運命というものがあるのなら、それは多数の枝を持つ大樹のような姿をしているに違いない。何かの本で、そんなふうに読んだ。
未来は可能性に満ちているから、何だって起こり得る。もちろん、バッドエンドの可能性だってある。
そんな当たり前のことに、いざ直面するまで、わたしは気付かなかった。そこそこの不幸を抱えながらも長生きできる程度にわたしはしたたかだ、と思っていた。
ダメなものはダメなのね。
わたしを救おうと頑張ってくれて、ありがとう。あなたたちの気持ちは伝わってきた。
でもね。
強がって背伸びをしていないと生きていけないわたしは、そう簡単にココロを開くことなんてできないの。あなたたちがわたしのそばへ近付けば近付くほど、孤独の痛みがわたしを刺した。
わたしは、黒い棺《ひつぎ》に横たわる眠り姫。もしくは、アリスの悪夢の創造主。
棺のすぐそばに、みんな倒れている。
弟が最初に斃《たお》れて、しんとした。誰よりも響く声でわたしを呼び続けていた弟。わたしが弟を守るべきだったのに。弟にはわたしの弱さを知られてはならなかったのに。
ごめん、来ないで。あんたにだけは見せたくないことだってあるの。
来ないで。ほかならぬあんただからこそ、来ないで。
わたしは拒んだ。弟はわたしを呼び続けた。わたしは応えなかった。声を上げて上げて上げ続けた弟は、とうとう疲れ果てて力尽きた。
それで、わたしの張り詰めた糸が切れた。わたしのココロが弟を殺したの。最低な悪夢。守りたかったものが壊れてしまって、後はもうどうなったっていいと思った。
わたしのココロの最奥部は、黒曜石でできているかのように艶めく漆黒の部屋だ。哀しくなるほど冷たい部屋だった。
帝王を名乗る少年が、棺の中のわたしと、そばに倒れ伏した四人を見下ろしている。
わたしは棺に横たわって目を閉じたまま、別の場所にも意識を持っていて、どこか遠くから黒い部屋の情景を眺めている。
帝王は、そのチカラの源である黄金色に向けて笑ってみせた。
「ごらん、やっと四獣珠《しじゅうしゅ》が手に入るよ。これでボクたちのチカラも完璧なものになる」
【左様。あるべき姿に戻るときが来た】
ぎらぎらと光る黄金色は、四つに砕けた宝珠だ。せわしなく明滅しながら宙に浮かんでいる。完全な球形に戻りたそうにくっつき合っては、結局、一つになれずに四つのバラバラの姿で帝王の横顔を照らす。
帝王は、いちばん近くに倒れている黒髪の彼のペンダントをつかみ上げた。
黒髪の彼は、そうね、いい子だわ。つかみどころがなくて賢くて生意気だけど、わたしが見つめると、戸惑って目を泳がせる。そんなアンバランスなところがかわいかった。
彼は小さく呻いてまぶたを開いた。彼のダークグリーンの目が、焦点を揺らしながらも、帝王をにらむ。
「渡さない……」
彼の指先が動く。腕が震える。でも、何の抵抗もできない。
帝王は立ち上がってペンダントを掲げ、彼の頭を踏み付けて高らかに笑った。
「もうもらったよ! 玄獣珠《げんじゅうしゅ》はボクのものだ」
「……返、せ」
「へえ、まだそんな反抗的な目をする元気があるのか。せっかくだから、選ばせてやろう。どんな死に方をしたい? 望んだとおりの形で殺してやる。簡単なことだよ。玄獣珠に願いを掛ければいい。派手なショーを見せておくれ、とね。願いの代償は、おまえの命だ」
帝王が高笑いをした。黄金色が唱和した。
なんて鬱陶しい協和音。
やめて。いい加減にして。わたしのココロの中で、勝手なことばかり。せめて、彼らだけでも解放して。死なせないで。
黄金の宝珠が、ざらざらした声を響かせる。
【ココロの主が抵抗しておる。こやつを解放せよ、と。笑止千万。おぬしも薄々気付いておろうに。他人のココロの迷宮に長く滞在した者は、必ず死ぬ】
死ぬ? 待って。彼らは眠って夢を見ているのと同じ状態だと、あなた、言ったでしょう? なぜ彼らが死ななければならないの?
【ココロの主よ、おぬしはこやつらを受け入れておらぬ。拒絶し、苦痛を与え、今なお棺に閉じこもっておる。こやつらが消耗しておるのは、おぬしのせいだ】
彼らを殺そうとしているのは、わたし?
【もはや、こやつらは自力で迷宮から出られぬ。しかし、おぬしのココロは厄介よのう。拒絶しつつ、孤独を嫌って、こやつらを放そうとせぬ】
違う。わたしは孤独でかまわない。そう覚悟して生きてきた。
【まことに?】
それは、だって、本当のことなんて言えないもの。言いたくないの。
【言えばよいではないか】
やめて。弱さを引っ張り出されたりしたら、わたしは。
【人は誰しも弱い。あわれなほどに弱いものなのだ。認めよ】
知ってる。わたしは弱い。弱くて、だから……寂シイノハ、イヤナノヨ。本当ハ、独リナンテ。
【おぬしの弱さがこやつらを呼び、乞い、求めたのだ】
一緒ニ死ンデクレル?
【おぬしのココロが、弱さゆえに、こやつらを殺すのだ】
死ンデモラエル?
帝王はわたしを見下ろして、冷ややかに言い放った。
「四獣珠さえ手に入れば、預かり手どもは用済みだ。ココロの迷宮探索、なかなかの見ものだった。ゴール目前までたどり着いたのは、知恵の足りない連中の割に健闘したと言えるが、結局は力尽きたな。このゲーム、ボクたちの勝利だ」
嘲笑がわたしのココロを汚していく。
引き出されてしまった。暴かれてしまった。隠してきた弱さも醜さも、すべて。
これ以上、もう、いらない。ゲームだか茶番だか知らないけど、わたしを見くびるのもいい加減にして。
わたしはね、独りで死ぬのが怖いと思う程度にはまともでも、わたしの何もかもをバカにする無礼者を見過ごせない程度には暴力的だし残忍だし凶悪だし、壊れているの。
一緒に死んでくれる?
死んでもらうわよ。
どうせ誰も助からないんでしょう。だったら、今すぐ、みんな仲良く殺してあげる。
哀しみと怒りがせめぎ合うわたしの胸は、冷たい灰色に覆われる。黒曜石の部屋が、棺が、わたし自身が、灰色に変わっていく。わたしのココロのすべてが灰色に呑み込まれ、固く固く凝り固まって、温度を失う。
帝王が、黄金の宝珠が、異変を察して慌て始める。
「な、何だ? 何が起こっている?」
【バカな! 閉じ込める気か!】
見くびらないでね。閉じ込めるなんて悠長なこと、するわけないじゃない。
刹那の衝動。何もかも砕けて壊れて消えてしまえばいい、と思った。
わたしの全部が急速に灰色になる。石になる。無になる。死の世界になる。彼も彼らも帝王も黄金の宝珠も、一瞬のうちに、わたしの灰色は呑み尽くす。
砕けてしまえ。
このココロごと、きみたちも全部、砕けてしまえ。哀しみと怒りを凝縮して昇華して、憎悪と呪詛の結末へと創り変えるの。
さあ、悪夢の一枝を刈り取りましょう。ここで全員、ゲームオーバーよ。目覚めることのないアリスの体は、うっかりお昼寝したまま、静かに腐って朽ちていく。
おやすみなさい。
永遠に。
ハッキリ言って、柄の悪い町だ。表通りのビジネス街は整備が行き届いてキレイだけれど、そのぶん、中心から外れたエリアには後ろ暗い人とモノが集まる。
おかげで、ぼくは退屈しない。
「おねーさん、もしかして暇? 暇だろ? なあ、遊ばねえ?」
ほら、まただ。
崩れた格好をした、体だけ大きな弱虫が、女性に下品な声をかけている。三人集まって、やっと、ナンパする度胸がつくらしい。
さて、女性を助けるべきか、放っておくべきか。
女性のほうも柄が悪いなら、ぼくが介入する必要もない。まともな社会人なら、救出するほうがいいだろう。
もしも美人なら? それはもう積極的に、最高のタイミングで助けに入るべきだ。
なんてね。そういう期待はいつも胸に抱えているのだけれど、本気にさせてもらえるような女性には、残念ながら巡り会ったことがない。
「ちょっ、すげー美人じゃん! え、これ、度肝抜かれるって!」
「てゆーか、おねーさん、一般人? 芸能人だったりする?」
不良たちの騒ぎ方が妙に真に迫っている。本当にそんな美人?
ぼくは半信半疑で、不良たちの背後からその人をのぞき見た。そして思わず、こっそりガッツポーズをした。
彼女は、薄い色のサングラスを外した。
日本人の美の基準からすると、個性派といえるかもしれない。ラテン系かと思うくらいの、エキゾチックな美貌。二重まぶたの幅が広く、長いまつげは上向きで、ヴォリュームのある唇もセクシーだ。
年齢は二十代半ば。ぼくよりもだいぶ年上だけれど、ぼくの好みには完璧だ。春らしい薄手のシャツは、透けそうで透けていない。
彼女は、不良三人を見据えて言い放った。
「暇だけど、きみたちじゃ失格。どんなに時間があっても、遊びたいと思える相手じゃないわね。ほかの人に声かけたらどう?」
強い。あからさまに素行の悪そうな男に囲まれたら、普通はそんなことを言えない。
不良三人はポカンと口を開けた。ナンパしておびえられたり逃げられたりすることはあっても、真正面からふられることはまずないんだろう。
彼らは、この町の柄の悪さの一因、「緋炎《ひえん》」と名乗る不良集団のメンバーだ。古典的な暴走族の真似事をして、違法改造したバイクに乗ったり、チームの掟《おきて》を作ったり、役職によって納めるべき金銭的ノルマがあったりと、頭の悪いことをして目立っている。
不良の一人がゲラゲラと笑い出した。残る二人も即座に唱和する。わざとらしい笑い声があたりじゅうに響いた。サーッと、ひとけが引いていく。
「つれないこと言わずにさ、おねーさん」
「一緒に遊ぼうよー」
「絶対、楽しませてあげるって」
不良たちは三人ともニキビだらけの顔をしている。たぶん高校生だ。よく見れば、一人はボロボロの革靴だし、別の一人は制服のズボンを穿いている。
ぼくは彼らに近付いて、一人の肩に手を置いた。
「まだ下校時刻じゃないでしょう? サボりですか?」
不良たちが一斉に振り返って、ぼくを見上げた。三人の身長は大差なく、±30mm以内で、平均して約1,650mm。1,792mmのぼくよりもずいぶん低い。
ナンパする三人より、美人な彼女のほうが背が高い。ハイヒールの高さは約90mmだから、彼女自身は1,675mmくらいか。
明らかにひるんだ不良三人が、必死で気合いを入れ直した。
「な、何だ、テメェ! テメェこそ大都の制服着てんじゃねぇか!」
「サボってやがんのかよ! お坊ちゃん校のガリ勉がよ!」
大都高校のグレーの詰襟を身に付けたぼくは、彼らに笑ってみせた。
「進路指導の学年集会が面倒で、抜け出してきたんですよ。ガリ勉と呼ばれるほど机にかじり付くのは、趣味じゃありませんしね」
「すかした口ききやがって! ナメんじゃねえ!」
「怒鳴らなくても聞こえますが」
「んだと、ぉら! やんのか? ああ?」
「きみたちのセリフはワンパターンですね」
ここは各駅停車だけが止まる駅の正面で、ゲームセンターとパチンコ屋の前でもある。裏通りで薄暗い無法地帯。警察は、よほどのことがない限り、出張ってこない。
ということは。
「金出せよ、お坊ちゃん。そしたら許してやるよ」
カツアゲの汚い手が、ぼくのほうへ伸びてくるわけで。
「あいにく、きみたちに出してやれる金は一円もないんですよ。その代わりに」
つかみ掛かってくる手を蹴り飛ばす。
「足技なら、すぐに出せるんだけどね。きみたちが満足するまで、いくらでも!」
至近距離で予備動作なしの回し蹴り。食らった相手は、何が起こったかわからなかっただろう。完全に死角からダメージが入ったはずだ。
半歩踏み込んで、もう一人。
長い脚をムチのようにしなわせて遠心力を稼ぐ。力を込める必要はない。相手の重心を見極めるだけ。最適な一点に軽くエネルギーをぶつければ、人間ひとり、簡単に吹っ飛ぶ。
残り一人も片付けようとしたら、必要なかった。
不良の凄まじい悲鳴。彼女は平然と言ってのけた。
「あらごめんなさい、つまずいちゃって」
直径12mmのピンヒールが不良の足の甲に刺さっている。スリットの入ったスカートからのぞく攻撃的な美脚。彼女はヒールに重心を掛けて、さらにぐりぐりと動かした。
あれは痛い。36π平方mmの面積に、身長1,675mmの女性が体重の過半を掛けたら、踏まれた足の甲の骨は折れるんじゃないだろうか。
不良三人は、ほうほうの態で逃げていった。
「お、覚えてやがれ!」
ぼくはたびたび不良をいじめて遊ぶけれど、こんなに安っぽくて典型的な捨てゼリフは初めて聞いた。
それにしても。
ぼくは改めて、美人な彼女に目を向けた。朱《あか》い髪、朱い光彩、くっきりした目鼻立ち。微笑んだ唇の形が、すごくいい。
顔立ちだけじゃなく、スタイルも抜群だ。着衣のバストサイズが930mmほどもあって、アンダーがキュッと細く、トップの高さがある。パッドで嵩《かさ》増ししていないなら、Fカップが期待できそう。ウェストやヒップとの比率も完璧だ。
ぼくは彼女に微笑みかけた。
「災難でしたね。気を付けたほうがいいですよ。このあたりは、あの緋炎という不良グループがやかましいんです」
「そうみたいね。助かったわ。さすがに三人もいたら、撃退するにも手間取るもの」
一人で倒す気だったのか、この人は。
彼女が、ざっとぼくの全身を観察した。見られて困ることもない。
細身で背が高い、いわゆるモデル体型だ。顔の小ささと手足の長さは数字の上で実証できる。首と肩が成す角度が女性的というか、撫で肩なのが唯一の難点だ。肩幅も男としては狭いから、華奢に見えるらしい。
彼女は朱い髪を背中に払って、いたずらっぽくクスリと笑った。
「きみなら合格ね。ちょっと付き合って」
いきなり手を引っ張られた。さすがに面食らう。彼女が向かう先はゲームセンターだ。
「あの、付き合ってって、何なんですか?」
「時間つぶし」
「え? それで、ゲーセンですか?」
「そうよ。悪い?」
「いえ、悪くはありませんが」
意外というべきか。大人のおねえさんが、ゲーセンですか。
たいていどのゲーセンも構造が似ている。一階は客引き用のクレーンゲームばかりだ。上の階から、メダルゲームの騒音が降ってくる。
彼女に手を引かれながら、ぼくはゲーム機の間をうろうろした。
「きみ、ゲーム得意?」
「それなりに。クレーンゲームでも、シューティングでもレース系でも格闘系でもリズム系でも、その場で計算したり判断したり瞬発力が問われたりするタイプのゲームなら、何でもできますよ」
「すごいじゃない。運動神経も勘もよさそうだものね」
「まあ、それほどでもないわけじゃありません」
彼女がふと、一台のクレーンゲームの前で足を止めた。一回百円の、小型のぬいぐるみが入っている機械だ。
「これ、かわいい」
鷲《わし》か鷹《たか》のマスコットだった。翼は黒で、目は緑色。擬人化されて直立し、チェック柄のタキシードを着ている。飄々《ひょうひょう》とした笑みが、人を食った印象だ。
「かわいいんですか、これ?」
「生意気っぽくて、かわいいわよ。きみ、これ取ってくれない?」
挑戦的な笑顔を向けられると、無理とは言えない。実際、クレーンゲームは難しくないし。
「おそらく四回目で取れますよ」
ポケットから財布を出そうとしたら、彼女のほうが早かった。五百円玉が投入されて、残りゲーム回数が6と表示される。
「何で四回目なの?」
「ぼくなりのパターンがあるので」
最初の二回で、アームの強度や癖、ぬいぐるみの重量を見極める。三回目でぬいぐるみの位置と角度の調整をして、四回目で獲得する。
結果として、予告どおり四回目で一つ取れた。六回目で、もう一つ取れてしまった。
「ありがとう! すごいね、きみ」
両方の手のひらに一つずつぬいぐるみを載せて目を輝かせる彼女は、なんだか少女っぽく見えた。セクシーでスタイル抜群な年上の女性なのに、不思議な人だ。
ぼくは、ぬいぐるみのタグを見た。細かい字で、モデルとなった鳥が紹介されている。
「イヌワシ、ですか。アルタイ山脈あたりでは狩りに使われる鳥。レッドデータブック掲載の希少種シリーズ、と書いてありますね」
でも、決してかわいくはないと思う。この笑い方、生意気というより嫌味だ。
彼女がぬいぐるみとぼくを見比べた。
「やっぱりこの子、きみと似てる」
「は? これと、ぼくが?」
「似てる」
「どこがですか?」
「笑い方とか、シャープなようでソフトなところとか」
「意味がわかりません」
「誉めてるんだから、喜んだら?」
「喜ぶ要素が一つもないんですが」
彼女の価値観によると、このぬいぐるみはかわいい。彼女の目から見て、ぼくはこのぬいぐるみと似ている。ということは、ぼくは、彼女にとってかわいい存在なのか?
クレーンゲームのガラスに映る自分と視線を合わせる。ウェーブした黒髪と、緑色がかった目、彫りの深い目鼻立ち。かわいくはない。格好いいかキレイかのどちらかだ。
突然、スマホが鳴る音がした。ぼくではない。
彼女がぬいぐるみをバッグに落とし込んで、そのバッグの中からスマホを取り出した。ぼくが目の前にいるのに、躊躇《ちゅうちょ》なく電話に出る。
「もしもし? もう、遅いのよ。ゲーセンの中にいる……うん、一階」
待ち合わせ相手がいたらしい。まあ、そういう雰囲気だったし。さっき、ぼくには「時間つぶし」と言っていたし。
スマホを耳に当てながら、彼女が伸び上がって手を振った。ぼくは振り返る。彼女と同じくスマホで通話中の長身の男が、軽く手を挙げた。
なるほどね。イケメンだ。ぼくとは違うタイプ。垂れ目がちで、唇が厚くて、肩がガッシリしている。
彼女は電話を切った。スマホを耳から離した弾みで、ピアスが跳ねた。先端に石が付いた細いチェーンが髪に引っ掛かった。
「ちょっと失礼」
ぼくは思わず、彼女のピアスに触れた。小さな振り子の運動はキレイだった。その動線を阻まれるのは惜しい。
彼女の朱っぽい髪を掻き上げた瞬間、彼女はかすかに体をこわばらせた。髪と同じ色の目が、意外な近さで、ぼくを見上げる。
キスができそうなほどの距離。というよりも、ぼくの仕草は、まるでキスを予告するかのよう。
違う。そんなつもりはなくて。
時間が止まった。そう感じた。
ピン、と空気が張り詰めた。チカラを感じた。一つの「声」が、気迫の熱波を噴き散らしながら飛んできた。
【おいおいおい、ちょっとちょっと、いきなりそういうの困るよ~。一メートルぐらい後ろに下がってくれる?】
空気を振動させない、つまり音を伴わない「声」が、ぼくの耳を介さずに、ぼくの意識をダイレクトに打った。何らかの攻撃性を秘めた「声」だと感じた。
驚いた。
まちなかでこんなに無防備にチカラを使う人がいるなんて。
「テレパシー、ですか?」
【え、何、おれのチカラ、効かないの? うっわ~。ってことは、きみも能力者?】
「チカラが効かない、とは? 今の声、ただのテレパシーじゃないということですか?」
【うん、命令するテレパシーのはずなんだけどね~。きみ、後ろに下がりたくなったりしてない?】
「してません」
ぼくの胸で、ペンダントヘッドの宝珠がドクンと脈打った。よく似た鼓動を、彼の胸元にも感じた。
そのエネルギーの値は、ぼくの目で分析できない。三次元の物理学では解明し得ないチカラ。本来、人間が手にしてはならないモノだ。
チカラある声を操る彼が、空気を振動させる肉声で言った。
「お仲間って感じがするね。おれの朱獣珠《しゅじゅうしゅ》が反応してる。何となくだけど、きみ、玄武《げんぶ》でしょ」
彼はぼくより20mmほど背が高い。身に付けている制服は、隣の市の襄陽《じょうよう》学園のものだ。
警戒せざるを得ない。彼は、ぼくと同じ四獣珠の預かり手の一人。つまり、ぼくと同等の能力の持ち主ということだ。
ぼくは顔に笑みを保ったまま、彼を計測する。重心移動から読み取れる、身体能力の程度。無機物の分子の存否でわかる、武器の有無。彼のチカラは本当に「声」だけなのか。
彼は笑いじわとえくぼを作って、両腕を広げた。
「おれは、な~んもしないって。ケンカも強くねぇし、悪意なんて全然ねぇし? 『声』もさ、能力者やその家系の人間には、ほぼ無効なんだゎ」
「ほぼ無効、とは?」
「文字どおりだよ。おれの能力、マインドコントロールなんだけど。『号令《コマンド》』っつって。一般人には、けっこうどんな指示でも有効なのにね、預かり手の血を引く人間は、そーいうのに耐性あるっしょ? 宝珠を守るための血だか遺伝子だかが、そんなふうに働く」
確かに、ぼくのような血筋の人間はマインドコントロールのチカラに抵抗できる。よほど強力なものでない限り、支配下に入ることはない。
ならば、彼の能力はぼくにとって安全だ。信用はしないまでも、警戒を解いたって問題ない。いざとなれば、ぼくのほうがはるかに強く、有利だ。
「きみの言うとおり、ぼくは玄武、すなわち玄獣珠《げんじゅうしゅ》の預かり手です。でも、驚きました。四獣珠《しじゅうしゅ》は本来、別々の場所に存在したがる性質を持つ。そう聞いていたので」
「原則、バラバラ独立って言われてるよね。だけど、おれはそこまで驚いてないよ? おれさ、予知夢っていう特技があんの。最近、玄武くんのことも夢で見てたよ。そのうち会えるかなーって思ってた」
彼のゆるゆるとしたしゃべり方は、どうにも胡散くさい。接触するにせよ、まずは自分で事実関係を調べておくほうがいいだろう。
「お邪魔してしまいましたね。きみ、彼女と待ち合わせをしていたんでしょう?」
ぼくは、仮面のように顔に貼り付けた笑みに、愛想を込めてみせた。
能力者の彼が美人な彼女の前で平然と四獣珠の話を出したということは、彼女も四獣珠について知っているわけだ。彼女に対しては、玄獣珠は反応しない。彼女は能力者ではないはず。じゃあ、何者?
彼は友好的に、ぼくに右手を差し出した。
「おれ、長江理仁《ながえ・りひと》。この制服を見てのとおり、襄陽学園に通ってて、三年だよ。きみ、大都高校だよね。その校章の色、三年じゃないっけ?」
彼の瞳孔は位置も形も安定している。視線がブレない。悪意や虚構がない表情、と言っていい。ぼくは彼の右手を握った。
「大都高校三年の阿里海牙《あさと・かいが》です」
「イケメンだね~」
「きみもね」
「そりゃどうも。で、能力者なんだよね? どんなチカラ、持ってんの?」
黙っていた彼女が口を開いた。
「視覚的に優位な能力、でしょ? 海牙くんの目、他人よりたくさん見えてる。違うかしら?」
朱みがかった瞳が、射抜くようにぼくを見つめた。
何をどう観察して、その結論に至ったんだろう? 尻尾を出すほどのことはしていないはずなのに。
「おおむね正解です。ぼくのチカラは『力学《フィジックス》』。視界に映る情報が、数値化して立ち現れます。ぼく自身がその計算方法を知っている数値のみ、ですが」
それ以外の、計算式が未知のものは、うじゃうじゃとうごめく多足の虫みたいだ。何らかの文字に見えるけれど、読めそうで読めない。
処理できない情報が視界にあることは不快で、しかもそれらは意外と身近にあふれている。気にし始めると、ストレスがたまる一方だ。
理仁くんは目を丸くして首をかしげた。
「情報が数値化って、んじゃ、おれの身長とか?」
「1,821mm、計測に誤差があるとして±3mm、ですね」
「すっげ~、正解! んじゃ、姉貴のスリーサイズは?」
理仁くんが言った瞬間、彼女がエナメルのバッグの角で、理仁くんの頭を殴った。痛そうな音がした。
スリーサイズくらい、一瞬でわかる。対象を三次元的に観測すれば、後は中学数学レベルの計算式を解くだけだ。
でも、さっき、スリーサイズという言葉よりビックリな単語が聞こえたんですが。
「姉貴、ですか?」
思わず無遠慮に見比べて、なるほどと納得した。髪の色も目の色も似ているし、顔立ち全体の数値もかなり近い。鼻筋から瞳までの距離、小鼻の角度、唇の稜線。
能力者の姉なのか。だから、四獣珠のことを理解している。
「わたし、弟と待ち合わせって言わなかったっけ?」
「聞いていません」
「もしかして、これがわたしの彼氏だと思った?」
「ええ、まあ」
「ちょい待ち、姉貴。これっていう指示代名詞はひでーんじゃない?」
「十分でしょ」
「やだもう意地悪~。おれ拗ねる~」
「ええい、鬱陶しい」
テンポよく交わされる軽口に、ぼくは少し笑った。ぼくは一人っ子だ。仲のいいきょうだいと町に出掛けるなんて、想像もつかない。
姉弟は急ぎの用事があるらしい。面会時間と聞こえた。時計を気にしながら、足早に立ち去っていった。
と思ったら、彼女が駆け戻ってきた。
「記念に一つあげるわ。今日はありがとう。じゃあね」
笑顔で押し付けていったのは、イヌワシのぬいぐるみだ。手ざわりはいいけれど、やっぱり、別にかわいくない。ぼくに似てもいない。
「あれ?」
イヌワシが身に付けたチェック柄のタキシードの懐に、紙が挟まれている。紙を広げると、彼女の名前と連絡先だった。
「リアさん、か」
予想もしなかった展開だ。胸が騒いだ。
連絡してみようと思った。
大都高校は、全国有数の高偏差値を誇る男子校だ。授業料が極端に高いことでも有名で、世間的にはエリートでセレブというイメージらしい。全国から選りすぐりの成績優秀者が集まるから、ほとんどの生徒が寮に入っている。
ぼくも遠方の出身だけれど、寮暮らしではない。あんな牢獄、絶対にごめんだ。
実家はありふれた中流階級だった。両親はエリートなんかじゃなかった。大都高校のバカ高い授業料は、全額返済なしの奨学金でまかなっている。奨学金の出資者の屋敷が、ぼくの下宿先だ。いや、居候先というのが正しいか。下宿代を払っているわけではないから。
今日は友人と外で夕食を済ませてから、居候先の屋敷に戻った。四月半ばになっても、朝晩は肌寒い。けれど、ぼくの移動手段は二本の脚やローラースケート。すぐに体がほてってくる。少し気温が低いくらいでちょうどいい。
屋敷のセキュリティはハイレベルだ。だからこそ、正しくない方法で門を突破するのがぼくの趣味だ。
背の高い塀に仕掛けられた防犯カメラは死角をなくすべく計算されてはいる。けれど、ぼくがこの目でチェックすれば、実は盲点があるものだとすぐに露見する。
「北西角は、上がガラ空きですね。あれなら、ドローンで簡単に侵入できる」
塀の長さと高さに比して、カメラの数が不足している。後で報告しておこう。
思い切り助走をつけて跳躍し、立木と壁を塀を蹴って高さを稼ぎ、庭に降り立つ。すると今度は、赤外線センサーが侵入者を待ち構えている。
でも、赤外線センサーは「線」に過ぎない。その軌道が見えるぼくには、一定の「面」を見張るカメラより楽な相手だ。
「一般的な侵入者の身体能力では、クリアできないだろうけどね」
視界に現れる数値を活かし、物理学的に計算して最も無駄のない動線で、身体を制御する。ぼくにはそれが可能だ。
子どものころは、視界の情報量の多さにやられて、体を動かすのがひどく苦手だった。スポーツ物理学の本に出会った十二歳のころ、トレーニングを始めた。今でも継続している。エネルギーの消耗が人一倍、早い。ときどき食事の配分を失敗して動けなくなる。
跳躍したり地を這ったりして赤外線センサーをかいくぐり、庭を越える。壁に取り付いて、二階までよじ登る。鍵に針金を仕掛けてある窓を開けて、屋敷の中に入る。
「今夜も無事に侵入完了。ただいま戻りました、と」
つぶやいて窓を閉めて鍵を閉めた、その途端。
「海牙さん! また変な方法で入ってきたんですか! 普通に正面玄関から入ってくればいいのに!」
柱の陰から、黒髪ショートボブの女の子が現れた。面倒くさい人に見付かってしまった。この窓、もう使えないな。
「ちょっとくらい遊んだって、かまわないでしょう? 迷惑をかけているわけじゃないんですから」
「そういう意味不明なところがザンネン男子なんです! 普通にしてたらカッコいいのに、モテませんよ?」
「ありのままのぼくを理解しない程度の人には、モテなくてけっこうです」
女の子は、屋敷の主の愛娘だ。平井さよ子さんという。黙っていれば、お嬢さま然とした黒髪色白の美少女だ。が、一瞬も黙っていない。襄陽学園高校に入学して約半月になる。襄陽に通いやすいこの屋敷に住むようになって、同じく約半月。
平井家の本宅は隣の県にある。広大な敷地面積を持つこの屋敷は、別宅の一つに過ぎないらしい。
さよ子さんはよく動き回って、誰とでも気兼ねなく話をする。屋敷の雰囲気が、あっという間に変わった。明るくなったというか、何というか。
ハッキリ言うと、さよ子さんはにぎやかすぎる。もっとハッキリ言うと、さよ子さんはうるさい。
さよ子さんは最初、目を輝かせてぼくにまとわり付いてきた。本人曰く、「イケメンには無条件に惹かれるお年頃」なのだそうだ。一生続く「お年頃」だろう。
どんなに美少女でも、年下のうるさい女の子には興味がない。ぼくはさよ子さんから逃げ回った。
今、さよ子さんは別のイケメンに夢中になっている。助かった、と思ったら、甘かった。
「海牙さん、髪が伸びすぎです!」
憧れの対象ではなくなった一方、プロデュースの対象になってしまったらしい。顔を合わせるたびに、髪形や服装のチェックが入る。お節介なこと、はなはだしい。
「そのうち切りますから」
「髪が目に掛からないスタイルにしてくださいね。そっちのほうが絶対に似合います!」
「はいはい」
「制服のボタン、上まで留めたら堅苦しすぎるかも?」
「ぼくには、カッチリ着るほうが合うんです」
首や肩まわりを服の形でごまかさないと、撫で肩が目立つ。けっこう本気でコンプレックスだ。立ち居振る舞いは理想の数値どおりに調整できるけれど、骨格は無理だから。
屋敷に住んでいるのは、ぼくやさよ子さんだけではない。ここは「KHAN《カァン》」という特殊な組織の拠点でもある。組織の総統であり、屋敷の主である人の名は、平井鉄真《ひらい・てっしん》。ここには、総統に招聘された人材がたくさん住み込んでいる。
そう、ぼく以外にも人はいるのに。
「海牙さん、明日ですからね! 絶対、明日の約束は守ってくださいね!」
なぜ面倒事が回ってくるのは、ぼくなんだろう? ぼくは明日、さよ子さんの護衛をしなければならない。
「はいはい、十九時に玉宮駅前ですよね?」
「返事の『はい』は一回!」
「……はぁ……」
「あ、今のため息、すっごくセクシー♪ それでですね、明日のことなんですけどー、って、ちょっとねえ海牙さん聞いてますー?」
「聞いてますよ」
大都高校が男子校でよかった。女子の意味不明なテンションにはついていけない。
さよ子さんの話は回り道が多い。要約すれば、以下のとおりだ。
明日、十九時から、玉宮駅前でストリートライヴがある。さよ子さんが夢中になっているロックバンドの公演だ。件のバンドは襄陽学園の五人組。さよ子さんは、同級生と一緒に聴きに行く。が、夜に女子だけは不安なので、ぼくが借り出される。
という、すでに五回は聞かされた内容を、今日もまた延々と聞かされているわけだけれど。
重点的に繰り返されるのは、ただ一項目。そのバンドのヴォーカリストがカッコいい、ということだけだ。
彼の魅力を語るために、さよ子さんの言葉はすでに十二万字以上が費やされていると思う。文庫本一冊ぶんだ。さよ子さんが彼に一目惚れしたのはつい先週だというのに。
話題の彼とは会ったこともないけれど、ぼくはすでに彼に同情している。こんな勢いで攻めまくられたら、いくら何でもドン引きするんじゃないだろうか。
とりあえず。
「すみませんが、そろそろ解放してください。ここ、ぼくの部屋ですよ」
さよ子さんは頬を膨らませた。
「女の子が語りたいときは、男の子は語らせてあげるべきです!」
「じゃあ、好きにしてもらってかまいませんが」
「海牙さん、優しい♪」
「ぼくは着替えますね」
「にゅあっ?」
ぼくはおもむろに制服の上着を脱いで、カッターシャツのボタンを上から三つ外し、ベルトに手を掛ける。髪を掻き上げて流し目をすると、さよ子さんは声もなく部屋から飛び出していった。撃退成功。
「パワハラとセクハラで、総統に訴えますよ。本当に」
他人を部屋に入れるのは嫌いだ。基本的に、女性と接触するのも好きじゃない。でも、さすがに、屋敷のお嬢さま相手には強く出られない。
ぼくはシンプルなシャツとジーンズに着替えた。玄獣珠のペンダントは、どんなときも肌身離さず付けている。
直径23mm。未知の無機物質から構成される、玄獣珠。鉱物の一種には違いないのに、生体反応に似た「何か」が感じられる。
ぼくは玄獣珠を決して視界に入れない。触れる肌から感じ取るチカラを、ぼくの目では解明できない。力学《フィジックス》のチカラを介して見る玄獣珠には、読めない文字が、びっしりとたかっている。文字がうごめくありさまは気味が悪い。
宝珠は奇跡の存在だ。人の願いを叶える。願いに相応の代償を食らって、奇跡を生み出すんだ。願いが大きければ、代償も大きくなる。
ぼくの預かる玄獣珠は、単独の存在ではない。四獣珠のうちの一つだ。中国の伝説に登場する四聖獣が、それらにチカラを授けたという。
玄獣珠は玄武。
朱獣珠は朱雀。
青獣珠《せいじゅうしゅ》は青龍。
白獣珠《はくじゅうしゅ》は白虎。
四聖獣とは、そもそも、物事に備わる四つの「特徴」を象徴する存在だ。四分類される「特徴」には、例えば、色、方位、季節、物質あるいは物性、感情、体の部位、味覚などがある。
玄獣珠に備わるのは、玄《くろ》と北、冬、水、哀しみ、腎臓や耳、塩辛さなど。占いや東洋医学では、そうした「特徴」をすべて覚えておくことが重要らしい。ぼくにはさして興味がない。覚えたところで何かの役に立つとも思えない。
預かり手のチカラとそれらの「特徴」は、相互に関連しない。チカラは、預かり手自身の個性に由来するそうだ。
それなら、ぼくという人間において、チカラと人間性の関係をどう説明するのが的確なんだろう?
学校にも上がらない幼いころ、足し算と引き算を知った。九九を覚えた。分数と小数を理解した。その都度、視界にうごめく未知の情報は、整然として美しい数へと姿を変えていった。嬉しかった。だから、ぼくは勉強に没頭した。
学べば学ぶほど、知れば知るほど、この視界の情報は、質も量も最適化されていく。ぼくは勉強せずにはいられない。目の前にある情報を必ず処理せずにはいられない。まぶたを閉ざして無防備になる姿を、誰にも見せたくない。
チカラを持つからこそ、ぼくの人間性はこんなふうなのだと思う。でも、宝珠の由来を記した古文書によれば、人間性がチカラに形を与えるのだという。
自分に関わることだけに、このテーマについてどんな答えを出すのが正確なのか、ぼくは方向性を決めかねている。
ぼくは総統の書斎を訪ねた。総統は忙しい人だ。でも、事前に予約を入れる必要はない。総統は万事の掌握者だ。ぼくの行動くらい、何もかも見透かしている。
ノックをして扉を開ける。総統は、くつろいだ和服姿で執務机に向かっていた。
「お仕事中、失礼します。お耳に入れておきたいことがあるので」
総統の顔立ちが不思議な印象を持つのは、左右の誤差がきわめて小さいせいだ。頭蓋骨の形状も東アジア人として理想的なバランスを成しているから、文字どおりの意味で、総統は格好がいい。四十代後半。加齢による皮膚の緩み具合さえ、計算したように端正だ。
「そろそろ来るころだと思っていたよ。ゲームセンターでのデートは楽しかったかい?」
総統の能力は計り知れない。心の声も記憶も読まれてしまう。まあ、報告の手間が省けるから楽だと思っておこう。そうでなければ、強大なチカラへの恐怖に負ける。
「ほんの二十分程度でしたが、楽しめました。女性は年上のほうがいいですね」
年上だから、だと思う。リアさんに近寄られても、手を握られたことさえ、不快じゃなかった。
「またすぐに会えるよ。彼女やその弟は、海牙くんの行く末に多大な影響を与える。今、運命が分岐するポイントに差し掛かったようでね」
「運命が分岐、ですか?」
「正確には、運命の一枝《ひとえだ》の分岐だな。何が起こり得るか、『秘録』で読んだことがあるだろう?」
「ええ。四獣珠を始めとする宝珠について記されていて、その来歴や預かり手の役割にも言及されていましたね」
「運命の一枝、と例えられる、この世界の在り方についても」
「記憶しています」
運命は、多数の可能性の枝を持つ大樹の姿をしている。ぼくが生きるこの世界は、ある一枝の上に存在する。別の一枝の上には別の世界があって、別のぼくが生きている。
総統には、この一枝の生長が見て取れるという。それが総統のチカラだ。
日常的に知覚することのできない運命の一枝なんてものを、一体、どんな姿でとらえているのか。好奇心に駆られて、総統に「ぼくも見てみたい」と言ったことがある。
総統は見せてくれた。いや、見せてくれようとした。
ぼくの額にかざされた総統の手のひらから、凄まじい量の情報がぼくの脳へと叩き込まれた。読解できない、うごめく文字の、途方もない奔流。ぼくは一瞬も耐えられず、意識を失った。
あんなものを、総統はいつも見ている。肉体こそ人間のものだけれど、チカラは人間であり得ない。
総統は普段、チカラを外に漏らすこともなく、ひっそりと常人のふりをしている。たまにチカラの片鱗をのぞかせることがあって、そんなとき、ぼくはどうしても目をそらしてしまう。処理できない情報の怒涛が視界を占領してしまうから、ただただ怖い。
けれども、その総統を以てしても、未来が少しもわからないときもあるという。
総統は静かな目をしてぼくを見た。
「まもなく、この一枝は分岐すべきポイントに差し掛かる。四獣珠が互いに呼び合い、預かり手たちを引き会わせ、さる問題に立ち向かわせる。きみたちの勝率は、どうも高くないようだがね」
「不利とわかっている勝負に突っ込むのは、ぼくの主義ではありません。避けられるのなら避けたいものです」
「残念ながら、人生は、残機ゼロの強制スクロールだよ。ステージを進めば勝手にセーブされ、リセットはできない。進める限りに進むしかなく、手にするクレジットはゲームクリアかゲームオーバーか、二者択一だ」
「システムにバグがあったとしても、それが仕様であるとの一点張りで、お詫びのボーナスアイテムも支給されないクソゲーですよね」
「散々な低評価レビューが続けば、その一枝というクソゲーも、さすがに配信と運営をストップせざるを得ない。生長に失敗した一枝たちは淘汰され、より遠い未来へと生長し得る一枝たちが次の世代へと伸びていく」
「淘汰に、世代か。まるで機械学習の物理演算ですね。最近、人工知能の機械学習について書かれた本を読んだんです。人工知能の学習の過程は、遺伝学になぞらえた言葉で表現されるんですよね」
思いがけず、総統が嬉しそうに微笑んだ。
「私も、ちょうど今、AIの本を読んだり動画を観たりするのにハマっていてね。あれはおもしろいな。ビジネスのどういう分野にAIが導入できるかという視点ではなく、科学技術として純粋におもしろい。もっともっと知りたくなる」
総統は運命の一枝も人の心も知覚できる一方で、学術を身に付けるためには、ごく当たり前の努力をしなければならないそうだ。国立大学の文系学部を出たという割に、サイエンスの話題に食い付くことが多い。
ぼくは話のテーマをもとの軌道に戻した。
「この一枝も、淘汰される可能性があるんですね?」
「あるだろう。私には見えないけれども」
「どんな条件を満たすことができれば、適応度の高い解として評価され、この一枝を次の世代につなぐことができるんでしょうか?」
「さて、どうすればいいんだろうね?」
「総統にもおわかりにならないんですか?」
「私は、少し先の未来における最適解を知っている。しかし、一枝たちがディープラーニングをおこなう間、その過程はブラックボックスの中だ。プログラムの設計を知る私にさえ、ブラックボックスを開けることができない」
「具体的に何がおこなわれているのか……いや、ぼくたちがこの一枝の上で何をおこなうべきなのか、わからない」
総統はうなずいた。そして一つだけ、曖昧な予言をくれた。
「事件が起こるよ。きっと、すぐに」