車は少し、獣の匂いがした。運転手を務めるアジュさんは能力者だ。運転中の今は人間の姿だけど、巨大な黒い犬の姿に変身することもできる。
通常、この時間帯は、アジュさんは犬の姿で夜勤だ。庭に放してある警備用の犬たちを統率している。人間の姿でも犬の姿でも、軽快な口調でしゃべってよく笑う、いたって気のいい三十代。
「武器や小道具が必要なら、持っていけよ。そのへんに載せてるやつは自由に使っていい」
警棒、ナイフ、メリケンサック、エアガン、スタンガン。雑多な武器が頑丈なプラスチック製の箱に入っている。
ぼくはちょっと呆れながら尋ねた。
「見本市みたいですね。これ、どうしたんですか?」
「不良少年どもから巻き上げた」
「巻き上げたって?」
「市内には、警察が機能してないエリアがあるだろ? そういうエリアの取り締まりを請け負ってんだよ。いわば、傭兵だな。総統がやっておられる手広いビジネスの一環だ。海牙、知らなかったか?」
「アジュさんたちが警備会社の看板を掲げているのは知ってましたが、具体的に何をしているのかは知りませんでした」
鈴蘭さんが顔を曇らせた。
「武器を持つって、イヤですよね。暴力なんて、本当はよくないのに」
煥《あきら》くんは、攻撃力の高そうな手袋をはめてみている。
「向こうが襲ってこなけりゃ、こっちからは仕掛けねえ。でも、襲われて素直に殴られる趣味はねぇな」
「わかってます。リアさんを救出するまでは、甘いことは言ってられません」
「あんたは武器なんか持つな」
「どうしてですか? わたし、ただでさえ足手まといなのに」
「重いんだよ、こういうの。逃げる邪魔になる」
「逃げる、ですか……」
夜の裏通りは時折、改造バイクの爆音がする。暴走族気取りの不良集団、緋炎の集会だろう。彼らのバイクは、改造によってエネルギーの伝達効率が非常に悪くなっていて、エンジンをふかすたびにひどい振動を起こす。あの無秩序さは、見ていて気持ちが悪い。
煥くんが吐き捨てた。
「不細工な音だ」
煥くんのバイクはメンテナンスが行き届いていた。古いようだったけれど、機械の挙動に無駄がなくて美しかった。
大通りに出た。深夜を迎えて、ビルの明かりは少ない。目的地が近付いてくる。
理仁《りひと》くんが顔を上げた。
「さーて、気合い入れよっか。姉貴も取り戻さなきゃだし、おれ自身、このまんまじゃ困るんだよね~。おれと海ちゃんのチカラ、もとに戻さないと」
煥くんが腕組みをして息をついた。
「正面からケンカしたんじゃ、数で押し切られるだろ。オレの出番が少ないことを祈る。オレはケンカしか能がない」
ぼくは服の上から玄獣珠に触れた。
「リアさんを解放する条件は、四獣珠との引き換えでしょう。その取引、素直に受けますか?」
やだね、と理仁くんが言った。
「そういう一件落着は、やだね。お坊ちゃんのわがままも黄帝珠の復活も、絶対に止めてやる」
ファッションビルSOU‐ZUIは、エントランスが点灯されていた。ビル全体は暗いのに、道しるべのような照明だけが煌々《こうこう》としている。明かりの下、エスカレータが稼働しているのが見えた。
アジュさんは運転席で、ぼくたちに敬礼した。
「健闘を祈る。宝珠の話となると、大人も子どももない。何の助けにもなれなくて、すまないな」
みんな、かぶりを振った。改めて言われなくても、わかっている。
ぼくは微笑んで、アジュさんに敬礼を返した。
「車を出してもらっただけで十分ですよ。終わったら連絡しますから、迎えに来てください」
無人のファッションビルを、最上階へ。点灯された経路に従って上っていく。吹き抜けになったビルの中央に設置されたエスカレータ。エレベータが稼働している様子はない。階段の前には、檻のようなシャッターが下ろされている。
罠がある可能性も考えた。でも、立ち止まっていても、時間を浪費するだけだ。進むしかない。
「うわっと」
理仁くんが、エスカレータからフロアへ乗り移るときにつまずきかけた。
「先輩、大丈夫ですか?」
「だいじょぶ。てか、鈴蘭ちゃん、ぶつかってゴメン。赤外線に目ぇ奪われててさ」
あのへん、と理仁くんは指差した。防犯センサーから放射される赤外線が多数、その空間に走っているらしい。
ぼくはエスカレータの数段下にいる理仁くんを振り返った。
「それが赤外線だと、よく気付きましたね」
「見たことあるからね。赤外線って、人間の目には見えないけど、デジカメとかスマホのインカメとか使えば、感知できるじゃん? そういうの駆使して、防犯用の赤外線センサーを全部、無効にしてやったことがあるんだ。姉貴と二人で」
「防犯用のセンサーを無効化って、何ですか、それ?」
「怪盗ごっこ」
「はい?」
「ってのは冗談で、家出したときに使ったんだよ。フツーに家出できない環境だったからさ」
先頭を行く煥くんが、横顔だけで振り返った。
「兄貴から、理仁の事情を少し聞いてた。朱獣珠のことで父親と対立してるって。だから国外に逃げてたって。オレも、できることは協力する。今回みたいに」
理仁くんが肩をすくめた。
「高校の入学式で、あっきーの兄貴と初めて会ってさ、おれの号令《コマンド》が効かなくて、何だこいつって思って。預かり手の血筋だと、マインドコントロールにかかりにくいじゃん? 初めての対等な友達。すげー信用したし、頼っちゃったよね。ほんと、いろいろ相談した」
理仁くんの目はだんだんと伏せられた。彼の頭にあるのはきっと、リアさんのことだ。
さらわれてしまった。預かり手ではないのに、宝珠を巡る争いに巻き込んでしまった。今、リアさんは、預かり手のぼくたちよりも危険な状態にさらされている。
もっと早くぼくたちが集結していれば。祥之助が黄帝珠を見付け出すより先に、協力体制を築いていれば。そもそも、理仁くんの父親に宝珠への執着を断たせることができていれば。
後悔から立つ仮説が、むなしく、ぼくの胸を支配していく。ダメだ。考えちゃダメだ。思念の声が外に洩れたら、みんなの士気を下げてしまう。
最上階は人の気配に満ちていた。微動だにせず沈黙している気配。例によって、黒服の戦闘要員が多数配置されているんだろう。
カフェレストランTOPAZは、過剰なほどの照明に彩られていた。きらきらしい情景の中で、ぼくの視線はまっすぐにフロアの中央へと惹き付けられる。
台座の上に横たえられた、赤いドレスのリアさん。
ぼくは立ち尽くした。理仁くんは駆け出した。すぐに転びかけて、駆け付けた煥くんに支えられた。
「二分遅刻だ、四獣珠の預かり手の諸君。でも、よく来たな」
祥之助は黄金色の両眼を薄笑いに細めた。黄帝珠も祥之助のそばに浮いて、ざらざらと耳障りな声で笑った。
主従関係は、どっちのベクトルなんだろう? どっちを先に倒せば効率がいいんだろう?
誰よりもよく見える目を祥之助と黄帝珠からそらさずに、もっときちんと観察しておけばよかった。解けない計算式と読めない文字の膨大な羅列であっても、考えるためのヒントや問題解決の糸口がそこにあったかもしれないのに。
鈴蘭さんがつぶやいた。
「あの人、正気じゃありませんよね? これが正気の人間のやることだとは信じたくないです」
つぶやきは祥之助には聞こえていない。祥之助はソファから立って、革靴を鳴らしてリアさんのほうへと歩み寄る。
「早速、話を始めようか。ボクらの要求は、四獣珠だ。おとなしく渡してくれれば、この女を返そう」
理仁くんが笑い捨てた。
「四獣珠を渡して、黄帝珠を復活させて? そんな状況でおれらだけ無事でも、姉貴はブチキレるね。一日、じっくり考えた。そんで結論出した。お坊ちゃん、てめぇに四獣珠は渡せねーよ!」
祥之助は両腕を広げて肩をすくめた。
「盾突いてくるとは思っていたよ。だから、ゲームを用意した。勝負して決めないか? ボクらが勝ったら、四獣珠をもらう。おまえたちが勝ったら、女を解放する」
祥之助がリアさんを見下ろした。じっとりと、なめるような視線。ぼくの体の奥が、カッと熱くなった。
【そんな目で彼女を見るな!】
指向性のある声だと、自分でわかった。ぼくの思念が鋭い波動となって、祥之助に向かって飛ぶ。
パシン!
静電気による火花放電に打たれたかのように、祥之助が顔をしかめる。
「変な考えを起こしているのはおまえのほうだろう、阿里海牙。ボクをおまえと同列に扱うな」
理仁くんが祥之助に指を突き付けた。
「姉貴の弟としてハッキリ言わせてもらうけど、きみのやってることのほうが気持ち悪いよ。ストレートにスケベな海ちゃんのほうがマシ」
「その言い方もどうかと思いますけど」
「人質を着せ替え人形にして支配下に置いてますってポーズ、マジ気持ち悪い。ボコボコにして縛り上げて転がすんじゃなく、無傷でキレイなまま眠らせておくって発想も、マジ気持ち悪い。人を支配しよう拘束しよう操縦しようって考え方が、超絶マジ気持ち悪い」
朱い目はまっすぐに祥之助をにらんでいる。
祥之助の薄笑いは揺るがない。祥之助は黄帝珠を手招きした。黄帝珠の四つの破片はギラギラしながら祥之助の頭のまわりを巡る。まるで、いびつな王冠だ。
祥之助の右の手のひらが、黄帝珠と同じ色にぎらついた。ニヤリとした祥之助は、その右手を、リアさんの胸に押し当てた。
【ふざけるなふざけるなふざけるなッ! その手を離せ!】
【こざかしい】
黄帝珠が唸って、ぼくの声を打ち払う。
祥之助の手のひらが、ずぶりとリアさんの胸へと沈み込む。ピクリと、リアさんの体が小さく跳ねた。
「……あった」
祥之助は指先で何かをつまみながら、右手を引き上げた。
それは宝珠に似ている。オーロラ色、とでも言おうか。変化しながら揺らめく光が、独特のグラデーションを呈している。
理仁くんが声を震わせた。
「姉貴の体温と心拍数が……血圧も呼吸数も、下がった。こんなんじゃ死ぬよ。おい、てめぇ、姉貴に何をしたっ!」
その表現に、ピンと来た。冬眠中の動物のように、肉体の活動が生命維持に必要な最低限の状態。
魂《コン》を抜かれたんだ。祥之助の手にあるオーロラ色の球体が、リアさんの魂《コン》なんだろう。
祥之助は平然としている。
「今までの経験上、こうなっても、すぐには死なないよ。見えるか? これは魂珠《こんしゅ》という。取り出したばかりなら、こんなふうにキレイなんだ。これが濁ってくると、体のほうも弱り出すんだが」
つまり、祥之助は知っているんだ。魂珠がやがて濁り、取り出された宿主が死ぬまでの過程を。
鈴蘭さんがローファーの靴音を響かせて進み出た。
「リアさんが言ってました。プライドが高い男には二種類いるって。そういう男は、ときどき、傷付ける対象を探すんだって」
「おい、鈴蘭」
煥くんが鈴蘭さんに呼び掛ける。鈴蘭さんは足を止めない。祥之助のほうへとまっすぐ歩いていく。
「わたし、納得したんですよ。自分の実力を信頼しているなら、彼は自分を傷付ける。実力を発揮できない自分が不甲斐ないから。でも、彼の実力が虚構のものなら、彼は他人を傷付ける。他人を踏み付けにすることでしか、自分を誇れないから」
祥之助は鬱陶しげに目を細めた。
「黙れ、青龍」
「黙りません」
「生意気な」
「煥先輩も長江先輩も海牙さんも、自分を傷付ける人です。痛々しいくらい自分を傷付けて責めて、それでもあきらめない。あなたは違いますよね。他人を傷つける人です。虚構の実力の上にあぐらをかいている人」
「黙れ」
「目を覚ましたらどうですか? 自分の意志とは違うモノに影響されて、自分のこと見失って。そうじゃないの? それとも、そんなふざけた状態なのに、寝ぼけてすらいないんですか?」
祥之助は無言で腕を振り上げた。が、動きはそこで止まる。
鈴蘭さんが両手を祥之助のほうへ突き出していた。何かを持っている。バチッと電流が爆ぜる音がして、持ち物の正体がわかった。スタンガンだ。
黄帝珠が、さび付いた声を上げた。
【気に留めるでない、祥之助。所詮、弱き駄犬の無駄吠えだ。早く、事を運ぼう。我らを愚弄した罪は重い。五人まとめて「謎の衰弱死」を遂げてもらおうぞ】
煥くんが鈴蘭さんの肩をつかんで引き寄せて、祥之助から離した。
「謎の衰弱死? 何を言ってやがる?」
【肉体を損ねれば、現世の法がやかましい。かような愚行、我らは冒さぬ。なに、魂《コン》を抜いて精神を昏睡させるのみで十分なのだ。魂《コン》を失った肉体は、おのずと滅ぶ。さて、ここにすでに遊戯の舞台を用意してある】
黄帝珠が、ざらざらと不快な笑声を放つ。祥之助は、その笑声を視覚化したような浅ましい表情を、華やかな顔に貼り付けた。
「さあ、預かり手の諸君、ゲームをしよう。ボクらが用意した迷宮から、制限時間内に脱出してもらう。ゲームをプレイする間、おまえらの肉体は無防備な状態にさらされるが、ボクらはルールを守る。おまえらの体には一切さわらず、四獣珠にも手を付けない」
文脈から推測するに、その迷宮は物理的な存在ではない。肉体に関与せず、精神のみが分け入ることのできる世界だ。
ぼくたちは目配せを交わした。うなずき合う意味は、挑戦。
理仁くんが祥之助を見据えた。
「それで? どこに迷宮とやらがあるわけ? その脱出ゲーム、さっさと始めちゃいたいんだけど」
ここだ、と祥之助が右手を掲げた。リアさんの魂珠が指先にとらえられている。
「魂珠の中こそが迷宮だ。ボクが今まで試した限り、魂珠は砕くことも割ることも燃やすこともできない。ただし、中に入ることができる。安全が確保できるのは一定時間内だけだが」
【おぬしらをこの魂珠の中に連れていってやろう。魂《コン》、すなわち人間のココロは、おのずから迷宮だ。おぬしらが時間内に迷宮を抜け、ココロの核に至れば、おぬしらを外に戻してこの女も解放しよう】
理仁くんが問う。
「おれらが一定時間内にゴールできなかったら? おれらはどうなんの?」
黄帝珠がチカラの腕を魂珠へと伸ばす。黄金色にまとわり付かれて、魂珠は嫌がるように発光した。でも、光は淡い。黄帝珠のチカラに呑まれて、淡いオーロラ色は次第に見えなくなる。
「それはまだボクもやったことがないな。他人のココロの中に置き去りにされたら、どうなるのか。まあ、普通に考えて、昏睡状態のままだろう」
「じゃあ、姉貴はどうなる?」
「異物を取り込んだ状態のココロは、早く濁る。濁り切ったら、もう意識は回復しないよ。冬眠状態の体はやがて、衰弱して死に至る」
黄帝珠を中心に、不快な力場が広がる。黄金色の光を浴びるぼくたちは、誘い込まれ、呑み込まれようとしている。
ぼくは、横たわるリアさんを見た。
リアさんがとらえられたのは、ぼくをかばったせいだ。祥之助の危険性を見くびって放置したのも、ぼくのミスだ。
そして今、ぼくは、リアさんの誇りを踏みにじる行為に手を染める。ぼくたちは、これから、リアさんのココロを暴くゲームを始める。
【ごめんなさい。でも、今だけ、あなたのココロに土足で踏み入ることを許してください】
黄帝珠のチカラが爆発的に高まった。目を閉じた理仁くんが、支えを求めるように、ぼくの肩に触れる。
三次元の現実が、弾けて消えた。
深い水に潜るような感触だった。頭を下にして、静かに、緩やかに落ちていく。
子どものころ、一度だけ家族旅行をした。父が運転する車に乗って、母が昔から憧れていたという高原のペンションで、一週間ほど過ごした。深い湖のそばだった。両親は毎日、湖畔を散歩した。ぼくは湖に潜った。
宇宙飛行士の月面での作業を想定した訓練は、水中でおこなわれる。そう聞いたことがあった。実際に水中の感覚を知って、妙に納得した。
重力の掛かり方が日常とは違って、浮力と水圧がぼくの行動を制限した。大気がないから、音の伝わり方もまるで違った。軽いのに、重たいような体。目を閉じて思い描いたら、地球を遠く離れているかのようだった。
ひんやりとした暗闇に包まれて、心地よかった。息が苦しくならないのなら、ずっとこの場所にいたい、と思った。
そんなふうに、ぼくは今、潜っていく。
これがリアさんのココロなら、きっと湖よりも、はるかに深い。
――海牙くん。
こぽこぽと、こもったような澄んだような音が聞こえた。声だろうか。遠くからかもしれない。耳元でささやかれたかもしれない。距離なんて意味がないのかもしれない。
水のようなこの場所の温度は、ときどき冷たい。本物の笑顔を見せないリアさんの、凍った怒りを思い出す。
――海牙くん。
【リアさん】
水が柔らかくて温かいときもある。何度か触れた体は、そんなふうだった。また触れたいと望んだら、怒られるかな。
心を見せたがらないあなたのココロの底に、ぼくはもうすぐ降り立つ。この上なく無礼で卑怯なふるまいだ。こんなぼくに、あなたは、どんな景色を見せてくれますか?
――海牙くん。
ぼくを呼ぶ声が聞こえる。
【リアさん】
ぼくも何度も、彼女の名前を呼んだ。
ふと、ぼくは目を開けた。硬い床の上に倒れている。
磨き込まれた木材が視界に映った。体を起こすと、先に理仁《りひと》くんが目を覚ましていた。木製タイルの壁に背中を預けて、ぼんやりと自分の手のひらを見ていた。
「お、海ちゃん、起きた?」
「魂珠の中ですか? ここが?」
「みたいだね~」
「体感も何もかも、現実と変わりませんが、ぼくたちは今、精神だけなんですよね?」
「だね~。チカラも相変わらずだ。ちなみに、おれ、海ちゃんの寝言で起きたよ」
理仁くんがニマニマしている。イヤな予感しかしない。
「……ぼくが、何を言ってました?」
「アドバイスしとく。八歳の年齢差、むしろ逆手に取るほうが近道だよ。年下男子のかわいさで、こうグイグイと……」
「誤解です!」
「でも、海牙さん、リアさんのこと好きなんでしょう?」
振り返ると、鈴蘭さんがニコニコしている。煥《あきら》くんも、身軽に跳ね起きたところだ。
「好きって……まあ、人間として、嫌いではありませんが」
「そうじゃなくて、恋です」
「さよ子さんみたいなこと言わないでください」
鈴蘭さんはニコニコ顔でかぶりを振った。
「さよ子って鋭いですよね。海牙さんをからかってるだけかと思ってたけど、見抜いてたみたい」
「だから、何を根拠に、何を言ってるんですか?」
鈴蘭さんが煥くんを見た。めったに笑わない煥くんまで、唇の端をかすかに持ち上げている。
「マジで自覚ないのか?」
「自覚って、何の自覚ですか?」
「ここに来るまで、水に潜ってる感触だったろ?」
「はい」
「右も左も上も下もわからなくて、暗くて息苦しくて、流されそうで」
「流されそう? ぼくは、まっすぐ深い場所まで潜るような感じでしたよ。息苦しさは感じなかったし、スムーズでした」
煥くんは肩をすくめた。
「オレは、洗濯機にでも放り込まれたみたいに、ひどい流れに呑まれてた。真っ暗な激流の中で、海牙の声に引っ張られて、ここに落ちてきた」
「わたしも煥先輩と同じです」
「ビミョ~に悔しいけど、おれも同じく」
「ちょっ、え……ぼくの声?」
思わず喉に手を触れたけど、もちろん違う。肉声じゃなくて、思念のほうだ。
「海ちゃん、また謝ってたろ? 勝手に入り込んでごめんなさい的な感じ。あと、姉貴が海ちゃんのこと呼ぶ声でも聞こえてた? どこにいるんですか的なことも繰り返してて」
まずい、まずい、まずい。顔が熱い。やめてほしい。言わないでほしい。
でも、煥くんが追い打ちを掛けてくる。
「柔らかいとか、さわりたいとか、もっと強烈な言い回しも、露骨な単語も」
「だよね~。おっぱいって何回も聞いた。海ちゃん、おっぱい好きなんだねー」
「涼しい顔してるくせに、けっこうフツーにそういうこと考えてんだな」
「知識欲や探求心が旺盛で頭のいい研究者タイプは、あっち方面のアレも旺盛で研究熱心とかいうしね」
ひどい。否定できない。あんまりだ。
「さらし者じゃないですか……」
鈴蘭さんが胸の前でこぶしを握って、目を輝かせた。
「いつでも相談に乗りますから! 男子の恋バナって、すごく興味あります!」
「興味本位……」
「海牙さんの声がいろいろ聞こえてしまったときはビックリしましたけど、情熱的なのはとってもいいと思います!」
ぼくは、ほてった顔を手で覆った。
リアさんのことは嫌いじゃないし、年上の女性には妄想をいだいてきた。でも、これを恋だと言える自信はまったくない。欲望交じりの憧れに過ぎない。後ろめたくて仕方がない。
理仁くんがパンパンと手を打った。
「ま、とりあえず、仕切り直し。海ちゃんいじるのはこのへんにして、先のこと考えよっか。まずは現状確認。上から落ちてきたんだとしても、上には戻れそうにないね」
理仁くんは上を指差した。果てを視認できないほど、天井が高い。円筒形の部屋。深い井戸の底みたいだ。
「で、ドアがいくつか見えるけど。現実的に言って、くぐれるドアはないっぽい」
壁の上のほうにあるドアは、そこへよじ登るための取っ掛かりがない。無理なく開けられる高さにあるドアは、ずいぶん小さい。
「持ってくべきアイテムは、たぶんこれ。部屋の真ん中に落ちてた。でも、姉貴の趣味じゃないね。お坊ちゃんが用意したんだと思う」
理仁くんが胸ポケットから出したのは、懐中時計のようなものだ。本体も鎖もゴールドでできていて、キラキラした石があちこちに埋め込まれ、バラの模様が彫刻されている。
数字も目盛もない文字盤をのぞき込むと、針は一本きりだった。文字盤は大半がゴールドだけど、十二時から一時の部分は真っ黒だ。
「十二時の位置から動き出したところでしょうか。進んだ角度は約三十度、今は一時の位置を差してますね」
「海ちゃん、分度器なしで三十度とか、わかる?」
「この程度は、誰でも目測でわかりません?」
理仁くんは首を左右に振った。
「無理無理。力学《フィジックス》の視界だから、今はわかるけど。あ、ちょうど三十度になった。これさ、海ちゃんの言うとおりで、たぶん〇度のとこからスタートしたんだよ。おれが見てたのは四.五度のとこから」
「針が進んだ後ろ側が暗転しているんですね」
「そうみたい。この黒い部分さ、針が進むのに合わせて、影みたいに、じわじわついてきて広がってんの」
鈴蘭さんが、服の上から青獣珠に触れながら、眉をひそめた。
「タイムリミットを示してるように感じますね。針が一周して、文字盤全体が暗転したらおしまい、って」
異物を侵入させたリアさんのココロのタイムリミットか。他人のココロに閉じ込められたぼくたちのタイムリミットか。いずれにしても、この直感はきっと正しい。玄獣珠がうなずく気配がある。
煥くんが眉間にしわを寄せた。
「この部屋から出て、先に進みたい。けど、ヒントも何もない。しかも、ここはリアさんのココロの中だろ? 部屋に傷を付けるのもまずい気がする」
不意に。
パタン、と音がした。扉が閉まる音だ。
全員、音のほうを向く。
「あ、イヌワシのぬいぐるみ」
リアさんと初めて会ったとき、ゲーセンで取ったぬいぐるみだ。黒い翼に緑色がかった目、不敵な笑み、チェック柄のタキシード。リアさんが妙に気に入っていた。ぼくに似ているなんて言っていた。
ぬいぐるみが動いている。思いがけず広い翼を広げて、ふわりと宙に浮いている。浮いているだけだ。あの形状では、羽ばたいて飛ぶには物理学的に不可能だから。
イヌワシが翼をクイクイと動かした。手招きしているように見えた。
【道案内?】
イヌワシがうなずいた。
鈴蘭さんが真っ先にイヌワシに近付こうとした。煥くんが腕をつかむ。
「ついて行くのか?」
「はい。大丈夫だと思います。あのぬいぐるみ、かわいいし」
かわいいかどうかは、この際、関係ない。というか、あれはかわいくないと思う。
煥くんが鈴蘭さんの先に立った。理仁くんがぼくを振り返った。
「あの鳥さん、もしかして海ちゃん絡み?」
「ええ、一応」
「あっそ」
「どうかしました?」
「こないだ、姉貴が珍しくぬいぐるみなんか持ってて、出所を訊いたんだけど、教えてくれなかった。あのゲーセンデートの思い出の品ってわけ。なるほどね~、姉貴が妙に機嫌よかったわけだゎ~」
語弊のある言い方をして、理仁くんは歩き出した。ぼくは理仁くんに並んだ。
「ぼくと同じ立場なら、男は誰でも同じことしましたよ。美人が不良にナンパされてたら、助けるでしょう? その美人に、時間つぶしに付き合ってと言われたら、応じるでしょう? ぬいぐるみを取ってほしいとリクエストされたら……」
「リア充爆発しろ~。って、ダジャレのつもりないんだけど」
イヌワシが振り向いて、理仁くんをにらんだ。
部屋の壁は木製タイルでできている。イヌワシは、その一角に飛んでいって、タイルを押した。
タイル四枚ぶんの正方形が隠し扉になっていた。正方形は、一辺が約800mm。扉と呼ぶには狭いけど、通れなくはない。
イヌワシが最初に隠し扉を抜けた。のぞき込むと、トンネル状になっているらしい。さほど奥行きはなく、抜け出た先は明るいようだ。
煥くんがイヌワシに続いてトンネルをくぐった。向こうにたどり着いて、問題ない、と声を寄越す。
鈴蘭さんと理仁くんも向こう側へ行った。ぼくが最後にトンネルに入る。
四つん這いの姿勢で、すぐ目の前に光が見えている。その割に、長い。
――海牙くん。
遠くて近いどこかから、声が聞こえる。ココロへ落ちて潜ってくる途中で聞いた声だ。
【リアさん】
呼び掛けてみる。返事はない。ただ、ぼくの名前を呼ぶ声だけが聞こえる。
――海牙くん。
ぼくで、いいんですか? 弟である理仁くんじゃなく、ぼくを、呼んでくれるんですか?
ぼくにあなたの声が聞こえるように、あなたにも、ぼくの声が聞こえていますか?
青空が広がっていた。青草が生える丘の上だ。一本の大木が枝を広げて、涼やかな影を落としている。
ぼくがトンネルを抜けて丘に立つと、イヌワシは隠し扉を閉ざした。そこには何の痕跡もなくなった。イヌワシは理仁くんの肩に止まった。ぼくの肩じゃないのか。
心地よい風が渡っている。
丘のふもとから、女の子と犬が、じゃれ合いながら駆け上がってきた。水色のワンピース姿の女の子は十歳くらいだろうか。大型犬は焦げ茶色で毛足が長く、耳が垂れている。
「姉貴だ、あれ」
言われなくても、気付いていた。短めの髪が活動的で、よく日に焼けている。屈託のない笑顔がまぶしいくらいの、幼い日のリアさんだ。
木陰に至った彼女は、ぼくたちにチラリと手を振った。
丘の景色には音がなかった。風が吹くのも、木の葉がそよぐのも、彼女が笑うのも、犬が息をするのも、すべてが無音だ。
ただ、ぼくたち四人がたてる音だけが聞こえる。身じろぎをした、きぬずれの音。理仁くんがくすぐったそうな目をして、つぶやいた言葉。
「姉貴の九歳か十歳のころ、だと思う。親父の仕事の関係で、フランスのいなかに住んでたんだ。この犬、そのころ飼ってたやつ。けっこうデカいけど、まだ大人じゃなくてね。成犬と比べたら、やっぱ華奢な体つきしてるし、顔があどけないよ」
鈴蘭さんが、女の子と犬を見つめて目を細めた。
「ワンちゃんの名前、何ていうんですか?」
「キキ。ほら、めっちゃ嬉しそうな、嬉々とした顔してるから。姉貴はキキのこと、大好きだったらしい。おれはこのころ、一歳か二歳だから、キキのことは全然覚えてねーや。住んでた場所の風景とかは、いくつか記憶にあるけど」
キキを覚えていない、という言葉に、ぼくは不吉な違和感を覚えた。
「長生きしなかったんですか? 大型犬って、十年くらいは生きるでしょう?」
理仁くんは、たわむれる一人と一頭を見つめている。口元は、例によって、本物ではない形に笑っている。
「キキは、姉貴が十歳のときに死んだ。てか、殺された。だからたぶん、この思い出も、ここじゃ終わんないよ」
ピクリと、キキが耳を動かした。誰かに呼ばれたんだろうか。キキは立ち上がって歩き出す。どこに行くの、と彼女の口が動いた。
突然、ゴウッと音がした。空間が裂けた音だ。青空の情景を突き破って、巨大な両手が現れた。
キキはそっちへ向かっている。彼女はキキを追い掛けようとした。
素早く飛び出した煥くんが彼女の小さな体を引き留めた。
「何だ、あれは?」
キキは巨大な両手の間でお座りをして、パタパタと尻尾を振った。右手の人差し指がキキの頭を撫でる。骨張った関節の形からして、男の手だ。左手の薬指には、ひどく目立つ金色の指輪がある。
理仁くんが吐き捨てた。
「うちの親父の手だよ」
両手は、キキを包み込むようにして抱え上げた。焦げ茶色の毛並みがすっぽりと隠れてしまう。
そして、そのまま、両手はキキを握りしめた。
音が鳴った。骨が砕け、肉がつぶれ、血があふれ出る音。
鈴蘭さんが短い悲鳴を上げた。理仁くんがこぶしで自分の太ももを打った。
【どうしてこんな……】
呆然とした煥くんの手を、彼女が振り払う。泣き叫ぶ声は、ぼくたちの耳には聞こえない。駆け出そうとする彼女を、我に返った煥くんがつかまえる。
巨大な手に、指輪が一つ増えた。血濡れた指先が満足そうに指輪をなぞる。
丘のふもとから、駆けてくるものがある。動物たちだ。犬が数頭、猫も数匹、フェレット、ハムスター、トカゲ。金魚や熱帯魚の群れも、宙を泳いでやって来る。
【来ちゃダメだ!】
ぼくの声に、数秒間、動物たちが止まる。焦れたように、両手が「おいでおいで」と手招きをする。動物たちが再び動き出す。
来ないで、来ちゃダメ、と彼女が叫んでいる。
動物たちは次々と、巨大な手のひらの上に乗った。動物たちが乗れば乗るほど、手のひらが広くなっていく。青草の原っぱに落ちる影も広く、黒々と濃くなっていく。
ぼくは体が動かなかった。
すべての動物が乗った手のひらが、あっけなく、パシンと閉じ合わされた。
赤いものがしたたる。ぼたぼた、ぼたぼたと。丘の緑は赤く濡れた。汚れた両手のすべての指に、宝石細工の指輪がはまった。
【どうして?】
「前、チラッと話したでしょ? おれの親父、あのお坊ちゃんみたいなやつだって。朱獣珠を使いまくってさ、願いをかけて、金儲けして。願いの代償としていちばん優秀なモノが何かって、今のを見てたら、わかるよね?」
【命……】
「そう、おれと姉貴が大事にかわいがってた動物たちの命。別にね、その現場を目撃してたわけじゃないよ。でも、わかるじゃん? 朱獣珠もSOS出したかったみたいで、ある時期から、予知夢みたいな形でおれに見せるようになったしさ」
玄獣珠の鼓動が速い。朱獣珠が、忌まわしい記憶に苦悶しているせいだ。同期した四獣珠の鼓動は、ぼくたちに一つの真理を告げる。
願いの代償として最も重いものは、命。そして、それが喪われるときに流される涙。あるいは、燃やされる怒り。四獣珠は本質的に、命を食らうことを何よりも忌み嫌う。
「親父は動物がいなくなるたびに、また次のを買ってきた。おれも姉貴もさ、動物、好きなんだ。この子もまたすぐに殺されるってわかってても、無理だよね。かわいがって、すげーつらい思いをする。あったかい喜びの思い出には、いつも、つらい結末が付いてくる」
鈴蘭さんの頬が涙で濡れている。
「残酷です、こんなの」
ゴウッと音がする。再び空間が裂けて、指輪だらけの血濡れの両手が引っ込んでいく。
理仁くんは、青すぎる空を仰いだ。
「死んだ動物の名前も顔も性格も思い出も、全部、覚えてるよ。苦しくてさ、おれも姉貴も、だんだん泣けなくなった。もういっそ自分たちも死のうかって、何度も、何度もさ、カッターナイフ持ってきて、自分の体を傷付けてみたんだよ」
小さな彼女がふらりと歩き出す。その数歩先の空中に、凶暴そうに輝くものがある。包丁ほどのサイズがありそうなカッターナイフだ。
【ダメです、リアさん!】
カッターナイフが、あどけない少女の頬を切り裂いた。血が流れる。
「やめろ!」
煥くんがカッターナイフを打ち落とした。ジュッと音をたてて、カッターナイフは消滅する。でも、別の方向から別のカッターナイフが飛んできて、彼女に切り掛かる。
鈴蘭さんが青草に膝を突いて、彼女を抱き寄せた。
「ダメ、やめてってば!」
理仁くんは、うつろな目にカッターナイフを映している。
「姉貴のほうが、おれより傷付いてた。ガキのおれがするより強く、自分を傷付けてた。これが姉貴の記憶なら、カッター奪うの無理だよ。ほんと怖くなるほど深く切ってたから」
煥くんが顔をしかめた。泣き出しそうな顔に見えた。
駅前広場でのライヴの後、騒動があってリアさんがケガをしたとき、ぼくもリアさんの古傷を目撃した。あの傷は、本来ならいだく必要もない罪悪感の証だったのか。
カッターナイフは、彼女を抱きしめる鈴蘭さんを避けて、正確に彼女だけを傷付ける。
青い空、緑の丘、動物たちが生きていた痕跡の赤黒い液体。ぼくは、どうすることもできずにいる。だって、どうすることができる?
リアさんの記憶を見せられて、過去を知って、小さな彼女を守りたいのに、どうすればいいのかわからない。
理仁くんが懐中時計に目を落とした。
「時間がねぇよ。先に進んだほうがいい」
言葉に反応して、イヌワシがふわりと飛び上がった。彼が向かう先、丘に立つ大木に、いつの間にか扉がうがたれている。
鈴蘭さんが顔を上げた。
「わたしはここに残ります」
理仁くんが目を見張った。
「何で?」
「リアさんのこと、一人にできません。小さいころの思い出では、一人だったんでしょう? そんなの、苦しすぎるじゃないですか。リアさんにとって気休めにしかならないとしても、気休めにもならないかもしれないけど、わたし、ここに残ります」
鈴蘭さんはニッコリした。その全身が、淡く青い光をまとい始める。光は、うつろな目をした幼いリアさんをも包んでいく。
「大丈夫よ。もう痛くないから。あなたの痛み、わたしが引き受ける。あなたの傷、わたしが治してあげる」
カッターナイフが傷を付けるたびに、青い光が傷を癒す。
「あれは、鈴蘭さんのチカラ……」
ぼくの言葉に、煥くんがうなずいた。
「傷の痛みを引き受けることで、その傷を治すんだ。だから、治せる傷は、その痛みを引き受けられる範囲だけ。痛ぇはずなんだよ、今。あいつ、リアさんに笑ってやってるけど」
何で、と理仁くんが繰り返した。不思議そうな表情は、今まででいちばん幼く見えた。
鈴蘭さんが、目尻に涙のにじむ笑顔で答えた。
「リアさん、ずっと痛かったんでしょう? ペットちゃんたちのことは喜びの記憶で、大切だったはずです。痛くても、いつも思い出してたんですよね? だから、こんなふうに鮮やかに覚えてる。わたしも一緒に、この記憶を大切にしてあげたいんです」
幼いリアさんが、か細い泣き声をあげた。小さな手が鈴蘭さんにしがみ付いた。カッターナイフはその手を襲う。青い光が傷を癒す。
鈴蘭さんが優しく言った。
「わたしはここに残ります。三人で先に進んでください。わたしのチカラにも限りがあるから、できるだけ早く。みんなで助かりましょう? だから、行ってください。お願いします」
理仁くんが、ゆっくりうなずいて、ぎこちなく微笑んだ。
「ありがと」
鈴蘭さんは笑顔でうなずき返した。
幼い泣き声は大きくなっていく。切なくて、聞いていられなかった。
ぼくはリアさんのことを何も知らない。知ってみたいとか、近付きたいとか、そんな願いをぼくがいだくのは、思い上がりなんだろうか。
彼女のココロの奥へと、また一つ、駒を進める。彼女が耐えてきた苦しみを、また一つ、ぼくは知ることになる。
扉をくぐると、薄暗い螺旋《らせん》階段が下へと伸びていた。くすんだ色をした空間だ。セピア色と呼ぶには、少し色味が強い。
螺旋階段の手すりの外側には、ガラスのショーケースが、延々とはるか下まで並べられている。埃を被ったそれらの中身は、女児向けの玩具の着せ替え人形だ。
階段に足を踏み出そうとした理仁《りひと》くんを、煥《あきら》くんが止めた。
「オレが先に行く。あんたはまだ足下がおぼつかないだろ」
「落ちても、あっきーが助けてくれるって? イケメンだね~」
おどけた口調は、明らかに空元気だ。声がかすれている。リアさんのあんな記憶をのぞいて、理仁くんが平然としていられるはずもない。
煥くんも、理仁くんの空元気を痛々しく感じたらしい。
「泣きたけりゃ泣けよ」
理仁くんは手すりをつかんで歩き出した。
「そういうセリフは、女の子に言ってやんなよ。おれはもう平気。今までさんざん泣いてきたから。てか、おれがセリフ言いたい側だゎ。姉貴って、おれの前では絶対に泣かないから」
足音もなく先頭を進みながら、煥くんは自分の銀色の髪をクシャクシャにした。
「弟の面倒見なきゃいけない人間は、そういうもんだろ。オレの兄貴も無駄に辛抱強い。絶対、オレには弱音吐かねぇし」
ぼくは最後尾から問い掛ける。
「文徳《ふみのり》くんでしたっけ。煥くんのおにいさん」
「ああ、文徳っていう。うちのバンドのギタリストでバンマスで、オレを無理やりステージに引っ張り出した人。オレは人前に立とうなんて思ったこともなかったのに」
理仁くんがうなずく。
「文徳も、まあ、姉貴と近いタイプかもね。度胸よくて、堂々としてて、面倒見がよくて。その理由が、頼りない弟を守るため、だもんな~」
【頼りない弟?】
煥くんが、ささやいているのによく通る声で、淡々と言った。
「オレが小学生のころ、両親が死んだ。ふさぎ込んでたオレを救ってくれたのは兄貴だ。本人には言えねぇけど、感謝してる」
階段の両側に連なるショーケースを、見るともなしに見る。
着せ替え人形が林立している。金髪の少女人形。いろんな服を着て、いろんなポーズで、たたずんでいる。
ときどき、違うタイプの少女人形がある。ぬいぐるみも交じっていて、そのほとんどがうさぎだ。ドールハウスが入ったショーケースもあった。
階段をさらに下りていくと、人形のゾーンが終わって、幼女のマネキンが並ぶゾーンに入った。子供服がずらりと展示されている。
すそがふわりと広がったドレス。小学生サイズのフォーマルウェア。バレエの衣装みたいな白いチュチュ。何かの舞台で使ったのかもしれない、妖精の羽が付いたワンピース。
ショーケースの中身は古ぼけている。さっきの丘の情景が鮮やかな色をしていたのとは対照的だ。
「姉貴が大事にしてたおもちゃや服だ。でも、捨てなきゃいけなかったからね」
ポツリと、理仁くんがこぼした。あいづちも打てないぼくと煥くんに、理仁くんはポツポツと語る。
「うちの財産、増えたり減ったりのアップダウンすごくて、引っ越しも多くて、だいぶいろいろ捨てた。まあ、ほとんど捨てたね。今、実家の中を探しても、何も出てこないよ。思い出系のもの、何も。姉貴はここにしまい込んでたんだ」
誰の思い出でも、可視化したら、こんなふうに陳列されるんだろうか。ぼくだったら、何が並ぶんだろう?
ボロボロになるまで読み込んだ科学図鑑。五千個ほどピースを持っていたブロック玩具。唐突に両親が買ってくれた、かなり高価な天体望遠鏡。モーターから羽の成形まで、徹底的に自作したドローン。
夢中になれるものは、ほんの少しだった。無関心と集中状態のギャップが激しすぎて、異常な行動も多かったみたいだ。両親は、ぼくが異能を持つ特殊な子どもだと理解していたけれど、それでも扱いに困って、何度もぼくを病院に連れていった。
両親は平凡で善良な人たちだ。預かり手の家系に連なる末端の傍流で、まさかこの家から次代の預かり手が生まれるとは、本家の人々は想像もしていなかったらしい。前代はぼくの曽祖父に当たる人らしいが、ぼくが生まれた日に死んだ。
高校入学と同時に家を離れて以来、一度も帰省していない。両親と仲が悪いつもりはない。でも、ぼくが同じ家にいてもあの人たちは困るんじゃないか、と思う。
少なくとも、両親は、ぼくの学業成績のよさを持て余していた。親戚との会話の中で、雲の上にいるみたいな子、と母が笑いながら言っていた。父も同意していた。あの一言が忘れられない。両親に突き放されたように感じた。自分は捨て子なんじゃないかと思った。
螺旋階段を下りる。どんどん下りていく。
またショーケースの様相が変わった。小さな刷毛《はけ》や細いペンが丁寧に並べられている。その正体が、最初はわからなかった。
「メイク道具ですか?」
「海ちゃん、何で疑問形?」
「あまり見る機会がありませんから」
「そういやそっか。大都高校って男子校だし、親元離れてるし、自供を信じるなら、彼女もいないわけだし」
煥くんがフォローを入れてくれた。
「オレもわからなかったぞ。ファンデーション? のコンパクトを見て、やっとわかった」
「あっきーもそんなもんか~。ま、鈴蘭ちゃんは化粧してないしね」
「どうしてそこで鈴蘭の名前が出てくる?」
煥くんは心底不思議そうだ。鈴蘭さんの恋路は、きっと険しくて長い。
「姉貴がメイクに手ぇ出したの、割と早かったと思うよ。髪をいじったり染めたり切ったりもしてた。変身願望があったんだって。で、その延長線上で美容師免許を取った」
首から上だけのマネキンが並んでいる。いろんな髪型、髪の色。このゾーンは、着せ替え人形や子供服のゾーンより色味が強い。
「リアさんの顔を最初に見たとき、化粧が上手だと思いました。顔立ちの左右の誤差をうまく修正している。ぼくなりに、顔のパーツの座標には理想値があるんです。それにかなり近い値でしたね。化粧する前から、もともと、いい感じの値の持ち主なんでしょうけど」
つまり、と煥くんが要約した。
「好みの顔だったってことか?」
一瞬、息を吸おうとしたのか吐こうとしたのか、混乱した。その結果、ゴホッと咳き込む。
「ちょ、な、何でそういう……」
「違うのか?」
「違いま……せんけど、いや、何かちょっと途中経過が省略されすぎている気がしますが」
好みの顔。
そうだったのか。リアさんを美人だとは思っていたけど、それ以上だったのか。だから、最初からあんなに印象が強かったのか。
理仁くんが喉を鳴らして笑った。
「おれ見たらわかると思うけど、姉貴も素で美形だよ? 化粧落としても、ちゃんと目がデカいし、まつげ濃いし。キリッとしたとこだけ、なくなる感じ。二重の幅が広いから、ふわっとして、ちょい眠そうな顔になる」
「別に、そういう説明をしてもらう必要はないと思うんですが」
「それなりに前説があったほうがよくない?」
「何の前説ですか?」
「え、そりゃ、そーいう夜を過ごすことになった場合の」
【そーいう夜って生まれたままの化粧も覆いもない姿で愛を情熱を欲……】
シャットダウン!
ぼくは顔の熱さを無視して、冷静なふりをした。
「地雷を踏みましたが、止め方も覚えました」
「みたいね~。そもそも、あんまり声を洩らさなくなったよね。あっきーの『好みの顔』発言で暴発するんじゃないかと期待したけど」
いちいち聞かれてたまるものか。
メイク道具とヘアスタイルのゾーンを抜けると、階段が尽きた。くすんだ色のドアがある。
イヌワシがドアノブを翼で示した。煥くんがドアノブに手を掛けて、回した。鍵もかかっていない。
ドアを開けると、長い長い廊下だった。はるか向こうにドアがある。
廊下は、壁にも天井にも、ランダムに人物写真が貼り付けられている。赤ん坊、幼児、小学生、中学生、高校生。年齢はバラバラだけど、彼の正体は見間違いようもない。
「おれ、だ……」
圧倒されたように、理仁くんが後ずさった。朱い目を、じっと凝らしている。
煥くんが先に立って歩き出した。
「すげぇな、この数。さっきの階段の人形の比じゃねえ。何枚あるんだか」
理仁くんが、ため息をつくように言った。
「19,419枚」
「枚数、見えましたか?」
「重なって下敷きになってるやつもあるけどね。表に見えてるぶんだけで、19,419枚」
理仁くんは下を向いて歩き出した。ぼくは彼の隣を歩く。
写真は、笑顔が多い。キョトンとした表情もある。素直な表情を撮影してあるんだと感じた。
「きみが生まれてから今まで、一日約三枚のペースですね」
理仁くんが力なく笑った。
「この空間、めっちゃキツい。おればっかじゃん。姉貴の影もなくて、ほんとにおれだけ。おれ、どんだけ姉貴の中のスペース食ってるわけ? 何でこんな……おれの存在、重すぎんだろ? どこまで重たいお荷物だよ?」
泣き出してもおかしくない自虐を口にしながら、理仁くんは笑っている。ぼくの前にいる理仁くんは、写真の中の彼とは違う。
煥くんが足を止めた。自然と、理仁くんもぼくも立ち止まった。
「オレには、実の姉はいない。でも、姉と呼んでいいくらいの幼なじみがいる。兄貴の彼女なんだけど、飯作ってくれたり、服選んでくれたり、面倒見てくれる人だ」
向き合って立つ。煥くんがぼくたちより背が低いことを思い出した。
「文徳の彼女って、瑪都流《バァトル》のベーシストちゃんだよね。イケメン女子ってんで、女の子からの人気すごいけど、面倒見いいんだね~」
煥くんが琥珀色の目で理仁くんをにらんだ。
「無理して笑うなって言ってんだ。ここにある写真みたいに、普通に笑えるときに笑え。姉っていう人は、弟には想像もつかないくらい、わかってる。背負ってくれてる。だから、背負われろよ。姉っていう人をいたわるのは、弟じゃない男だ」
「痛ってぇな~。それ言われると、すげぇ痛い。正しすぎて、何も言えないね」
理仁くんは、へたり込むように、しゃがんで下を向いた。リアさんと同じ色の髪。その頭の上に、イヌワシが肩から移動していった。
「兄貴と、姉貴みたいな人と。年上だからって、その二人に背負われるのは、オレも心苦しかった。だけど……」
「あー、うん、わかってる。ここは素直になったがいいのは、わかってる。甘えりゃいいんだってことは重々承知。姉貴がそれを望んでんだってことくらい、わかってるつもりなんだけど」
ぼくは理仁くんの頭上からイヌワシを抱え上げた。軽い。質感も質量も、まるっきりぬいぐるみだ。
「弟としてではなく、別の関係で、リアさんと出会いたかったですか?」
即答が来た。
「絶対無理」
「無理って、どうして?」
「あんな強烈な女、他人だったら絶対無理」
「そんな言い方は……」
「海ちゃん、すげぇ度胸あるよ。よくあんな強烈な人、女として見れるね~」
「いやあの何をまた……」
イヌワシがぼくの手を抜け出して、理仁くんの頭を翼で打った。リアさんのナイトのような存在なんだろうか。ぼくが贈ったぬいぐるみが?
理仁くんが立ち上がって、顔も上げた。脱力した感じに笑っている。
長い廊下を行く間、ほとんど無言だった。次の部屋への扉に至る直前、唐突に理仁くんが言った。
「あっきー、さっきの話だけどさ。姉をいたわる男は弟じゃない、っての」
「ああ」
「謎が解けた感じがした。おれと姉貴の関係、ちゃんと見えた。サンキュ」
話はそこで途切れた。
煥くんが、次の扉を開けた。