深い水に潜るような感触だった。頭を下にして、静かに、緩やかに落ちていく。
子どものころ、一度だけ家族旅行をした。父が運転する車に乗って、母が昔から憧れていたという高原のペンションで、一週間ほど過ごした。深い湖のそばだった。両親は毎日、湖畔を散歩した。ぼくは湖に潜った。
宇宙飛行士の月面での作業を想定した訓練は、水中でおこなわれる。そう聞いたことがあった。実際に水中の感覚を知って、妙に納得した。
重力の掛かり方が日常とは違って、浮力と水圧がぼくの行動を制限した。大気がないから、音の伝わり方もまるで違った。軽いのに、重たいような体。目を閉じて思い描いたら、地球を遠く離れているかのようだった。
ひんやりとした暗闇に包まれて、心地よかった。息が苦しくならないのなら、ずっとこの場所にいたい、と思った。
そんなふうに、ぼくは今、潜っていく。
これがリアさんのココロなら、きっと湖よりも、はるかに深い。
――海牙くん。
こぽこぽと、こもったような澄んだような音が聞こえた。声だろうか。遠くからかもしれない。耳元でささやかれたかもしれない。距離なんて意味がないのかもしれない。
水のようなこの場所の温度は、ときどき冷たい。本物の笑顔を見せないリアさんの、凍った怒りを思い出す。
――海牙くん。
【リアさん】
水が柔らかくて温かいときもある。何度か触れた体は、そんなふうだった。また触れたいと望んだら、怒られるかな。
心を見せたがらないあなたのココロの底に、ぼくはもうすぐ降り立つ。この上なく無礼で卑怯なふるまいだ。こんなぼくに、あなたは、どんな景色を見せてくれますか?
――海牙くん。
ぼくを呼ぶ声が聞こえる。
【リアさん】
ぼくも何度も、彼女の名前を呼んだ。
ふと、ぼくは目を開けた。硬い床の上に倒れている。
磨き込まれた木材が視界に映った。体を起こすと、先に理仁《りひと》くんが目を覚ましていた。木製タイルの壁に背中を預けて、ぼんやりと自分の手のひらを見ていた。
「お、海ちゃん、起きた?」
「魂珠の中ですか? ここが?」
「みたいだね~」
「体感も何もかも、現実と変わりませんが、ぼくたちは今、精神だけなんですよね?」
「だね~。チカラも相変わらずだ。ちなみに、おれ、海ちゃんの寝言で起きたよ」
理仁くんがニマニマしている。イヤな予感しかしない。
「……ぼくが、何を言ってました?」
「アドバイスしとく。八歳の年齢差、むしろ逆手に取るほうが近道だよ。年下男子のかわいさで、こうグイグイと……」
「誤解です!」
「でも、海牙さん、リアさんのこと好きなんでしょう?」
振り返ると、鈴蘭さんがニコニコしている。煥《あきら》くんも、身軽に跳ね起きたところだ。
「好きって……まあ、人間として、嫌いではありませんが」
「そうじゃなくて、恋です」
「さよ子さんみたいなこと言わないでください」
鈴蘭さんはニコニコ顔でかぶりを振った。
「さよ子って鋭いですよね。海牙さんをからかってるだけかと思ってたけど、見抜いてたみたい」
「だから、何を根拠に、何を言ってるんですか?」
鈴蘭さんが煥くんを見た。めったに笑わない煥くんまで、唇の端をかすかに持ち上げている。
「マジで自覚ないのか?」
「自覚って、何の自覚ですか?」
「ここに来るまで、水に潜ってる感触だったろ?」
「はい」
「右も左も上も下もわからなくて、暗くて息苦しくて、流されそうで」
「流されそう? ぼくは、まっすぐ深い場所まで潜るような感じでしたよ。息苦しさは感じなかったし、スムーズでした」
煥くんは肩をすくめた。
「オレは、洗濯機にでも放り込まれたみたいに、ひどい流れに呑まれてた。真っ暗な激流の中で、海牙の声に引っ張られて、ここに落ちてきた」
「わたしも煥先輩と同じです」
「ビミョ~に悔しいけど、おれも同じく」
「ちょっ、え……ぼくの声?」
思わず喉に手を触れたけど、もちろん違う。肉声じゃなくて、思念のほうだ。
「海ちゃん、また謝ってたろ? 勝手に入り込んでごめんなさい的な感じ。あと、姉貴が海ちゃんのこと呼ぶ声でも聞こえてた? どこにいるんですか的なことも繰り返してて」
まずい、まずい、まずい。顔が熱い。やめてほしい。言わないでほしい。
でも、煥くんが追い打ちを掛けてくる。
「柔らかいとか、さわりたいとか、もっと強烈な言い回しも、露骨な単語も」
「だよね~。おっぱいって何回も聞いた。海ちゃん、おっぱい好きなんだねー」
「涼しい顔してるくせに、けっこうフツーにそういうこと考えてんだな」
「知識欲や探求心が旺盛で頭のいい研究者タイプは、あっち方面のアレも旺盛で研究熱心とかいうしね」
ひどい。否定できない。あんまりだ。
「さらし者じゃないですか……」
鈴蘭さんが胸の前でこぶしを握って、目を輝かせた。
「いつでも相談に乗りますから! 男子の恋バナって、すごく興味あります!」
「興味本位……」
「海牙さんの声がいろいろ聞こえてしまったときはビックリしましたけど、情熱的なのはとってもいいと思います!」
ぼくは、ほてった顔を手で覆った。
リアさんのことは嫌いじゃないし、年上の女性には妄想をいだいてきた。でも、これを恋だと言える自信はまったくない。欲望交じりの憧れに過ぎない。後ろめたくて仕方がない。
子どものころ、一度だけ家族旅行をした。父が運転する車に乗って、母が昔から憧れていたという高原のペンションで、一週間ほど過ごした。深い湖のそばだった。両親は毎日、湖畔を散歩した。ぼくは湖に潜った。
宇宙飛行士の月面での作業を想定した訓練は、水中でおこなわれる。そう聞いたことがあった。実際に水中の感覚を知って、妙に納得した。
重力の掛かり方が日常とは違って、浮力と水圧がぼくの行動を制限した。大気がないから、音の伝わり方もまるで違った。軽いのに、重たいような体。目を閉じて思い描いたら、地球を遠く離れているかのようだった。
ひんやりとした暗闇に包まれて、心地よかった。息が苦しくならないのなら、ずっとこの場所にいたい、と思った。
そんなふうに、ぼくは今、潜っていく。
これがリアさんのココロなら、きっと湖よりも、はるかに深い。
――海牙くん。
こぽこぽと、こもったような澄んだような音が聞こえた。声だろうか。遠くからかもしれない。耳元でささやかれたかもしれない。距離なんて意味がないのかもしれない。
水のようなこの場所の温度は、ときどき冷たい。本物の笑顔を見せないリアさんの、凍った怒りを思い出す。
――海牙くん。
【リアさん】
水が柔らかくて温かいときもある。何度か触れた体は、そんなふうだった。また触れたいと望んだら、怒られるかな。
心を見せたがらないあなたのココロの底に、ぼくはもうすぐ降り立つ。この上なく無礼で卑怯なふるまいだ。こんなぼくに、あなたは、どんな景色を見せてくれますか?
――海牙くん。
ぼくを呼ぶ声が聞こえる。
【リアさん】
ぼくも何度も、彼女の名前を呼んだ。
ふと、ぼくは目を開けた。硬い床の上に倒れている。
磨き込まれた木材が視界に映った。体を起こすと、先に理仁《りひと》くんが目を覚ましていた。木製タイルの壁に背中を預けて、ぼんやりと自分の手のひらを見ていた。
「お、海ちゃん、起きた?」
「魂珠の中ですか? ここが?」
「みたいだね~」
「体感も何もかも、現実と変わりませんが、ぼくたちは今、精神だけなんですよね?」
「だね~。チカラも相変わらずだ。ちなみに、おれ、海ちゃんの寝言で起きたよ」
理仁くんがニマニマしている。イヤな予感しかしない。
「……ぼくが、何を言ってました?」
「アドバイスしとく。八歳の年齢差、むしろ逆手に取るほうが近道だよ。年下男子のかわいさで、こうグイグイと……」
「誤解です!」
「でも、海牙さん、リアさんのこと好きなんでしょう?」
振り返ると、鈴蘭さんがニコニコしている。煥《あきら》くんも、身軽に跳ね起きたところだ。
「好きって……まあ、人間として、嫌いではありませんが」
「そうじゃなくて、恋です」
「さよ子さんみたいなこと言わないでください」
鈴蘭さんはニコニコ顔でかぶりを振った。
「さよ子って鋭いですよね。海牙さんをからかってるだけかと思ってたけど、見抜いてたみたい」
「だから、何を根拠に、何を言ってるんですか?」
鈴蘭さんが煥くんを見た。めったに笑わない煥くんまで、唇の端をかすかに持ち上げている。
「マジで自覚ないのか?」
「自覚って、何の自覚ですか?」
「ここに来るまで、水に潜ってる感触だったろ?」
「はい」
「右も左も上も下もわからなくて、暗くて息苦しくて、流されそうで」
「流されそう? ぼくは、まっすぐ深い場所まで潜るような感じでしたよ。息苦しさは感じなかったし、スムーズでした」
煥くんは肩をすくめた。
「オレは、洗濯機にでも放り込まれたみたいに、ひどい流れに呑まれてた。真っ暗な激流の中で、海牙の声に引っ張られて、ここに落ちてきた」
「わたしも煥先輩と同じです」
「ビミョ~に悔しいけど、おれも同じく」
「ちょっ、え……ぼくの声?」
思わず喉に手を触れたけど、もちろん違う。肉声じゃなくて、思念のほうだ。
「海ちゃん、また謝ってたろ? 勝手に入り込んでごめんなさい的な感じ。あと、姉貴が海ちゃんのこと呼ぶ声でも聞こえてた? どこにいるんですか的なことも繰り返してて」
まずい、まずい、まずい。顔が熱い。やめてほしい。言わないでほしい。
でも、煥くんが追い打ちを掛けてくる。
「柔らかいとか、さわりたいとか、もっと強烈な言い回しも、露骨な単語も」
「だよね~。おっぱいって何回も聞いた。海ちゃん、おっぱい好きなんだねー」
「涼しい顔してるくせに、けっこうフツーにそういうこと考えてんだな」
「知識欲や探求心が旺盛で頭のいい研究者タイプは、あっち方面のアレも旺盛で研究熱心とかいうしね」
ひどい。否定できない。あんまりだ。
「さらし者じゃないですか……」
鈴蘭さんが胸の前でこぶしを握って、目を輝かせた。
「いつでも相談に乗りますから! 男子の恋バナって、すごく興味あります!」
「興味本位……」
「海牙さんの声がいろいろ聞こえてしまったときはビックリしましたけど、情熱的なのはとってもいいと思います!」
ぼくは、ほてった顔を手で覆った。
リアさんのことは嫌いじゃないし、年上の女性には妄想をいだいてきた。でも、これを恋だと言える自信はまったくない。欲望交じりの憧れに過ぎない。後ろめたくて仕方がない。