螺旋階段を下りる。どんどん下りていく。
またショーケースの様相が変わった。小さな刷毛《はけ》や細いペンが丁寧に並べられている。その正体が、最初はわからなかった。
「メイク道具ですか?」
「海ちゃん、何で疑問形?」
「あまり見る機会がありませんから」
「そういやそっか。大都高校って男子校だし、親元離れてるし、自供を信じるなら、彼女もいないわけだし」
煥くんがフォローを入れてくれた。
「オレもわからなかったぞ。ファンデーション? のコンパクトを見て、やっとわかった」
「あっきーもそんなもんか~。ま、鈴蘭ちゃんは化粧してないしね」
「どうしてそこで鈴蘭の名前が出てくる?」
煥くんは心底不思議そうだ。鈴蘭さんの恋路は、きっと険しくて長い。
「姉貴がメイクに手ぇ出したの、割と早かったと思うよ。髪をいじったり染めたり切ったりもしてた。変身願望があったんだって。で、その延長線上で美容師免許を取った」
首から上だけのマネキンが並んでいる。いろんな髪型、髪の色。このゾーンは、着せ替え人形や子供服のゾーンより色味が強い。
「リアさんの顔を最初に見たとき、化粧が上手だと思いました。顔立ちの左右の誤差をうまく修正している。ぼくなりに、顔のパーツの座標には理想値があるんです。それにかなり近い値でしたね。化粧する前から、もともと、いい感じの値の持ち主なんでしょうけど」
つまり、と煥くんが要約した。
「好みの顔だったってことか?」
一瞬、息を吸おうとしたのか吐こうとしたのか、混乱した。その結果、ゴホッと咳き込む。
「ちょ、な、何でそういう……」
「違うのか?」
「違いま……せんけど、いや、何かちょっと途中経過が省略されすぎている気がしますが」
好みの顔。
そうだったのか。リアさんを美人だとは思っていたけど、それ以上だったのか。だから、最初からあんなに印象が強かったのか。
理仁くんが喉を鳴らして笑った。
「おれ見たらわかると思うけど、姉貴も素で美形だよ? 化粧落としても、ちゃんと目がデカいし、まつげ濃いし。キリッとしたとこだけ、なくなる感じ。二重の幅が広いから、ふわっとして、ちょい眠そうな顔になる」
「別に、そういう説明をしてもらう必要はないと思うんですが」
「それなりに前説があったほうがよくない?」
「何の前説ですか?」
「え、そりゃ、そーいう夜を過ごすことになった場合の」
【そーいう夜って生まれたままの化粧も覆いもない姿で愛を情熱を欲……】
シャットダウン!
ぼくは顔の熱さを無視して、冷静なふりをした。
「地雷を踏みましたが、止め方も覚えました」
「みたいね~。そもそも、あんまり声を洩らさなくなったよね。あっきーの『好みの顔』発言で暴発するんじゃないかと期待したけど」
いちいち聞かれてたまるものか。
メイク道具とヘアスタイルのゾーンを抜けると、階段が尽きた。くすんだ色のドアがある。
イヌワシがドアノブを翼で示した。煥くんがドアノブに手を掛けて、回した。鍵もかかっていない。
ドアを開けると、長い長い廊下だった。はるか向こうにドアがある。
廊下は、壁にも天井にも、ランダムに人物写真が貼り付けられている。赤ん坊、幼児、小学生、中学生、高校生。年齢はバラバラだけど、彼の正体は見間違いようもない。
「おれ、だ……」
圧倒されたように、理仁くんが後ずさった。朱い目を、じっと凝らしている。
煥くんが先に立って歩き出した。
「すげぇな、この数。さっきの階段の人形の比じゃねえ。何枚あるんだか」
理仁くんが、ため息をつくように言った。
「19,419枚」
「枚数、見えましたか?」
「重なって下敷きになってるやつもあるけどね。表に見えてるぶんだけで、19,419枚」
理仁くんは下を向いて歩き出した。ぼくは彼の隣を歩く。
写真は、笑顔が多い。キョトンとした表情もある。素直な表情を撮影してあるんだと感じた。
「きみが生まれてから今まで、一日約三枚のペースですね」
理仁くんが力なく笑った。
「この空間、めっちゃキツい。おればっかじゃん。姉貴の影もなくて、ほんとにおれだけ。おれ、どんだけ姉貴の中のスペース食ってるわけ? 何でこんな……おれの存在、重すぎんだろ? どこまで重たいお荷物だよ?」
泣き出してもおかしくない自虐を口にしながら、理仁くんは笑っている。ぼくの前にいる理仁くんは、写真の中の彼とは違う。
煥くんが足を止めた。自然と、理仁くんもぼくも立ち止まった。
「オレには、実の姉はいない。でも、姉と呼んでいいくらいの幼なじみがいる。兄貴の彼女なんだけど、飯作ってくれたり、服選んでくれたり、面倒見てくれる人だ」
向き合って立つ。煥くんがぼくたちより背が低いことを思い出した。
「文徳の彼女って、瑪都流《バァトル》のベーシストちゃんだよね。イケメン女子ってんで、女の子からの人気すごいけど、面倒見いいんだね~」
煥くんが琥珀色の目で理仁くんをにらんだ。
「無理して笑うなって言ってんだ。ここにある写真みたいに、普通に笑えるときに笑え。姉っていう人は、弟には想像もつかないくらい、わかってる。背負ってくれてる。だから、背負われろよ。姉っていう人をいたわるのは、弟じゃない男だ」
「痛ってぇな~。それ言われると、すげぇ痛い。正しすぎて、何も言えないね」
理仁くんは、へたり込むように、しゃがんで下を向いた。リアさんと同じ色の髪。その頭の上に、イヌワシが肩から移動していった。
「兄貴と、姉貴みたいな人と。年上だからって、その二人に背負われるのは、オレも心苦しかった。だけど……」
「あー、うん、わかってる。ここは素直になったがいいのは、わかってる。甘えりゃいいんだってことは重々承知。姉貴がそれを望んでんだってことくらい、わかってるつもりなんだけど」
ぼくは理仁くんの頭上からイヌワシを抱え上げた。軽い。質感も質量も、まるっきりぬいぐるみだ。
「弟としてではなく、別の関係で、リアさんと出会いたかったですか?」
即答が来た。
「絶対無理」
「無理って、どうして?」
「あんな強烈な女、他人だったら絶対無理」
「そんな言い方は……」
「海ちゃん、すげぇ度胸あるよ。よくあんな強烈な人、女として見れるね~」
「いやあの何をまた……」
イヌワシがぼくの手を抜け出して、理仁くんの頭を翼で打った。リアさんのナイトのような存在なんだろうか。ぼくが贈ったぬいぐるみが?
理仁くんが立ち上がって、顔も上げた。脱力した感じに笑っている。
長い廊下を行く間、ほとんど無言だった。次の部屋への扉に至る直前、唐突に理仁くんが言った。
「あっきー、さっきの話だけどさ。姉をいたわる男は弟じゃない、っての」
「ああ」
「謎が解けた感じがした。おれと姉貴の関係、ちゃんと見えた。サンキュ」
話はそこで途切れた。
煥くんが、次の扉を開けた。
またショーケースの様相が変わった。小さな刷毛《はけ》や細いペンが丁寧に並べられている。その正体が、最初はわからなかった。
「メイク道具ですか?」
「海ちゃん、何で疑問形?」
「あまり見る機会がありませんから」
「そういやそっか。大都高校って男子校だし、親元離れてるし、自供を信じるなら、彼女もいないわけだし」
煥くんがフォローを入れてくれた。
「オレもわからなかったぞ。ファンデーション? のコンパクトを見て、やっとわかった」
「あっきーもそんなもんか~。ま、鈴蘭ちゃんは化粧してないしね」
「どうしてそこで鈴蘭の名前が出てくる?」
煥くんは心底不思議そうだ。鈴蘭さんの恋路は、きっと険しくて長い。
「姉貴がメイクに手ぇ出したの、割と早かったと思うよ。髪をいじったり染めたり切ったりもしてた。変身願望があったんだって。で、その延長線上で美容師免許を取った」
首から上だけのマネキンが並んでいる。いろんな髪型、髪の色。このゾーンは、着せ替え人形や子供服のゾーンより色味が強い。
「リアさんの顔を最初に見たとき、化粧が上手だと思いました。顔立ちの左右の誤差をうまく修正している。ぼくなりに、顔のパーツの座標には理想値があるんです。それにかなり近い値でしたね。化粧する前から、もともと、いい感じの値の持ち主なんでしょうけど」
つまり、と煥くんが要約した。
「好みの顔だったってことか?」
一瞬、息を吸おうとしたのか吐こうとしたのか、混乱した。その結果、ゴホッと咳き込む。
「ちょ、な、何でそういう……」
「違うのか?」
「違いま……せんけど、いや、何かちょっと途中経過が省略されすぎている気がしますが」
好みの顔。
そうだったのか。リアさんを美人だとは思っていたけど、それ以上だったのか。だから、最初からあんなに印象が強かったのか。
理仁くんが喉を鳴らして笑った。
「おれ見たらわかると思うけど、姉貴も素で美形だよ? 化粧落としても、ちゃんと目がデカいし、まつげ濃いし。キリッとしたとこだけ、なくなる感じ。二重の幅が広いから、ふわっとして、ちょい眠そうな顔になる」
「別に、そういう説明をしてもらう必要はないと思うんですが」
「それなりに前説があったほうがよくない?」
「何の前説ですか?」
「え、そりゃ、そーいう夜を過ごすことになった場合の」
【そーいう夜って生まれたままの化粧も覆いもない姿で愛を情熱を欲……】
シャットダウン!
ぼくは顔の熱さを無視して、冷静なふりをした。
「地雷を踏みましたが、止め方も覚えました」
「みたいね~。そもそも、あんまり声を洩らさなくなったよね。あっきーの『好みの顔』発言で暴発するんじゃないかと期待したけど」
いちいち聞かれてたまるものか。
メイク道具とヘアスタイルのゾーンを抜けると、階段が尽きた。くすんだ色のドアがある。
イヌワシがドアノブを翼で示した。煥くんがドアノブに手を掛けて、回した。鍵もかかっていない。
ドアを開けると、長い長い廊下だった。はるか向こうにドアがある。
廊下は、壁にも天井にも、ランダムに人物写真が貼り付けられている。赤ん坊、幼児、小学生、中学生、高校生。年齢はバラバラだけど、彼の正体は見間違いようもない。
「おれ、だ……」
圧倒されたように、理仁くんが後ずさった。朱い目を、じっと凝らしている。
煥くんが先に立って歩き出した。
「すげぇな、この数。さっきの階段の人形の比じゃねえ。何枚あるんだか」
理仁くんが、ため息をつくように言った。
「19,419枚」
「枚数、見えましたか?」
「重なって下敷きになってるやつもあるけどね。表に見えてるぶんだけで、19,419枚」
理仁くんは下を向いて歩き出した。ぼくは彼の隣を歩く。
写真は、笑顔が多い。キョトンとした表情もある。素直な表情を撮影してあるんだと感じた。
「きみが生まれてから今まで、一日約三枚のペースですね」
理仁くんが力なく笑った。
「この空間、めっちゃキツい。おればっかじゃん。姉貴の影もなくて、ほんとにおれだけ。おれ、どんだけ姉貴の中のスペース食ってるわけ? 何でこんな……おれの存在、重すぎんだろ? どこまで重たいお荷物だよ?」
泣き出してもおかしくない自虐を口にしながら、理仁くんは笑っている。ぼくの前にいる理仁くんは、写真の中の彼とは違う。
煥くんが足を止めた。自然と、理仁くんもぼくも立ち止まった。
「オレには、実の姉はいない。でも、姉と呼んでいいくらいの幼なじみがいる。兄貴の彼女なんだけど、飯作ってくれたり、服選んでくれたり、面倒見てくれる人だ」
向き合って立つ。煥くんがぼくたちより背が低いことを思い出した。
「文徳の彼女って、瑪都流《バァトル》のベーシストちゃんだよね。イケメン女子ってんで、女の子からの人気すごいけど、面倒見いいんだね~」
煥くんが琥珀色の目で理仁くんをにらんだ。
「無理して笑うなって言ってんだ。ここにある写真みたいに、普通に笑えるときに笑え。姉っていう人は、弟には想像もつかないくらい、わかってる。背負ってくれてる。だから、背負われろよ。姉っていう人をいたわるのは、弟じゃない男だ」
「痛ってぇな~。それ言われると、すげぇ痛い。正しすぎて、何も言えないね」
理仁くんは、へたり込むように、しゃがんで下を向いた。リアさんと同じ色の髪。その頭の上に、イヌワシが肩から移動していった。
「兄貴と、姉貴みたいな人と。年上だからって、その二人に背負われるのは、オレも心苦しかった。だけど……」
「あー、うん、わかってる。ここは素直になったがいいのは、わかってる。甘えりゃいいんだってことは重々承知。姉貴がそれを望んでんだってことくらい、わかってるつもりなんだけど」
ぼくは理仁くんの頭上からイヌワシを抱え上げた。軽い。質感も質量も、まるっきりぬいぐるみだ。
「弟としてではなく、別の関係で、リアさんと出会いたかったですか?」
即答が来た。
「絶対無理」
「無理って、どうして?」
「あんな強烈な女、他人だったら絶対無理」
「そんな言い方は……」
「海ちゃん、すげぇ度胸あるよ。よくあんな強烈な人、女として見れるね~」
「いやあの何をまた……」
イヌワシがぼくの手を抜け出して、理仁くんの頭を翼で打った。リアさんのナイトのような存在なんだろうか。ぼくが贈ったぬいぐるみが?
理仁くんが立ち上がって、顔も上げた。脱力した感じに笑っている。
長い廊下を行く間、ほとんど無言だった。次の部屋への扉に至る直前、唐突に理仁くんが言った。
「あっきー、さっきの話だけどさ。姉をいたわる男は弟じゃない、っての」
「ああ」
「謎が解けた感じがした。おれと姉貴の関係、ちゃんと見えた。サンキュ」
話はそこで途切れた。
煥くんが、次の扉を開けた。