理仁くんが静かだ。隣にいると、ポーズだけの笑顔に隠してため息をつくのが聞こえてしまった。
「大丈夫ですか?」
 理仁くんは箸を持ったまま、弁当に目を落としていた。
「数字がうじゃうじゃすぎて食欲が失せるっていうか。米が何粒あるのか、表示されるんだね~。表面に見えてるぶんと、全体の推定の数。目ぇ凝らしたら、温度まで見えた」
 そう、食卓上の光景は、ぼく本来の視界とって、かなり疲れるものだ。粒や繊維の形状をした食べ物には、その個数が表示される。温度や体積も、見ようとすれば見える。
「茶碗だったら、持ったときに重さも見えますよ」
「だよね。昼飯でサンドウィッチの重さが表示されてビビった」
「小麦粉の粒子が見えないぶん、パンがマシでしょう? 素材の形がなくなっている食べ物のほうが、疲れないから好きです。固形のバランス栄養食とチョコレートでカロリー補給することも多いですよ」
「海ちゃんって、ガンガンの理系じゃん?」
「リヒちゃんは、文系ですか?」
 ふざけた呼び方を、思い切ってまねしてみた。一瞬、理仁くんが目を見張って、それから笑った。本物の笑顔だった。
「おれは文系。おれのチカラ、言葉に直結してるから、日本語にせよ外国語にせよ、言語系だけは飲み込みがえらく速いんだよね。一方でさ、努力してないから、数字はほんと苦手」
「じゃあ、今の視界、鬱陶しくてしょうがないでしょう?」
「しんどい。理系の海ちゃんでも、この米粒の数字、疲れんだよね?」
「疲れますね」
「おれ、泣きそうだよ。食べ物がこんなにストレスフルな存在になるとはね~」
 さよ子さんが勢いよく立ち上がった。
「理仁先輩、困ってるんですね? ってことは、わたし、ほっとけないです! 目をつぶって、あーんしてください。わたしが食べさせてあげますっ」
 朱い目を見張った理仁くんは、ポロッと箸を落とした。
「あ~、気持ちは嬉しいんだけど、そういうのをパパの前でやるのはどーかなーって思うんだよね」
 にぎやかで、なごやかな夕食だった。何のためにここに集まっているのか、しばし忘れそうなほどに。
 会話の輪に加わる理仁くんが、ふっと黙り込むことがある。表情を消して、目を閉じて、息をついて、かぶりを振って、うなずいて、自分の中で何かに納得して、また目を開ける。会話に加わって、一言ごとにおどけてみせる。
 強い人だ。
 ぼくでさえ、リアさんのことが心配でならない。あせりが胸を圧迫するから、じっとしているのが苦しい。リアさんの弟である理仁くんが平気なはずはない。
 でも、総統が、動くべき時だと告げない。この一枝に起こる出来事をすべて把握できるのに、ぼくたちをここに留め置いている。それはつまり、まだ時が満ちていないから。
【不安かね、海牙くん?】
 総統の声に、ハッと顔を上げる。ほかの誰も反応していない。ぼくだけに聞こえる声だ。
 理仁くんなら、同じように思念の声をコントロールして、ほかの誰にも聞かれることなく応答できるんだろう。ぼくにはそのやり方がわからない。
 ぼくは、小さく一つ、うなずいた。
【今のところ、彼女の命に別状はない。肉体を損ねたりけがされたりもしていない。ただし、この先はきみたち次第だ】
 運命の一枝が分岐するポイントでは、総統にも明確な未来が見えない。一枝はブラックボックスの中で生長する。評価値を満たす生長をおこなうなら、未来は続いていく。おこなえないなら、一枝ごと淘汰される。
 彼女を無事に救出できるのか。ぼくと理仁くんの能力はもとに戻るのか。そもそも、ぼくたちは生存できるのか。
 不確かな未来へと、とにかく進んでみるしかない。
 食事を終えた。紅茶とコーヒーが運ばれてきた。せっかくだからデザートも、と、さよ子さんが騒ぐ。
 熱すぎる紅茶にミルクと砂糖を入れて、冷めるのを待っていた。スプーンで掻き混ぜてできた渦を見ながら、渦って何だろうと考える。螺旋《らせん》状の流線。渦度の定義も、それを求める式もあるのに、渦そのものが何かをハッキリと定義した本には出会ったことがない。
 好きな渦は、銀河の形だ。渦巻銀河は、横から見るのも上から見るのも、かわいい形をしていると思う。銀河の中心にあるブラックホールも、いつかどうにかして自分の目で見てみたい。
 けれど、それを見るための目が、今のぼくには。
 思索の迷路に踏み込みかけた、そのときだった。
 ポケットでスマホが振動した。何となくピンと来て、慌ててチェックする。
【リアさん!】
 メッセージの内容を確認するより先に叫んでしまった。けっこう大きな声だったから、全員の注目が集まった。
「あ、いや、あの、リアさんのIDからメッセージが……」
「海牙、おまえ、すげー嬉しそうな顔したぞ」
「それは、だって、当然でしょう? ようやく新しい情報を得て、これから動けるじゃないですか」
「何でおれんとこじゃなくて海ちゃんに?」
 理仁くんが冗談っぽく言った。瑠偉が冷静に、非情な事実を突き付けた。
「彼女本人が送信者じゃないからだろ。文天堂がいちばん嫌がらせしたい相手は、たぶん、海牙だ」
 スマホのロックを外して、メッセージを確認する。瑠偉は正しかった。
〈人質の命は無事だ〉
〈眠らせてある〉
〈様子を知りたければこちらへ来い〉
〈TOPAZに今夜〇時〉
〈必ず四獣珠を持参しろ〉
 ぼくがトークアプリを開いているのを確認した上でメッセージを送っているらしい。次々と短文が投げ付けられてくる。ぼくはそれを読み上げる。みんな、しんとして聞いている。
 唐突に、一枚の写真がトークルームに上げられた。
〈よく撮れているだろう?〉
【リアさんリアさん赤いドレスだ目を閉じている眠っている昨日と違う服だ印象が違う化粧が違うのか髪型が違う眠っているリアさんリアさん赤いドレスを着ている助けに行かないと危険だ危険だ祥之助許せないリアさんに触れた許せない助けに行……】
「…………っ!」
 写真のインパクトが強い。口で説明できない。ぼくは、画面を開いたスマホをテーブルに投げ置いた。
 理仁くんが無言で、テーブルをこぶしで打った。
 ひどくキレイな写真だった。
 赤いドレスをまとったリアさんが、目を閉じて横たわっている。膨らみの形もあらわな、広く開いた胸元。赤いバラがあちこちに散らしてある。棺《ひつぎ》の中で花とともに眠っているようだ、と感じてしまった。
 総統が静かに言った。
「車を用意してある。時間になったら、行ってくるといい。心を強く持って、くれぐれも気を付けて」
 さよ子さんが、鈴蘭さんにギュッと抱き付いた。
「預かり手じゃなきゃ、行けないんだよね。鈴蘭、絶対に無事で帰ってきてよね? 昨日も、ほんとにすごく、心配だったんだからね?」
 瑠偉がぼくにUSBメモリを差し出した。
「持っといてくれ。USBメモリのふりした別物なんだ。おれのPC宛てに、位置情報が送信される。確実に何かの役に立つわけじゃないけど、待機してるだけのおれらにしてみたら、何でもいいから情報がほしいんだ」
 ぼくは情報発信装置をポケットに入れた。心配されていることも、情報が不安を和らげることも、痛いくらいよくわかった。