LOGICAL PURENESS―秀才は初恋を理論する―

 ノッカーを叩く音がした。礼儀正しい余白の後、静かにドアが開く。
「失礼いたします。そろそろお食事をお持ちしようと思いますが」
 総統の執事の天沢《あまさわ》さんだ。白髪の老紳士で、いつもまったく隙がない。瑠偉と同じように、等級の低い宝珠の預かり手でもある。
「ああ、よろしく」
 総統にそう告げられた天沢さんは、ワゴンを押して部屋に入ってくる。
 天沢さんは、洗練された動作でテーブルをセッティングした。箸や布ナプキンを一人ずつの前に置いていく。
「ありがとうございます」
 礼儀正しく笑顔をつくった鈴蘭さんが次の瞬間、「えっ」と息を呑んだ。
 さよ子さんが、さも当然そうに鈴蘭さんに笑った。
「天沢さんの背中の翼、かわいいでしょ! あったかくて、羽根はつやつやすべすべなの。羽毛はふかふかだし。それに、一応、飛べるんだよ」
 天沢さんは生まれつき、背中に羽毛があったらしい。思春期、体の成長とともに翼も伸びて、隠せなくなった。平井家が彼を見出さなかったら、生きる道がなかったという。
 天沢さんは穏やかな微笑で、さよ子さんの言葉を訂正した。
「一応ではありません。私はきちんと飛べます」
「引退したのかと思ってた。だって、最近、抱えて飛んでくれないんだもん」
「お嬢さまがお年頃になられたからです」
 みんな唖然としている。ぼくはさすがに慣れた。これが平井家の日常だ。
 煥《あきら》くんが天沢さんの翼を気にしながら、総統に鋭い目を向けた。
「この屋敷はどうなってるんだ? あんたは能力者を集めてるのか? それに、あんた自身、能力者だよな?」
 総統が両肘をテーブルの上に突いて、両手の指を組み合わせた。軽く身を乗り出すと、組んだ両手の上にあごを載せる。
【ここはちょっとしたお化け屋敷、かもしれないね。私は、能力者そのものを集めているわけではない。私の特殊な体質のために必要なものを集めている】
 笑顔の総統の口元は動いていない。声は、音を伴わないそれだ。
「特殊な体質って、何だ?」
【チカラが強すぎて困っている】
「あんたのチカラ、テレパシーだけじゃないのか?」
 唐突に、煥くんが立ち上がった。違う。浮き上がった。
「なっ……お、おい、何だこれはっ!」
 煥くんは不可視の十字架に張り付けられた体勢で、天井まで吊り上げられている。両手のこぶしの形が硬い。歯を食いしばる表情。力を込めて抵抗している。
【なかなか力が強いね。高校生の男の子は体力があってうらやましい】
「ふざけんな! 離せよ、おい! くそ、障壁《ガード》も封じやがって!」
【このとおり、私は割と何でもできるのだよ。肉体そのものは、普通の人間だがね】
 さよ子さんが割り込んだ。
「普通の中年オヤジよりは、体、シュッとしてるよ! パパ、鍛えてるもん」
 意味が若干ズレている。
 理仁《りひと》くんが、ハッキリと青ざめた。無理やり笑ってはいるけれど、総統を見る目が怯《おび》えている。
「すっげー失礼なこと言いまくるんだけど、平井のおっちゃんも海ちゃんも大目に見てね。視界、めっちゃ気持ち悪い。おっちゃんがチカラ使ってるとき、情報量が意味わかんねえ。この数字でも文字でも記号でもないコレ、うじゃうじゃ動き回ってて、気持ち悪すぎ」
 ぼくの力学《フィジックス》は、三次元的な物理法則を読み解くチカラだ。宝珠や能力者のチカラは、その物理法則に属さない。そこにエネルギーが存在することは見えても、ぼくのチカラでは解析できない。
 理仁くんはギュッと目を閉じた。それがいいと思う。
「力学《フィジックス》で異能を直視しちゃダメですよ。解析できない情報があまりにも多くて、めまいがするでしょう?」
「めまいってか、鳥肌。背筋がぞわぞわする」
「虫が苦手なタイプですか? 脚の多い虫とか、集団になってる虫とか」
「そう、それ。めっちゃ苦手。あのぞわぞわ感と一緒だゎ」
 理仁くんはまぶたを閉じた上に、右手で目元をすっかり覆っている。額にうっすらと汗が見えた。
 さよ子さんがまた、すっとぼけたことを言い出した。
「理仁先輩の手、指が長くてキレイですね! 目元覆ってるポーズ、すっごいセクシーというか!」
 さよ子さんには黙っていてほしい。まじめな話が引っ掻き回される。
「海牙さん、今、余計なこと考えたでしょ!」
「え? 声、洩れてました?」
「顔に出てました!」
「……別に何も考えてませんが」
「わたしは決して天然じゃないです!」
【天然なんてかわいい表現、使ってない】
「ほら今! また余計なこと考えた!」
「……総統、話、続けません?」
「海牙さんが逃げた!」
 総統はぼくを見てうなずいて、口を閉ざしたまま、話題の軌道を修正した。
【宝珠は、その等級如何で、預かり手の能力の強さを決定する。四獣珠は比較的、等級が高い。陰陽を司る二極珠には劣るが、第三位と言っていいだろう。第一位が何か、誰か想像がつくかね?】
 誰か、と問いを投げ掛けられたのは、理仁くんと煥くんと鈴蘭さんだ。それ以外のぼくたちは、総統が預かる宝珠の正体を知っている。
 ヴォーカリストのしなやかな声が降ってきた。
「この地球上でいちばんデカい球体ってわけだろ? そんなの、決まってる。地球そのものじゃねぇか」
【よくわかったね、煥くん。いつも、なかなか気付いてもらえないのだよ】
 ぼくも瑠偉も、正解に至るまでに時間がかかった。だって、ぼくたちの宝珠は直径20-23mm程度だ。その先入観があるから、まさか平均直径約12,730kmの地球が宝珠の一つだとは思わない。
【大地聖珠《だいちせいしゅ》、と呼ぶのだ。私は地球という天体を預かっている。別の言い方もできる。私は、運命という大樹におけるこの一枝を預かっている】
「運命かよ? あんたは神さまなのか?」
【神ではない。私は人間として生まれ、人間の肉体を持っている。天地創造をしたわけでもないし、不老不死でもない。最近は花粉症が気になったりする、普通の人間だ】
「でも、化け物級のチカラがあるじゃねぇか。何でも知ってやがる。運命を預かるなんて、普通の人間の仕業じゃねぇよ」
【運命の一枝、だ。運命は、多数の可能性の枝を持つ大樹の姿をしている。私は運命の大樹そのものではなく、一枝のみを識《し》る者だ】
 鈴蘭さんが、そろりと手を挙げた。
「あの、平井さん、お願いがあるんですけど」
【何かな?】
「煥先輩を下ろしてあげていただけませんか? けっこう、つらそうです」
 鈴蘭さんの指摘で、みんな煥くんを見上げた。煥くんの端正な顔に汗が伝っている。ひそかに暴れ続けていたらしい。総統の拘束は筋力でどうにかなるものじゃないのに。
【じゃあ、放そうか】
 天井の高さにある煥くんの体が、ふっと支えを失う。息を呑む気配と短い悲鳴。けれど、当の煥くんは身軽に宙返りして、床に降り立った。
「危ねぇな。普通ならケガしてるぞ」
 普通じゃない身体能力の煥くんが、平然と言い放つ。天沢さんもまた平然として、総統のそばに立った。
「失礼いたします、総統。テーブルのセッティングをいたしますので、肘をどけていただけますか?」
「ああ、これはすまない」
 煥くんが自分の席に戻って、両肩を軽く回した。
「そんだけチカラが強いくせに、妙に平等なんだな。偉ぶったやつなら、こんな丸いテーブルは使わねえ。給仕の順番も、自分を最初にしたがる」
 煥くんの口調に愛想がないのは、これが彼のスタンダードなんだろう。総統に敵意をいだいているからじゃない。
「私は決して偉くないからね。ただ単に、巨大な宝珠を預かっているだけだ。チカラが強いぶん、禁忌も大きい」
「禁忌?」
「きみたちにはろくな情報提供ができない。協力もできない。私が不言不動でなくては、因果の天秤が均衡しない」
 理仁くんがようやく、手を下ろして目を開けた。
「あーもう、さっきはビビった~。で、やっとわかりましたよ。平井のおっちゃんが、全身にじゃらじゃら宝珠をくっつけてる理由」
「じゃらじゃら宝珠を、ですか?」
 鈴蘭さんが、思わずといった様子で胸元に触れた。ペンダントの青獣珠がそこにあるはずだ。
「ほんっと、じゃらじゃらだよ~。海ちゃんモードの視界だと、チカラがあるのが見えんだよね。等級が低いのから高いのまで、いろいろ。おっちゃん、それ、結界でしょ? 自分のチカラが暴発しないように、宝珠のチカラで抑えてる」
 瑠偉と天沢さんがうなずいた。二人とも、宝珠を総統に譲渡した。理仁くんの予測どおり、結界を作るためだ。
 だから、この屋敷には能力者が集まっている。総統のチカラの抑制に協力する預かり手が、宝珠を総統に譲渡する、あるいは貸与する。その見返りとして、総統から仕事を与えられている人も多い。複数の企業を経営する総統のもとでなら、異能を活かした仕事ができる。
 食事が運ばれてきた。洋風の部屋には不似合いだけど、和食だ。野菜や煮物を中心とした、高級料亭の弁当風。
 鈴蘭さんが目を輝かせた一方で、煥くんが不満そうな顔をした。気持ちはわかる。これだけじゃエネルギーが足りない。
 そのあたりは、もちろんフォローがあった。鶏の唐揚げとキャベツのサラダが大皿でやって来た。おかわり用の雑穀米のおひつも一緒だ。
 いただきますと手を合わせてから、またにぎやかになった。
「煥先輩、唐揚げ、取り分けますね」
「あー、鈴蘭、ずるい!」
「……自分でやる」
「おーい、おれにも回して」
「あ、瑠偉くん、取り分けるね♪」
「くん付けかよ。おれのが年上だってば」
 理仁くんが静かだ。隣にいると、ポーズだけの笑顔に隠してため息をつくのが聞こえてしまった。
「大丈夫ですか?」
 理仁くんは箸を持ったまま、弁当に目を落としていた。
「数字がうじゃうじゃすぎて食欲が失せるっていうか。米が何粒あるのか、表示されるんだね~。表面に見えてるぶんと、全体の推定の数。目ぇ凝らしたら、温度まで見えた」
 そう、食卓上の光景は、ぼく本来の視界とって、かなり疲れるものだ。粒や繊維の形状をした食べ物には、その個数が表示される。温度や体積も、見ようとすれば見える。
「茶碗だったら、持ったときに重さも見えますよ」
「だよね。昼飯でサンドウィッチの重さが表示されてビビった」
「小麦粉の粒子が見えないぶん、パンがマシでしょう? 素材の形がなくなっている食べ物のほうが、疲れないから好きです。固形のバランス栄養食とチョコレートでカロリー補給することも多いですよ」
「海ちゃんって、ガンガンの理系じゃん?」
「リヒちゃんは、文系ですか?」
 ふざけた呼び方を、思い切ってまねしてみた。一瞬、理仁くんが目を見張って、それから笑った。本物の笑顔だった。
「おれは文系。おれのチカラ、言葉に直結してるから、日本語にせよ外国語にせよ、言語系だけは飲み込みがえらく速いんだよね。一方でさ、努力してないから、数字はほんと苦手」
「じゃあ、今の視界、鬱陶しくてしょうがないでしょう?」
「しんどい。理系の海ちゃんでも、この米粒の数字、疲れんだよね?」
「疲れますね」
「おれ、泣きそうだよ。食べ物がこんなにストレスフルな存在になるとはね~」
 さよ子さんが勢いよく立ち上がった。
「理仁先輩、困ってるんですね? ってことは、わたし、ほっとけないです! 目をつぶって、あーんしてください。わたしが食べさせてあげますっ」
 朱い目を見張った理仁くんは、ポロッと箸を落とした。
「あ~、気持ちは嬉しいんだけど、そういうのをパパの前でやるのはどーかなーって思うんだよね」
 にぎやかで、なごやかな夕食だった。何のためにここに集まっているのか、しばし忘れそうなほどに。
 会話の輪に加わる理仁くんが、ふっと黙り込むことがある。表情を消して、目を閉じて、息をついて、かぶりを振って、うなずいて、自分の中で何かに納得して、また目を開ける。会話に加わって、一言ごとにおどけてみせる。
 強い人だ。
 ぼくでさえ、リアさんのことが心配でならない。あせりが胸を圧迫するから、じっとしているのが苦しい。リアさんの弟である理仁くんが平気なはずはない。
 でも、総統が、動くべき時だと告げない。この一枝に起こる出来事をすべて把握できるのに、ぼくたちをここに留め置いている。それはつまり、まだ時が満ちていないから。
【不安かね、海牙くん?】
 総統の声に、ハッと顔を上げる。ほかの誰も反応していない。ぼくだけに聞こえる声だ。
 理仁くんなら、同じように思念の声をコントロールして、ほかの誰にも聞かれることなく応答できるんだろう。ぼくにはそのやり方がわからない。
 ぼくは、小さく一つ、うなずいた。
【今のところ、彼女の命に別状はない。肉体を損ねたりけがされたりもしていない。ただし、この先はきみたち次第だ】
 運命の一枝が分岐するポイントでは、総統にも明確な未来が見えない。一枝はブラックボックスの中で生長する。評価値を満たす生長をおこなうなら、未来は続いていく。おこなえないなら、一枝ごと淘汰される。
 彼女を無事に救出できるのか。ぼくと理仁くんの能力はもとに戻るのか。そもそも、ぼくたちは生存できるのか。
 不確かな未来へと、とにかく進んでみるしかない。
 食事を終えた。紅茶とコーヒーが運ばれてきた。せっかくだからデザートも、と、さよ子さんが騒ぐ。
 熱すぎる紅茶にミルクと砂糖を入れて、冷めるのを待っていた。スプーンで掻き混ぜてできた渦を見ながら、渦って何だろうと考える。螺旋《らせん》状の流線。渦度の定義も、それを求める式もあるのに、渦そのものが何かをハッキリと定義した本には出会ったことがない。
 好きな渦は、銀河の形だ。渦巻銀河は、横から見るのも上から見るのも、かわいい形をしていると思う。銀河の中心にあるブラックホールも、いつかどうにかして自分の目で見てみたい。
 けれど、それを見るための目が、今のぼくには。
 思索の迷路に踏み込みかけた、そのときだった。
 ポケットでスマホが振動した。何となくピンと来て、慌ててチェックする。
【リアさん!】
 メッセージの内容を確認するより先に叫んでしまった。けっこう大きな声だったから、全員の注目が集まった。
「あ、いや、あの、リアさんのIDからメッセージが……」
「海牙、おまえ、すげー嬉しそうな顔したぞ」
「それは、だって、当然でしょう? ようやく新しい情報を得て、これから動けるじゃないですか」
「何でおれんとこじゃなくて海ちゃんに?」
 理仁くんが冗談っぽく言った。瑠偉が冷静に、非情な事実を突き付けた。
「彼女本人が送信者じゃないからだろ。文天堂がいちばん嫌がらせしたい相手は、たぶん、海牙だ」
 スマホのロックを外して、メッセージを確認する。瑠偉は正しかった。
〈人質の命は無事だ〉
〈眠らせてある〉
〈様子を知りたければこちらへ来い〉
〈TOPAZに今夜〇時〉
〈必ず四獣珠を持参しろ〉
 ぼくがトークアプリを開いているのを確認した上でメッセージを送っているらしい。次々と短文が投げ付けられてくる。ぼくはそれを読み上げる。みんな、しんとして聞いている。
 唐突に、一枚の写真がトークルームに上げられた。
〈よく撮れているだろう?〉
【リアさんリアさん赤いドレスだ目を閉じている眠っている昨日と違う服だ印象が違う化粧が違うのか髪型が違う眠っているリアさんリアさん赤いドレスを着ている助けに行かないと危険だ危険だ祥之助許せないリアさんに触れた許せない助けに行……】
「…………っ!」
 写真のインパクトが強い。口で説明できない。ぼくは、画面を開いたスマホをテーブルに投げ置いた。
 理仁くんが無言で、テーブルをこぶしで打った。
 ひどくキレイな写真だった。
 赤いドレスをまとったリアさんが、目を閉じて横たわっている。膨らみの形もあらわな、広く開いた胸元。赤いバラがあちこちに散らしてある。棺《ひつぎ》の中で花とともに眠っているようだ、と感じてしまった。
 総統が静かに言った。
「車を用意してある。時間になったら、行ってくるといい。心を強く持って、くれぐれも気を付けて」
 さよ子さんが、鈴蘭さんにギュッと抱き付いた。
「預かり手じゃなきゃ、行けないんだよね。鈴蘭、絶対に無事で帰ってきてよね? 昨日も、ほんとにすごく、心配だったんだからね?」
 瑠偉がぼくにUSBメモリを差し出した。
「持っといてくれ。USBメモリのふりした別物なんだ。おれのPC宛てに、位置情報が送信される。確実に何かの役に立つわけじゃないけど、待機してるだけのおれらにしてみたら、何でもいいから情報がほしいんだ」
 ぼくは情報発信装置をポケットに入れた。心配されていることも、情報が不安を和らげることも、痛いくらいよくわかった。
 車は少し、獣の匂いがした。運転手を務めるアジュさんは能力者だ。運転中の今は人間の姿だけど、巨大な黒い犬の姿に変身することもできる。
 通常、この時間帯は、アジュさんは犬の姿で夜勤だ。庭に放してある警備用の犬たちを統率している。人間の姿でも犬の姿でも、軽快な口調でしゃべってよく笑う、いたって気のいい三十代。
「武器や小道具が必要なら、持っていけよ。そのへんに載せてるやつは自由に使っていい」
 警棒、ナイフ、メリケンサック、エアガン、スタンガン。雑多な武器が頑丈なプラスチック製の箱に入っている。
 ぼくはちょっと呆れながら尋ねた。
「見本市みたいですね。これ、どうしたんですか?」
「不良少年どもから巻き上げた」
「巻き上げたって?」
「市内には、警察が機能してないエリアがあるだろ? そういうエリアの取り締まりを請け負ってんだよ。いわば、傭兵だな。総統がやっておられる手広いビジネスの一環だ。海牙、知らなかったか?」
「アジュさんたちが警備会社の看板を掲げているのは知ってましたが、具体的に何をしているのかは知りませんでした」
 鈴蘭さんが顔を曇らせた。
「武器を持つって、イヤですよね。暴力なんて、本当はよくないのに」
 煥《あきら》くんは、攻撃力の高そうな手袋をはめてみている。
「向こうが襲ってこなけりゃ、こっちからは仕掛けねえ。でも、襲われて素直に殴られる趣味はねぇな」
「わかってます。リアさんを救出するまでは、甘いことは言ってられません」
「あんたは武器なんか持つな」
「どうしてですか? わたし、ただでさえ足手まといなのに」
「重いんだよ、こういうの。逃げる邪魔になる」
「逃げる、ですか……」
 夜の裏通りは時折、改造バイクの爆音がする。暴走族気取りの不良集団、緋炎の集会だろう。彼らのバイクは、改造によってエネルギーの伝達効率が非常に悪くなっていて、エンジンをふかすたびにひどい振動を起こす。あの無秩序さは、見ていて気持ちが悪い。
 煥くんが吐き捨てた。
「不細工な音だ」
 煥くんのバイクはメンテナンスが行き届いていた。古いようだったけれど、機械の挙動に無駄がなくて美しかった。
 大通りに出た。深夜を迎えて、ビルの明かりは少ない。目的地が近付いてくる。
 理仁《りひと》くんが顔を上げた。
「さーて、気合い入れよっか。姉貴も取り戻さなきゃだし、おれ自身、このまんまじゃ困るんだよね~。おれと海ちゃんのチカラ、もとに戻さないと」
 煥くんが腕組みをして息をついた。
「正面からケンカしたんじゃ、数で押し切られるだろ。オレの出番が少ないことを祈る。オレはケンカしか能がない」
 ぼくは服の上から玄獣珠に触れた。
「リアさんを解放する条件は、四獣珠との引き換えでしょう。その取引、素直に受けますか?」
 やだね、と理仁くんが言った。
「そういう一件落着は、やだね。お坊ちゃんのわがままも黄帝珠の復活も、絶対に止めてやる」
 ファッションビルSOU‐ZUIは、エントランスが点灯されていた。ビル全体は暗いのに、道しるべのような照明だけが煌々《こうこう》としている。明かりの下、エスカレータが稼働しているのが見えた。
 アジュさんは運転席で、ぼくたちに敬礼した。
「健闘を祈る。宝珠の話となると、大人も子どももない。何の助けにもなれなくて、すまないな」
 みんな、かぶりを振った。改めて言われなくても、わかっている。
 ぼくは微笑んで、アジュさんに敬礼を返した。
「車を出してもらっただけで十分ですよ。終わったら連絡しますから、迎えに来てください」
 無人のファッションビルを、最上階へ。点灯された経路に従って上っていく。吹き抜けになったビルの中央に設置されたエスカレータ。エレベータが稼働している様子はない。階段の前には、檻のようなシャッターが下ろされている。
 罠がある可能性も考えた。でも、立ち止まっていても、時間を浪費するだけだ。進むしかない。
「うわっと」
 理仁くんが、エスカレータからフロアへ乗り移るときにつまずきかけた。
「先輩、大丈夫ですか?」
「だいじょぶ。てか、鈴蘭ちゃん、ぶつかってゴメン。赤外線に目ぇ奪われててさ」
 あのへん、と理仁くんは指差した。防犯センサーから放射される赤外線が多数、その空間に走っているらしい。
 ぼくはエスカレータの数段下にいる理仁くんを振り返った。
「それが赤外線だと、よく気付きましたね」
「見たことあるからね。赤外線って、人間の目には見えないけど、デジカメとかスマホのインカメとか使えば、感知できるじゃん? そういうの駆使して、防犯用の赤外線センサーを全部、無効にしてやったことがあるんだ。姉貴と二人で」
「防犯用のセンサーを無効化って、何ですか、それ?」
「怪盗ごっこ」
「はい?」
「ってのは冗談で、家出したときに使ったんだよ。フツーに家出できない環境だったからさ」
 先頭を行く煥くんが、横顔だけで振り返った。
「兄貴から、理仁の事情を少し聞いてた。朱獣珠のことで父親と対立してるって。だから国外に逃げてたって。オレも、できることは協力する。今回みたいに」
 理仁くんが肩をすくめた。
「高校の入学式で、あっきーの兄貴と初めて会ってさ、おれの号令《コマンド》が効かなくて、何だこいつって思って。預かり手の血筋だと、マインドコントロールにかかりにくいじゃん? 初めての対等な友達。すげー信用したし、頼っちゃったよね。ほんと、いろいろ相談した」
 理仁くんの目はだんだんと伏せられた。彼の頭にあるのはきっと、リアさんのことだ。
 さらわれてしまった。預かり手ではないのに、宝珠を巡る争いに巻き込んでしまった。今、リアさんは、預かり手のぼくたちよりも危険な状態にさらされている。
 もっと早くぼくたちが集結していれば。祥之助が黄帝珠を見付け出すより先に、協力体制を築いていれば。そもそも、理仁くんの父親に宝珠への執着を断たせることができていれば。
 後悔から立つ仮説が、むなしく、ぼくの胸を支配していく。ダメだ。考えちゃダメだ。思念の声が外に洩れたら、みんなの士気を下げてしまう。
 最上階は人の気配に満ちていた。微動だにせず沈黙している気配。例によって、黒服の戦闘要員が多数配置されているんだろう。
 カフェレストランTOPAZは、過剰なほどの照明に彩られていた。きらきらしい情景の中で、ぼくの視線はまっすぐにフロアの中央へと惹き付けられる。
 台座の上に横たえられた、赤いドレスのリアさん。
 ぼくは立ち尽くした。理仁くんは駆け出した。すぐに転びかけて、駆け付けた煥くんに支えられた。
「二分遅刻だ、四獣珠の預かり手の諸君。でも、よく来たな」
 祥之助は黄金色の両眼を薄笑いに細めた。黄帝珠も祥之助のそばに浮いて、ざらざらと耳障りな声で笑った。
 主従関係は、どっちのベクトルなんだろう? どっちを先に倒せば効率がいいんだろう?
 誰よりもよく見える目を祥之助と黄帝珠からそらさずに、もっときちんと観察しておけばよかった。解けない計算式と読めない文字の膨大な羅列であっても、考えるためのヒントや問題解決の糸口がそこにあったかもしれないのに。
 鈴蘭さんがつぶやいた。
「あの人、正気じゃありませんよね? これが正気の人間のやることだとは信じたくないです」
 つぶやきは祥之助には聞こえていない。祥之助はソファから立って、革靴を鳴らしてリアさんのほうへと歩み寄る。
「早速、話を始めようか。ボクらの要求は、四獣珠だ。おとなしく渡してくれれば、この女を返そう」
 理仁くんが笑い捨てた。
「四獣珠を渡して、黄帝珠を復活させて? そんな状況でおれらだけ無事でも、姉貴はブチキレるね。一日、じっくり考えた。そんで結論出した。お坊ちゃん、てめぇに四獣珠は渡せねーよ!」
 祥之助は両腕を広げて肩をすくめた。
「盾突いてくるとは思っていたよ。だから、ゲームを用意した。勝負して決めないか? ボクらが勝ったら、四獣珠をもらう。おまえたちが勝ったら、女を解放する」
 祥之助がリアさんを見下ろした。じっとりと、なめるような視線。ぼくの体の奥が、カッと熱くなった。
【そんな目で彼女を見るな!】
 指向性のある声だと、自分でわかった。ぼくの思念が鋭い波動となって、祥之助に向かって飛ぶ。
 パシン!
 静電気による火花放電に打たれたかのように、祥之助が顔をしかめる。
「変な考えを起こしているのはおまえのほうだろう、阿里海牙。ボクをおまえと同列に扱うな」
 理仁くんが祥之助に指を突き付けた。
「姉貴の弟としてハッキリ言わせてもらうけど、きみのやってることのほうが気持ち悪いよ。ストレートにスケベな海ちゃんのほうがマシ」
「その言い方もどうかと思いますけど」
「人質を着せ替え人形にして支配下に置いてますってポーズ、マジ気持ち悪い。ボコボコにして縛り上げて転がすんじゃなく、無傷でキレイなまま眠らせておくって発想も、マジ気持ち悪い。人を支配しよう拘束しよう操縦しようって考え方が、超絶マジ気持ち悪い」
 朱い目はまっすぐに祥之助をにらんでいる。
 祥之助の薄笑いは揺るがない。祥之助は黄帝珠を手招きした。黄帝珠の四つの破片はギラギラしながら祥之助の頭のまわりを巡る。まるで、いびつな王冠だ。
 祥之助の右の手のひらが、黄帝珠と同じ色にぎらついた。ニヤリとした祥之助は、その右手を、リアさんの胸に押し当てた。
【ふざけるなふざけるなふざけるなッ! その手を離せ!】
【こざかしい】
 黄帝珠が唸って、ぼくの声を打ち払う。
 祥之助の手のひらが、ずぶりとリアさんの胸へと沈み込む。ピクリと、リアさんの体が小さく跳ねた。
「……あった」
 祥之助は指先で何かをつまみながら、右手を引き上げた。
 それは宝珠に似ている。オーロラ色、とでも言おうか。変化しながら揺らめく光が、独特のグラデーションを呈している。
 理仁くんが声を震わせた。
「姉貴の体温と心拍数が……血圧も呼吸数も、下がった。こんなんじゃ死ぬよ。おい、てめぇ、姉貴に何をしたっ!」
 その表現に、ピンと来た。冬眠中の動物のように、肉体の活動が生命維持に必要な最低限の状態。
 魂《コン》を抜かれたんだ。祥之助の手にあるオーロラ色の球体が、リアさんの魂《コン》なんだろう。
 祥之助は平然としている。
「今までの経験上、こうなっても、すぐには死なないよ。見えるか? これは魂珠《こんしゅ》という。取り出したばかりなら、こんなふうにキレイなんだ。これが濁ってくると、体のほうも弱り出すんだが」
 つまり、祥之助は知っているんだ。魂珠がやがて濁り、取り出された宿主が死ぬまでの過程を。
 鈴蘭さんがローファーの靴音を響かせて進み出た。
「リアさんが言ってました。プライドが高い男には二種類いるって。そういう男は、ときどき、傷付ける対象を探すんだって」
「おい、鈴蘭」
 煥くんが鈴蘭さんに呼び掛ける。鈴蘭さんは足を止めない。祥之助のほうへとまっすぐ歩いていく。
「わたし、納得したんですよ。自分の実力を信頼しているなら、彼は自分を傷付ける。実力を発揮できない自分が不甲斐ないから。でも、彼の実力が虚構のものなら、彼は他人を傷付ける。他人を踏み付けにすることでしか、自分を誇れないから」
 祥之助は鬱陶しげに目を細めた。
「黙れ、青龍」
「黙りません」
「生意気な」
「煥先輩も長江先輩も海牙さんも、自分を傷付ける人です。痛々しいくらい自分を傷付けて責めて、それでもあきらめない。あなたは違いますよね。他人を傷つける人です。虚構の実力の上にあぐらをかいている人」
「黙れ」
「目を覚ましたらどうですか? 自分の意志とは違うモノに影響されて、自分のこと見失って。そうじゃないの? それとも、そんなふざけた状態なのに、寝ぼけてすらいないんですか?」
 祥之助は無言で腕を振り上げた。が、動きはそこで止まる。
 鈴蘭さんが両手を祥之助のほうへ突き出していた。何かを持っている。バチッと電流が爆ぜる音がして、持ち物の正体がわかった。スタンガンだ。
 黄帝珠が、さび付いた声を上げた。
【気に留めるでない、祥之助。所詮、弱き駄犬の無駄吠えだ。早く、事を運ぼう。我らを愚弄した罪は重い。五人まとめて「謎の衰弱死」を遂げてもらおうぞ】
 煥くんが鈴蘭さんの肩をつかんで引き寄せて、祥之助から離した。
「謎の衰弱死? 何を言ってやがる?」
【肉体を損ねれば、現世の法がやかましい。かような愚行、我らは冒さぬ。なに、魂《コン》を抜いて精神を昏睡させるのみで十分なのだ。魂《コン》を失った肉体は、おのずと滅ぶ。さて、ここにすでに遊戯の舞台を用意してある】
 黄帝珠が、ざらざらと不快な笑声を放つ。祥之助は、その笑声を視覚化したような浅ましい表情を、華やかな顔に貼り付けた。
「さあ、預かり手の諸君、ゲームをしよう。ボクらが用意した迷宮から、制限時間内に脱出してもらう。ゲームをプレイする間、おまえらの肉体は無防備な状態にさらされるが、ボクらはルールを守る。おまえらの体には一切さわらず、四獣珠にも手を付けない」
 文脈から推測するに、その迷宮は物理的な存在ではない。肉体に関与せず、精神のみが分け入ることのできる世界だ。
 ぼくたちは目配せを交わした。うなずき合う意味は、挑戦。
 理仁くんが祥之助を見据えた。
「それで? どこに迷宮とやらがあるわけ? その脱出ゲーム、さっさと始めちゃいたいんだけど」
 ここだ、と祥之助が右手を掲げた。リアさんの魂珠が指先にとらえられている。
「魂珠の中こそが迷宮だ。ボクが今まで試した限り、魂珠は砕くことも割ることも燃やすこともできない。ただし、中に入ることができる。安全が確保できるのは一定時間内だけだが」
【おぬしらをこの魂珠の中に連れていってやろう。魂《コン》、すなわち人間のココロは、おのずから迷宮だ。おぬしらが時間内に迷宮を抜け、ココロの核に至れば、おぬしらを外に戻してこの女も解放しよう】
 理仁くんが問う。
「おれらが一定時間内にゴールできなかったら? おれらはどうなんの?」
 黄帝珠がチカラの腕を魂珠へと伸ばす。黄金色にまとわり付かれて、魂珠は嫌がるように発光した。でも、光は淡い。黄帝珠のチカラに呑まれて、淡いオーロラ色は次第に見えなくなる。
「それはまだボクもやったことがないな。他人のココロの中に置き去りにされたら、どうなるのか。まあ、普通に考えて、昏睡状態のままだろう」
「じゃあ、姉貴はどうなる?」
「異物を取り込んだ状態のココロは、早く濁る。濁り切ったら、もう意識は回復しないよ。冬眠状態の体はやがて、衰弱して死に至る」
 黄帝珠を中心に、不快な力場が広がる。黄金色の光を浴びるぼくたちは、誘い込まれ、呑み込まれようとしている。
 ぼくは、横たわるリアさんを見た。
 リアさんがとらえられたのは、ぼくをかばったせいだ。祥之助の危険性を見くびって放置したのも、ぼくのミスだ。
 そして今、ぼくは、リアさんの誇りを踏みにじる行為に手を染める。ぼくたちは、これから、リアさんのココロを暴くゲームを始める。
【ごめんなさい。でも、今だけ、あなたのココロに土足で踏み入ることを許してください】
 黄帝珠のチカラが爆発的に高まった。目を閉じた理仁くんが、支えを求めるように、ぼくの肩に触れる。
 三次元の現実が、弾けて消えた。
 深い水に潜るような感触だった。頭を下にして、静かに、緩やかに落ちていく。
 子どものころ、一度だけ家族旅行をした。父が運転する車に乗って、母が昔から憧れていたという高原のペンションで、一週間ほど過ごした。深い湖のそばだった。両親は毎日、湖畔を散歩した。ぼくは湖に潜った。
 宇宙飛行士の月面での作業を想定した訓練は、水中でおこなわれる。そう聞いたことがあった。実際に水中の感覚を知って、妙に納得した。
 重力の掛かり方が日常とは違って、浮力と水圧がぼくの行動を制限した。大気がないから、音の伝わり方もまるで違った。軽いのに、重たいような体。目を閉じて思い描いたら、地球を遠く離れているかのようだった。
 ひんやりとした暗闇に包まれて、心地よかった。息が苦しくならないのなら、ずっとこの場所にいたい、と思った。
 そんなふうに、ぼくは今、潜っていく。
 これがリアさんのココロなら、きっと湖よりも、はるかに深い。
 ――海牙くん。
 こぽこぽと、こもったような澄んだような音が聞こえた。声だろうか。遠くからかもしれない。耳元でささやかれたかもしれない。距離なんて意味がないのかもしれない。
 水のようなこの場所の温度は、ときどき冷たい。本物の笑顔を見せないリアさんの、凍った怒りを思い出す。
 ――海牙くん。
【リアさん】
 水が柔らかくて温かいときもある。何度か触れた体は、そんなふうだった。また触れたいと望んだら、怒られるかな。
 心を見せたがらないあなたのココロの底に、ぼくはもうすぐ降り立つ。この上なく無礼で卑怯なふるまいだ。こんなぼくに、あなたは、どんな景色を見せてくれますか?
 ――海牙くん。
 ぼくを呼ぶ声が聞こえる。
【リアさん】
 ぼくも何度も、彼女の名前を呼んだ。
 ふと、ぼくは目を開けた。硬い床の上に倒れている。
 磨き込まれた木材が視界に映った。体を起こすと、先に理仁《りひと》くんが目を覚ましていた。木製タイルの壁に背中を預けて、ぼんやりと自分の手のひらを見ていた。
「お、海ちゃん、起きた?」
「魂珠の中ですか? ここが?」
「みたいだね~」
「体感も何もかも、現実と変わりませんが、ぼくたちは今、精神だけなんですよね?」
「だね~。チカラも相変わらずだ。ちなみに、おれ、海ちゃんの寝言で起きたよ」
 理仁くんがニマニマしている。イヤな予感しかしない。
「……ぼくが、何を言ってました?」
「アドバイスしとく。八歳の年齢差、むしろ逆手に取るほうが近道だよ。年下男子のかわいさで、こうグイグイと……」
「誤解です!」
「でも、海牙さん、リアさんのこと好きなんでしょう?」
 振り返ると、鈴蘭さんがニコニコしている。煥《あきら》くんも、身軽に跳ね起きたところだ。
「好きって……まあ、人間として、嫌いではありませんが」
「そうじゃなくて、恋です」
「さよ子さんみたいなこと言わないでください」
 鈴蘭さんはニコニコ顔でかぶりを振った。
「さよ子って鋭いですよね。海牙さんをからかってるだけかと思ってたけど、見抜いてたみたい」
「だから、何を根拠に、何を言ってるんですか?」
 鈴蘭さんが煥くんを見た。めったに笑わない煥くんまで、唇の端をかすかに持ち上げている。
「マジで自覚ないのか?」
「自覚って、何の自覚ですか?」
「ここに来るまで、水に潜ってる感触だったろ?」
「はい」
「右も左も上も下もわからなくて、暗くて息苦しくて、流されそうで」
「流されそう? ぼくは、まっすぐ深い場所まで潜るような感じでしたよ。息苦しさは感じなかったし、スムーズでした」
 煥くんは肩をすくめた。
「オレは、洗濯機にでも放り込まれたみたいに、ひどい流れに呑まれてた。真っ暗な激流の中で、海牙の声に引っ張られて、ここに落ちてきた」
「わたしも煥先輩と同じです」
「ビミョ~に悔しいけど、おれも同じく」
「ちょっ、え……ぼくの声?」
 思わず喉に手を触れたけど、もちろん違う。肉声じゃなくて、思念のほうだ。
「海ちゃん、また謝ってたろ? 勝手に入り込んでごめんなさい的な感じ。あと、姉貴が海ちゃんのこと呼ぶ声でも聞こえてた? どこにいるんですか的なことも繰り返してて」
 まずい、まずい、まずい。顔が熱い。やめてほしい。言わないでほしい。
 でも、煥くんが追い打ちを掛けてくる。
「柔らかいとか、さわりたいとか、もっと強烈な言い回しも、露骨な単語も」
「だよね~。おっぱいって何回も聞いた。海ちゃん、おっぱい好きなんだねー」
「涼しい顔してるくせに、けっこうフツーにそういうこと考えてんだな」
「知識欲や探求心が旺盛で頭のいい研究者タイプは、あっち方面のアレも旺盛で研究熱心とかいうしね」
 ひどい。否定できない。あんまりだ。
「さらし者じゃないですか……」
 鈴蘭さんが胸の前でこぶしを握って、目を輝かせた。
「いつでも相談に乗りますから! 男子の恋バナって、すごく興味あります!」
「興味本位……」
「海牙さんの声がいろいろ聞こえてしまったときはビックリしましたけど、情熱的なのはとってもいいと思います!」
 ぼくは、ほてった顔を手で覆った。
 リアさんのことは嫌いじゃないし、年上の女性には妄想をいだいてきた。でも、これを恋だと言える自信はまったくない。欲望交じりの憧れに過ぎない。後ろめたくて仕方がない。
 理仁くんがパンパンと手を打った。
「ま、とりあえず、仕切り直し。海ちゃんいじるのはこのへんにして、先のこと考えよっか。まずは現状確認。上から落ちてきたんだとしても、上には戻れそうにないね」
 理仁くんは上を指差した。果てを視認できないほど、天井が高い。円筒形の部屋。深い井戸の底みたいだ。
「で、ドアがいくつか見えるけど。現実的に言って、くぐれるドアはないっぽい」
 壁の上のほうにあるドアは、そこへよじ登るための取っ掛かりがない。無理なく開けられる高さにあるドアは、ずいぶん小さい。
「持ってくべきアイテムは、たぶんこれ。部屋の真ん中に落ちてた。でも、姉貴の趣味じゃないね。お坊ちゃんが用意したんだと思う」
 理仁くんが胸ポケットから出したのは、懐中時計のようなものだ。本体も鎖もゴールドでできていて、キラキラした石があちこちに埋め込まれ、バラの模様が彫刻されている。
 数字も目盛もない文字盤をのぞき込むと、針は一本きりだった。文字盤は大半がゴールドだけど、十二時から一時の部分は真っ黒だ。
「十二時の位置から動き出したところでしょうか。進んだ角度は約三十度、今は一時の位置を差してますね」
「海ちゃん、分度器なしで三十度とか、わかる?」
「この程度は、誰でも目測でわかりません?」
 理仁くんは首を左右に振った。
「無理無理。力学《フィジックス》の視界だから、今はわかるけど。あ、ちょうど三十度になった。これさ、海ちゃんの言うとおりで、たぶん〇度のとこからスタートしたんだよ。おれが見てたのは四.五度のとこから」
「針が進んだ後ろ側が暗転しているんですね」
「そうみたい。この黒い部分さ、針が進むのに合わせて、影みたいに、じわじわついてきて広がってんの」
 鈴蘭さんが、服の上から青獣珠に触れながら、眉をひそめた。
「タイムリミットを示してるように感じますね。針が一周して、文字盤全体が暗転したらおしまい、って」
 異物を侵入させたリアさんのココロのタイムリミットか。他人のココロに閉じ込められたぼくたちのタイムリミットか。いずれにしても、この直感はきっと正しい。玄獣珠がうなずく気配がある。
 煥くんが眉間にしわを寄せた。
「この部屋から出て、先に進みたい。けど、ヒントも何もない。しかも、ここはリアさんのココロの中だろ? 部屋に傷を付けるのもまずい気がする」
 不意に。
 パタン、と音がした。扉が閉まる音だ。
 全員、音のほうを向く。
「あ、イヌワシのぬいぐるみ」
 リアさんと初めて会ったとき、ゲーセンで取ったぬいぐるみだ。黒い翼に緑色がかった目、不敵な笑み、チェック柄のタキシード。リアさんが妙に気に入っていた。ぼくに似ているなんて言っていた。
 ぬいぐるみが動いている。思いがけず広い翼を広げて、ふわりと宙に浮いている。浮いているだけだ。あの形状では、羽ばたいて飛ぶには物理学的に不可能だから。
 イヌワシが翼をクイクイと動かした。手招きしているように見えた。
【道案内?】
 イヌワシがうなずいた。
 鈴蘭さんが真っ先にイヌワシに近付こうとした。煥くんが腕をつかむ。
「ついて行くのか?」
「はい。大丈夫だと思います。あのぬいぐるみ、かわいいし」
 かわいいかどうかは、この際、関係ない。というか、あれはかわいくないと思う。
 煥くんが鈴蘭さんの先に立った。理仁くんがぼくを振り返った。
「あの鳥さん、もしかして海ちゃん絡み?」
「ええ、一応」
「あっそ」
「どうかしました?」
「こないだ、姉貴が珍しくぬいぐるみなんか持ってて、出所を訊いたんだけど、教えてくれなかった。あのゲーセンデートの思い出の品ってわけ。なるほどね~、姉貴が妙に機嫌よかったわけだゎ~」
 語弊のある言い方をして、理仁くんは歩き出した。ぼくは理仁くんに並んだ。
「ぼくと同じ立場なら、男は誰でも同じことしましたよ。美人が不良にナンパされてたら、助けるでしょう? その美人に、時間つぶしに付き合ってと言われたら、応じるでしょう? ぬいぐるみを取ってほしいとリクエストされたら……」
「リア充爆発しろ~。って、ダジャレのつもりないんだけど」
 イヌワシが振り向いて、理仁くんをにらんだ。
 部屋の壁は木製タイルでできている。イヌワシは、その一角に飛んでいって、タイルを押した。
 タイル四枚ぶんの正方形が隠し扉になっていた。正方形は、一辺が約800mm。扉と呼ぶには狭いけど、通れなくはない。
 イヌワシが最初に隠し扉を抜けた。のぞき込むと、トンネル状になっているらしい。さほど奥行きはなく、抜け出た先は明るいようだ。
 煥くんがイヌワシに続いてトンネルをくぐった。向こうにたどり着いて、問題ない、と声を寄越す。
 鈴蘭さんと理仁くんも向こう側へ行った。ぼくが最後にトンネルに入る。
 四つん這いの姿勢で、すぐ目の前に光が見えている。その割に、長い。
 ――海牙くん。
 遠くて近いどこかから、声が聞こえる。ココロへ落ちて潜ってくる途中で聞いた声だ。
【リアさん】
 呼び掛けてみる。返事はない。ただ、ぼくの名前を呼ぶ声だけが聞こえる。
 ――海牙くん。
 ぼくで、いいんですか? 弟である理仁くんじゃなく、ぼくを、呼んでくれるんですか?
 ぼくにあなたの声が聞こえるように、あなたにも、ぼくの声が聞こえていますか?
 青空が広がっていた。青草が生える丘の上だ。一本の大木が枝を広げて、涼やかな影を落としている。
 ぼくがトンネルを抜けて丘に立つと、イヌワシは隠し扉を閉ざした。そこには何の痕跡もなくなった。イヌワシは理仁くんの肩に止まった。ぼくの肩じゃないのか。
 心地よい風が渡っている。
 丘のふもとから、女の子と犬が、じゃれ合いながら駆け上がってきた。水色のワンピース姿の女の子は十歳くらいだろうか。大型犬は焦げ茶色で毛足が長く、耳が垂れている。
「姉貴だ、あれ」
 言われなくても、気付いていた。短めの髪が活動的で、よく日に焼けている。屈託のない笑顔がまぶしいくらいの、幼い日のリアさんだ。
 木陰に至った彼女は、ぼくたちにチラリと手を振った。
 丘の景色には音がなかった。風が吹くのも、木の葉がそよぐのも、彼女が笑うのも、犬が息をするのも、すべてが無音だ。
 ただ、ぼくたち四人がたてる音だけが聞こえる。身じろぎをした、きぬずれの音。理仁くんがくすぐったそうな目をして、つぶやいた言葉。
「姉貴の九歳か十歳のころ、だと思う。親父の仕事の関係で、フランスのいなかに住んでたんだ。この犬、そのころ飼ってたやつ。けっこうデカいけど、まだ大人じゃなくてね。成犬と比べたら、やっぱ華奢な体つきしてるし、顔があどけないよ」
 鈴蘭さんが、女の子と犬を見つめて目を細めた。
「ワンちゃんの名前、何ていうんですか?」
「キキ。ほら、めっちゃ嬉しそうな、嬉々とした顔してるから。姉貴はキキのこと、大好きだったらしい。おれはこのころ、一歳か二歳だから、キキのことは全然覚えてねーや。住んでた場所の風景とかは、いくつか記憶にあるけど」
 キキを覚えていない、という言葉に、ぼくは不吉な違和感を覚えた。
「長生きしなかったんですか? 大型犬って、十年くらいは生きるでしょう?」
 理仁くんは、たわむれる一人と一頭を見つめている。口元は、例によって、本物ではない形に笑っている。
「キキは、姉貴が十歳のときに死んだ。てか、殺された。だからたぶん、この思い出も、ここじゃ終わんないよ」
 ピクリと、キキが耳を動かした。誰かに呼ばれたんだろうか。キキは立ち上がって歩き出す。どこに行くの、と彼女の口が動いた。
 突然、ゴウッと音がした。空間が裂けた音だ。青空の情景を突き破って、巨大な両手が現れた。
 キキはそっちへ向かっている。彼女はキキを追い掛けようとした。
 素早く飛び出した煥くんが彼女の小さな体を引き留めた。
「何だ、あれは?」
 キキは巨大な両手の間でお座りをして、パタパタと尻尾を振った。右手の人差し指がキキの頭を撫でる。骨張った関節の形からして、男の手だ。左手の薬指には、ひどく目立つ金色の指輪がある。
 理仁くんが吐き捨てた。
「うちの親父の手だよ」
 両手は、キキを包み込むようにして抱え上げた。焦げ茶色の毛並みがすっぽりと隠れてしまう。
 そして、そのまま、両手はキキを握りしめた。
 音が鳴った。骨が砕け、肉がつぶれ、血があふれ出る音。
 鈴蘭さんが短い悲鳴を上げた。理仁くんがこぶしで自分の太ももを打った。
【どうしてこんな……】
 呆然とした煥くんの手を、彼女が振り払う。泣き叫ぶ声は、ぼくたちの耳には聞こえない。駆け出そうとする彼女を、我に返った煥くんがつかまえる。
 巨大な手に、指輪が一つ増えた。血濡れた指先が満足そうに指輪をなぞる。
 丘のふもとから、駆けてくるものがある。動物たちだ。犬が数頭、猫も数匹、フェレット、ハムスター、トカゲ。金魚や熱帯魚の群れも、宙を泳いでやって来る。
【来ちゃダメだ!】
 ぼくの声に、数秒間、動物たちが止まる。焦れたように、両手が「おいでおいで」と手招きをする。動物たちが再び動き出す。
 来ないで、来ちゃダメ、と彼女が叫んでいる。
 動物たちは次々と、巨大な手のひらの上に乗った。動物たちが乗れば乗るほど、手のひらが広くなっていく。青草の原っぱに落ちる影も広く、黒々と濃くなっていく。
 ぼくは体が動かなかった。
 すべての動物が乗った手のひらが、あっけなく、パシンと閉じ合わされた。
 赤いものがしたたる。ぼたぼた、ぼたぼたと。丘の緑は赤く濡れた。汚れた両手のすべての指に、宝石細工の指輪がはまった。
【どうして?】
「前、チラッと話したでしょ? おれの親父、あのお坊ちゃんみたいなやつだって。朱獣珠を使いまくってさ、願いをかけて、金儲けして。願いの代償としていちばん優秀なモノが何かって、今のを見てたら、わかるよね?」
【命……】
「そう、おれと姉貴が大事にかわいがってた動物たちの命。別にね、その現場を目撃してたわけじゃないよ。でも、わかるじゃん? 朱獣珠もSOS出したかったみたいで、ある時期から、予知夢みたいな形でおれに見せるようになったしさ」
 玄獣珠の鼓動が速い。朱獣珠が、忌まわしい記憶に苦悶しているせいだ。同期した四獣珠の鼓動は、ぼくたちに一つの真理を告げる。
 願いの代償として最も重いものは、命。そして、それが喪われるときに流される涙。あるいは、燃やされる怒り。四獣珠は本質的に、命を食らうことを何よりも忌み嫌う。
「親父は動物がいなくなるたびに、また次のを買ってきた。おれも姉貴もさ、動物、好きなんだ。この子もまたすぐに殺されるってわかってても、無理だよね。かわいがって、すげーつらい思いをする。あったかい喜びの思い出には、いつも、つらい結末が付いてくる」
 鈴蘭さんの頬が涙で濡れている。
「残酷です、こんなの」
 ゴウッと音がする。再び空間が裂けて、指輪だらけの血濡れの両手が引っ込んでいく。