した。
「入院病棟だよ。おれらが向かう先」
イヌワシとともに、理仁くんが先頭を歩き出した。
角を曲がると、リアさんが立っていた。白いパンツスーツ姿で、キッチリと髪をまとめている。
「二年くらい前の姉貴だ。あのスーツ、病院に行くときはよく着てた」
リアさんは、一つの病室の扉をにらんでいた。何かをつぶやく形に唇が動くけれど、音は聞こえない。病室の表札を平手で叩いて、こちらに背を向けて歩き出す。ハイヒールの早足で、白い廊下を遠ざかっていく。
煥くんが理仁くんに訊いた。
「誰が入院してんだ?」
「おふくろ」
「病気か?」
「植物状態ってやつ。問題なく生命活動してるし、目も開いてるし、座らせたり立たせたりもできるんだけど、意識が戻らないんだよね。病気が原因でも事故の後遺症でもなく、そんなふうになっちゃってさ~。ね、朱獣珠?」
不吉に速いリズムで、朱獣珠が脈打っている。そこに同期した玄獣珠も、おそらく白獣珠も、身震いをしている。
朱獣珠が訴える。
――いくつもの命を手に掛けた。人の命さえ手に掛けそうになった。
――苦痛。禁忌。罪悪。
――しかし、如何ともできない。
願われて代償を与えられたら、条件を成立させねばならない。宝珠の宿命にとらわれた朱獣珠が哀れだ。
リアさんを追って歩き出しながら、理仁くんは笑った。乾いた笑いは、つらければつらいほど出てくるんだろう。
「確かに代償として、おふくろはこんなふうになった。でも、親父が願ったわけじゃねぇんだゎ。おふくろ本人なの。学園経営がすげー財政難に陥ってさ、そしたら、おふくろ、自分で願った。自分の身はどうなってもいいから、って」
なぜ? 自分を犠牲にしてまでも財産を守りたかった?
理仁くんは懐中時計を取り出して、文字盤に視線を落とした。ぼくの位置からも文字盤が見えた。半分以上が暗転していた。
煥くんが遠慮のない口調で言った。
「母親、自殺か?」
理仁くんが肩をすくめた。
「かもね。でも、朱獣珠は命を奪わなかった。こいつ、平和主義者だから、本能的にそれを回避したんだと思うよ。命を奪わずに済む範囲でしか、願いを叶えなかった。で、おふくろは、五十歳の眠り姫ってわけ」
【絶望? 強迫観念? 刷り込み?】
「たぶん、全部だね。あんなのが旦那だったら絶望するし、次の代償を探さなきゃって強迫観念もあっただろうし、生活に困ったら何かを代償にって刷り込まれてただろうし」
理仁くんの母親は怯《おび》えていたんだろうか。ペットの次に夫に殺されるのは自分だ、と。
それとも、望んでいたんだろうか。どんな形でもいいから早く夫から解放されたい、と。
「理仁の母親は、理仁やリアさんを連れて逃げようとはしなかったのか?」
ぼくもそれを思った。でも、できなかったんだろうという想像もつく。一般的な家庭内暴力であっても、配偶者から逃げ出せる被害者は少ない。
理仁くんが肩をすくめた。
「平井のおっちゃんが言ってたんだけどさ。運命は、可能性の枝をたくさん持つ樹みたいなもんだ。でも、枝分かれのポイントは限定されてる。どうあがいても変わらない部分もある。親父が腐ってんのは、変わらない部分。おふくろが弱いのもそう。宿命って呼ぶんだって」
「別の一枝も同じなのか?」
「あっきー、何でそんなん訊くの?」
「平穏なのが宿命の枝があれば、そっちに行きゃいい。見てくるだけでも、気分、違うだろ」
煥くん自身がそうしたいのかもしれない。よその一枝の自分が、この自分より幸せであるなら。入れ替わりたいわけではなく、ただ見てみたい。その言葉はキレイだ。
でも。
「そんな一枝は、ないに等しいと思いますよ」
総統から聞いた話のほうが説得力がある。
「ないって、海ちゃん、何で?」
「平和な自分を本当に見てしまったら、入れ替わりを望みますよ。結果、対象の二本の枝は生長を阻害し合う。入れ替わりではなく、呑み込みが起こる。あるいは、両方の枝がともに消滅してしまう」
そもそも、平和な一枝の存在確率はきわめて低い。多数にあるという一枝は、もとは一本からのクローンだ。同じ宿命を持ち得る可能性のほうが圧倒的に高い。
煥くんが、ふっと息を吐いた。笑いを洩らしたらしい。
「希望を持たせねぇんだな。あんたらしくて、かえって安心する」
煥くんの言葉に、ぼくも少し笑った。
「宝珠のチカラを使えば、一枝に干渉できるでしょうね。別の一枝を引き寄せたり、この一枝の過去に戻ったり。でも、そこでぼくたちのできることは、壊すことだけですよ。万物は法則性と均衡の上に成り立っている。それを壊すだけが、強すぎるチカラの宿命です」
だよね~、と理仁くんが抑揚もなく言った。
ぼくたちとリアさんとの距離が縮まらない。途中からぼくたちは小走りになっていた。それでも追い付けない。同じ空間を、ぐるぐると回っている。
「何がしたいんだよ、姉貴?」
髪を掻きむしった理仁くんに、煥くんが問い掛けた。
「リアさんって、友達いるか?」
「姉貴の友達? ん~、仕事仲間とか、連絡取ってる同級生とか? SNSで友達にする範囲の人はいるよ、もちろん。でも、あっきーが言う友達って、もっとガチの意味?」
煥くんがうなずく。理仁くんはかぶりを振った。
「少なくとも、おれは知らねえ」
「彼氏は?」
「いたことなくはないかもしれない気がする」
「……今は、いないんだな?」
「彼氏なんて紹介してもらったことはないね~。恋バナも聞いたことないし、噂も知らない。フツーに考えて、過去にはいたんじゃないかと思うけど。で、何で急に? 彼氏いますかって、海ちゃんが訊くならともかく」
【一言、余計です】
煥くんはかすかに笑って、すぐに真剣な目をした。
「さっき、リアさんは兄貴に似てると思った。兄貴の彼女にも似てると思った。でも、オレにも似てるとこがある気がする。オレと同じで、自分の見せ方がわからねぇんじゃないかって。だから、リアさん自身、この廊下で迷っちまってんじゃないかって」
角を曲がったら、リアさんが立ち止まっていた。
そこは行き止まりだった。突き当たりの壁に、大きな油絵が掛けられている。白とグレーの濃淡で表された花束の絵だ。
ぼくたちも立ち止まった。
しなやかに澄んでまっすぐな声で、煥くんは淡々と語った。
「オレには歌があって、バンドがある。オレが詞を書くんだ。言葉、あんまり知らなくてさ、書くたびに怖いんだぜ。兄貴たちが受け入れてくれなかったら、って。でも、いつも大丈夫なんだ。オレは歌うことで、自分を見せられる。それが許されてる。奇跡みたいだ」
おそらく多くの人が、煥くんと同じだ。自分を見せることに戸惑う。自分を見せていい範囲を測れずにいる。あるいは、自分を見せる方法を知らない。
近付くにつれて、リアさんの表情がハッキリわかってきた。怒っている。高ぶる感情のあまり、涙を流している。
「オレにとっての歌が、今苦しんでる人にもあればいいのに。オレにとっての兄貴やバンドみたいな存在に、殻に閉じこもってる人も気付けたらいいのに。他人のことは、よく見えちまうんだよな。自分のことは全然わかんねぇくせにさ」
煥くんは静かにそう言って、ぼくと理仁くんを振り向いた。
ぼくはリアさんを見つめた。
【正直な顔は初めてだ】
美しい、と思った。
【ギリギリの表情をしたあなたはキレイだ。強がりも愛想笑いもいらない】
あふれ出る声を、ぼくは敢えて止めない。
心で感じるままに言葉をアウトプットするなんて、普段のぼくにはできない。そんな能力を持たないし、見栄やポーズが邪魔をする。
でも今は、この上なく率直な声が、ぼくにある。
【あなたはいっぱいいっぱいな状態で、そのくせ笑ったふりをしていた。怒りを率直に表すことは、苦しいでしょう? でも、その表情こそ美しいと思った。もっとちゃんと見せてほしい】
思い上がりを許してください。
煥くんの言うとおりだ。自分の見せ方を知って、自分を見せてしまうと、怖い。リアさんの前に見せる自分が、リアさんに受け入れられるのか。
ぼくは、ずるくて弱い。
【絶望、強迫観念、刷り込みにとらわれたのが、あなたじゃなくてよかった。ごめんなさい。でも、あなたが生き生きと怒りを燃やせる人で、よかった。あなたが生き続けることを選ぶ人で、よかった。傷だらけでも、生きていてくれてよかった】
突然、リアさんがぼくに近付いてきて、こぶしを固めて振り上げた。
避けることはできた。その手首をつかむこともできた。
でも、ぼくは。
「…………ッ!」
ぼくの胸を叩くリアさんのこぶしを、ぼくはそのまま受け止めた。息が詰まる。
【傷付けたければ、そうしてください。ぼくでよければ、怒りでも悔しさでも、ぶつけてください】
自分の見せ方が不器用なあなたと同じで、ぼくは、あなたの受け入れ方をよくわからない。だから、できることを全部したいと思う。
【今のぼくにできることは本質的な解決にはつながらない。無力で、ごめんなさい】
あなたは独りじゃないんだと、どうすれば伝わるだろう?
唐突に背後から轟音が聞こえた。振り返る。
ゴウッと音をたてて、水が押し寄せてくる。廊下が、まるで水道管だ。膨大な量の水が迫ってくる。
「下がれ!」
煥くんが水の来るほうへ飛び出した。片膝を突いて、床に両方の手のひらを触れる。手のひらが白く光り出す。
白い光は障壁《ガード》だ。面を為す光が、床から天井へと垂直に展開する。
「四角は難しい」
煥くんがつぶやく。以前に見た障壁《ガード》は、三次元構造に対応しやすい正六角形だった。それが原形なんだろう。
床から天井まで、壁との隙間もなく、ぴっちりと障壁《ガード》が廊下をふさいだ。次の瞬間、水が、白く発光する面に到達する。
水は障壁《ガード》に触れる前に、シュワシュワと蒸発する。いや、分子分解されているんだろうか。理仁くんが、白い光越しの水に目を凝らした。
「水が98%、あとは、生体由来のタンパク質とリン酸とか。弱アルカリ性。たぶん、その水は涙だ」
頭に軽い衝撃を感じた。イヌワシが翼で打って、ぼくの注意を引いたらしい。彼は白い花束の絵へと飛び、その左辺の一点を押した。
絵が、向こう側へと開いた。
「隠し扉!」
煥くんが障壁《ガード》を維持して正面を向いたまま叫んだ。
「先に行け!」
「あっきーは?」
「リアさんが一緒に向こうに行けるようなら、オレも行く」
ぼくは、白いパンツスーツ姿のリアさんを見た。リアさんはかぶりを振った。
後ろ姿の煥くんは、状況を察したらしい。
「この病院の空間から、このリアさんは出られねぇんだろ? ほっとけねえ。こんな量の涙に呑まれて、平気なわけがない」
理仁くんが唇を噛んだ。絞り出すような声を震わせた。
「イケメンすぎるってば、あっきー。海ちゃんもだよ。おれだけじゃ全然ダメじゃん。おれ、姉貴にそんな優しい言葉、かけてやったことないよ。姉貴がすぐ隣できつそうにしてんの知ってても、どうすりゃいいかわかんねーもん」
リアさんが少女のように顔を覆って泣き出した。泣き声がぼくの胸を刺す。理仁くんがリアさんの頭を撫でた。
「姉貴、ゴメン」
悔しい、と聞こえてきた。リアさんの声だ。
――許しておけない現実を、変えられない。チカラがない。
――そんな自分が悔しい。
――誰よりも何よりも激しい怒りの対象は、わたし自身。
怒りの涙に泣き崩れるリアさんを前に、ぼくは為す術がない。
煥くんが再び言った。
「先に行けって。しばらくはこうしていられる。力尽きるまで、オレはここで防ぐから。さっさと行けよ!」
ぼくと理仁くんはうなずいた。後ろ髪を引かれながら、イヌワシに続いて隠し扉をくぐった。
ぼくの背後で隠し扉が閉まった。
目の前に、ぼくと理仁《りひと》くんとイヌワシがいる。鏡だ。一枚だけじゃなく、何枚も、何枚も、数え切れないくらいの鏡がある。視線を感じて見上げると、低い天井も鏡だった。
「ミラーハウスですか?」
部屋と呼ぶには狭すぎる空間。廊下と呼ぶには短すぎる奥行き。突き当たりまで進んで角を折れると、また鏡だ。すべての選択肢が行き止まりに見えた。
「右斜め前方、通れるよ」
理仁くんが指差して、先に立って歩く。そうか、ぼくの能力を使えば、光の反射を利用した錯視は簡単に見破れる。
「お株を奪われた気分です」
「さっき、おれの声を使いこなしてた海ちゃんが言う?」
「声が止められなかったし、止めるべきではないと思いました。チカラに頼らないと言えないなんて、情けないんだけどね」
「やっぱ海ちゃん、姉貴のこと好きでしょ?」
「それは、いや……恋というものを、したことがないんです」
【胸が痛くて苦しい】
理仁くんが急に、低い鏡の天井を向いて声を張り上げた。
「とのことですよ~、姉貴! かわいい年下男子にキッチリ教えてやんなよ~」
「な、何言ってるんですか!」
思わず理仁くんの肩をつかむと、振り返った理仁くんはニヤッとした。
「ま、歩きながら話しますかね~」
鏡の迷路を、理仁くんは迷わずに進んでいく。リミットまでの時間を尋ねたら、懐中時計を渡された。残り時間は約四分の一だ。
どこを向いても、いろんな角度の自分が鏡に映っている。正確な像、歪みのある像、倒立した像。赤いライトがともされた小部屋。バラバラの人形が置かれた、合わせ鏡の空間。
【鏡への執着? リアさんも、笑顔を鏡で練習したのか?】
「それもあるとは思うけどね。でも、姉貴は、もっといっぱい鏡見てるよ。昔から髪いじるの好きだったらしいし、子どものころはバレエやってたし、けっこう早くから化粧してみてたし」
「なるほど」
理仁くんの歩みが少し鈍った。小さくかぶりを振った理仁くんは、歩くペースをもとに戻す。でも、発せられた言葉は口調が鈍い。
「あのさ、海ちゃん……あのさ」
「何ですか?」
「いや……聞いてほしい。それで、否定してほしい」
「否定?」
理仁くんの手がイヌワシをつかまえた。イヌワシが迷惑そうな顔をする。理仁くんは気に留めず、すがるようにイヌワシを胸に抱えた。
「海ちゃんはさ、物心ついたころにはもう、玄獣珠を預かってたろ? 物理的な意味で、だよ。肌身離さず、玄獣珠、持ってたろ?」
「はい」
おれは違う、と理仁くんはつぶやいた。
「親父が使う朱い珠の正体、知らなかった。怖いと思ってた。正体知ってからも、怖かったし、触れたくもなかった。身に付けるようになったのは、一年ちょい前だよ。フランスに逃げる直前。姉貴が親父のとこから盗み出して、それから」
「怖いでしょうね。大切なペットの命や、おかあさんの健康を奪っていった。その朱獣珠を自分が身に付けるなんて」
「すげー怖いよ。おれの前代の預かり手はひいばあちゃんでね、親父もさすがに手出しできない相手だった。チカラも強かったらしいし。でも、おれが生まれると、ひいばあちゃんは無力になった。親父は、ずっと狙ってた朱獣珠を手に入れた」
それはリアさんにとって八歳のころだ。朱獣珠の乱用の最初の犠牲者が、大型犬のキキだったんだろうか。
「朱獣珠はずっと、おとうさんが管理を?」
「うん。でも、おれより姉貴だよな。迷惑親父の被害に遭い続けてたのって、姉貴だ」
理仁くんは前を向いて歩いている。ぼくに顔を見せたくないんだろう。でも、まわりじゅうにある鏡が、理仁くんを映してしまう。笑みを消した無表情は、涙より怒りに近いように見えた。
「おれかもしれねぇんだよ。黄帝珠が目を覚ました理由。だって、おれ、親父のこと怨《うら》んでる。物事を実現するチカラがあるおれの声で、何度も言った。親父を怨んでる、って。黄帝珠って、怨みの宝珠だろ? あいつ、マジでおれに感応したんじゃねぇの?」
【違う!】
考えるより先に、ぼくは否定した。直感的に、本能的に、それは違うと思った。
「きみの声が怨みのチカラを発現した? そんなはずないでしょう!」
「何で即答できる?」
冷えて硬い口調は、理仁くんには似合わない。彼にそんな苦しみを強いる人を、許せない。
「ぼくたちは出会って四日目だけどね。リヒちゃんの人間性はつかんだつもりです。ぼくはきみの人間性を信じている。汚い野心のままにチカラを開放する黄帝珠とは相容れない。きみがあれを呼び起こしたなんて、理屈が通っていませんよ」
ぼくの言葉に根拠はない。主張を裏付ける計算式なんか存在しない。ここに存在するのは、理仁くんを信じたいという感情だけだ。
感情論なんて嫌いだった。曖昧で不確定で面倒で。
だからどうした。
感情論で上等じゃないか。
「海ちゃんさ、それ、本気で言ってくれてる?」
「当然です」
「万一、ほんとにおれが怨みの発生源だったら?」
「全力でフォローして帳尻を合わせますよ」
「海ちゃん」
「はい」
「ありがと」
ちょうどのタイミングで、大きな鏡の扉が行く手に現れた。扉を開けた向こうは、もう迷路ではない。ただの通路だった。
ぼくは、理仁くんから預かったままの懐中時計を取り出した。理仁くんに渡そうとしたら、押し返された。
「海ちゃんが持ってなよ」
「わかりました」
懐中時計をポケットの中に収め直す。文字盤が真っ暗になったら、一体、何が起こるんだろう? いや、考えちゃいけない。早くココロの最奥部に到達して、脱出を勝ち取るだけだ。
次の扉は、すぐそこにあった。
扉を抜けると、天井の高い、朱い部屋だ。二十五メートルほどの奥行きがあって、向こう側の壁にポツンと扉が付いている。
イヌワシが理仁くんの手から抜け出した。ふわりと宙に浮いて、向こう側の扉を目指して飛んでいく。けれど、軌道がおかしい。ランダムなジグザグに飛んでいく。
「とりあえず、追い掛けますか」
進もうとしたら、理仁くんに腕をつかまれた。
「そのへんから先、危険。無防備に突っ込んだら、死ねるよ」
「え?」
「上、見てみ」
指差された先は天井だ。ぼくは息を呑んだ。固定式のボウガンとでも表現すればいいだろうか。矢を発射させる装置が、中央、右、左の三条に整列して、こっちの端から反対側までびっしりと連なっている。
「あの仕掛けは、一体?」
「赤外線センサーに反応して、矢が発射される仕組みだね」
「物騒な。だから、イヌワシは変な軌道で飛んだんですか」
「うん。赤外線、避けて飛んでた」
理仁くんは、何もない空間に目を凝らした。力学《フィジックス》の視界には、赤外線が識別できる。今のぼくには見えない。ただ、赤外線を飛ばす装置が壁のあちこちに埋め込まれているのはわかる。
「家出したとき、でしたっけ? 赤外線を見ながら防犯カメラを無効化したのは?」
「ああ。ここには、その記憶が投影されてるかもね。壁の色、親父の屋敷に似てるし。家出しようって本気の計画を立て始めた当初、おれはビビってた。でも、姉貴はおれの先に立って、華麗にやってのけたんだ。防犯装置をぶっ壊すのも、朱獣珠を盗むのも」
「怪盗ごっこ」
「そう、それ。あんときはひたすらビクビクしてたけど、後になってみりゃ、なかなかの武勇伝だよね。ところでさ、海ちゃんって、自分の体のコントロールがうまいよね? 視界に映る数値に従って最適化した動き、ってやつ」
「ええ、得意です。それくらいできないと、その視界、メリットがないでしょう?」
「ま、ストレス多いよね~。というわけでさ、今から、おれの言うとおりに動いてくれる?」
唐突な提言に面食らった。何事かと問う前に、指示が飛んでくる。
「かがんで、頭のてっぺんの高さを129.3センチに。誤差は±3センチ以内で」
とりあえず、理仁くんの指示に従う。理仁くんの目が、ぼくを観察して計測している。
「お、高さピッタリ。右腕だけ挙げて、床との角度は55度に」
「できますよ、これくらい。突然、何なんです?」
「この部屋クリアする方法。あ、立っていいよ」
ぼくは膝を伸ばして腕を下ろした。
「リヒちゃんがぼくに指示を出して、ここをクリアさせる?」
「正解。普段の海ちゃんなら、赤外線センサーは楽勝でしょ?」
「そうですね」
「たいした密度じゃないから、口頭での指示だけでいけると思う」
「きみは?」
「おれはここで指示出すから。とりあえず、海ちゃん、先に行ってよ」
ぼくは軽く肩を回して、股関節のストレッチをした。膝と足首の関節を振って、無駄な力を抜く。
「海ちゃん、体、すげぇ柔らかいね」
「柔らかくないと、理想値どおりに動かないんです。ケガも増えるしね」
気楽に笑ってみせて、赤外線センサーのエリアに足を踏み入れた。頭上には、矢。左右の壁の装置が光を照射しているのがわかるのに、見えない。
情報不足への不安はある。それを補うのは、理仁くんへの信頼だ。
「基本、左右の壁から壁に糸が張ってある感じ。高低差はあっても、奥行き方面に斜めってるのは少ない。まず、50センチ前方に一本、高さ約120センチのがある。それくぐったら、25センチ先に、高さ40センチ」
慎重に、250mmずつ進む歩幅。不可視光の直線をくぐり、またぎ、跳び越す。
「そこ、斜めになってる二本、交差してる」
「二本の傾きを二次方程式で言ってください」
「あー、片方がy=0.3xで、もう片方がy=-1.1x」
「それの交点が、ぼくの右の人差し指から30センチ先?」
「ジャスト30センチ先」
失敗できない。汗の量がすごい。
即席の座標で確認し合う。向かって左手の壁と床の交点を原点として、センチメートル刻みの目盛がある、という想定。奥行きは、ぼくの目がある平面を0として。
「点(597, 136, 45)に三本集まってる。で、下にも一本あって、くぐるの厳しいかも。その高さ、助走なしで跳べる?」
「余裕です」
見えなくても、見えている。力を貸してくれる人がいれば、前に進める。
たった二十五メートルが長かった。凄まじい量の汗をかいて、ぼくは扉の前に至る。理仁くんが、大きな音をたてて手を叩いた。
「お疲れ~! 完璧だったじゃん!」
「リヒちゃんのおかげですよ! 早く、きみもこっちへ!」
理仁くんが両腕を広げて、肩をすくめた。力の抜けた笑い方をしている。
「おれは無理だよ。見えても、海ちゃんみたいに動けねえ。この先は海ちゃんひとりで行ってよ。いや、ワッシーがいるか。どっちにしても、姉貴によろしく」
緊張していた両膝が、カクンと折れてしまった。
「来ないんですか?」
「行けないってば。運動能力的にも厳しいし、それ以上にさ、海ちゃんには姉貴の声が聞こえないんだよね?」
「リアさんの声?」
「来ないでとか、見ないでとか、そう言ってる姉貴の声。おれには最初っから聞こえてたんだけど、ここに来て、さらに大きく聞こえるようになった。だから、おれは行けない」
「でも、そんな……」
「行きたいよ。だけど、行けねーんだよ」
理仁くんは大きく三歩、下がった。背中が扉にくっついた。理仁くんは背中を扉に預けて、座り込んだ。
「ぼくは……ぼくが、ひとりで?」
何ができるというんだろう?
「その正直な顔してれば、だいじょぶだって。姉貴の母性本能、くすぐってやんなよ。海ちゃん、姉貴のこと助けたいでしょ?」
「助けたいですよ。助けてもらって、守ってもらって。このままじゃいられない」
理仁くんが満足そうに笑った。
「持ってっていいよ、姉貴のこと。てか、受け入れてやってください。おれにはできないことだから」
イヌワシがぼくの肩を叩いた。へたり込んでいたぼくは、立ち上がる。時間がない。
「やるだけのことは、やってみます。だけど……」
発言を、途中で奪われた。
「姉貴は強いよ。その強さは、おれを守るためのものだ。だから、姉貴は、おれの前で弱くなれない。強くなきゃ、姉貴は姉貴でいられないから。でも、海ちゃんは、強い姉貴も弱い姉貴も知ってやれる。知って、受け入れてほしい。これ、おれからのお願い」
答えるためには勇気が必要だった。
「わかりました」
そう答える以外、何ができるだろう?
理仁くんのお願いの重みを、ぼくはきっと、すべては受け止めていない。受け止める資格があるのか、自信があるとは言えない。
【でも、ぼくが行かなければならない。ぼくは、行きたい】
理仁くんに背を向けて、扉に手を掛けた。何か言葉をくれるんじゃないかと思って、少し待つ。理仁くんは黙っている。
ぼくはドアノブを回して扉を押した。暗い階段が伸びる先に、漆黒の扉がある。イヌワシがふわりと飛んで、階段を下り始めた。
終着点が見えている階段が、長い。駆け下りても駆け下りても、まだ先がある。
イヌワシはすでに、いちばん下の漆黒の扉のそばにいる。ぼくだけが、いつまで経っても、階段を下り切れない。
どうして? 拒絶されているのか?
懐中時計を取り出す。暗転は、すでに三百十五度。あと四十五度で、時間切れになってしまう。
【リアさん】
願いを込めて呼び掛ける。階段全体が震えたように感じた。返事をしてくれた。そんな気がして、ぼくは再び呼び掛ける。
【リアさん!】
唐突に、ぼくの目の前にピンク色の霧が立ちこめた。驚いて足を止める。霧がぼくに覆いかぶさってきた。
甘ったるい匂いがした。香水か何かの人工的な匂いだ。一瞬ひどく濃くなった霧が、次の瞬間いきなり晴れた。
「え? リアさん?」
すぐそばに、リアさんが立っている。リアさんはぼくを見て、小首をかしげて微笑んだ。細い指が髪を掻き上げると、華奢なチェーンのピアスが揺れる。
春用の薄いトレンチコート。黒いストッキングのすらりとした脚に、赤いハイヒール。
ありもしなかった踊り場で、ぼくはリアさんと向き合っている。
何とはなしに、リアさんの様子に違和感を覚えた。違和感の原因には、すぐに気が付いた。目元が少し赤い。仕草がいくらか大げさで、芝居がかっている。
「酔ってるんですか?」
リアさんが唇に手を添えて笑った。
音も声もない。そのぶん、視覚に集中させられる。
リアさんがトレンチコートのボタンに手を掛けた。思わせぶりにゆっくりと、ボタンが外されていく。
コートがはだけられる。その内側に隠されていた光景に、息が止まる。
胸の谷間もウェストラインもあらわな赤いドレス。丈はコートよりも短くて、太ももがまぶしい。ストッキングを吊り上げるガーターベルトが、むっちりと肉に食い込んでいる。
コートが、するりと、肩から落とされた。
見てはならない。でも、見たい。
「や、やめてくださいよ、急に……」
心とは裏腹な言葉で、ぼくはいい子のふりをしようとする。
リアさんは何もかもを見透かしているかのように妖艶に笑って、ゆっくりとぼくの周囲を歩き回った。触れそうで触れない距離。朱い髪が揺れる。香水の匂いがぼくの鼻に刺さる。
ぼくは体が動かない。それどころか、呼吸さえままならない。
体じゅうが熱い。血がたぎっている。鼓動の音が耳元で聞こえる。
ぼくの正面に帰ってきたリアさんは、マニキュアが目を引く指先で、ドレスのすそを少しめくった。黒いレースの下着がチラリとのぞく。
ダメだ。
からかうように、リアさんは笑っている。片方の肩紐を二の腕に落とす。上目遣いにぼくを見ながら、腕を組むようにして胸を寄せて、もう片方の肩紐も、じりじりと肩から二の腕へ滑らせてみせる。
何なんだ、このショーは?
ぼくは一歩、後ずさった。
【やめてほしい、見たい、そんなことしないで、見たい、先を急がないと、見たい、立ち止まっていられない、見たい】
見たいのは。
ぼくが本当に見たいのは。
リアさんがドレスを脱ぎ捨てた。ストラップのないブラ。レースのショーツ。ガーターベルトとストッキング。その全部が、きらめく刺繍の入った黒。
ハイヒールで、一歩、リアさんが進み出る。ぼくはまた一歩後ずさって、背中が壁にぶつかった。
リアさんの体から目を離せない。想像していたとおりの完璧なプロポーション。その体から匂い立つ色気は、ぼくのちゃちな想像なんか、はるかに超えている。
浅はかで正直な感情が二つ、ぼくの中でせめぎ合う。今すぐ押し倒したいという衝動と、憧れが崩れていく切なさと。
酔いに赤らんだ誘惑のまなざしが、ぼくに迫る。動けずにいるぼくに、白い手が伸ばされる。
ぼくの頬に、リアさんの手が触れた。触れられた興奮に、体が震える。ぼくの切れ切れの息を楽しむように、リアさんの指がぼくの唇をなぞる。
誘い文句が、リアさんの唇によって紡がれている。その唇の動きが読めない。読唇術は得意なのに。ぼくはそれほど、動揺している。
リアさんの白い体。見下ろす視界には、魅惑に満ちたあの胸の膨らみ。
【なぜ】
リアさんの舌が、赤いルージュの唇をなめる。柔らかそうなその舌と唇に噛み付いてみたいと、ぼくの体の奥が騒ぐ。
【なぜ、こんなことを】
リアさんの両手がぼくの頬を両側から包んだ。さらに半歩、リアさんがぼくに迫った。
【見たい。だけど、ぼくが本当に見たいのは】
妖艶な笑みを前に、めまいがする。欲望に呑まれてしまいそうだ。頭が混乱する。思考と感情と理想と妄想がごちゃ混ぜになっている。
【触れたい、悲しい、触れたい、やめて、やりたい、そうじゃない、さわりたい、否定したい、誘ってる、誘ってない、誘われてる、あなたの本心は】
唇が近付く。
「違いますよね」
つぶやいたのが自分の声だと、最初はわからなかった。リアさんの怪訝《けげん》そうな目が、ごく近いところからぼくを見つめている。
「リアさん、違いますよね」
ぼくが口を動かすと同時に声が聞こえて、それが自分の声だと知って、ぼくは自分の気持ちを悟った。せめぎ合う感情の中で、より強いのが何なのかを理解した。
「こんな茶番、本心じゃないんでしょう? 今までずっとそうやってきたんですか? そうやって自分をごまかして、すり減らしてきたんですか? こんなの本心じゃないって言ってくださいよ。ねえ」
言葉にした途端、悲しくて、鼻の奥がツンとした。憧れの人が知らない誰かに触れられたのだと思うと、つらい。腹立たしくて、悔しくて。
それが大人の遊びだったとしても、本気の恋じゃなかったとしても、大事なものをけがされた気がして、ぼくの胸に身勝手な悲しみが湧いてくる。
「媚びを売るふりで本心を隠して、そのキレイな体を安い遊びに使って、寂しさや悲しみをまぎらわす手段だったとしても、もうやめてください。似合いません。それに、ぼくを……ぼくまでも、そんな嘘に付き合わせないでください」
リアさんの顔から、笑みが消える。怯《おび》えるように見張られた目に、ぼくが映り込んでいる。
こんなに距離が近い。抱き寄せることも押し倒すことも簡単だ。
ぼくは衝動を殺している。必死で殺している。流されたくない。今だけは、絶対に、流されてはいけない。
「ココロの奥まで見られたくないって、リアさんのその気持ちもわかります。わかるからこそ、今だけ見せてほしい。必ず大切にしますから、ぼくだけ許してください」
夜のドレスをまとったリアさんが男の目を美しい体へ向けさせるのは、きっと隠れ蓑《みの》だ。その本心から相手の目をそらすための武器なんだと思う。
「過去に何度、そんなふうにごまかして、誘惑してきたのか。人数や回数なんて、ぼくにはどうでもいいんです」
少し嘘だ。口にした瞬間、自分の言葉が胸に突き刺さって痛んだ。でも、その痛みは、はるかに小さい。ぼくのいちばん強い望みを黙殺される痛みより、ずっと小さい。
「ぼくを惑わさないでください。きちんと、あなたと向き合わせてください。未熟なんです、ぼくは。一つひとつ組み上げていかないと、理解できないんです。教えてください。一つひとつ順を追って、ごまかさずに。あなたの力になるための方法を、ぼくに教えてください」
【だから、その姿で、ぼくに迫らないで。あなたをメチャクチャに壊してしまいたくなる。そうだ、メチャクチャにしたいのも本心。あなたの過去が悔しくて、全部、上書きしてしまいたい。塗り替えてしまいたい。あなたをぼくだけのものにしたい】
抑え切れない浅はかな感情が、音のない声になってあふれ出す。チカラの使い方がわからないぼくの声は、実現性を持たない。ただ、ぼくの心を正直に映し出す鏡のようなもの。ぼくの理性は、ギリギリのところにしがみ付いている。
リアさんが、不意に笑った。
「かわいい」
「え?」
「でも、生意気よ」
「す、すみません」
「あやまちを繰り返せるほど、わたしはタフじゃないの。むなしくなるだけだった。寂しさもいらだちも、少しも埋まらなかった」
リアさんがぼくの胸に額を寄せた。
【聞かれてしまう……鼓動を】
「生ぬるい親切も同情も、いらない。下心で近付くなら、そうと言われるほうがマシ。わたしは、嘘をつかれるのが嫌いなの。自分が嘘つきなくせにね」
嘘と強がりは、同じではないと思う。リアさんは強がっているだけだ。
顔を伏せたまま、リアさんがクスクスと笑った。
「きみ、気が利かないわね。こういうときは、肩くらい抱いてよ」
「へっ?」
面食らった次の瞬間、ピンク色の濃い霧に包まれた。思わず目を閉じるほど、濃密な香水の匂いがした。
突風が吹いて、霧と香水が飛ばされる。目を開けると、ぼくは階段に一人で立ち尽くしていた。
「幻?」
リアさんも、脱ぎ捨てられたコートもドレスも、ない。ここは踊り場ですらない。
鼓動はまだ速い。体の興奮は収まっていない。
ぼくは階段にしゃがみ込んで顔を覆った。なまなましすぎた。今さらになって、かなりヤバい状態だったと気付く。
「むちゃくちゃだ、あんなの……」
難易度の高すぎる試験、クリア条件の厳しすぎるステージ。
流されて溺れなかったのは、ほとんど奇跡だ。ちょっとでも違うスイッチが入ってしまったら、完全にアウトだった。
漆黒の扉のそばにいたイヌワシが、ぼくのところまで戻ってきた。翼で繰り返し頭を打たれる。
「ごめんなさい、わかってますって」
だけど、あとちょっと待って。熱すぎる顔を上げられない。誰が見ているわけでもないけど、手のひらをどけられない。
リアさんには全部感知されているんだろうか。やましいところだらけだ。
さっき、どさくさまぎれに何て言った?
【あなたをぼくだけのものにしたい】
本音だった。リアさんに対して、その気持ちが百パーセントなのかどうかはわからない。でも、少なくとも、ぼくにそういう一面もあるのは確かだ。
恥ずかしくて、苦しくて、くすぐったくて、痛い。ざわついて仕方がない場所は、頭なのか胸なのか、もっと体の奥なのか。どこを押さえても収まらなくて、どこかが熱く騒ぎ続けている。
今、どうすればいいのか、わからない。答えが出なくてじれったい。叫び出したいくらいに。
漆黒の扉の前に立ったときから、ここが最奥部だと感じていた。扉を押して開く。ぼくはその部屋に足を踏み入れる。
壁も床も天井も黒曜石でできているかのように艶めく漆黒の部屋だ。
赤、青、黄、緑と、さまざまな色の淡い光が、ふわふわとただよっている。光が偶然、重なり合えば、そのときだけ少し強い輝きが現れる。
淡くない、ぎらついた光がある。けばけばしい黄金色が、部屋の中央で異質な存在感を主張していた。
「遅かったな、阿里海牙。しかも、おまえひとりか?」
祥之助は、浮遊する黄帝珠の破片を王冠のように頭の周囲にまとって、仰々しく巨大な椅子の上で脚を組み直した。椅子のデザインに見覚えがある。懐中時計と同じゴールドで、バラと宝石がしつこい。
ぼくは声を張り上げた。
「核への到達は全員でなければならない、との条件はなかったしょう? 制限時間内に、ぼくはここに至りました。このゲーム、ぼくたちの勝ちです」
ポケットから取り出した懐中時計の文字盤は、三百五十度以上が暗転している。ぼくはそれを祥之助のほうへ放った。無駄のない放物線を描いて、懐中時計は祥之助の手に収まる。
祥之助が鼻で笑った。
「気の早いやつだ。この部屋は確かにココロの最奥部だが、ここ全体が核というわけじゃない。核は、これだ」
これ、と示されたのは黒い直方体だ。長辺1,800mm×短辺550mm×高さ1,200mmと、おおよその寸法を目測する。
祥之助のそばにその直方体があることには、最初から気付いていた。その正体が何なのか、近付いてみて初めてわかった。
まるで棺《ひつぎ》だった。
「リアさん……」
直方体の中で、黒衣のリアさんが仰向けに横たわって目を閉じている。胸の上で両手の指が組み合わされた姿勢だ。じっと見つめる。呼吸をしている様子がうかがえない。
ぼくはとっさに、リアさんに触れようとした。無駄だった。透明度のきわめて高い素材から成る蓋が、直方体にぴったりとかぶせられている。
ざらざらと不快な声が哄笑した。
【ココロの核は、おおむね堅く閉ざされておる。このココロの主は殊《こと》に守りが堅い。おぬしらを最奥部へ近付けぬ迷宮も、ひどく入り組んでおったのう。しかも、侵入者を惑わす仕掛けだらけだった】
高みの見物をされていた、というわけか。
「最低な趣味ですね」
【ほざけ、駄犬が】
「石ころの戯言に付き合う暇はない。要するに、核に到達するための条件は、この蓋をどけることと解釈していいんですね?」
蓋と呼んでみたけれど、密閉されている。二種類の無機物で継ぎ目のない箱を構造させるなんて、どんな組成になっているんだか。
不意に、皮肉な気分が胸に差して笑いたくなった。力学《フィジックス》の目を保ったままなら、ぼくがここまで来るのは無理だったに違いない。ココロの矛盾にばかり意識が行って、大事なものを見なかっただろう。
祥之助が椅子に掛けたまま、伸ばした脚のつま先で、黒い直方体をつついた。
「やってみなよ。メルヘンのワンシーンを演じてみるがいい。王子が、眠れる姫君を目覚めさせるシーンだ」
祥之助の足を、ぼくは踏み付けた。涼しい笑顔で告げる。
「きみはメルヘンの再現を演じたことがあるようですが、本末転倒を自覚していますか?」
「痛い痛い痛いっ!」
「姫君に呪いを掛けた魔法使いと、眠りの呪いを解く王子の、一人二役。たいした道化ですね」
悲鳴がうるさいから、ぼくは祥之助の足を解放した。祥之助が涙目でぼくを見上げる。
「おまえ、ボクに暴力を……!」
「振るいましたが、それが何か?」
「野蛮人!」
「テストの点数で競ってもかまいませんよ?」
「が、学年が違うじゃないか!」
「ぼくの一昨年の成績を、きみは去年、超えられなかった。そういう話なんですが」
祥之助の涙目に黄金色が宿っている。怨《うら》みの感情は、淀んだ黄色。この色が、まさしくそれなのか。
「ボクは、負けてはならなかったんだ。それなのに、おまえがいた。おまえさえいなければ……!」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。ぼくもね、きみのわがままに振り回されるばかりじゃいられないんです」
言いながら、ぼくはすでに祥之助を見ていない。眠るリアさんを、透明な蓋越しに見つめている。
イヌワシが蓋の隅に降り立った。生意気な目を閉じて、じっと動かなくなる。
直方体のあちこちに手のひらで触れてみた。冷たい。軽く叩いてみる。結晶の集合密度が高いようで、音が響かない。びくともしない。
祥之助が鼻を鳴らした。
「無駄だと思うね。こんなに堅固な棺は初めて見た」
「棺?」
ハッキリとそれを声に出されると、カッと頭に来た。誰のせいでリアさんが眠らされたと思っているんだ?
ぼくはリアさんの眠る箱を揺さぶってみた。いや、揺さぶろうとしたけれど、無理だ。
「だから、言ってるじゃないか。その程度で開くわけがない。ボクが黄帝珠のチカラで以てさんざん叩いても、壊れなかったんだ」
ザワリと、髪が逆立つように感じた。瞬間的に感情が沸騰した。
ぼくは正面から祥之助をにらんだ。
「彼女に触れようとしたんですか。その小汚い手で」
「おまえはこの女の恋人でも何でもないだろう? 単なる片想い。おまえはこの女に、ボクより先に触れたいと望んでいる。ただそれだけだ」
ぼくは、暴れたくて震えるこぶしを固く握りしめた。
「ゲスな勘繰りをしたければ、勝手にどうぞ。これ以上、きみにかまってやるつもりもない。あの時計が示すのは、この迷宮の存続時間か、ぼくたちの滞在可能時間なのか。いずれにせよ、もう時間があまりないはずだ」
黄帝珠が応えた。
【異物の滞在可能時間、および、宿主のココロの安定時間。それを過ぎれば、両者ともに、精神崩壊へと向かう】
「そう、あと少しでタイムリミットだったね。どうするつもりなのかな、阿里海牙センパイ? 愛の言葉でも掛けてみるか? 理系では成績トップでも、ロマンスを語るための文才がどの程度なのか、見ものだな」
なるほど、文天堂祥之助は天才だ。ぼくの感情をこれほど見事に逆撫でしてくれるとは、何たる才能の持ち主なんだろう。
「繰り返しますが、きみにかまうつもりも時間もないんですよ」
「この迷宮を現出させたチカラの持ち主たるボクらとの会話の中に、ゲームクリアのヒントがあるかもしれないぞ。ないかもしれないが」
「……ロマンスを語る文才は持ち合わせていませんね。大げさな表現もクサい比喩も嫌いです。言葉は、正確さを期することだけ心掛けています」
だから今も、正確な言葉を選んで使うことにしようか。
ぼくは息を深く吸って、言葉とともに吐き出した。
「【黙ってろ、ゲス野郎! その汚い口、しばらく閉ざしてろ!】」
祥之助が目を剥いた。口は動かない。頬の筋肉がひくつく。
号令《コマンド》だ。チカラの込め方がわかった。
【離れろ】
祥之助が、見えない腕に引きずられるように、一歩二歩と後ずさる。
息を止めろとでも命じたら、どうなるんだろう? チラリとそう思った瞬間、祥之助の頭上の黄帝珠が声を轟かせた。
【こざかしい! この程度のチカラで、我らを制御したつもりかッ!】
その声は、衝撃波だった。
黄帝珠を中心として噴き出した圧力に、ぼくはよろける。ビリビリと部屋全体が揺れた。ただよう淡い光が、いくつか割れて砕けた。
「宝珠が、単独でチカラを使った?」
【驚いておるのか、玄武よ。無理もない。おぬしの玄獣珠は無能に沈黙しておるからな。しかし、我、黄帝珠は違う。物理的な制約を受けぬココロの世界では、思うままにチカラを使えるのだ】
哄笑が再び衝撃波を生んだ。
ピシッと、ひびの入る音がした。天井だ。
祥之助が懐中時計を掲げた。黄金色の両眼が爛々《らんらん》と光っている。ニタリと笑う口が開いた。声が回復している。
「体感時間にして、残り一分か二分ってところかな? この女、リミットまでの時間は長かったよ。もっとさっさと壊れ始める人間のほうが多い。さて、時間が来たら、ボクらは外に出る。ほら、無駄話をしているうちに、もうすぐその時間だよ、阿里海牙センパイ?」
近寄ってきた祥之助がぼくに懐中時計を突き付ける。暗転した文字盤に、ごく細い一条の黄金色。
ぼくは懐中時計を受け取らず、祥之助の胸倉をつかんで持ち上げた。怒鳴り付けたいのを押し殺して、低く尋ねる。
「文字盤をもとに戻す方法は?」
「は、離せ、無礼なっ」
「ぼくの質問に答えろ。文字盤をもとに戻す方法はあるのか、ないのか?」
祥之助の瞳孔が、黄金色の異様な光の奥で、広がったり縮んだりした。
「あるわけがないだろう! ココロの滞在可能時間は、宿主次第だ。ボクにどうこうできるわけが……うぎゃあ」
胸倉をつかむ手を、軽く押し出しながら離した。直感で計測した力点は正確で、効率よく力が作用して、祥之助が吹っ飛ぶ。
投げ飛ばした拍子に、懐中時計が床に落ちていた。絶望の瞬間が目の前にある。
【少しだけ……もう少しだけ時間をください、リアさん】
黄帝珠が、ざらざらと不快な声を轟かせた。
【絶望するか、玄武? 出会ってわずか数日の他人のココロの中で、むなしく滅ぶことを。それとも、歓喜するか? 美女のために死するは、男の愚かなる本望であろう。いや、怨みに溺れるか? 玄獣珠のチカラを以て怨みながら死ぬとは、これは芳しい】
さびたノコギリの刃を皮膚に押し当てられているかのように、黄帝珠の声が触れる耳や頬はピシピシと痛む。
また、部屋のどこかで、ひびが走る音がした。
【のう、玄武よ、おぬしは……】
「【黙れ、くたばりぞこない! もっと粉々に砕かれないと、反省の『は』の字も学習できないのか!】」
口から飛び出した怒声は、半分はぼく自身のものだ。もう半分は、玄獣珠の意志と記憶だった。
できるんだと思う。玄獣珠も、本当は、みずからチカラを振るえる。それをしないのは、禁忌だと固く理解しているからだ。因果の天秤の均衡を守れと、四獣珠の本能には刻み込まれているから。
「世の中のエネルギーはすべて均衡の下に成立している。ところが、禁忌を守れず、均衡を崩す愚かな宝珠がここにある。運命の一枝も、揺さぶりを受けるわけですね」
【こしゃくな口を利くでない、玄武!】
「あいにくと、ぼくは絶望していないし、死に歓喜を覚えることもない。ましてや、何かを怨むつもりもありません。怨むなんて面倒なことをするより、腹が立ったその瞬間に正面から叩きつぶします」
【生意気な愚か者が! あくまで我が意に染まぬと申すか! ならば、今すぐ滅べ!】
衝撃波が襲ってくる。
ぼくはいい。耐えてみせる。
でも。
【リアさんを傷付けるな!】
叫んだ瞬間、ぼくの目の前に巨大な影が立ちふさがった。影は黒い翼を広げて、ぼくとともに、リアさんの核をかばう。
「イヌワシ!」
ぼくよりも大きな、写実的な姿をしたイヌワシが目の前にいた。蓋の上にいたはずのぬいぐるみのイヌワシは姿を消している。
つまり、あれが、これか。
一瞬、めまいがした。物理法則に反しすぎている。ココロの中なんだから、何でもありかもしれないけれど。
いや、今はどうでもいい。問題は祥之助と黄帝珠だ。
祥之助は頭上の黄帝珠に触れた。
「もういいよ、黄帝珠。こいつらはどうせ死ぬんだ。放っておいて、早くボクらは脱出しよう」
【時間か。仕方あるまい】
ふわりと、祥之助の体が宙に浮き上がった。ぎらぎらする黄帝珠が、凄まじいチカラを放出している。祥之助がぼくを見下ろしながら、天井を指差した。
「ボクたちは外に出るよ。まあ、一応、しばらくは待っていてやる。少々時間をオーバーしても、まともでいられるココロもあるしね。せいぜい頑張ってくれ」
【待て!】
「無駄無駄。黄帝珠が本気でチカラを使ってるんだよ。おまえの不完全な声が効くと思ってるのか?」
仰々しい装飾の椅子が浮き上がって、そのまま天井に吸い込まれた。ここが魂珠の中心で、最下層だ。外へと脱出するには、上向きに外壁を抜けていくイメージが必要なのだろうか。
祥之助と黄帝珠が、まもなく漆黒の天井に達する。