ぼくの背後で隠し扉が閉まった。
 目の前に、ぼくと理仁《りひと》くんとイヌワシがいる。鏡だ。一枚だけじゃなく、何枚も、何枚も、数え切れないくらいの鏡がある。視線を感じて見上げると、低い天井も鏡だった。
「ミラーハウスですか?」
 部屋と呼ぶには狭すぎる空間。廊下と呼ぶには短すぎる奥行き。突き当たりまで進んで角を折れると、また鏡だ。すべての選択肢が行き止まりに見えた。
「右斜め前方、通れるよ」
 理仁くんが指差して、先に立って歩く。そうか、ぼくの能力を使えば、光の反射を利用した錯視は簡単に見破れる。
「お株を奪われた気分です」
「さっき、おれの声を使いこなしてた海ちゃんが言う?」
「声が止められなかったし、止めるべきではないと思いました。チカラに頼らないと言えないなんて、情けないんだけどね」
「やっぱ海ちゃん、姉貴のこと好きでしょ?」
「それは、いや……恋というものを、したことがないんです」
【胸が痛くて苦しい】
 理仁くんが急に、低い鏡の天井を向いて声を張り上げた。
「とのことですよ~、姉貴! かわいい年下男子にキッチリ教えてやんなよ~」
「な、何言ってるんですか!」
 思わず理仁くんの肩をつかむと、振り返った理仁くんはニヤッとした。
「ま、歩きながら話しますかね~」
 鏡の迷路を、理仁くんは迷わずに進んでいく。リミットまでの時間を尋ねたら、懐中時計を渡された。残り時間は約四分の一だ。
 どこを向いても、いろんな角度の自分が鏡に映っている。正確な像、歪みのある像、倒立した像。赤いライトがともされた小部屋。バラバラの人形が置かれた、合わせ鏡の空間。
【鏡への執着? リアさんも、笑顔を鏡で練習したのか?】
「それもあるとは思うけどね。でも、姉貴は、もっといっぱい鏡見てるよ。昔から髪いじるの好きだったらしいし、子どものころはバレエやってたし、けっこう早くから化粧してみてたし」
「なるほど」
 理仁くんの歩みが少し鈍った。小さくかぶりを振った理仁くんは、歩くペースをもとに戻す。でも、発せられた言葉は口調が鈍い。
「あのさ、海ちゃん……あのさ」
「何ですか?」
「いや……聞いてほしい。それで、否定してほしい」
「否定?」
 理仁くんの手がイヌワシをつかまえた。イヌワシが迷惑そうな顔をする。理仁くんは気に留めず、すがるようにイヌワシを胸に抱えた。
「海ちゃんはさ、物心ついたころにはもう、玄獣珠を預かってたろ? 物理的な意味で、だよ。肌身離さず、玄獣珠、持ってたろ?」
「はい」
 おれは違う、と理仁くんはつぶやいた。
「親父が使う朱い珠の正体、知らなかった。怖いと思ってた。正体知ってからも、怖かったし、触れたくもなかった。身に付けるようになったのは、一年ちょい前だよ。フランスに逃げる直前。姉貴が親父のとこから盗み出して、それから」
「怖いでしょうね。大切なペットの命や、おかあさんの健康を奪っていった。その朱獣珠を自分が身に付けるなんて」
「すげー怖いよ。おれの前代の預かり手はひいばあちゃんでね、親父もさすがに手出しできない相手だった。チカラも強かったらしいし。でも、おれが生まれると、ひいばあちゃんは無力になった。親父は、ずっと狙ってた朱獣珠を手に入れた」
 それはリアさんにとって八歳のころだ。朱獣珠の乱用の最初の犠牲者が、大型犬のキキだったんだろうか。
「朱獣珠はずっと、おとうさんが管理を?」
「うん。でも、おれより姉貴だよな。迷惑親父の被害に遭い続けてたのって、姉貴だ」
 理仁くんは前を向いて歩いている。ぼくに顔を見せたくないんだろう。でも、まわりじゅうにある鏡が、理仁くんを映してしまう。笑みを消した無表情は、涙より怒りに近いように見えた。
「おれかもしれねぇんだよ。黄帝珠が目を覚ました理由。だって、おれ、親父のこと怨《うら》んでる。物事を実現するチカラがあるおれの声で、何度も言った。親父を怨んでる、って。黄帝珠って、怨みの宝珠だろ? あいつ、マジでおれに感応したんじゃねぇの?」
【違う!】
 考えるより先に、ぼくは否定した。直感的に、本能的に、それは違うと思った。
「きみの声が怨みのチカラを発現した? そんなはずないでしょう!」
「何で即答できる?」
 冷えて硬い口調は、理仁くんには似合わない。彼にそんな苦しみを強いる人を、許せない。
「ぼくたちは出会って四日目だけどね。リヒちゃんの人間性はつかんだつもりです。ぼくはきみの人間性を信じている。汚い野心のままにチカラを開放する黄帝珠とは相容れない。きみがあれを呼び起こしたなんて、理屈が通っていませんよ」
 ぼくの言葉に根拠はない。主張を裏付ける計算式なんか存在しない。ここに存在するのは、理仁くんを信じたいという感情だけだ。
 感情論なんて嫌いだった。曖昧で不確定で面倒で。
 だからどうした。
 感情論で上等じゃないか。
「海ちゃんさ、それ、本気で言ってくれてる?」
「当然です」
「万一、ほんとにおれが怨みの発生源だったら?」
「全力でフォローして帳尻を合わせますよ」
「海ちゃん」
「はい」
「ありがと」
 ちょうどのタイミングで、大きな鏡の扉が行く手に現れた。扉を開けた向こうは、もう迷路ではない。ただの通路だった。
 ぼくは、理仁くんから預かったままの懐中時計を取り出した。理仁くんに渡そうとしたら、押し返された。
「海ちゃんが持ってなよ」
「わかりました」
 懐中時計をポケットの中に収め直す。文字盤が真っ暗になったら、一体、何が起こるんだろう? いや、考えちゃいけない。早くココロの最奥部に到達して、脱出を勝ち取るだけだ。